2019年4月28日日曜日

2019年04月28日 第4主日礼拝 理解の型紙

招詞
私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。私の心の思いが神のみこころにかないますように。             詩篇104篇33~34節

聖書箇所
ルカの福音書24章13~35章


説教
理解の型紙 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/285 (目が)さえぎられて(クラテオー) 

 「彼らの目がさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」
                                ルカの福音書24章16節

 エマオ途上の二人の弟子たちのエピソードです。古くからの疑問は、この2人の弟子たちは、なぜ見慣れていたはずのイエスさまを見分けれなかったか、ということです。西に向かって歩いていたので、西日がまぶしかったから、という意見があります。でも、そうでしょうか?
 ルカはここで明らかに、風貌の面だけではなく、より深い次元で語っているように思えます。「(目が)さえぎられて」と訳されているギリシャ語は「クラテオー」で「ある力によつて支配され」、その状態がずっと継続していることを意味する動詞の「未完了形」が用いられています。つまり、神の敵であるサタンの霊的な力によって支配されている状態(保持)を意味します。それゆえ、二人の弟子は「イエスだと分からなかった」とルカは解釈しています。
 そのことを、使徒パウロは、「この世の(偶像)神が不信者の思いをくらませる覆いをかけて、福音の光を輝かせないようにしている状態」と言いました。(コリント第二4:3~4)。私たちはイエスさまに目を向ける時にだけ、サタンの惑わしに勝つことができます。イエスさまに目を向けて歩みましょ                     (銘形「ルカの福音書解説」より)

2019年04月21日 イースター・召天者記念礼拝 天国の希望

招詞
あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
               あの方はよみがえられました。   マルコの福音書16章6節

聖書箇所
コリント人への手紙第一15章42~58節

説教
天国の希望 田口勇新牧師
MP音声ファイル

言(こと)ローグ/284 つまずきの石

 週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。                        マタイの福音書28章1~2節  
 
 イエスが岩穴の墓から復活する出来事は、4つの福音書全部に記されていますが、地震が入り口の大岩を転がしたという記事は、マタイの福音書だけです。 それは、週のはじめにイエスに香料を塗るためにやって来た女性たちに墓が空であることを知らせるためでした。しかし、この「イエス復活の良い知らせ」を弟子たちは信じませんでした。
 イエスの生涯における処女降誕、そして復活の事実は私たちの理性には「つまずきの石」です。これは神が置かれた「つまずきの石」です。この「つまずきの石」につまずかない者は幸いです。神のいのちの世界はこのつまずきの向こう側にあるからです。
 救いわれる前に、私たちが持ってしまった「つまずきの石」は神によって与えられた信仰によってのみ転がされました。感謝しましょう。理性や理不尽な経験でイエスに来られないでいる家族や友人たちから石が除かれるように祈りましょう。(銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)   

2019年4月14日日曜日

2019年04月14日 第2主日礼拝 信じた男

招詞
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行っ た。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(キリスト)に負わせた。           イザヤ 書53章6節

聖書箇所
ルカの福音書23章32~43節

説教
信じた男 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/283 わたしは渇く(ディプソー)

 「イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が
     成就するために、『わたしは渇く。』」と言われた。 ヨハネの福音書19章28節 
 
 「渇き(ディプソー)」は、私たちが生きていくために必要ものが欠乏するときに感じるものです。お腹がすくことも、なにか欲しいものがあることも、人との触 れ合いがほしいことも、対話者がほしいと思うときも、だれかにほめてもらいた いときにも、その背景には満たされていない「渇き」があります。
 イエスの場合、「食物」とは、「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げること」でした(ヨハネ4:34)。そして、もう間もなく御父のみこころを、自らの死を通して完了するのを目前にしながら言ったことばが、「わたしは渇く」だったのです。つまり、イエスの強烈な渇きは「御父のみこころを完全になし遂げたい」という使命遂行の決意のことばなのです。
 受難週にイエスが私の罪のためになさった愛の御業を思い、感謝しましょう。
                           (銘形「十字架のイエス」より引用)  

2019年4月7日日曜日

2019年04月07日 第1主日礼拝 洗足

招詞
わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。わが神、【主】よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。                詩篇104篇1節


聖書箇所
ヨハネの福音書13章1~17節

説教
洗足 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/282 過越の食事

 さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。      ルカの福音書22章7節

「最後の晩餐」の始まりのことばです。「最後の晩餐」ということばは聖書にはありません。正確な言い方は「最後の過越の食事」で、ユダヤの暦では、今年は4/18(木)です。「最後」というのは、これまで長い間、イスラエルの歴史においてなされてきた「過越祭」には、いけにえとしての羊が多くほふられ、食事は種なしのパンとぶどう酒を中心とする簡素なものでした。そうした伝統的な過越の食事が最後になるという意味です。
 イエスはご自身の肉体を表わす「種なしのパン」を裂いて弟子たちに分け与え、また多くの人のために十字架上で流される血を表わす「ぶどうの実で作った杯」により「聖餐式」を制定されました。私たちクリスチャンは、2000年後の今も、主が再臨なさるまで、この新しい約束の中に生きています。                  (銘形「イエスの最後の一週間」より引用)