2022年4月23日土曜日

2022年04月24日 第4主日礼拝 エマオの弟子たち

招詞
 私のたましいよ、おまえの全きいこいに戻れ。主が、おまえに良くしてくださったのだから。まことに、あなたは、私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから救い出してくださいました。私は生ける者の地で、主の御前を歩みます。       詩篇116篇7~9節

聖書箇所
ルカの福音書24章13節~49節

説教
エマオの弟子たち 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/436 自責の涙

 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
                               ヨハネの福音書21章17節

 ガリラヤ湖畔での出来事です。復活の主イエスとペテロが二人だけで居る時のやりとりです。このやりとり以上の何があったのかは記していません。しかし、後のペテロを見る限りにおいて、あの夜イエスを三度否んだときに流した自責の涙を引きずってはいません。文脈以外に、どこかで主が彼の罪を赦してくださった場面があったかもしれません。
50日後、ペンテコステのペテロを見ると、あの時の自責の涙はすっかり乾いているのを見ることができます。かつて自分は決して失敗することはないと豪語していたペテロが、考えられないような大きな罪を犯しましたが、彼は、主の赦しによって変えられたのです。
ある人が本当に悔い改めたかどうかは、その人のことばよりは、その人の行動にはっきりと表れて見えるものです。私たちもことばだけでなく、イエスさまの赦しと永遠の命を約束されて生きる、その喜びから生まれる行いの実を結ぶように主の祝福を日々願いましょう。
                      (銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)

2022年4月17日日曜日

2022年04月17日 イースター・召天者記念礼拝 復活のイエスに 出会った人々

招詞
 ダビデは、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。                 使徒の働き2章31~32節

聖書箇所
マタイの福音書28章1節~10節

説教
復活のイエスに出会った人々 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/435 復活の力 (デュナミン…アナスタシス)

 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
                            ピリピ人への手紙3章10~11節

 「イエスさまを信じること(知ること)」と「復活」はセットになっています。ピリピ教会は、復活の力で成長し、喜びの教会という嬉しいニックネームをもらいました。この復活セットを知り、信じた私たちもまた、生きる力を与えられています。生きる力とは、何歳になっても、神の聖霊によって実を結び、成長を続ける力です。イエスさまは、「そのためには、わたしとわたしのことばに繋がっていなさい(ヨハネの福音書15:4~5)」と注意なさいました。
私たちの生きる目的が、家族のためとはいえ、ただ働き続けるなら、いつか燃え尽きてしまうでしょう。しかし、使徒パウロやピリピ教会の多くの人々のように、私たちの人生の目的が、イエスを知り、イエスを愛することなら、日々、神の力を体験するでしょう。そして、イエスのこと、すなわち、十字架と復活 を人々に伝え続けることができます。イエスに繋がり、神のご聖霊の力によって、喜びながら前進しましょう。

2022年4月10日日曜日

2022年04月10日 第2主日礼拝 イエスの十字架: 六つの奇蹟

招詞
 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。                             ヘブル人への手紙12章2節

聖書箇所
マタイの福音書27章45節~56節

説教
イエスの十字架:六つの奇蹟 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/434 真理(アレーセイア)

 イエスはピラトに答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」
                            ヨハネの福音書18章37~38節

 私たちは、礼拝の中の信仰告白で、「主は、ポンテオ・ピラトに苦しみを受け」と唱えていますが、苦しみとは、イエスの尋問と結審を指していて、マタイ27:11~14、マルコ15: 1~5、ルカ23:3~5、ヨハネ18:33~40に記されています。
ところで、ピラトが最後に訊いた「真理とは何なのか」はどんな意味でしょうか。「ギリシャ語新約聖書直訳によるヨハネの福音書」(山岸登著)によれば、ここでの「真理(アレーセイア」」には冠詞がなく、新改訳2017は「あなたの語っているその真理とは何ですか」と訳しているが、ここではむしろ、「真理なんていうものは世にあろうか」と訳すべきだと述べています。これは不可知論という誰も神とか真理を知ることはできないという立場です。神を信じない多くの人々は、ピラトと同じく不可知論に逃げます。しかし聖書は、「(バプテスマの)ヨハネは真理について証ししました。」(ヨハネ5:33)と、イエスが真理その方であることを証言します。真理であられ、聖い神の子イエスを信じて救われる者は幸いですね。     (銘形「ピラトの尋問」から 一部引用)

2022年4月3日日曜日

2022年04月03日 第1主日礼拝 弟子の足を洗ったイエス

招詞
 群衆は、イエスにこう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」              マタイの福音書21章9節

聖書箇所
ヨハネの福音書13章1節~15節

説教
弟子の足を洗ったイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/433 主の聖餐

 イエスは彼らに言われた。「よく言っておきますが、確かに、わたしの肉(パン)を食べ、わたしの血(ぶどう液)を飲まなければ、あなたがたのうちに永遠の命はありません。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むというのは、世の人々を罪から救うために、十字架上で体を裂き血を流す、そのわたしを信じることです。そういう人々には永遠の命が与えられ、わたしはその人々を、終りの日に復活させます。命を与えるのは御霊です。」
                     ヨハネの福音書6章53~54,63節(現代訳)

 この箇所は、「主の聖餐」の意味を明瞭に記しています。聖餐におけるパンとぶどう液は、永遠のいのちの世界を示す象徴です。目に見える「パン」を食べ、「ぶどう液」を飲むことを通して、その奥に秘められている神と人との霊的ないのち(交わり)の世界を、信仰によって味わうことが求められています。永遠の命を与え、私たちを育んでくださる御霊の神に感謝しつつ受難週に向かわせていただきましょう。             (銘形「聖餐のための瞑想」より一部引用)