2021年4月24日土曜日

2021年04月25日 第4主日礼拝 ゴグの最後

招詞
 主よ、私はあなたの救いを慕っています。あなたのみおしえは私の喜びです。私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。
                              詩篇119篇174~175節

聖書箇所
エゼキエル書39章1節~29節

説教
ゴグの最後 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/385 聖書とタナック(TNK)
 人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。                              イザヤ書40章6~8節

 クリスチャンは、創世記3章のアダムとエバによる人類の罪と罰に対して、神の救いの歴史を時系列で述べている(啓示している)唯一無二の書と信じて旧新約聖書を読みます。ユダヤ人(イスラエル人)も聖書を信じていますが、旧約聖書だけです。旧約聖書とは呼ばず、タナック(TNK)と言う聖書に代わる略語を使って区別しています。タナックは、トーラー・ナビーム・ケトビーム(律法・預言者・諸書)の頭文字TNKを略語としたもので、この順に重要度が下がってきますのでクリスチャンの聖書観とは随分と異なります。しかし上記のみ言葉は、ペテロの手紙1:24にも引用されている有名なみ言葉で、ユダヤ人との信仰の共通項です。残念ながら、今日のユダヤ人たちの大部分は、新約聖書を読もうとしないので、メシア・イエス(ヘブル語ではイエシュア・メシア)がタナックにあった預言の成就として、2000年前にイエスさまがイスラエルに来たことを信じません。 イエスさまを信じたユダヤ人をメシアニック・ジューズと言いますが、彼らは、賛美礼拝などを多用して、「イエシュアはタナックを成就した方で預言されていたメシアです」とタナックとイエスさまの整合性を証しています。彼らのために祈りましょう。

2021年4月18日日曜日

2021年04月18日 第3主日礼拝 ゴグの襲来

招詞
 私の唇に賛美が湧きあふれるようにしてください。あなたが私にあなたのおきてを教えてくださるからです。私の舌があなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せは、ことごとく正しいからです。                       詩篇119篇171~172節

聖書箇所
エゼキエル書38章1~23節

説教
ゴグの襲来 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/383 千年王国
 彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王と して治めた。     黙示録20章4節

 「彼ら」とは、迫害のなかでもイエス・キリストをメシア救い主として告白していったキリスト者のことです。いつの日か分かりませんが、キリストは再臨なさり、死者の復活が起きます。生きていた人々は復活した人々と出会い、その時から千年間キリストと神の国を治めるので千年王国と言われます。これを文字通り信じて告白する教会と、霊的な千年王国と理解する教会があります。私たちの教会は文字通り、これが実際に起こる歴史的な未来として信じています。今の岩手県と津軽を除く青森県は、江戸時代まで南部藩と言いましたが、沢山のクリスチャンたちがイエスさまを救い主メシアと信じているというだけの理由で処罰され殉教しました。私たちはこの信仰の先輩たちとも出会い、千年の間、主イエスを礼拝し、賛美する毎日を過ごすわけですが、合間合間には、ゆっくりと信仰の話を聞くことができます。悲しみが喜びに、失望が希望に変えられたという話を沢山聴くことができるでしょう。ところで、復活のイエス様を信じて伝える人をキリストの証人と言い、私たちもそうですが、もともと、証人という言葉は、殉教者(ギリシャ語:マルティリア)が語源です。今年もイースターが過ぎ、復活の希望で歩き始めた私たちですが、命がけでイエス様を伝えた先輩たちを覚え、襟を正す時期でもありますね。

2021年4月11日日曜日

2021年04月11日 第2主日礼拝 イエスの昇天

招詞
 あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。あなたのみことばは、私の足のともしび私の道の光です。     詩篇119篇103、105節

聖書箇所
使徒の働き1章1節~12節

説教
イエスの昇天 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/382 心が開かれる(ディアノイゴー)
 イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。        ルカの福音書24章30~31節

 これは、エルサレムからエマオに帰った時の二人の弟子の体験です。このエピソードにおけるキーワードは、聖書を悟らせるために彼らの心を「開く」というものです。主によって心が開かれなければ、聖書を悟ることはできないことを教えられます。「心が開かれる」ことと、「知恵と啓示の御霊が与えられること」とは同義です。以下のエペソ教会への期待は、私たちへの期待の言葉でもありますね。
「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものかを、知ることができますように。」
                            エペソ人への手紙1章17~19節
                            (銘形「ルカの福音書」より引用)

2021年4月4日日曜日

2021年04月04日 イースター・召天者記念礼拝 イエスの復活と 私たちの望み

招詞
 み子は、人間としては、ダビデの子孫から生まれ、聖いみ霊によれば、死人の中からの復活により、み力によって神のみ子として宣言された方であって、私たちの主イエス・キリストにほかならない。                      ローマ人への手紙1章3~4節(現代訳)


聖書箇所
ルカの福音書24章1節~46節

説教
イエスの復活と私たちの望み 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/381 目がさえぎられて(クラテオー)
 イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。 しかし、二人の弟子の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。      ルカの福音書 24章15~16節 

 復活されたイエスがエマオ途上の2人の弟子に現われた時、どうしてイエスだと分からなかったのでしょう? 理由は、マルコの福音書16:12にあるように、イエスが「別の姿でご自分を現わされた」からでしょうか。興味深いことに、ヨハネの福音書では、復活のイエスは最初にマグダラのマリヤにご自身を現わされましたが、マリヤは復活されたイエスを実際に目にした時に「園の管理人」だと思ったとあります。しかしイエスが、マリヤに対して「マリヤ」と声をかけたその声で、マリヤはイエスだと分かったとあります(ヨハネ 20:14~16)。ルカが「目がさえぎられて(クラテオー)」とクラテオーを使ったのは、側近の弟子たちでさえもなお、サタンの霊的な力に縛られていた状態を訳し出した、と考えられます。それを打ち破ったのが「マリヤ!」というイエスの掛け声であり、カギがかかっていた弟子たちのいる部屋に、突然入ってこられた死からの勝利者イエスであったというわけです。弟子たちを安易に非難できません。イエスさまの言葉とみわざを完全に信じていないと、私たちも似たような目くらましに会うかもしれない、という霊的な警告と教訓があるように思います。               (銘形「ルカの福音書」より一部引用)