2026年4月12日日曜日

2026年04月12日 第二主日礼拝 

招詞

 私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのみことばを忘れません。 あなたのしもべに豊かに報い、私を生かし、私があなたのみことばを守るようにしてください。  詩篇119篇16~17節

聖書箇所
使徒の働き1章3~14節

説教
イエスの昇天 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/638 雲(ネフェレー): 神の栄光の現われ

 そして、(イエスは、)祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
                                ルカの福音書 24章51節

 同じ昇天の記事が、使徒の働き1:9では、「雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。」とあります。ここにある「雲:ネフェレー」は、神の栄光の現われです。
旧約時代では、モーセがシナイの山頂において雲の中で律法を与えられています。荒野における幕屋における主の臨在は雲によって現われました。ソロモンが神殿を奉献したときにも、やはり雲が現われ、祭司たちはその臨在に圧倒されて立っていることができませんでした。雲は神の臨在のしるしです。
新約では、イエスの変貌の時に雲がわき起こり、弟子たちをおおいました。するとその雲の中から、「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け。」という声がしました(ルカ 9:34~35)。復活された神の子であるイエスは雲の中に包まれて昇天されたことによってその栄光を現わされました。そして同様に、イエスが再びこの地上に戻って来られる時にも、雲に乗って来ることが約束されているのです(使徒1:11、マタイ24:30, 26:64、黙示14:16)。見えないものも見たいのが私たちです。主のご栄光を可視化して見せて下さる神の粋なお取り計らいに感謝ですね。
                               (銘形 「雲」から一部引用)

2026年4月5日日曜日

2026年04月05日  イースター・召天者祈念礼拝 イエスの復活

招詞
 主よ、あなたはほむべき方。・・・ 私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。         詩篇119篇12、18節

聖書箇所
ルカの福音書24章1~12節

説教
イエスの復活 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/637 信じ難いこと:十字架か復活か

 パウロは、最高法院の議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」 パウロがこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。 サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、いずれも認めているからである。 使徒の働き 23章6~8節

 イエスの時代、ユダヤ人最高法院(サンヘドリン)は、祭司長たちのいるサドカイ派と律法を教えるパリサイ派から構成されていて、復活は両派の論争の火種になっていました。現世の権威にしがみつくサドカイ派は、復活も天国も信じなかった不信仰者でした。パリサイ派のユダヤ人は、反対にどちらも信じていましたが、メシア=キリストが恥辱の十字架刑になるはずが無いと主張し躓きました。あなたにとってどちらが信じ難いでしょうか。身代わりに死んでくださったイエスの十字架ですか? あるいはイエスの復活ですか?

2026年3月29日日曜日

2026年03月29日 第5主日礼拝 最後に救われた男

招詞
 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはと   こしえまで。主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。                    詩篇118篇1、8節

聖書箇所
ルカの福音書23章26~43節

説教
最後に救われた男 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/636  最後の1週間 ⑦ 三つの出来事

 イエスが十字架において確実に死んだことを表わす表現として、ヨハネの福音書だけは、その死の確実性を表わすために、十字架につけられた二人の者は死を早めるために、「すねを折った」(19:31-32)のですが、イエスの場合には、「すでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった」(19:33)と記し、「イエスのわき腹を槍で突き刺した。すると血と水が出てきた」(19:34)と、ヨハネは証言しています。  

 イエスの確実な死によって三つの出来事が記されています。  

 その一つ目は、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた (マタイ 27:51、 マルコ 15:38)」ことです。これは何を意味する出来事でしょうか。これはイエスの死によってもたらされた 「天的現実の地的な現われ」と言えます 。
 二つ目は、墓が開いて眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返ったことでした(マタイ 27:52)。  神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたことが、「天的現実の地的な現われ」だとすれば、墓が開いて眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返ったことは、「地下的現実の地的な現われ」ということができます。  
 三つめは、百人隊長の目が開かれ、「イエスが神の子である」と告白したこと (マタイ 27:54、 マルコ 15:39、ルカ 23:47)で、これはやがて異邦人にもイエスが神の子であることに霊的な目が開かれて行くことを象徴する出来事でした。                     (銘形 「イエスの死」より一部引用) 

2026年3月22日日曜日

2026年03月22日 第4主日礼拝 イエスの打ち傷のゆえに

招詞
 すべての国々よ、主をほめたたえよ。すべての民よ、主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。              詩篇117篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書27章26~32節
イザヤ書53章1~8節

説教
イエスの打ち傷のゆえに 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/635 最後の1週間 ⑥イエスの女弟子たち

 彼(アリマタヤのヨセフ)は、からだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。・・・・・イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。それから、戻って香料と香油を用意した。                       ルカの福音書 23章53,55~56節

 イエスが十字架から引き降ろされ、墓に納められる様子をしっかりと見届けた勇気ある女性たちがいました。十字架刑に処された罪人は埋葬されず、死体は野に晒されます。この段階では誰も、この墓から三日目にイエスが蘇って出て行くとは知りません。しかし、彼女たちも、イエスの弟子としてできる最後の証として、安息日前の一時間あまり、心を込めてイエスを墓に葬ることができました。
 三日目の朝、彼女たちは、本格的な葬りの準備をするために、またお別れのために墓に出向いたのでした。ここまで間違いだらけの行動のように思いますか? しかし、空になった墓のそばで、天使のみ告げによってイエスの復活を最初に信じたのは彼女たちでした。信仰と勇気と行動力、彼女たちの存在が、やがて誕生する教会を下から支える力となっていったのではないでしょうか。人の目にふれないところでも、イエスに対する弟子としてのあかしを立てようとする志はすばらしいと思います。いつでも、どこでも、自分がひとりのキリスト者であるという自覚をもって真実に生きることが求められていると思います。      (銘形 「イエス墓に葬られる」より一部引用)

2026年3月15日日曜日

2026年03月15日 第3主日礼拝 総督ピラトとイエス

招詞
 私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。 主が私に耳を傾けてくださるので、私は生きているかぎり主を呼び求める。               詩篇116篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書18章28~40節

説教
総督ピラトとイエス 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/634 最後の1週間 ⑤ ヘロデ・アンテパスの尋問

 それを聞いたピラトは、この人(イエス)はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前からイエスに会いたいと思い、またイエスの行なうしるしを何か見たいと望んでいたからである。 
                               ルカの福音書 23章6~8節

 ガリラヤとペレヤ地方はヘロデ大王の二番目の息子アンテパスに与えられていましたが、過ぎ越しの祭りでエルサレムに来ていました。ピラトに託されてイエスを尋問しようとしているヘロデとは、このアンテパスのことです。このヘロデ・アンテパスは、かつて弟のピリポの妻ヘロデヤと密通し、バプテスマのヨハネから、公然と「あなたが(ヘロデヤを)めとるのは律法違反=姦淫です」と言われたことで、ヨハネを投獄しました。ヘロデは悪妻ヘロデアとその娘の奸計で獄中でヨハネを殺しました。
 さて、好奇心ゆえにいろいろと質問するヘロデに対して、イエスは一言も答えられませんでした。このイエスの毅然とした沈黙に、ヘロデは怒りを覚え、イエスを「侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した」のです(23:11)。反省なしに罪を重ね、ここでは場を読まず、しゃべり続けるヘロデに対してイエスさまは沈黙で対処なさるほかありませんでした。                         (銘形「ヘロデの尋問」より一部引用)

2026年3月8日日曜日

2026年03月08日 3・11祈念礼拝 ペテロ(岩)と呼ばれた男

招詞
 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。                       詩篇115篇1節

聖書箇所
マタイの福音書26章31~35節

説教
ペテロ(岩)と呼ばれた男 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/633 最後の1週間 ④ 軽蔑と侮辱に耐えて

 (兵士たちは)、イエスが来ていた物を脱がせて、緋色のマント(上着)を着せた。 それから、いばらで冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王さま。万歳。」 と言って、からかった。またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。                     マタイの福音書 27章28~30節

 イエス様はユダヤ人からもローマの兵士からも、身体的・肉体的な痛みだけでなく、精神
的なありとあらゆる屈辱を受けました。屈辱ー軽蔑、嘲笑、嘲弄、嘲り、罵り、揶揄( や
ゆ)、侮り、中傷、批判、非難、嫉み、憎悪、冷笑、唾をかけられる、陰謀、偽証、裏切り
― これらすべてがイエスに注がれたのです。
 私たちはこれらのひとつでも他人から仕向けられるなら、おそらく、けんか腰になるか、落ち込んでしまうことになるのではないかと思います。私たちは、しかし、イエス様を信じて救われるまで、イエス様のこの苦しみに気づきませんでした。
 すべて、私たちの罪と咎を赦し、サタンの鎖から救うためにイエス様が耐えられたことを知ったのです。イエス様が飲まなければならなかったこの苦杯(くはい)を思い起こして心から感謝しましょう。                    (銘形「ローマ兵たちの侮辱」より一部引用)

2026年3月2日月曜日

2026年03月01日 第1主日礼拝 ゲッセマネの祈り

招詞
 ハレルヤ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。今よりとこしえまで、主の御名がほめられるように。日の昇るところから沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。                                 詩篇113篇1~3節

聖書箇所
マルコの福音書14章32~42節

説教
ゲッセマネの祈り 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/632 最後の一週間 ③ハレル(ヤ)詩篇

 そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。
                              マタイの福音書 26章30節

 詩篇113~118篇までの六篇は「ハレル詩篇」と呼ばれ、過ぎ越しの祭りを含むユダヤ人の三大祭りの時に歌われてきた詩篇です。例えば、過越の祭りには、その食事の前に113篇と114篇が歌われ、食後に115篇から118篇までが歌われます。上記の賛美の歌とは詩篇115~118篇の朗誦です。「彼らは」とあるのは、イエスさまと弟子たちが一緒に歌ったのです。
 ハレル詩篇の概要は、113 神のへりくだり、114 贖いの力、115 神対偶像、116 聖徒の死、117異邦人の賛美、118メシヤの凱旋の様です。
 詩篇118:22-23は、「家を建てる者たちの捨てた石、それが要(礎)の石になった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」です。イエス様がエルサレムに入って、ユダヤ人の宗教指導者らと議論された時、この言葉が成就すると言われました。ユダヤ人指導者らがこれからメシヤを殺すたとえを、ぶどう園の農夫を使って話された後に、この詩篇118篇の箇所を引用されました。神の家を建て上げるはずの宗教指導者らが、かえってイエス様を捨ててしまった。けれども、そのイエス様がメシヤであった、という預言です。教会の礎の石となられたイエス様を主と信じて救われた私たちは幸いですね。            (ロゴス「ハレル詩篇」より一部引用)

2026年2月22日日曜日

2026年02月22日 第4主日礼拝 洗足の教え

招詞
 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。              詩篇62篇1~2節

聖書箇所
ヨハネの福音書13章1~17節

説教
洗足の教え 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/631 最後の一週間 いちじくの 木 からのたとえ

 弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わりのしるしは、どのようなものですか。」 
                                マタイの福音書24章3節

 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が、戸口まで近づいていることを知りなさい。    マタイの福音書24章32~33節(マルコ 13:28、ルカ 21:29)
 夏を知るには、いちじくの枝や葉を見れば分かります。そのように、キリストの再臨の時期を知るにはこの箇所の前に語られた諸々の現象を見るべきである、とイエスは語ります。
 後半の節は3節に対する答えの要約のようなもので、3節の 「そのようなこと」だけでなく、4~31節に示されたそのほかの、「これらのこと、すべて」が起れば、それは「キリストの再臨と世の終末の兆」であると言われました。ただし、その「時期」については、誰もこれを知ることができない(36節)、とイエスは述べられ、それが、初めの弟子たちの質問への答えだと言われたのです。
 聖書を良く読み、世界の今を見ることで、時を見る目、洞察は常に養っておかなければなりませんね。今、与えられている猶予(あわれみ)の中で神の国の福音を宣べ伝えながら、神の国の完成を仰ぎ待ち望みたいと思います。            (黒崎「イエスの再臨の前兆」より一部引用)