2017年6月25日日曜日

2017年06月25日 第4主日礼拝 神の祝福の計画

招詞
正しい神は、心と思いを調べられます。
            私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。
                                  詩篇7篇9b ~10節
聖書箇所
エペソ人への手紙 1章3~7節

説教
神の祝福の計画 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ115/賛美の力 
「あなたは幼子と乳飲み子の口に賛美を用意されました」    マタイの福音書 21章16節

旧約聖書の時代、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ユダ王国のヨシャパテ王の軍と戦おうとして攻めてきたことがありました(歴代誌Ⅱ 20章)。ヨシャパテ王は恐れて、ただひたすら主を求め、ユダの全国に断食を布告しました。つまり、国家存亡の危機に際して、王は民たちに祈るように呼びかけたのです。ユダの人々は、大人も子どももみな、共に集まって祈りました。すると、神の預言者がこう語りました。「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」と。
ヨシャパテ王は、その主の励ましに従って行動しましたが、驚いたことに翌朝の出陣に際して、その先頭に主を賛美する聖歌隊を配置したのです。武器をもった者たちではなく、楽器をもって主を賛美する聖歌隊です。非常識にみえます。ところが、聖歌隊が、「主に感謝せよ、主を賛美せよ。その恵みはとこしえまで」と賛美し、その歌声が響きわたるやいなや、ユダに敵対する連合軍は打ち破られたのです。主ガ戦ってくださいました。その分捕りものはあまりに多く、それを整理するのに三日も要したとあります。そして、四日目に彼らは「ベラカの谷」で主をほめたたえました。ベラカとは、祝福、ほめたたえるという意味です。こうして、戦いの先にも後にも主を賛美したのです。
訓練された聖歌隊が歌った賛美だから力があったとお思いですか。いいえ、違います。イエスは詩篇の中のことばを引用しながら、父にこう祈りました。「あなたは幼子と乳飲み子の口に賛美を用意されました」と。賛美は昔も今も勝利をもたらす神の力なのです。賛美の優先性です。賛美は、あなたの信仰を倍増させ、今日の信仰生活に勝利をもたらします。教会でも自宅でも、声高く賛美しましょう。                    (銘形 「褒むべきかな主」より引用)

2017年6月18日日曜日

2017年06月18日 第3主日礼拝 福音の真髄(しんずい)

招詞
あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「【主】をあがめよう」と、いつも言いますように。        詩篇 40篇16節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章1~2節

説教
福音の真髄(しんずい) 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ114/賛美と感謝
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。
                                エペソ人への手紙1章3節

 感謝と願いの違いはだれでもわかります。感謝は「・・・してくださってありがとうございます」ということで、願いは「・・・してください。」「私を祝福してください」ということです。しかし、賛美は、「あなたは・・の方です」「あなたは・・・にふさわしい方です」「ほめたたえられるべきです。」「賛美されるべき方です。」「あなたをほめたたえます」という表現です。そしてその後に、神を賛美する理由がつけられます。その偉大さのゆえに、その愛と恵みのゆえに、その真実さのゆえに・・・というふうに、です。

 賛美とは、私たちの神がどのような方であるかを告白することです。神は私を造られた創造主で、栄光に満ち、力に満ち、あわれみ深く、恵みに満ちた方、しかも変わることのない真実な方であることを、口で告白することです。

 感謝は、賛美という土台から生まれるものです。パウロが神に感謝する前に、その感謝を生み出す神ご自身を賛美しているのです。私たちの感謝は、神を賛美するという土台から生まれているでしょうか?                    (銘形 「賛美と感謝の違い」より引用)

2017年06月11日 第2主日礼拝 歩き始めのクリスチャン

招詞
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。
多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。                 詩篇40篇3節

聖書箇所
使徒の働き 2章40~47節

説教
歩き始めのクリスチャン 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ113/イエスの御名
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって 歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
使徒の働き 3章6~8節

 使徒ペテロとヨハネが「わたしにあるものを上げよう」と言ってイエスの御名を与えたことによって、生まれてから一度も歩いたことのなかった男が立ち上がって、踊りながら神を賛美しました。「ナザレのイエス・キリストの名」の力は、そのような力なのです。こんななすばらしい力が経験できるようにさせられていることはまさに福音です。

私たちはいつでもこの「イエスの御名」によって生きること、「イエスの御名」の力の通り良き管となってその名をあかしすることが求められています。初代教会の霊的な力は実に「イエスの御名」にありました。「聖霊の力」とは「イエスの御名の現われ」です。今一度、このことを私たちは深く捉え直すことが問われているのです。
                          (銘形「イエスのみ名の力」から引用)


2017年6月4日日曜日

2017年06月04日 第1主日礼拝 ペンテコステの舞台裏

招詞
【主】よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。
詩篇92篇4節

聖書箇所
使徒の働き 2章1~12節

説教
ペンテコステの舞台裏 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ112/聖霊のシンボル
聖霊のシンボルは、「鳩」を除けば、「風」「息」「水」「火」「雨」「露」のような自然現象で表わされています。それらは常に他のものの中に浸透し、定まったかたちというものを持ちません。聖霊は完全に独立したペルソナ(位格)ですが、「神は霊であり」、「主の霊が」ともいわれます。つまり聖霊(御霊)は、御父と御子から一時も切り離すことのできない方であり、永遠に御父がおられるところに聖霊も存在し、御子がおられるところにも同時に存在しておられる方なのです。エゼキエル書37章で、神の民は神の息吹によって生き返りました。はじめて自分の足で立つことができました。「自分の足で立つ」とは、主体的、自発的な生き方をすることを意味します。

このように人を新しく生かし、人を神に立ち返らせて回復させるのは神の「息吹(ルーアッハ)」である聖霊です。この方こそ私たちが神とのかかわりを豊かにし、神の愛を知るための必要不可欠なお方です。
(銘形 「聖霊の象徴」から引用)