2020年5月31日日曜日

2020年05月31日 ペンテコステ礼拝 髪とヒゲ

招詞
主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。          詩篇105篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書5章1~17節

説教
髪とヒゲ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/338 聖霊(ハギオ・ニューマ)
 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。     使徒の働き1章8節     

 聖書では、聖霊のシンボルとしては、「鳩」を除けば、「風」「息」「水」「火」「雨」「露」のような自然現象で表わされています。それらはみな定まったかたちというものを持ちません。聖霊は完全に独立したペルソナ(位格)ですが、御父と御子から一時も切り離すことのできない方であり、永遠に御父がおられるところに聖霊も存在し、御子がおられるところにも同時に存在しておられる方なのです。
 それでは、クリスチャンとご聖霊の関係はどうでしょう。次のイエス様の分かりやすい説明に耳を傾け、感謝しましょう。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」 (ヨハネ14;26)                           (銘形「聖霊の瞑想」より引用)


2020年5月23日土曜日

2020年05月24日 第4主日礼拝 三つの教え

招詞
 私は、いのちの限り主に歌い、生きる限り私の神をほめ歌います。私の心の思いがみこころにかないますように。私は主を喜びます。               詩篇104篇33~34節

聖書箇所
エゼキエル書4章1~17節

説教
三つの教え 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/337 パン(レヘム)

 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」         マタイの福音書4章4節(協会共同訳)

 ここで「パン」とは私たちが口にするパンのことではありません。単なる「霊的なパン」でもありません。御国の福音に関する事柄です。「パン」のことをヘブル語では「レヘム」と言います。ギリシア語では「アルトス」と翻訳されています。「アルトス」は、肉的にも、霊的にも生命維持のためのパンという意味ですが、ヘブル語の「レヘム」はもう一つの意味があります。レヘムの動詞形「ラーハム」には「戦う」という意味があります。その意味を一番表わしているのが、イエスが、公生涯に入る前の「荒野での試み」です。それは、神の子イエスが神の口から出る一つひとつのことばによって生きるかどうか、という戦いでした。
 サタンは、断食で弱っていたイエスに、石をパンに変えて飢えをしのぐようにと誘惑しましたが、イエスは、神の口から出るみことばによって生きると答え、戦いに勝利しました。やがて真のメシア王国が到来する時、朽ちるパンによって生きることは必要なくなります。食べものに依存しない「新しいからだ」に変えられるからです。      (銘形「アモス書の瞑想」より引用)

2020年5月17日日曜日

2020年05月17日 第3主日礼拝 エゼキエルの召命②

招詞
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。 
                                  詩篇100篇1~3節

聖書箇所
エゼキエル書3章4~27節

説教
エゼキエルの召命② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/336 湧き水と水ため

 わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めめを、自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、こわれた水溜めを。 エレミヤ2章13節

 エゼキエルに先行してバビロン捕囚までの最も厳しい時期に主の預言者として奉仕したのがエレミヤです。上記、同書2章13節は、彼の第一声でした。
 イスラエルが、神に対して犯した「二つの悪」とは、湧き水である真の神を捨て、水を溜めることのできない、こわれた水溜めを掘ったことでした。水溜めを掘るというのは、異教の軍事勢力と手を結んでその場しのぎをしたついでに、偶像を慕っていった行為です。これは、だれが見ても愚行というほかありません。王も、祭司たちも、当時の預言者たちでさえ主の愛から離れ、虚しい偶像や偶像を取り囲む敵に取り込まれていったのでした。
 湧き水を捨て、溜め池を掘るという行いは愚かですが、現代では、溜め池は、神様を信じない思想(イデオロギー)であり、科学であり、経済であり、残念ながらその影響力は甚大です。
 私たちは、聖書と天地創造の神さまと御子イエスさまを信じ従うイデオロギーを持って生きていますが、世界は、過小評価しています。クリスチャンは、声は小さくても、不信仰のイデオロギーに棹(さお)さすものとなっていくべきですね。     (銘形「エレミヤ書」より一部引用)


2020年5月10日日曜日

2020年05月10日 第2主日礼拝 エゼキエルの召命①

招詞
幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。                 詩篇119篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書2章1~3章3節

説教
エゼキエルの召命① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/335 エゼキエルとエレミヤ

 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。      詩篇119篇105節

 エレミヤ書がエルサレムの滅亡前に語られた40年間の神のことばの記録だとすれば、エゼキエル書はユダの民のバビロン捕囚の最中で語られた神のことばの記録です。エゼキエルは捕囚となった民の中から預言者として召され、神のみこころを伝えた人です。エゼキエル書は多くの幻による表現、および象徴的用語のゆえに困惑させられますが、年代順に整理されて書かれているので、その点はエレミヤ書よりもわかりやすいかもしれません。名前の意味は、エゼキエルが、「神によって力づけられた者(又は、神は強い)」で、エレミヤが「主は高められる」です。エレミヤが独身の預言者だったのに対して、エゼキエルは、妻帯者でした。どちらも、み民イスラエルにみことばを道を照らす光として教え導いた人たちです。以下、まとめた比較表です。
                      (銘形「エゼキエルのプロフィール」より引用)


2020年5月2日土曜日

2020年05月03日 第1主日礼拝 天が開け、見た幻

招詞
私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。   詩篇138篇1~3節

聖書箇所
エゼキエル書1章1節~34節

説教
天が開け見た幻 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/334  天が開けて見た幻

 しかし、聖霊に満たされじっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。                            使徒の働き7章55~56節

 エゼキエルが神からの召命を受ける時に、「天が開け」ました。この表現は旧約ではこの箇所だけです。新約では7回この表現が使われていますが、すべて神の歴史において意味のある重要な時点です。以下は、上記、使徒の働き以外の6カ所です。

(1) イエスの公生涯に入る前の洗礼を受けた後で(マタイ3:16、マルコ1:10、ルカ3:21、ヨハネ1:51)
(2) 異邦人への福音宣教の準備をさせるためにペテロに対する幻の中で(使徒10:11)
(3)キリストの再臨のヴィジョンをヨハネに見せるため(ヨハネ黙示録19:11)

 エゼキエルは、自分が見た神の幻や顕現を文字で表わしています。特に1章にある幻はなかなか理解できないためか、エゼキエル書は他の預言書よりも読まれないようです。
しかし、ご聖霊の助けでこの書を理解することができるなら、彼の見た幻と感動を共有することになり、大きな祝福を受けることができます。     (銘形「エゼキエル書の瞑想」より引用)


お知らせ
 5月2日、11:30am より5月定例役員会が電子会議の形でもたれます。5月以降の集会の持ち方や、集会の再会の時期や形態について話し合います。