2023年3月26日日曜日

2023年03月26日 第4主日礼拝 四つの杯

招詞
 ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。敬虔な者たちの集まりで、主への賛美を。踊りをもって、主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。
                                  詩篇149篇1、3節 
 
聖書箇所
マタイの福音書26章17節~29節

説教
四つの杯 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/484 躓つまずく スキャンダリゾー

 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」    マタイの福音書26章31~32節

 「つまずく」と訳されたギリシア語は「スカンダリゾー」です。ここからスキャンダル(醜聞=人を躓かせる出来事)という言葉が派生しています。新約では「つまずかせる、罪を犯させる」という意味で29回使われています。イエスの言葉にペテロを始めとする他の弟子たちがこぞって、「私たちは、決してあなたを知らないとは言いません」とそれを打ち消しました。
しかし、この後、ペテロはイエスを知らないと3度も否定し、弟子たちは恐怖からイエスを置き去りにして逃げました。弟子たちを非難したくなりますが、上記下線部のゼカリヤ14:7aに注意すると、そこには敵であるサタンが関わっていてサタンとの「霊の戦いの場」だったことが分かってきます。イエスは、「わたしは、この手を小さい者たちに向ける」(同7b)の成就として「先にガリラヤに行き、あなた方の失意の手当てをする」と語りました。つまづきは避けられないでしょうが、私たちの弱さを看破して執り成し、ケアしてくださるイエスに感謝し、従ってまいりましょう。 (銘形: 「つまづく」から一部引用)

2023年3月18日土曜日

2023年03月19日 第3主日礼拝 教会のチャレンジ ⑤ ~ 迫害者の回心

招詞
 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で、主をほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。主が命じて、それらは創造されたのだ。            詩篇148篇1、5節
 
聖書箇所
使徒の働き9章1節~31節

説教
教会のチャレンジ ⑤ ~ 迫害者の回心 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/483 引き渡される(パラデドーミ)
 イエスは、これらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」                       マタイの福音書26章1~2節

 「引き渡される」と訳された「パラディドーミ」は、「受難」を表すことばです。パラディドーミは、裏切る、捕らえる、手に渡される、売りわたすとも訳され、新約では119回も使われています。ところが、弟子たちはこのイエスのことばをまともに聞こうとはせず、理解しようともしませんでした。一方、ベタニヤのシモンの家におられた時、「ある女」がこのことを正しく理解して、イエスのために香油を注いで埋葬の備えをしたのです。
他のか所でも受難告知に対する弟子たちの反応は、以下のようです。
① 16:21 「そんなことがあってはなりません」 ② 17:21~23 「非常に悲しんだ」⇒イエスの期待した反応ではない。 ③ 20:18~19 無反応。 そして、上記、26:1~2では、悲しいことに「無関心」です。
弟子たちのこのような無関心、無反応は、今日の教会でも起こり得ます。聖書が1テサロニケ4:13~18で、教会の祝福の望みである携挙(携え上げ)について明確に語っているにもかかわらず、ある教会では明確に語っていないので、多くのクリスチャンが携挙を知りません。たとえ聞かされていたとしても、無視したり、無関心の人も多いのです。聖書のどの預言も預言者たちを通して神が語られたものです。いまだ実現していない預言が数多くあるのです。ですから、今日においても、聖書預言は、すべての神の民に対するテストだと言えます。イエスの弟子として預言を信じ、信仰のテストに合格して進みましょう。           (銘形:「パラデドーミ」から一部引用)

2023年3月5日日曜日

2023年03月05日 第1主日礼拝 教会のチャレンジ ④ 分散

招詞
 われらの主は偉大であり、力強く、その英知は測り知れない。主は心の貧しい者を支え、悪しき者を地面に引き降ろされる。感謝をもって主に歌え。竪琴に合わせてわれらの神にほめ歌を歌え。
                                  詩篇147篇5~7節
 
聖書箇所
使徒の働き8章1節~25節

説教
教会のチャレンジ ④ 分散 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/481 「神のかたち」と「神のように」

 「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」 創世記3章1節

 サタンの武器は、真理を偽りにし、偽りを真理に見せる「嘘」です。その手口は、「園の木のどれからも」と神の言葉を曖昧にし、次に「本当に?」と疑わせ、相手が迷うと「決して死にません(4節)」と断定します。さらに、「アダムとエバよ、あなたは神のようになれる」と罪を魅力的に教え、最後は「食べるな」と愛の忠告をした神を「敵」に仕立て、敵意さえ持たせます。
マタイ4章でサタンは、イエスを試みています。40日間の断食で弱っていたイエスに近づいたサタンの誘惑は功名でした。荒野の試みは、
「石をパンに」…(父に関係なく、あなた自身でいのちを造れ)
「飛び降りよ、神は支える」…(あなた自身が計画し父を従わせよ)
「ひれ伏せ、全て与える」…(父ではなく、あなたが支配者になれ) でした。
サタンの目的は、父なる神からイエスを離し、独立させ、救いのマスタープランを失敗させることでした。同じく、サタンはあなたを主イエスから引き離そうとします。神のかたちに造られた人は、主なる神から目を離しません。しかし、神の様になろうとする人は、自分と世界だけ見ます。私たちが主イエスから離れたら、信仰のいのちを失います。友よ。「父と御子と聖霊」の交わりから、今日も、決して離れてはなりません。聖餐式は、この三位一体の神との交わりを感得 (かんとく) するものです。               (鵜の木教会「聖書日課」より一部引用)

2023年2月25日土曜日

2023年02月26日 第4主日礼拝 アルネ人を照らす光

招詞
 ハレルヤ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。私は生きているかぎり、主をほめたたえる。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌う。              詩篇146篇1~2節
 
聖書箇所
ルカ福音書2章25節~32節

説教
アルネ人を照らす光 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/480 われわれの似姿に
 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上をはうすべてのものを支配するようにしょうよう。」 神は人をご自身のかたちとして創造し、男と女とに彼らを創造された。
                                 創世記1章26~27節

 「神」と訳されたヘブル語の「エロヒーム」は、複数形ですが、単数動詞(バラー:彼は造った)で受けています。神は三位一体の神です。父と子(イエス)と聖霊なる神は、各自(位格と呼びます)が独立していても一つです。それは、父は御子イエスのため、御子は父のため、聖霊は父と子のために自分を捨てて仕え合うので、三つの位格(独立した存在)でも、「一つ(思い・目的・考え・行動)」です。ですから、誤解を避けるために、聖書では、神は「一人」でなく「唯一」と表現します(1テモテ1:17他)。
人間同士は、相手を仕えさせようとする罪に支配されやすいので、自分力では一つになれません。そこには、憎しみ、怒り、争いが絶えません。世界の争い(戦争)の原因がまさにこれです。しかし、神の愛で人が互いに仕えあうときには、そこに「いのち、喜び、感謝」を見ることができます。
人の救いは、御子イエスを信じて、父と御子と聖霊の交わりに入ることです。神の家族になるのです。その時、自分も神の似姿に造られた存在であることを実感できます。あなたも私も、とっても大切な神の家族の一人です。

2023年2月19日日曜日

2023年02月19日 第3主日礼拝 教会のチャレンジ ③

招詞
 主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたにある敬虔な者たちは、あなたをほめたたえます。主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに、主は近くあられます。                        詩篇145篇10、18節
 
聖書箇所
使徒の働き6章1節~10節

説教
教会のチャレンジ ③ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/479 イエスのパターンに
 
議会の面々はガマリエルの勧告に従い、 使徒たちを呼び出してから、むちでたたき、これ以上イエスについて語らぬよう厳しく命じた上、釈放した。 使徒たちは議会から出て行ったが、イエスのために辱めを受ける者とされたことをむしろ喜んだ。それから毎日、神殿でも家でもどこででも教えたり、イエスがキリストであることを宣べ伝えてやまなかった。
                         使徒の働き 5章39~42節 (現代訳)

  ペテロやヨハネたちが大胆になれたこと、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜ぶことができたのは、イエスと同じパターンを経験したことにあると考えられます。イエスも使徒たちも同じく、人間のねたみによって捕えられました。そして、人間の手では開けることの出来ない場所(イエスの場合は墓、使徒たちの場合は留置場)にそれぞれ入れられました。そして、イエスの場合は御父によって復活し、使徒たちは天使によって救出されました。
今日においても、「主の御名のために値する者」となるためには、このパターンを経験させられるかもしれません。主イエスがそうであられたように、この世に歓迎され、正しく受け入れられることはほとんどないからです。主も使徒たちもそうであったように、いのちのことばを握っている者は迫害を避けては通れないことを自覚しなければなりません。それでも彼らは「宣べ伝えてやまなかった」のです。キリストの福音はそのような人々によって現代に伝えられ、私たちもいのちのことばを握っている者となっています。        (銘形:「使徒の働き5章」より一部引用)

2023年2月11日土曜日

2023年02月12日 第2主日礼拝 教会のチャレンジ ②

招詞
 主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。 主はすべてのものにいつくしみ深く、 そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。 詩篇145篇8~9節
 
聖書箇所
使徒の働き4章32節~5章16節

説教
教会のチャレンジ ② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/478 イエスの二つの名(オノマ)

 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」                     使徒の働き3章6節

 ペテロがここで初めて使ったことばに注目しましょう。それは、「ナザレのイエス・キリストの名」という表現です。この名前には二つの名前が結合されています。一つは「ナザレのイエス」です。もう一つは「イエス・キリストの名」です。「ナザレのイエス」は「ナザレ人イエス」と同義です。これは地上で実際に生きたイエスの存在を意味します。しかし、「イエス・キリストの御名」は、十字架と復活の後に昇天して神の右の座に着座されてから与えられた名前です。使徒パウロはこの「イエスの御名」を「すべての名にまさる名」という表現をしています(ピリピ 2:9)。
「ナザレのイエス・キリストの名」の力とはそのような力なのです。使徒たちは、このイエス・キリストのみ名の力を帯びて毎日を生き、そして新生したクリスチャンを教え導きました。私たちはいつでもこの「イエスの御名」によって生きること、「イエスの御名」の力の通り良き管となってその名をあかしすることが求められています。     (銘形:「使徒の働き」より一部引用)

2023年2月5日日曜日

2023年02月05日 第1主日礼拝 教会のチャレンジ ①

招詞
 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。 その偉大さは、測り知ることもできません。 代よは代よへと、あなたのみわざをほめ歌い、 あなたの大能たいのうのわざを告げ知らせます。
                                  詩篇145篇3~4節
 
聖書箇所
使徒の働き4章1節~33節

説教
教会のチャレンジ ① 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/477 イエスの御名の力 (デュナミス)②
 
(当局者は)使徒たちを呼び入れて、むちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたうえで、釈放した。使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。                使徒の働き5章40~41節

 かつてイエスは弟子たちに、「義のために迫害される者は幸いです。天の御国はその人のものです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:10~12)と言われました。使徒たちは、今や、イエスの言われた事が本当であることを感じ始めていました。
イエスの御名の力を体験している使徒たちはまた、「いのちのことば」を握っている者です。彼らは、迫害を避けては通れないことを自覚していました。それが「主の証人」となることです。「証人」とはギリシャ語で「マルトゥス」ですが、それは「殉教者」という意味でもあります。聖霊に満たされていなければ、「主の証人」=「殉教者」となることを喜びとすることは到底できません。キリストの福音はそのような人々によって伝えられ、今日に至っているのです。
                          (銘形:「使徒の働き」より一部引用)

2023年1月28日土曜日

2023年01月29日 第5主日礼拝 ラハブの命がけ ②

招詞
 主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。                         詩篇143篇1,8節
 
聖書箇所
ヨシュア記6章1節~25節

説教
ラハブの命がけ ② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/476 イエスの御名の力 (デュナミス)①

 この方(イエス)は、ご自分の前に置かれた喜びのために、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。           ヘブル人への手紙12章2節

 「御座についての教え」は、「十字架についての教え」とともに重要な教えです。どちらも重要です。しかし「十字架についての教え」だけではキリスト者はこの世において勝利することができません。多くのキリスト者は「十字架についての教え」だけでとどまっているかも知れません。
「御座についての教え」は「イエスの御名」の権威と力を受け取ることです。この「イエスの御名」は、十字架の贖いを成し遂げて、天に帰られて神の右に着座されてから与えられた新しい名です。地上では「イエス」でしたが、昇天後は「イエスの御名」(あるいはイエス・キリストの御名)というのが正しい名前なのです。使徒3章で、ペテロとヨハネが神殿の異邦人の庭の入り口にあった美しの門(東門)で、生まれつき足のきかない40歳の男性に出会いました。ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、 彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしたのです。(使徒6~8) これは、神の右に着座されているイエスの御名の力を示すできごとでした。
私たちは祈りの最後に、必ず、「イエスの御名によって」と閉じます。毎日、そう信じて祈っています。私たちは、この「イエスの御名」の力を、信仰生活の中でどのように用いているでしょうか。もし定型句のように唱えているだけでは、あまりにもったいない話ではないでしょうか。
                          (銘形:「使徒の働き」より一部引用)