2015年11月1日日曜日

2015年11月01日 第1主日礼拝 弟子たちの特権

招詞
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
                                              ピリピ人への手紙 4章4~5節


聖書箇所
ルカの福音書 8章16-21節

説教
弟子たちの特権  田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ31/「父よ」と呼ぶ新しさ
マタイ6:9~13で、イエスが、弟子たちに「主の祈り」を教え、祈りのお手本とされました。当教会でも、信仰告白に続き、毎週唱和しています。 弟子たちはイエスが多忙で疲れていても、朝早く起きて、だれからも邪魔されることのない時間に、ひとり静かに祈っている姿をずっと見てきました。 弟子たちの心の中にそんな祈りを自分たちもしてみたいと思うようになるのは当然のことです。そして「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」と願ったの です。その主の祈りの冒頭が、「父よ」でした。イエスは神について語るとき、あるいは、神に向かって語るとき、決まって「父」、「天の父」、「天におられる父」と呼んでいます。これはイエス専用の独自な呼び方でした。マタイの山上の説教(5~7章)だけでも、神を父として呼んでいる箇所は17回にも及びます。旧約聖書では神を「父」と記してい る箇所は わすか4カ所です(申命記32:6、詩篇68:5、89:26)。ですから、旧約聖書しか知らなかった弟子たちにとって、「父よ」は、とても新鮮な呼びかけでした。イエスが十字架にかけられた主な理由は、「自分を神と等しくして、神を父と呼んでおられたからである」と記されています(ヨハネ 5:18)。「父よ」は、それだけ重い意味を持っています。「自分を神と等しくして」という意味は、神を父と呼び、自分を子と呼んだということです。私たちが、「天にいます私たちの父よ」と唱える時、父なる天地創造の神さまと、ひとり子であられるイエスさまを告白していることになります。
                    (銘形:「詩篇の瞑想」から一部引用)