2020年9月26日土曜日

2020年09月27日 第4主日礼拝 破れ口に立つ者

招詞
 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。      詩篇119篇72~73a節 

聖書箇所
エゼキエル書22章1節~31節

説教
破れ口に立つ者 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/355 天の御国 ② 
 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。」      マタイの福音書13章11、13節 

 天の御国の奥義(共同訳では「秘密」)は、以下に示すように、マタイの福音書 5~25章のイエスの5つの説教の中心に位置していて、サンドイッチのように前後2つずつの説教
に挟まれています。
1. 山上の説教(5~7章)・・・・御国の憲章
2. 御国の民の使命の説教(10章)・・御国の福音の宣教策
3. 天の御国の奥義の説教(13章)・・御国の到来の奥義
4. 御国の民の関係の説教(18章)・・御国の民同志の関係
5. 終わりの日の説教(24~25章)・・御国の完成前に起こる出来事
この5つの説教で最も中心にあるのが、3番目の「天の御国の奥義の説教」です。なぜなら、イエスの教え宣教、癒しも奇跡もすべて御国のことを示唆するものだからです。イエスの関心のすべてはこの「天の御国」(=神の支配)にあったからです。次回は、「天の御国の奥義の説教」全体を概観します。                    (銘形「一滴の雫シリーズ」より部分引用) 

2020年9月19日土曜日

2020年09月20日 第3主日礼拝 苦しみと希望

招詞
 私は心を尽くしてあなたに乞い求めます。みことばのとおりに私をあわれんでください。私は自分の道を顧みてあなたのさとしの方へ足の向きを変えました。    詩篇119篇58~59節
  
聖書箇所
エゼキエル書20章49節~21章32節

説教
苦しみと希望 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/354 天の御国 

 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
                                マタイの福音書4章17節

 イエスの公生涯はマタイ4章12節から始まっています。マタイは他の福音書のように「神の王的支配」(神の国)という表現を使わず、「天の御国」という表現を使っています。これは「神」という表現を「天」と言い換えたヘブル的伝統によるものです。ヘブル語の「マルフート・ハッシャーマイム」をそのままギリシア語で「天の御国」と訳しています。これは、マタイ独自の表現です。それはマタイの福音書が、その完成のプロセス(例えば草稿の段階)でヘブル語で書かれたものであることを表わしています。
 さて、神が王としてイスラエルの民を治めるために、王である神がこの地において統治するためには、以下の三つの要素が不可欠でした。
(1)王の民の存在 それはクリアしました。エジプトで奴隷となって苦し んでいたイスラエルの人々を神は救い出して合意の元で神の民となることを約束したのですから。
(2)領土、やがてヨシュアを通して与えられます。
(3)神の定めた律法の賦与 この律法は王の法であり、王の憲章です。こ れがなければイスラエルの民は烏合の衆でしかありません。
 しかし、残念ながら、預言者サムエルの時、イスラエルの民は他の国々と同じ世俗の王を望みました。 従って、長い間の曲折を経て、イエスにおいて、やっと真の神の国の民が招集されたことになりました。                   (銘形「天の御国の王イエス」から引用) 

2020年9月12日土曜日

2020年09月13日 第2主日礼拝 背く者も捨てない神

招詩

私の口は あなたの誉れを告げ知らせます。まことに私が供えても あなたはいけにえを喜ばれず 全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ砕かれた心。

                                 詩篇51篇15~17節 

聖書箇所

エゼキエル書20章1節~49節

説教
背く者も赦す神 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/353 イエスの「ハプトー(さわる)」ミニスト

 イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。                      ルカの福音書5章12~13節 

 「さわる」と訳されたギリシャ語は「ハプトー」で、新約では39回使われています。多くは、人がイエスに触る場合ですが、そこには人々の切迫感があります。イエスによりすがり、しがみつこうとする姿があります。一方のイエスのさわりは、人に対する憐みが込められています。人格的なかかわりがあります。十把一絡げに「タッチ!」と叫んで癒すやり方とは違います。一人一人に対して憐みをもって手で触れているのです。「ハプトー」は、旧約では、ヘブル語の「ナーガ」に相当します。どちらも、神と人との双方に強い親近感が存在しています。イエスはそのようなかかわりをもって、全身ツァラアトの人に対して「さわった」(アオリスト時制)のでした。つまり一回限りの行為でしたが、そのツァラアトはあとかたもなく、完全に消え去ったのです。彼は、不当にのけ者にされ、人格さえも否定されていた人でしたが、イエスに強い信頼をいだいていました。私たちもツァラアトの人の熱心さと切迫感をもってイエスにすがることができます。イエスは、あわれみと愛を込めてあなたの心に触れてくださいます。  (銘形「ルカの福音書を味わう」より引用)

2020年9月6日日曜日

2020年09月06日 第1主日礼拝 ライオンとブドウの木

招詞
 私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。私は地では旅人です。              詩篇119篇18~19節  

聖書箇所
エゼキエル書19章1節~14節

説教

ライオンとブドウの木 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/352 二つの系図

 イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で。。。                          ルカの福音書3章23節

 マタイの福音書1章とルカの福音書3章には、イエス・キリストの系図があります。この系図における重要性は、マタイにある系図がアブラハムで止まっているのに対して、アダムまで遡っていることです。それは、人間の罪の源泉であるアダムまで遡り、イエスを最後のアダムとして「踏み直し」を図る存在であることを示唆しています。「ヨセフはエリの子で」とありますが、実は、これはマリア側の系図で、へブル的に夫の名前で書き始める習慣です。ルカの福音書は、ユダヤ人以外の全世界の人たちへの福音を語るのが目的でした。それで、イエスを最後のアダムとして位置づけ、アダムによってもたらされた罪の重荷から人類を解放する救い主であることを指し示そうとしています。一見、無味乾燥に見える系図からも深い学びができますね。

                       (銘形「ルカの福音書を味わう」より抜粋)