2023年1月28日土曜日

2023年01月29日 第5主日礼拝 ラハブの命がけ ②

招詞
 主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。                         詩篇143篇1,8節
 
聖書箇所
ヨシュア記6章1節~25節

説教
ラハブの命がけ ② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/476 イエスの御名の力 (デュナミス)①

 この方(イエス)は、ご自分の前に置かれた喜びのために、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。           ヘブル人への手紙12章2節

 「御座についての教え」は、「十字架についての教え」とともに重要な教えです。どちらも重要です。しかし「十字架についての教え」だけではキリスト者はこの世において勝利することができません。多くのキリスト者は「十字架についての教え」だけでとどまっているかも知れません。
「御座についての教え」は「イエスの御名」の権威と力を受け取ることです。この「イエスの御名」は、十字架の贖いを成し遂げて、天に帰られて神の右に着座されてから与えられた新しい名です。地上では「イエス」でしたが、昇天後は「イエスの御名」(あるいはイエス・キリストの御名)というのが正しい名前なのです。使徒3章で、ペテロとヨハネが神殿の異邦人の庭の入り口にあった美しの門(東門)で、生まれつき足のきかない40歳の男性に出会いました。ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、 彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしたのです。(使徒6~8) これは、神の右に着座されているイエスの御名の力を示すできごとでした。
私たちは祈りの最後に、必ず、「イエスの御名によって」と閉じます。毎日、そう信じて祈っています。私たちは、この「イエスの御名」の力を、信仰生活の中でどのように用いているでしょうか。もし定型句のように唱えているだけでは、あまりにもったいない話ではないでしょうか。
                          (銘形:「使徒の働き」より一部引用)

2023年1月21日土曜日

2023年01月22日 第4主日礼拝 バビロンの礼拝の民

招詞
 私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のために、さばきを行われることを。まことに、正しい人はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。
                                詩篇140篇12~13節
 
聖書箇所
詩篇33章1節~5節


説教
バビロンの礼拝の民 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/475 会堂(シナゴーグ)

 その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人の説得に努めていた。 シラスとテモテがマケドニヤ州やってくると、パウロはみ言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対して、メシアはイエスであると力強く証しした。
                       使徒の働き 18章1、4~5節 聖書協会共同訳

 コリントの町にシナゴーグがあったことについては,発掘によって出土した「(シナ)ゴーグのヘブラ(イ)人」と刻まれた銘によっても裏付けられています。
パウロは,コリント教会への手紙1:14~16の中で特に名指ししている三人,すなわちガイオ,クリスポ,ステパナに自ら洗礼を授けた後は,洗礼は弟子たちに委ねて,自身は専ら宣教に専念したようです。
さて、信じた者たちの礼拝と聖書教育・親交の場は、教会でしたが建物はありません。おそらく,彼らの自宅が「家の教会」として使われるようになっていったものと思われます。家の教会というのは,信徒たちの中の比較的裕福な人の家に、一定数の信徒たちが集まって行なわれた集会のことです。こうした家の教会が大都市と地方の町々に徐々に増えていきました。教会は信徒の集まりであり、建物ではありません。ローマ帝国が禁教を解く325年までは迫害下、家の教会が最も活発で有効な宣教の群れであり、福音の前進基地となっていきました。
                  (阿部包:私訳「コリント信徒への手紙」より一部引用)

2023年1月15日日曜日

2023年01月15日 第3主日礼拝 イエス、12才の秘密

招詞
 主よ、私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに、私は足を踏み入れません。まことに私は、私のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親とともにいるように、乳離れした子のように、私のたましいは私とともにあります。
                                  詩篇131篇1~2節
 
聖書箇所
ルカの福音書2章41節~52節

説教
イエス、12才の秘密 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/474 サマリヤ人とイエス

 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。     使徒の働き1章8節

 ルカはサマリヤ人について何度か言及していますが、その中の少なくともいくつかは、非常に重要です。マルコの福音書はサマリヤ人について何も言及していませんし、マタイの福音書はイエスがサマリヤ人の町に入ることを禁止したことを記録しているだけでです(10:1)。サマリヤ宣教は、異邦人宣教の最初であり、神のご計画の一部であることを示すためでした。
ルカの福音書の中心部分、すなわちイエスのガリラヤからエルサレムへの記事(9:51~19:40)は、イエスがサマリヤ人と出会う記事(9:51~56)で始まっています。イエスは使いを送ってサマリヤの町に彼と弟子たちが泊まるところを用意させようとしますが、町の住民は拒絶しました。ヤコブとヨハネは怒って、あの預言者エリヤのように、天から火を呼び下してサマリヤ人の町を焼こうと進言しましたが、イエスは二人の弟子を叱り、他のサマリヤの町へ行きました。ここで心に留めておかなければならないことは、ユダヤ人は、サマリヤ人に敵意を持っていたからです。この態度は、サマリヤ人が過去にユダヤ人の神殿を汚し、ユダヤ人の巡礼者たちを殺したことによります。しかし、復活した主は、エルサレムとユダヤの後に、サマリヤが福音の受け取り手となるであろうと告げました(使徒1章8節)。サマリヤ宣教は、伝統的なユダヤ的バリアからの決別を示唆するもの でした。私たちの思いを超えて働かれる主を崇め 従いましょう。 
                       (銘形「ルカの福音書の神学」より一部引用)

2023年1月8日日曜日

2023年01月08日 第二主日礼拝 イエス、40日めの秘蜜

招詞
 幸いなことよ。主を恐れ、主の道を歩むすべての人は。あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸い、あなたへの恵み。              詩篇128篇1~2節

 
聖書箇所
ルカの福音書2章21節~40節

説教
イエス、40日めの秘蜜 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/473 イエスの呼名: 大祭司
 
 イエスは、神の御前にあわれみ深い大祭司となって、人々の罪を償うために、あらゆる点で、私たちと同じようになることが必要だった。イエスご自身、試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることができるのである。      ヘブル人への手紙 2章17~18節

 紀元前5世紀、ユダヤ人がバビロンからエルサレムに帰還しました。直後、聖書学者エズラの礼拝改革「律法 = 聖書に帰ろう、運動」が始まりました。レビ族から任命された大祭司が国の頂点に立ち、礼拝が規則正しく行なわれるようになりました。またエズラはシナゴーグ(会堂)礼拝を組織し聖書が読まれ、解説する礼拝の場を作りました。
さて、「大祭司」は多くあるイエスの呼び名一つです。イエスの呼び名は、メシヤ、救い主、神の御子、人の子、罪人の友、などあり、それぞれがイエスがどんな方であり私達にどう関わって下さる方なのかを示しています。「祭司」という言葉には主に二つの意味があり、一つ目は神と人との仲介者、二つ目は聖なる働きをすることができる聖い人物の意味です。イエス様は、この二つの職務を果たすことのできる方でしたが、極めつけは、さらに、ご自身が十字架の死によって人を罪から完全に赦すためのいけにえとなられたことです。この救いのマスタープランの大前進により、サタンは敗北し、神の国は大勝利しました。サタンとその残党(悪霊ども)のまやかしから、日々守られる ようにイエスさまに祈り、従いましょう。 (銘形「ルカの福音書の神学」より一部引用)