2023年12月31日日曜日

2023年12月31日 第5主日礼拝 賢者たちの大冒険

招詞
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を、良いもので満ち足らせる。あなたの若さは、鷲のように新しくなる。                 詩篇103篇2~5節

聖書箇所
マタイの福音書2章1節~16

説教
賢者たちの大冒険 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/522 陶器師(ハ・ヨツェール)
 
 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、・・あなたがたは、わたしの手の中にある。 
                                 エレミヤ書18章6b 節

 神はご自身の民を、陶器師の手の中にある粘土(あるいは、器)のように自由に取り扱う権利があります。粘土を使って何を造るか、それを壊したり、つぶしたりするのは、いつも陶器師の心のままです。粘土や器が、陶器師に向かって、何か文句を言うことはあり得ません。
陶器師は粘土を選ぶことから始まって、粘土から小さなゴミや石ころを取り除き、柔らかくなるまでよく練ります。そしてろくろに乗せて思いのままの形に仕上げるのです。 「ろくろ」の原理は回転の繰り返しですが、これは私たちの日々の生活の日課にたとえることができます。「ろくろ」に置かれる粘土のように、私たちも毎日の生活の中で、神の御手によって神のみこころにあったものとして形造られていくのです。
細心の注意を払い、巧みに形造られたそれぞれの器は、仕上げとして、つまり円熟(完成)させられるためのプロセスを通ります。それは窯に入れて焼かれることです。火は粘土を陶器に変えます。私たちの人生においても火という試練が必要なのです。
                   (銘形「ヘブル語デーリーブレッド」から部分引用)

2023年12月24日日曜日

2023年12月24日 クリスマス礼拝 羊飼いたちの見た メシア、イエス

招詞
 御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
                              ローマ人への手紙1章3~4節

聖書箇所
ルカの福音書2章8節~20節

説教
羊飼いたちの見たメシア、イエス 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/521 主の霊の留まる方イエス (ルアハ・アドナイ)

 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。                                 イザヤ書11章2節

「主の霊」(ルーアッハ・アドナイ)がメシアに注がれましたが、実際、主の霊はどのようにイエスに注がれたのでしょうか。
以下の三つのグループに分けられますが、それらはいずれも王に求められる資質なのです。
・第一はメシアの知的資質としての「知恵と悟りの霊」 マタイ4:1他
・第二はメシアの統治的資質としての「思慮と力の霊」 山上の説教(マタイ5章以下)他
・第三はメシアの霊的資質としての「主を恐れる、知識の霊」 イザヤ 11:9 他

 やがて、御国においては、神の民が「みな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになる」(エレミヤ 31:34)ということは、何という希望でしょうか。それは御国が御霊によって支配されているからにほかなりません。「見よ、その時代が来る」のです。大いなる期待をもって、それを待ち望む者となりましょう。また、「待ち望む」のは私たちだけではありません。被造物全体なのです。                  (銘形「アドベントの瞑想」から部分引用)

2023年12月16日土曜日

2023年12月17日 第3主日礼拝 マリヤとエリサベツ

招詞
 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される。
                                     詩篇41篇1節

聖書箇所
ルカの福音書1章39節~56節

説教
マリヤとエリサベツ 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/520 アドベント(待降節)の「なぜ」
 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。                        ルカの福音書2章12節

 問 ③ なぜ、飼葉桶(ファトネー)?
み使いは、羊飼いたちに飼葉桶(ファトネー)に寝ているみどりごが、あなたがたのためのしるしだと言いました。飼葉桶には、どんなメッセージが隠されているでしょうか。
飼葉桶(ヘブル語:エボス)は、石をくり抜いたものでイザヤ書の冒頭、1章2~3節に出てきて、内容は、辛辣です。

 天よ、聞け。地よ、耳を傾けるのだ。主が語られるからだ。「わたしは子らを育て大きくした。しかし、彼らはわたしを無視した。牛はその飼い主を知っている、驢馬(らば)はその飼葉桶を(知っている)。だが、イスラエルはわたしを知らず、民はわたしを理解しなかった。
                          イザヤ書1章2~3節 (秦 厚平 訳)

 物言わぬ動物でさえ分別があるのに、神の民は悟らないという驚くべきメッセージが「飼葉桶」に象徴されています。その700年後、イエスが誕生した時代の神の民(ユダヤ人)も、イザヤが預言した時代の人々と何ら変わらず霊的に外れた罪深い生き方をしていました。神の律法を重んじるパリサイ派や律法学者たちは、神の愛のみ教えを禁止や規則や罰則にすりかえて、それらを用いることで、民衆を支配する道具としていたのです。これは神の側からすると大変な事態で、霊的な危機でした。その民を救うために遣わされたのが、み子イエスだったのです。 
                        (銘形「アドベントの瞑想」から部分引用)

2023年12月10日日曜日

2023年12月10日 アドベント第2週 第2主日礼拝 インマヌエルの主イエス

招詞
 主はこの口に授けてくださった。新しい歌を、私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ、主に信頼するだろう。幸いなことよ、主に信頼を置き、高ぶる者や偽りに傾く者たちのほうを向かない人。                                詩篇40篇3~4節

聖書箇所
マタイの福音書1章18節~25節

説教
インマヌエルの主イエス 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/519 アドベント(待降節)の「なぜ」
 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。          マタイの福音書2章23節

 問② イエスはなぜ「ナザレ人」と呼ばれたのか。
マリヤとヨセフは、ナザレから国勢調査でベツレヘムに行き、そこでイエス様は生まれました。8日目にエルサレム神殿で割礼を受けさせ、ベツレヘム滞在中に博士たちの訪問を受けますが、直後にエジプトに逃げました。ヘロデの死後、ベツレヘムに帰りましたが、ヘロデより残虐なアケラオを恐れ、夢でのお告げでナザレに移り30年間住みます。そしてイエスさまはナザレ人と呼ばれました。しかし、上記のみ言葉にある預言者とは誰でしょうか。旧約聖書でナザレはヒットしません。3つの説があります。(1)ナジル人のこと。しかし、ナジル人は罪人や汚れたものにさわりません。イエスさまは進んで罪人たちと食事もされましたからこれはあたりません。(2)ナザレ人イエスという表現は軽蔑的な表現 イエスさまを信じる前のナタナエルがナザレから良いものがでるはずがない (ヨハネ1:6)と言ったことやナザレ人一派と蔑称していた事実からです(使徒26::9)。しかし、これも弱いです。(3)ナザレは、ヘブル語ネーツェル(若枝)に由来する地名だ、ということです。
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝(ネーツェル)が出て 実を結ぶ。 イザヤ書 11章1節
言語学的には、ナザレとネーツェルは、コグネィト(同起源語)の関係ですから、妥当な結論で、初代教会時代から、イザヤの預言と理解されていたということになります。
                         (銘形「アドベントの瞑想」から部分引用)

2023年12月3日日曜日

2023年12月03日 第1主日礼拝 最も小さい者から

招詞
 正しい正しい人の救いは、主から来る。苦難のときの、彼らの砦(とりで)から。主は彼らを助け、解き放たれる。悪しき者どもから解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けているからだ。                               詩篇37篇39~40節

聖書箇所
ミカ書5章2節

説教
最も小さい者から 田口勇新牧師
説教動画はこちら:

音声のみはこちら:MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/518 アドベント(待降節)の「なぜ」

 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。 これは、キリニウスがシリヤの総督であったときの、最初の住民登録であった。    ルカの福音書 2章1節

問① イエスの誕生がなぜ初代皇帝の住民登録の勅令の時期であったのか。

 ローマの初代皇帝となったアウグストゥスによって実現した「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)は、言うなれば、軍事力によって打ち立てられた平和でした。人々は、皇帝アウグストゥスこそ共和制による覇権争いのすべてを終わらせた「救い主」だと信じていました。ところが「そのころ」、もうひとりの「救い主」が「ダビデの町」、すなわち「ベツレヘム」に誕生した(ルカ 2:11)ことをルカの福音書は伝えます。この「救い主」こそが、まことの「救い主」イエス・キリストです。
 当時の人々は、「皇帝アウグストゥス」こそ、全世界のための救い主だとして歓迎し、彼の統治こそ「エウアンゲリオン」(福音)の始まりだと考えていたのです。そうした背景こそ、このルカの福音書2章1節の「そのころ」ということばが意味していることです。

次回は、②なぜベツレヘムか、です。     (銘形「アドベントの瞑想」から部分引用)