2022年10月30日日曜日

2022年10月30日 第5主日礼拝 宗教改革記念礼拝 信仰の再発見

招詞
 あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれに目を留めます。みことばの戸が開くと、光が差し込み、浅はかな者に悟りを与えます。       詩篇119篇129~130節

聖書箇所
ローマ書3章21~31

説教
信仰の再発見 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/463 アウグスブルグ信仰告白
 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はひとりです。
                              エペソ人への手紙4章5~6節

 1517年10月31日に、ローマ教皇に対する95の公開質問状で始まった宗教改革で、ドイツ国内と北欧三国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)は、ルター派プロテスタント教会として広まり、定着しました。一方、カトリック教会は、執拗な引き戻しを迫っていました。このタイミングで、ルターの朋友メランヒトンが起草したルター派教会の信仰が、アウグスブルグで開かれていたドイツ帝国議会(1530年)の席上で発表されました。カトリック教会との対立を意図して記されたものではなかったのですが、ルター派教会の信仰はむしろ聖書に忠実にあらんとするものであることを、穏健なドイツ語で、大胆かつ率直に告白したものでした。これが議会と国民に広く受け入れられました。その結果、教会の一致が守られ、国の分断は避けられました。
穏健とは言え、特に、第二部では、カトリック教会の言行に対し、聖書の教えに反する教えと行いの不当性にはきっちり言及しています。聖餐式で、ぶどう酒は司祭のみが飲み、信徒にはパンしか与えない一種配餐は聖書に反すること、聖人崇拝の禁止、修道士たちの誓いは洗礼と同等、あるいはそれに勝るという教えは聖書に反すること、司祭など聖職者の結婚を禁ずることは聖書に反すること、などなどです。後発のプロテスタント各派も二部に関しては一致しています。
アウグスブルグ信仰告白は、宗教改革の総括です。一部と二部全28条に及ぶ膨大なもので、現在に至るまで、この信仰告白は、私たちの教会を含め、ルター派教会の信仰告白です。

2022年10月23日日曜日

2022年10月23日 第4主日礼拝 岩打ち: モーセの大失敗

招詞
 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。あなたのみことばは、私の足のともしび、                 私の道の光です。詩篇119篇103、105節

聖書箇所
民数記20章1~13

説教
岩打ち: モーセの大失敗 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル ルター派と福音主義教会(エウアンゲリオン)


言(こと)ローグ/462 ルター派と福音主義教会(エウアンゲリオン)

 マルティン・ルター(1483.11.10~1546.2.18)はドイツの宗教改革者です。1517年10月31日は、免罪符の聖書的根拠などを含む95の公開質問状を城教会に張り出したことで、ローマカトリック教会側との対決が始まった日であり、プロテスタント教会=ルター派教会の始まりです。ルターは、聖アウグスチノ修道会に属する神学教授として、「人となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従う」べきことを主張しました。カトリック教会から破門されましたが、めげないどころか、貴族に保護されてすぐに質素な部屋で聖書翻訳に打ち込むなど、時間を無駄にしませんでした。彼の影響下で福音主義教会(エウアンゲリオン=ルター派教会)が発足し、その教理は、アウクスブルク信仰告白の中に記されています。
ルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の手本になったことや、教会や家庭で歌える初めての賛美歌を作ったこと、楽器を使った賛美歌演奏など文化的な貢献も大きいものでした。カタリナという元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師の結婚と家庭という聖書的な良い伝統をつくったことでも知られます。
聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけは、後発のプロテスタント諸教会の源流をつくったわけですが、16世紀末には、対抗改革という名の内部改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えました。F.ザビエルは、対抗改革の結果、ポルトガルのイエズス会からプロテスタントに先立って宣教師として未伝地に送られ、インド、マラッカ(インドネシア)や日本にも布教するなど、宗教改革を通しても「主の宣教のマスタープラン」は、大いに進みました。

2022年10月16日日曜日

2022年10月16日 第3主日礼拝 金の子牛:アロンの大失態

招詞
 主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。良い判断と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じています。   詩篇119篇65~66節

聖書箇所
出エジプト記31章18~32

説教
金の子牛:アロンの大失態 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/461 真の幸福②

 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるから」マタイの福音書5章9節

 これはまた、なんとすがすがしいことばでしょうか。「心のきよい者は幸い」のことばと同様に、まことに神の御子、イエス・キリストのおことばにふさわしい、他のどんな人もかたることのできないことばであると思います。
主イエスは、「平和を作る(作り出す)者は幸いである」言われています。平和を口にするひとや望む人は多いのですが、それだけでは平和は得られないのです。「平和をつくり出す人」こそ幸いなのです。そういう人こど神の子どもと呼ばれるから―と主は方られました。そして、自ら、紙と人、人と人、個人の心の中に真の平和をもたらしてくださったのです。私たちは、神のこどもと呼ばれるでしょうか。
祈り: 主よ、今日、国々の間でも、国内でも、職場でも、家庭でも、戦争・紛争、仲たがい、反目などがあふれています。どうか、そのような中にあって、平和をつくる者にしてください。
                        (小助川次雄「日々の祝福より」一部引用)

2022年10月9日日曜日

2022年10月09日 第2主日礼拝 今日、あなたの家に泊ま ることにしているから

招詞
 幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。                       詩篇119篇1,3節

聖書箇所
ルカの福音書19章1~10

説教
今日、あなたの家に泊まることにしているから  菅 孝雄兄


言(こと)ローグ/460 真の幸福①

 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。       マタイの福音書5章4節

 今日、私たちは何を喜びとし、何に悲しんでいるでしょうか。この主イエスのお言葉の真意がわかったなら、なんと幸いなことでしょうか。イエスは、今、この地上で現実に体験している悲しみや苦しみを取り上げながら、いつまでも続く霊的なこと、さらには天国の祝福へと招き入れようとしておられるからです。
以前、脳の手術をして入院していた若い一人の兄弟が、イースターの朝、電話をくれました。「先生、顔がはれてしまい、体は痩せ、頭髪は薄くなっています。しかし、うれしいんです。心は平安で感謝です。完全な体で地獄に行くよりも、こうなっても天国に行けることがうれしいんです。いつもイエスさまとお話しています。」 これこそ、イエスを信じ、喜んでいる人の生きた証ではないでしょうか。
<祈り> 主よ。今、悲しみに泣いている多くの人がいます。どうか、あなたにこそ真の慰めがあることを知ることができますように。
※悲しみ: 病気、失敗、事故災害などいろいろな悲しみがありますが、神の慰めを得るための最も大切なことは、自分の罪深さや罪に気づいて悲しみ、主イエスの救いを受けることです。この救いは、真の幸福を体験させる本当に素晴らしい慰めです。   小助川次雄「日々の祝福」より引用

2022年10月1日土曜日

2022年10月02日 第1主日礼拝 マナ、奇蹟の食べ物

招詞
 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな                         詩篇37篇7節

聖書箇所
出エジプト記16章1~31

説教
マナ、奇蹟の食べ物 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/459 神に仕えるABC

 「神は仰せられた。「わたしがあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」                出エジプト記3章12節

 仕える(アーヴァド)は、英語では、worship(ワーシップ)で礼拝の意味です。旧約聖書中6268回も使われていて、旧約は文字通り「礼拝しなさい」だらけです。アーヴァドの名詞形は、ご推察の通りしもべ(エヴェド)です。
あの過ぎ越しの夜、罪赦され救われ、直後、奴隷状態のエジプトから脱出、解放され自由の身となったイスラエルは、荒野で神に仕えるABCを教えられていきます。天地創造の神、主を礼拝するABCを習っていく旅です。荒野には、誘惑する物質的なものはありません。満点の星の下、ただ主を見上げ、臨在を確認して進むのみでした。夜は炎の柱が、昼は雲の柱が先導してくれました。モーセとアロンと言う頼もしい道案内もいました。
人は、好ましいものが目に入るとそれに惹かれます。人が刻んだ偶像だけでなく、あらゆる見た目に良いもの、魅力的なものは偶像となり得ます。イエスさまは、「わたしにとどまりなさい(ヨハネ15:4)」と強く勧めました。救われた人は、夜も昼もご聖霊が私たちを導きます。ただし、荒野のイスラエルの場合と違ってご聖霊は目には見えません。イエスさまという頼もしいガイドがいますが、目には見えません。私たちは、荒野より快適な生活をしている反面、信仰の目でご聖霊を感じ、信仰の目でイエス様を見て主に仕え(アヴァド)なければなりません。イエスにとどまり、この生活に慣れましょう。
人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。  ヨハネの福音書15章5節