2026年8月1日土曜日

2026年08月02日 第一主日礼拝 神の知恵

招詞
 みことばのすべては真実です。ああなたの儀のさばきはことごとく、とこしえに至ります。
                                  詩篇119篇160節

聖書箇所
コリント人への手紙第一2章6~16節

説教
神の知恵 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/653 とりなしの祈り④ 互いのために祈りなさい

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。         テモテへの手紙第一2章1節

 絶えず祈りなさい(1テサロニケ5:17)と言われても、「そんなこと一体だれができるのでしょうか。毎日生活のことに追われている者にどうしてそれができるのでしょうか。」とあなたは言われるかもそれません。あなたに質問させてください。「どのようにして、母はその子を絶えず愛することができるのでしょうか。どのようにして、まぶたは絶えず目を守るのでしょうか。どのようにして、わたしは絶えず呼吸し、感じ、聴くことができるのでしょうか。」と。

 なぜなら、これらはすべて、健康で自然ないのちの働きであるからです。ですから同様に、もし聖霊の力に満ち溢れて、私たちの霊的ないのちが健康な状態にあるならば、絶えず祈ることはごく自然なことなのです。

 何をどのように祈るのか、これから時間をとって一緒に考えて生きましょう。
                       (アンドリュー・マーレー「祈りの手帳」より)
 

2026年07月26日 第四主日礼拝 イエスの手が伸ばされた時

招詞
 ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを 愛しているかを。主よ あなたの恵みによって 私を生かしてください。                                                                                           詩篇119篇159節

聖書箇所
マルコの福音書1章40~45節

説教
イエスの手が伸ばされた時 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/652 とりなしの祈り③ 絶えず祈りなさい、なぜ

 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。                テモテへの手紙第一 2章1節

 絶えず祈りなさい(1テサロニケ5:17)と言われても、「そんなこと一体だれが出来るのでしょうか。毎日生活のことに追われている者にどうしてそれができるのでしょうか。」とあなたは言われるかもしれません。あなたに質問させてください。「どのようにして、母はその子を絶えず愛することができるのでしょうか。どのようにして、まぶたは絶えず目を守るのでしょうか。どのようにして、私は絶えず呼吸し、感じ、聴くことができるのでしょうか。」と。
なぜなら、これらはすべて、健康で自然ないのちの働きであるからです。ですから同様に、もし聖霊の力に満ち溢れて、私たちの霊的ないのちが健康な状態にあるならば、絶えず祈ることはごく自然なことなのです。
 何をどのように祈るのか、これから時間をとって一緒に考えていきましょう。 
                      (アンドリュー・マーレ―「祈りの手帳」より)

2026年7月18日土曜日

2026年07月19日 第三主日礼拝 イエスは神の力、神の知恵

招詞
 私はあなたの 仰せを 喜びます。それを私は 愛します。私は 愛するあなたの仰せを求めて 両手を上げ あなたのおきてに思いを潜めます。              詩篇119篇47~48節

聖書箇所
コリント人への手紙1章18~2章5節

説教
イエスは神の力、神の知恵 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/651 とりなしの祈り② とりなしの奥義

 主は人がいないのを見て、とりなす者がいないことに啞然とされた。   イザヤ書59章16a

 困難な時に神がとりなす者を探されたのに、その努力がむなしかった、と記されています。神の御国においては、とりなすものの占める位置は、なんと重要な事でしょうか。しかし、神がこのような力を与えられるのに、なお神の力をつかみ、主の祝福をこの世界にもたらすことを知っているものが非常に少ない、ということはまさに驚くべきことではないでしょうか。この立場を認めるように努めようではありませんか。
 主は今も生きて、祈っていてくださいます。祈りこそ御座にいます祭司・王としての主のもっとも神聖な特権の最高の実践なのです。神は御国の進展をこんなにまで民の忠実な祈りに依存しておられる、ということは驚くべき奥義であり、しかも絶対に確かなことです。神はとりなす者を求めておられます。主はその恵みのうちにご自身のわざを彼らにたよっておられるのです。主は彼らを待っておられるのです。
 「私たちの父よ。あなたの子供たちを祈りととりなしとに忠実であることによって御国の拡大にあずかるようにと、招いておられることを理解できるよう私たちの目を開いてください。この聖なる召しの栄光を見定める洞察力をお与えください。そしてこの祝福された奉仕に全力全霊をもってあたらせてください。」               (アンドリュー・マーレー「とりなし」より)

2026年7月14日火曜日

2026年07月12日 第二主日礼拝 一致が揺らぐときも

招詞
 あなたの恵みによって私の声を聞いてください。主よあなたの定めにしたがって私を生かしてください 。                              詩篇119篇149節

聖書箇所
コリント人への手紙1章10~17節

説教
一致が揺らぐときも 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/650 とりなしの祈り ①主要な恵みの手段

 ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。 エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。   ヤコブの手紙5章16~18節

 祈りにはなんという栄光が隠されていることでしょうか。私たちは一方で、人を祝福しようと待ち、求めておられる神を、その聖さと愛と力のうちに見、もう一方では、天の命と愛が神のもとから降り、人の心の中に住むようにと祈っている、塵の中の虫のような罪深い人間を見るのです。
 とりなしは、神の子どもたちにとって大胆で、最も聖なるわざであり、会話によって神と結ばれるという最高の特権と喜びであると言えない人がいるでしょうか。神が人々の内に住み、人々が神の栄光を表わすという神の偉大なわざのために、その道具となって神に用いられることの力はどんなに大きなものでしょうか。教会がとりなしを主要な恵みの手段のひとつと数え、何にもまさって、滅び行く世界のためにたゆみなく祈る、神の子どもたちの中にある力を、開発しようとしてきたことを心を留めない人があるでしょうか。    (アンドリュー・マーレー「とりなし」より)

2026年7月5日日曜日

2026年07月05日 第一主日礼拝 パウロ、遠回りの祝福

招詞
 私は夜明け前に起きて叫び求めます。あなたのみことばを待ち望んでいます。私は夜明けの見張りよりも先に目覚めあなたのみことばに思いを潜めます。    詩篇119篇147~148節

聖書箇所
コリント人への手紙1章1~7節

説教
パウロ、遠回りの祝福 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/649 謙遜 ⑪ 謙遜の種を蒔く

 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。                    エペソ人への手紙3章17~19節

 謙遜についての真理は次の通りです。高ぶりがあなたの内で死ぬのでなければ、天にある何ものもあなたの内に生きることはできません。真理の旗印のもとで、あなた自身を聖なるイエスの柔和でへりくだった霊に捧げなさい。謙遜は、種をまかなければ育ちません。そうでないと天での収穫がありません。
高ぶりをただの無作法な感情と見なしたり、謙遜をただの立派な徳と見なしたりしてはいけません。なぜなら、一方は死ですが他方はいのちであり、一方はまったくの地獄ですが他方はまったくの天だからです。あなたが自分の内側に高ぶりを保持している限り、堕落天使があなたの内で生きています。あなたが本当の謙遜を持っているなら、神の小羊があなたの内側にそれだけ豊かに住んでいてくださるのです。謙遜が、どれほど甘美で、神聖な、物事を変える力を持っているかわかりますか。それがいかにしてあなたの性質をむしばむ毒を排し、あなたの内に神の御霊が生きる余地を作り出すかわかりますか。            (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。)

2026年6月28日日曜日

2026年06月28日 第四主日礼拝 ヤロブアムとダビデ/祝福される教会のモデル

招詞
 主よあなたは正しくあられます。あなたのさばきは真っ直ぐです。義をもってあなたはさとしを与えられました。この上もない真実をもって。         詩篇119篇137~138節

聖書箇所
第一礼拝:第1列王記 12章25~33節、14章7~11節
第二礼拝:使徒の働き 2章40~47節

説教
第一礼拝:ヤロブアムとダビデ 田口勇新 牧師

第二礼拝:祝福される教会のモデル 玉井邦美 牧師

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言(こと)ローグ/648 謙遜 ⑩ 弟子の特徴

 あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 ヤコブの手紙3章13節

 私は確信しています。多くのクリスチャンがこの点について私自身とほとんど同じような経験をしてきたと告白するでしょう。つまり、私たちは長いあいだ主を知るうえで重要な点をとり逃してきました。心の柔和さとへりくだりが、弟子が師のものであることを裏付ける際立った特徴であるという点です。さらに、この謙遜はそれ自身から来るものではなく、特別な願いと祈りと信仰と実践の目標とされなければならないという点です。
 私たちがみことばを研究すると、イエスが弟子たちにこの点についてどれほど明確にまた何度も繰り返して教えておられたか、そして弟子たちが主の言われることを理解するのがどれほど遅かったことかを理解するようになります。私たちの考察のまさしく序章において、ぜひ認めようではありませんか。
 高ぶりほど、人間にとって自然なものはほかになく、私たちの目に隠れてじわじわと広がるものはほかになく、困難で危険なものはほかにないということを、ぜひ実感しようではありませんか。確固たる意志をもって神とキリストを忍耐強く待ち望むことほど、私たちに謙遜の恵みがどれほど不足しているかを痛感させるものはほかになく、また私たちが探し求めるものを獲得するのにどれほど無力であるかを痛感させるものはほかにないということを。
            (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。次回は「⑪謙遜の種」です。)

2026年6月21日日曜日

2026年06月21日 第三主日礼拝 イエスの洗礼と私たち

招詞
 わたしは あなたの神 主である。わたしがあなたをエジプトの地から連れ上った。 あなたの口を大きく開けよ。わたしが それを満たそう。                 詩篇81篇10節

聖書箇所
マルコの福音書1章1~11節

説教
イエスの洗礼と私たち 菅牧師
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言(こと)ローグ/647 謙遜 ⑨ 明け渡すもの

 みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。                                1ペテロ5章5節

 謙遜は私たちが神に捧げるものではなく、神が与えてくださるものです。それは単純に「まったく無に等しい者」であるという感覚です。その感覚は、神こそがすべてであるという真実をはっきりと理解するときに与えられます。私は無であるという感覚が、神にすべてとなっていただく道を作ります。謙遜こそが本物の高貴さであることを人が認識するとき、また人が神のいのちと栄光が働き、それらをあらわすための形であり器であることに自らの意志、思い、愛をもって彼自身が同意するとき、彼は謙遜を本当に理解するようになります。謙遜は被造物としての身の丈に関する真理をシンプルに認めることであり、もともと神の場所であったものを神に明け渡すことなのです。
 神が自由にすべてとなってくださるままに神にお任せする謙遜と「無なること」こそが、被造物の関係をあらわす第一にして主要なる表徴、彼が祝福を受けたものであることを示す奥義なのではないでしょうか。   <アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は、「⑩弟子の特徴」です。>

2026年6月14日日曜日

2026年06月14日 第二主日礼拝 ピリポ、散らされて

招詞
 あなたのさとしは奇しくそれゆえ私のたましいはそれに目を留めます。みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。私は口を大きく開けてあえぎます。まことに私はあなたの仰せを慕います。                       詩篇119篇129~131節

聖書箇所
使徒の働き8章1~25節

説教
ピリポ、散らされて 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/646 謙遜 ⑧ 回復の刻印

 みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。                                ペテロの手紙第一 3章8節

 前回、キリストの謙遜は私たちの救いです。キリストの救いは私たちの謙遜です。と書きました。
 それですから、私たち救われた者たちの生活には、罪から解放され、神との関係と人との関係のすみずみにまで謙遜が浸透している本来のありさまを十二分に回復したという刻印がぜひとも押されなければなりません。このことを差し置いて、神の臨在に本当の意味でとどまることや、神の恵みや御霊の力を経験することはありえませんし、信仰や愛や喜びや強さがやどることはありません。謙遜は、恵みが根をはる唯一の土壌なのです。どんな敗北も失敗も、謙遜が欠けているならそのことが十分な説明となります。謙遜は他の恵みや徳と同列に並べられるものではありません。それはすべての根です。なぜなら、それだけが神の御前に正しい態度をとり、神が神としてあらゆることをなさるのを妨げないからです。
 神は私たちを理性的な存在に造ってくださったので、私たちはある命令についてその本質を洞察し、その命令の絶対的な必要性を真に理解すればするほど、ますます自ら進んで、心から従うようになります。残念なことに、教会のなかで謙遜への召しがあまりにも軽く見られてきました。というのも、その本質と重要性が理解されてこなかったからです。謙遜は私たちが神に捧げるものではなく、神が与えてくださるものです。
          (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。次回は「⑨ 明け渡すもの」です。)