2022年12月25日日曜日

2022年12月25日 クリスマス礼拝 第4主日礼拝  博士たちの秘密

招詞
 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中であまりにも小さい。だが、あなたから、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。
                                     ミカ書5章2節

聖書箇所
マタイの福音書2章1~16

説教
博士たちの秘密 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/471 ハヌカかスコットか

 イエスさまの誕生日(クリスマス)の特定法は、諸説ありますが、はっきりはわかりません。キリスト教会の多くは、12月に祝われるユダヤ教の「ハヌカ」祭が「光の祭典」と呼ばれることと、イエス様がヨハネによる福音書などで「光」と言われていることからクリスマスを12月に祝う意義を強調しています。ちなみに、今年、2022年のハヌカは12月18日から12月26日です。
ところが、イエスさまを信じているユダヤ人(メシアニック・ジュー)によると、「仮庵の祭り」=スコット(10月)の頃ではないかと言います。その根拠は、口伝タルムードによると「アビヤの組」だったザカリヤの奉仕の時期からヨハネの誕生日が過ぎ越し祭(4月)と推定できるので、6カ月後のイエスさまの誕生が12月ではなく懐妊が12月ということになります。そこから出産までが10月10日(とつきとうか)くらいですから、イエス様の誕生は大体10月、仮庵の祭りの頃ということになります。10月説は、ルカの福音書2章の景色=冬になる前の羊飼いの野宿可能期間に照らすと信憑性が増すということになります。
しかし、メシアニック・ジューの祝い方とカレンダーは異なっても、イエスさまのご降誕を祝い、十字架の贖いの御業に感謝する気持ちは同じです。イエス様の再臨の時までご降誕を祝い続けてまいりましょう。

2022年12月17日土曜日

2022年12月18日 アドベント第4週 第3主日礼拝 マリヤとエリサベツ

招詞
 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。                         詩篇121篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書1章39~56

説教
マリヤとエリサベツ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/470 イエスとベツァルエル

 主は、(ユダ族のウリの子)ベツァルエルに、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。            出エジプト記31章3~5節

 イエスが大工の息子であったのは、そこに神の隠された秘密があります。「大工」の原語を調べると木工は、石工や金属職人なども含まれ、家全体の匠(たくみ)です。ベツァルエルは、神の家である幕屋のために働く神の霊が宿る人材でした。「ウリの子ベツァルエル」の意味は、「光を照らす神の陰にいる者」です。つまり、本体である「光」と「影」とは切っても切れない関係にあることを示唆しています。イエスが、ヨセフとともに、大工として家づくりをしたことから、神の国の福音を伝える中で、「神の家」を建てるという御父と御子が共に働かれる関係の類比を見ることができます。イエスが、ヨハネ14章で、「父の家に私たちが実際に住める場所が準備されているよ」、と天国の住居の開示をしていることに感謝しましょう。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」 ヨハネ14:23
                         (銘形 「アドベント瞑想」より一部引用)

2022年12月10日土曜日

2022年12月11日 アドベント第3週 第2主日礼拝 ナザレの秘密

招詞
 私の舌があなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せはことごとく正しいからです。あなたのみおしえは私の喜びです。私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。
                          詩篇119篇172、174~175節

聖書箇所
イザヤ書11章1~5

説教
ナザレの秘密 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/469 住まわれた(スケーノー)

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
                                ヨハネの福音書1章14節

 「住まわれた」ということばを、岩波訳では「幕屋を張った」と訳しています。「幕屋(あるいは聖所)」建造の目的は、出エジプト記 25:8によれば、「わたしは彼らの中に住む」ということでした。彼らとは神によって贖われたイスラエルの民です。神ご自身が、幕屋の中に住み、そこにご自身を現わされたのです。また神は至聖所の中でモーセと会い、彼を通して民に語られました。神は大祭司アロンを通して民が神に近づき、神を礼拝することができるようにさせられました。
このように、「ことば」である神のひとり子イエスが「幕屋を張られた」ということは、肉体という形をとって、私たちの間に住まわれ、御父のことばを語り、また、私たちを御父に近づけることができるように大祭司としての役割を果たされたことを意味します。主イエスのご降誕は、神の救いの歴史が回る最大の軸となった出来事です。「住む」とは、パウロがコロサイ1:27でも開示しているように、イエスが私たち信じる者たちと日々親しいかかわりを持ってくださるということです。                       (銘形「アドベントの瞑想」から一部引用)

2022年12月3日土曜日

2022年12月04日 アドベント第2週 第1主日礼拝 インマヌエルの秘密

招詞
 主よ。私の叫びがみ前に近づきますように。あなたのみことばのとおりに私に悟りを与えてください。私のくちびるに賛美が湧きあふれるようにしてください。  詩篇119篇169、171節

聖書箇所
マタイの福音書1章18~25

説教
インマヌエルの秘密 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/468 ナタル(クリスマス)

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊キリストとの前に立っていた。                                   黙示録7章9節

ナタルは、ポルトガル語とインドネシア語でクリスマスの意味です。インドネシアは、16世紀から植民地として列強の支配下に置かれ苦難の時期を過ごしました。当時は、英・欄・ポルトガルの三国が覇権を争いましたが、17世紀にオランダが勝ち、その後の350年間統治してもポルトガル語のナタルが使われ、独立後70年経った今日に至っています。
世界最大のイスラム教国インドネシアでのクリスマスは、質素に祝われます。商店街の飾りなどは無く、主都や大都市のモールの中だけにクリスマス・ツリーを見ることが出来ます。それでも、キリスト教は「市民権」を持っていて、12月25日は国民の祝日です。イースター(復活節)もカレンダーに記されています。クリスマスの週の夕方、国民クリスマス(ナタル・ナショナル)が、主都ジャカルタで行われ、大統領や政府高官も臨席して盛大に祝われます。
アンボンでは、25日と26日の二日間クリスマス礼拝が祝われ、官公庁もすべてお休みです。今年、10月にアンボン語新約聖書の献呈式があり、州内外200万人近くの人々が日常語で聖書が読めるようになり、牧師たちの説教にも使われ始めています。
母語の日本語でクリスマスを祝えることは恵みですね。この幸せを感謝しつつ、待降節を過ごしましょう。

2022年11月27日日曜日

2022年11月27日 アドベント第1週 第4主日礼拝 ベツレヘムの秘密

招詞
 主よ。私の叫びがみ前に近づきますように。あなたのみことばのとおりに私に悟りを与えてください。私のくちびるに賛美が湧きあふれるようにしてください。 詩篇119篇169、171節

聖書箇所
ミカ書5章2~5

説教
ベツレヘムの秘密 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/467 ウクライナのメリー・クリスマス(ヴェセェロ・ホリズドヴァ)

 あなたがたは、以前は暗闇の生活をしていたが、今は主を信じて光の生活に変えられた。だから、光の子供らしい生活をしなさい。               エペソ人への手紙5章8節

   クリスマス・イブの日、ウクライナ人は、朝から何も食べず、夜は一番星を見てから食事をします。その星はキリストが生まれたというしるしで、それを見てから祝い始めるのです。この夜、家族と肉以外の12種類の食材(魚と野菜)を食べます。肉を使用しないボルシチ、バレニキ(ジャムなどが入った餃子風デザート)、ビーツサラダなどが食卓に並びます。
ウクライナでは、12月と1月にクリスマスを祝います。その理由は2019年に再発足した「ウクライナ独立正教会」にあります。ソ連時代、ウクライナ独立正教会は厳しく弾圧を受けロシア正教会へと統合されました。
ソ連崩壊後のウクライナ独立後もウクライナではロシア正教会が実質国教となっていました。しかし、2014年のロシアのクリミア併合、東部のドネツク、ルハンツク侵攻などで、ウクライナには教会の独立機運が高まり、2019年にコンスタンティノープル総主教庁においてウクライナ独立正教会の地位が認められ、ロシアから離れました。
2019年からグレゴリア暦の12月25日に変更したものの、ウクライナには過去何十年もユリウス暦1月7日にクリスマスを祝ってきた伝統がある為、そう簡単には変えられない民意があります。それで「移行期間」として現状の2つのクリスマスを祝うことにしています。
今年、初めて戦時下でのクリスマスを迎えるウクライナのクリスチャンたちが、日々戦火から守られるように祈りつつ、待降節を過ごしましょう。 ヴェセェロ・ホリズドヴァ!

2022年11月20日日曜日

2022年11月20日 第3主日礼拝 ラハブの命がけ

招詞
 私のたましいはあなたのさとしを守っています。限りなくそれを愛しています。私はあなたの戒めと、さとしとを守っています。私の道はことごとく御前にあるからです。
                              詩篇119篇167~168節

聖書箇所
ヨシュア記2章1~24

説教
ラハブの命がけ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/466 待降節(アドベント)

 「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。    ヘブル人への手紙1章1~3節

 次週、11/27は待降節が始まります。12/18が第四週で12/25が降誕日となり、クリスマス礼拝をします。「クリスマス」~救い主の降誕祭~をよりよく迎えるために、キリスト教会はその前の期間を「待降節」(アドベント)として霊的な準備の期間として用いてきました。
ところが、毎年迎えるこの期間の過ごし方が習慣的なものとなっていることは否めません。しかも日本では「師走」という最もせわしない時期です。コロナ前までは、さまざまなイベントの準備で忙しくしていて、本来のアドベントの意義を見失なう恐れがありました。このアドベントの時期を意識的に、新たな思いと期待をもって過ごしましょう。神さまから来る静まりの中で、「ことばに表わせないほどの神の賜物」~御子イエスの受肉の神秘と再臨の希望~ に深く思いを馳せる時にさせていただきましょう。              (銘形 「アドベントの瞑想」から一部引用)

2022年11月12日土曜日

2022年11月13日 第2主日礼拝 ヨシュアとカリスマ

招詞
 私は、どんなにあなたの戒めを愛していることでしょう。主よ。あなたの愛によって、私を生かしてください。あなたのみ言葉は、すべて真理です。あなたの正しいみ教えは、永遠に続きます。 
                            詩篇 119篇159~160節(現代訳)

聖書箇所
ヨシュア記3章7~17

説教
ヨシュアとカリスマ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/465 「努力して」か「勇気を出して」か
 
 「努力して狭い門から入りなさい。」             ルカの福音書 13章24節

 これは、弟子たちの「主よ。救われる者は少ないのですか」という質問に応えたことばです。イエスさまが神の国をからし種とパン種にたとえて話された後のやりとりです。神の国ははじめては小さく、そして目立たないがやがては大きく拡大することを語りました。「狭き門」とは単に狭いということではなく、目立たない入り口という意味です。目立つことがない、そのためにだれも注目しない、だれからも見向きされない門、それが「狭き門」の意味です。そんな狭い門から入るのに「努力して」(新改訳)ということばが付け加えられています。
確かに、「努力して」と訳されたギリシャ語本文では「競争する」という動詞が使われていますが、イエスさまが実際に使ったヘブル語に訳し戻したヘブル語の新約聖書では、「アマーツ(勇気をもって)」ということばが使われています。「アマーツ」は励まし用語で、ヨシュア記1:6「強くあれ、雄々しくあれ」の雄々しくあれです。その背景には敵への「恐れ」があったので、「恐れてはならない」ということばが添えられています(ヨシュア1:9)。つまり、上記イエスのことばの背景にあるのはマイノリティ(少数派)に対する恐れです。そんな恐れに対してイエスは、必ず神の国は大きく膨れ上がることを語って、「雄々しく、勇気をもって狭い門から入りなさい」と人々に語られたのです。クリスチャンが「少数」であることを恐れてはならない、雄々しくあるようにと励ましているのです。イエスに従う道は、努力してではなく、勇気をだして入る道です。

2022年11月5日土曜日

2022年11月06日 第1主日礼拝 モーセの終活

招詞
 私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。あなたの恵みによって私の声を聞いてください。               詩篇119篇147、149節

聖書箇所
申命記3章18~29

説教
モーセの終活 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/464 ヨシュア記のヤーラシュ(相続する)

    主「私と私の家は主に仕える。」             ヨシュア記24章15節

 旧約聖書を「モーセ五書」「歴史書」「詩歌」「預言書」に分類されます。歴史書は、申命記で言われている約束の地で神の教えを基準としてどう歩んだかという視点から書かれています。ヒューマニズムではない理解が必要です。ヨシュア記は、歴史書の初めの書です。
 いよいよ約束されたカナンの地に向かって、ヨシュアの率いるイスラエルの民がヨルダン河を渡ります。しかし、モーセの晩年に周りの小国は、イスラエルを滅ぼそうと敵意をむき出しにして攻めてきたので応戦しなければならなかったように、カナンを自分たちの所有とするためには異邦の民を追い出して、そこを占領しなければなりませんでした。
 「追い出す」「滅ぼす」「占領する」「所有する」「手に入れる(取得する)」「相続する」「受け継ぐ」という7つの事はみな同義であり、ヨシュア記はヘブル語「ヤーラシュ」(動詞)という一つのキーワードによって括(くく)られます。戦乱の中でもヨシュア一家が語った冒頭の信仰告白が光ります。
                           (銘形「ヨシュア記」から一部引用)

2022年10月30日日曜日

2022年10月30日 第5主日礼拝 宗教改革記念礼拝 信仰の再発見

招詞
 あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれに目を留めます。みことばの戸が開くと、光が差し込み、浅はかな者に悟りを与えます。       詩篇119篇129~130節

聖書箇所
ローマ書3章21~31

説教
信仰の再発見 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/463 アウグスブルグ信仰告白
 主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はひとりです。
                              エペソ人への手紙4章5~6節

 1517年10月31日に、ローマ教皇に対する95の公開質問状で始まった宗教改革で、ドイツ国内と北欧三国(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン)は、ルター派プロテスタント教会として広まり、定着しました。一方、カトリック教会は、執拗な引き戻しを迫っていました。このタイミングで、ルターの朋友メランヒトンが起草したルター派教会の信仰が、アウグスブルグで開かれていたドイツ帝国議会(1530年)の席上で発表されました。カトリック教会との対立を意図して記されたものではなかったのですが、ルター派教会の信仰はむしろ聖書に忠実にあらんとするものであることを、穏健なドイツ語で、大胆かつ率直に告白したものでした。これが議会と国民に広く受け入れられました。その結果、教会の一致が守られ、国の分断は避けられました。
穏健とは言え、特に、第二部では、カトリック教会の言行に対し、聖書の教えに反する教えと行いの不当性にはきっちり言及しています。聖餐式で、ぶどう酒は司祭のみが飲み、信徒にはパンしか与えない一種配餐は聖書に反すること、聖人崇拝の禁止、修道士たちの誓いは洗礼と同等、あるいはそれに勝るという教えは聖書に反すること、司祭など聖職者の結婚を禁ずることは聖書に反すること、などなどです。後発のプロテスタント各派も二部に関しては一致しています。
アウグスブルグ信仰告白は、宗教改革の総括です。一部と二部全28条に及ぶ膨大なもので、現在に至るまで、この信仰告白は、私たちの教会を含め、ルター派教会の信仰告白です。

2022年10月23日日曜日

2022年10月23日 第4主日礼拝 岩打ち: モーセの大失敗

招詞
 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。あなたのみことばは、私の足のともしび、                 私の道の光です。詩篇119篇103、105節

聖書箇所
民数記20章1~13

説教
岩打ち: モーセの大失敗 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル ルター派と福音主義教会(エウアンゲリオン)


言(こと)ローグ/462 ルター派と福音主義教会(エウアンゲリオン)

 マルティン・ルター(1483.11.10~1546.2.18)はドイツの宗教改革者です。1517年10月31日は、免罪符の聖書的根拠などを含む95の公開質問状を城教会に張り出したことで、ローマカトリック教会側との対決が始まった日であり、プロテスタント教会=ルター派教会の始まりです。ルターは、聖アウグスチノ修道会に属する神学教授として、「人となられた神の言葉としてのイエス・キリストにのみ従う」べきことを主張しました。カトリック教会から破門されましたが、めげないどころか、貴族に保護されてすぐに質素な部屋で聖書翻訳に打ち込むなど、時間を無駄にしませんでした。彼の影響下で福音主義教会(エウアンゲリオン=ルター派教会)が発足し、その教理は、アウクスブルク信仰告白の中に記されています。
ルターの手によるドイツ語聖書が、近代ドイツ語の手本になったことや、教会や家庭で歌える初めての賛美歌を作ったこと、楽器を使った賛美歌演奏など文化的な貢献も大きいものでした。カタリナという元修道女と結婚したことでプロテスタント教会における教職者、牧師の結婚と家庭という聖書的な良い伝統をつくったことでも知られます。
聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようというルターの呼びかけは、後発のプロテスタント諸教会の源流をつくったわけですが、16世紀末には、対抗改革という名の内部改革を呼び起こしたという意味でカトリック教会にも大きな影響を与えました。F.ザビエルは、対抗改革の結果、ポルトガルのイエズス会からプロテスタントに先立って宣教師として未伝地に送られ、インド、マラッカ(インドネシア)や日本にも布教するなど、宗教改革を通しても「主の宣教のマスタープラン」は、大いに進みました。

2022年10月16日日曜日

2022年10月16日 第3主日礼拝 金の子牛:アロンの大失態

招詞
 主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。良い判断と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じています。   詩篇119篇65~66節

聖書箇所
出エジプト記31章18~32

説教
金の子牛:アロンの大失態 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/461 真の幸福②

 「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれるから」マタイの福音書5章9節

 これはまた、なんとすがすがしいことばでしょうか。「心のきよい者は幸い」のことばと同様に、まことに神の御子、イエス・キリストのおことばにふさわしい、他のどんな人もかたることのできないことばであると思います。
主イエスは、「平和を作る(作り出す)者は幸いである」言われています。平和を口にするひとや望む人は多いのですが、それだけでは平和は得られないのです。「平和をつくり出す人」こそ幸いなのです。そういう人こど神の子どもと呼ばれるから―と主は方られました。そして、自ら、紙と人、人と人、個人の心の中に真の平和をもたらしてくださったのです。私たちは、神のこどもと呼ばれるでしょうか。
祈り: 主よ、今日、国々の間でも、国内でも、職場でも、家庭でも、戦争・紛争、仲たがい、反目などがあふれています。どうか、そのような中にあって、平和をつくる者にしてください。
                        (小助川次雄「日々の祝福より」一部引用)

2022年10月9日日曜日

2022年10月09日 第2主日礼拝 今日、あなたの家に泊ま ることにしているから

招詞
 幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。まことに、彼らは不正を行なわず、主の道を歩む。                       詩篇119篇1,3節

聖書箇所
ルカの福音書19章1~10

説教
今日、あなたの家に泊まることにしているから  菅 孝雄兄


言(こと)ローグ/460 真の幸福①

 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。       マタイの福音書5章4節

 今日、私たちは何を喜びとし、何に悲しんでいるでしょうか。この主イエスのお言葉の真意がわかったなら、なんと幸いなことでしょうか。イエスは、今、この地上で現実に体験している悲しみや苦しみを取り上げながら、いつまでも続く霊的なこと、さらには天国の祝福へと招き入れようとしておられるからです。
以前、脳の手術をして入院していた若い一人の兄弟が、イースターの朝、電話をくれました。「先生、顔がはれてしまい、体は痩せ、頭髪は薄くなっています。しかし、うれしいんです。心は平安で感謝です。完全な体で地獄に行くよりも、こうなっても天国に行けることがうれしいんです。いつもイエスさまとお話しています。」 これこそ、イエスを信じ、喜んでいる人の生きた証ではないでしょうか。
<祈り> 主よ。今、悲しみに泣いている多くの人がいます。どうか、あなたにこそ真の慰めがあることを知ることができますように。
※悲しみ: 病気、失敗、事故災害などいろいろな悲しみがありますが、神の慰めを得るための最も大切なことは、自分の罪深さや罪に気づいて悲しみ、主イエスの救いを受けることです。この救いは、真の幸福を体験させる本当に素晴らしい慰めです。   小助川次雄「日々の祝福」より引用

2022年10月1日土曜日

2022年10月02日 第1主日礼拝 マナ、奇蹟の食べ物

招詞
 主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな                         詩篇37篇7節

聖書箇所
出エジプト記16章1~31

説教
マナ、奇蹟の食べ物 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/459 神に仕えるABC

 「神は仰せられた。「わたしがあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」                出エジプト記3章12節

 仕える(アーヴァド)は、英語では、worship(ワーシップ)で礼拝の意味です。旧約聖書中6268回も使われていて、旧約は文字通り「礼拝しなさい」だらけです。アーヴァドの名詞形は、ご推察の通りしもべ(エヴェド)です。
あの過ぎ越しの夜、罪赦され救われ、直後、奴隷状態のエジプトから脱出、解放され自由の身となったイスラエルは、荒野で神に仕えるABCを教えられていきます。天地創造の神、主を礼拝するABCを習っていく旅です。荒野には、誘惑する物質的なものはありません。満点の星の下、ただ主を見上げ、臨在を確認して進むのみでした。夜は炎の柱が、昼は雲の柱が先導してくれました。モーセとアロンと言う頼もしい道案内もいました。
人は、好ましいものが目に入るとそれに惹かれます。人が刻んだ偶像だけでなく、あらゆる見た目に良いもの、魅力的なものは偶像となり得ます。イエスさまは、「わたしにとどまりなさい(ヨハネ15:4)」と強く勧めました。救われた人は、夜も昼もご聖霊が私たちを導きます。ただし、荒野のイスラエルの場合と違ってご聖霊は目には見えません。イエスさまという頼もしいガイドがいますが、目には見えません。私たちは、荒野より快適な生活をしている反面、信仰の目でご聖霊を感じ、信仰の目でイエス様を見て主に仕え(アヴァド)なければなりません。イエスにとどまり、この生活に慣れましょう。
人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。  ヨハネの福音書15章5節

2022年9月25日日曜日

2022年09月25日 第4主日礼拝 福音は人を変える

招詞
 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたの正しさを真昼のように輝かされる。           詩篇37篇5~6節

聖書箇所
第1コリント15章1~11節

説教
福音は人を変える 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/458 十戒の全体像
 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」 
                                 出エジプト記20章2節

 神がイスラエルの民と結ぶ最も基本となる契約が、出20:1~17に「十戒」という形で神から示されています 。
十戒の内容は、前半が、神に対する義務と責任、後半は、隣人に対する義務と責任に二分されます。すなわち、①心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。申命記6:5 と②あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。レビ記19:18です。イエスさまは、「律法の大切な戒めは何か」と問われた時に、この二つのか所から神と隣人を愛しなさい」とまとめられました(マタイ22:37~40)。ところで、マタイのギリシア語原文では「愛する」が命令形ではなく、未来形で書かれていることから、「愛するであろう」と訳すことができます。神がいかに熱愛しておられるかをあなたが知るならば、「心を尽くして・・・あなたの神である主を愛するようになる」し「隣人を愛するようになる」ということです。愛は命令や強制によって培われることはありません。愛は自発的、主体的要素が重要です。ですから、私たちが主をどのような方として知っているか(経験しているか)で、神と人を愛する姿勢が大きく変わります。あなたは、主をどのような方として知っていますか?     (銘形:「出エジプト記」より一部引用)

2022年9月17日土曜日

2022年09月18日 第3主日礼拝 勝利の賛歌

招詞
 主に信頼し善を行え。地に住み、誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。                          詩篇37篇3~4節

聖書箇所
出エジプト記15章1~21節

説教
勝利の賛歌 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/457 徹夜の祈りの後で ②

 イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。 そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。すなわち、ペテロという名を与えられたシモンとその兄弟アンデレ、そしてヤコブ、ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、熱心党員と呼ばれていたシモン、ヤコブの子ユダ、イスカリオテのユダで、このユダがイエスを裏切るものとなった。    ルカの福音書6章12~16節

 使徒(アポストロス)の資格は、イエスの直弟子であることでした。パウロは例外ですから、自分は使徒の資格があると主張しています(ガラテヤ1:1ほか)。使徒とは、イエスの福音のメッセージを託された者という意味で、アルネ語のマカ・ウラーケもこの意味です。「使徒」とはあくまでも12弟子による共同体的・教会的「使徒」を意味しています。このイエスの愛弟子たちはしかし、十字架の前夜、捕縛を恐れてイエスを置き去りにしたことで痛悔(つうかい)を経験しましたが、ペンテコステ以来変わりました。やがて迫害がエルサレムに起こったとき、身の危険から多くの他の弟子たちは各地に散りましたが、使徒たちだけはエルサレムにとどまりました。短い期間、エルサレムを出ることはあったとしても、必ず、エルサレムに戻っています。命がけで教会に仕えた使徒たちの証言集と言える新約聖書27巻の重みを感じます。愛読しましょう。   
                     (銘形:「ルカの福音書を味わう」より一部引用)

2022年9月11日日曜日

2022年09月11日 第2主日礼拝 贖いの力 ③ 完全勝利

招詞
 いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです。注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人たちに。
                                  詩篇36篇9~10節

聖書箇所
出エジプト記14章1~31節

説教
贖いの力 ③ 完全勝利 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/456 徹夜の祈りの後で①

 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。
                              ルカの福音書6章12~13節

 この章の12~19節には、二つの事柄が記されています。ひとつはイエスが徹夜で夜を明かした後に、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人の使徒を選び出したこと。もうひとつはいやしを求める群衆に対して「イエスから力が出て、すべての人をいやした」ことです。
後者のいやしを求める群衆は、異邦人を含むパレスチナ全土からイエスのもとに来ており、「群衆は何とかしてイエスにさわろうとしていた」(19節)とあります。「何とかして」というのは「必死に何かをしようとする動詞「ゼーテオー」で、熱心な求道を意味します。「イエスから力が出た」という箇所の直訳は、「力が途切れなく出た」(未完了形)です。遠くからイエスを見ているだけでなく、イエスさまに近づく時、必死に願う時、イエスは、分け隔てなく、私たち全てをいやしてくださいます。また、イエスは、ゼーテオーの求めを喜ばれます。
                     (銘形:「ルカの福音書を味わう」より一部引用)

2022年9月4日日曜日

2022年09月04日 第1主日礼拝 過ぎ越し 贖いの力 ①

招詞
 主は、心の砕かれた者のそばにおられ、魂の砕かれた者を救われる。正しい者には悩みが多い。しかし、主はそのすべての悩みから救い出される。    詩篇34篇18~19節 (現代訳)

聖書箇所
出エジプト記13章1節~16節

説教
過ぎ越し 贖いの力 ① 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/455 人の子は安息日の主

 イエスは、言われた。「人の子(イエス)は、安息日にも主です。」
                            ルカの福音書6章5節 (現代訳)

 安息日(クリスチャンにとっては日曜日)を日常の生活から切り分けて聖なる日とすることは、永遠に変わることのない神のご意志です。しかしイエスの時代の宗教指導者たち(パリサイ人など)は、人々を生かすことよりも口伝律法も含め、規則で縛りました。別の安息日に、イエスがユダヤ人会堂に入って教えておられた時、そこに、右手のなえた人がいたので、彼を直してやりましたが、パリサイ人たちは激怒しました。「安息日に人を救った」からです。しかし、これは、律法の安息日違反ではありません。
安息日の目的は2つです。第1は、神と共にあることを喜び楽しみ、神から与えられたみ言葉を学び、その中に示されている神の民としてのあり方を生きるためです。第2は、心身の休息です。週一休むことで、休日が信仰の回帰点ともなります。自分のためだけではありません。申命記5:14には、主人が休まないと休めない在留異国人、男女の奴隷たちなど、当時の社会的な弱者たちも休めるようにと付記されています。現代の日本社会にも適用したいみことばです。
                     (銘形:「イエスの破天荒な言動2」より一部引用)

2022年8月28日日曜日

2022年08月28日 第4主日礼拝 過ぎ越し 贖いの力 ①

招詞
 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私とともに主をほめよ。ひとつになって、御名をあがめよう。              詩篇34篇1、3節

聖書箇所
出エジプト記11章節~章節

説教
過ぎ越し 贖いの力 ① 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/454 新しく生まれ変わらなければ

 イエスはこう言われた。「どんな人でも生れ変りを経験しなければ、神の国に入れていただくことはできません。」 ニコデモは、言った。「先生。私は年を取りました。どうして、もう一度母の胎に入り直して、出て来ることができましょうか。」    ヨハネの福音書3章3~4節 現代訳

 イエスの型破りな発言は続きます。「神の国に入れていただく」とは、神の国の支配、神の恵み、神の愛を真に経験できる世界です。これを別なことばで表現すると、「永遠のいのちを持つ」とか、「救われる」ということばになります。
「新しく生まれ変わり」とは、「つもり」とか、「気持ち」とかという心の構え方の問題ではなく、まさに、現実の経験として「新しく生まれる」ことを意味します。頭で理解しようとすると、おそらく混乱するでしょう。なぜなら、霊的な出来事だからです。ニコデモも混乱しました。「私は年を取りました。どうしてもう一度母の胎に入り直して、出てくることができましょうか。」 律法の大先生ニコデモとイエスの問答には、「すれ違い現象」が起こっていますが、ここに闇が光と接触していたのです。
しかし、この時以来、ニコデモはイエスの弟子になり、ユダヤ人議会でイエスの擁護発言をし、イエスの埋葬にも関わります。光が闇に打ち勝ったのです。 
                (銘形:「主との友情を育むヨハネの福音書」より一部引用)

2022年8月20日土曜日

2022年08月21日 第3主日礼拝 強権者ファラオと③

招詞
 まことに私たちの心は主を喜び、私たちは、聖なる御名により頼む。主よ。あなたの恵みが、私たちの上にありますように。                    詩篇33篇21~22節

聖書箇所
出エジプト記9章1節~10章29節

説教
強権者ファラオと③ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/453 仮寝の場所も無い

 イエスたちが、道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。「私は、あなたがおいでになる所なら、どこへでもご一緒に参ります。」 すると、イエスは彼に言われた。「さすらいの習性のある狐にさえ、ねぐらはある。空の鳥にも巣がある。しかし、わたしには仮寝の場所も無い。わたしに従って来る者も、同じことを覚悟しなければなりません。」
                         ルカの福音書 9章57~58節 (現代訳)

 イエスが、30歳になり型破りなメッセージ(福音)を持って、公生涯に出た初期のエピソードです。一見、弟子入り志願の若者(?)への断りの文句にも聞こえます。つまり、狐たちには自分の家がある。落ち着きの我が家、帰る場所というものがある。しかし、「私には、イスラエルを行脚する毎日だけだよ。それでもついて来るかね?」と問われました。
イエスは、実際には、ガリラヤ湖の北岸の町カペナウムがベースでそこからエルサレムを含むイスラエル全土を巡りました。地中海沿岸のツロまでも足を延ばされました。エルサレムに近いマルタ、マリヤ、ラザロの家で弟子たちと休憩・宿泊することも多かったようです。それでも、イエスとペテロなど側近の弟子たちにとってほぼ毎日が旅だったわけです。「狐には...」は決して大げさな言い方ではありません。イエスが、実際にしたことは、イスラエル中を行脚し、福音の種まきをなさることでした。弟子たちが収穫に預かるために。

2022年8月14日日曜日

2022年08月14日 第2主日礼拝 強権者ファラオと②

招詞
 正しい者たち 主を喜び歌え。賛美は直ぐな人たちにふさわしい。竪琴に合わせて主に感謝せよ。十弦の琴に合わせてほめ歌を歌え。新しい歌を主に歌え。      詩篇33編1~3節

聖書箇所
出エジプト記7章8節~8章

説教
強権者ファラオと② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/452 イエスの型破り⑤ 友(フィロス)

 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。                         ヨハネの福音書15章15節

 しもべ(ドゥロス)と友(フィロス)の間は大きな違いがあります。イエスは、友である弟子たちには父(神)のみこころを全て話したから、というのです。この弟子たちの(直接)証言集が新約聖書です。ルカとパウロは、イエスの十字架の後で途中から弟子になり、執筆に加わり、神の霊感を受けて、ルカは、ルカの福音書と使徒の働きを、パウロはローマ人への手紙から始まる大部分の手紙を書きとめました。
「わたしはあなたがたを友と呼びました」とのイエスの言葉は、信じた私たちにも適用されるというのが私たちの信仰です。イエスが説いた終末の出来ごとまでも開示されているからです。過去(預言)を知り、未来(終末)を知って現在を歩く者たちです。今週も地に足の着いた一歩を進めましょう。

2022年8月6日土曜日

2022年08月07日 第1主日礼拝 第一礼拝:パウロに見る成熟の姿/第二礼拝:私を呼べ、そうすれば あなたに答える

招詞
 夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。私は平安のうちに言った。「私は決して揺るがされない」と。主よ あなたはご恩寵のうちに私を私の山に堅く立たせてくださいました。
                                   詩篇30篇5~7節

聖書箇所
第一礼拝:ピレモンへの手紙10~13節
第二礼拝:エレミヤ書29章13節、33章3節

説教
第一礼拝:パウロに見る成熟の姿 佐々木弘司牧師
第二礼拝:私を呼べ、そうすれば あなたに答える ハム・ジャームス宣教師

言(こと)ローグ/451 イエスの型破り④ 5千人の食事

 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」彼らは言った。「私たちには五つのパンと二匹の魚しかありません。      ルカの福音書9章3節

 5千人(男子だけで)もの人々に給食の奇蹟を行い、人々がみな満腹した出来事ですが、「あなたがただけで」がチャレンジのことばでした。
信仰の人ジョージ・ミュラーの孤児院経営の草創期(1835-1842)の苦悩と試練を思い起こさせます。一回だけでなく、7年間も孤児たちに今日食べさせる食べ物もお金も無い、状態が続き、すべてぎりぎりのところで必要が与えられていきました。ジョージもまた、「イエスはどなたか」を日々確認させられた信仰の先輩です。イエスをメシアと信じ、彼の力を信じる信仰の人でした。
4つの福音書のすべてに収録されたこのエピソードは、私たちの信仰と行いの原動力が「イエスはメシア」であること、と告白させます。   (銘形:「イエスの破天荒な言動」より一部引用)

2022年7月31日日曜日

2022年07月31日 第5主日礼拝 主の言われる「誰」になろう

招詞
 主よ、思い起こしてください。あなたのあわれみと恵みを。それらはとこしえからのものです。私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください。あなたの恵みによって私を覚えていてください。                                詩篇25篇6~7節

聖書箇所
イザヤ書6章8節

説教
主の言われる「誰」になろう 金田与施夫牧師

言(こと)ローグ/450 イエスの型破り③
 イエスは、彼らに言われた。「人の子は安息日の主です。」      ルカの福音書6章5節

 ルカ6:1~11には、安息日にしてはならないとされていた二つの出来事:ひとつは、「穂を摘んで、手で揉みだして食べていたこと」で、もうひとつは、「いやしの行為をしたこと」が記されています。そして、この二つの中に、「人の子は、安息日の主です」ということばが置かれています。貧しい、空腹な人は、道端の麦畑で穂を摘んで食べることが許されていました。人を助け、病気を癒す行為も、隣人愛にかなうことで安息日の禁止条項に入るべきではありませんでした。
安息日を聖なる日とすることは、人を休ませ、人を生かすためで、永遠に変わることのない神のご意志です。しかし当時の指導者たちは、人々を生かすことよりも律法に束縛させ、律法の奴隷にしてしまったことがイエスの言動と対峙する最大の理由でした。私たちも律法的にならないように自分を見張りましょう。             (銘形:「イエスの破天荒な言動」より引用)

2022年7月24日日曜日

2022年07月24日 第4主日礼拝 神に怒るヨナ

招詞
 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに私を義の道に導かれます。                  
                                   詩篇23篇1~3節

聖書箇所
ヨナ書

説教
神に怒るヨナ 菅孝雄兄

言(こと)ローグ/449 イエスの型破り② レビの召し

 その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビという取税人に目を留められた。そして「わたしについて来なさい」と言われた。するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。                                                              ルカの福音書5章27節~28節

 取税人のレビことマタイを弟子としたことからイエスの型破りな言動が目につきます。
レビが、イエスの弟子になった時、罪人と見下されていた取税人仲間を食事に呼び、再び律法学者たちの非難を浴びます。イエスは罪人を招くために来た、と宣言して対抗します。人に批判されるような生活をしている人々の助けになろうと寄り添うことはイエスの喜ぶことです。
但し、罪や悪い習慣に逆に取り込まれてしまわないように、ご聖霊の助けをいただきながら、ということになります。妥協の無い信仰のメンテナンスが必要ですね。
                     (銘形:「イエスの破天荒な言動」より一部引用)

2022年7月16日土曜日

2022年07月17日 第3主日礼拝 十字架にとどまる愛 

招詞
 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
                                   詩篇23篇1~3節

聖書箇所
マタイの福音書27章39~44

説教
十字架にとどまる愛 銭谷幸器牧師(DVD)

言(こと)ローグ/448 イエスの型破り➀ 罪の赦し
 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、中風の人に言われた。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり、寝ていた床を担ぎ、神をあがめながら自分の家に帰って行った。
                              ルカの福音書5章24~25節

 イエスの教えを聞きに集まっていた大勢の人々の前で、イエスが中風の男性の罪を赦し、歩けるように癒された奇蹟のエピソードです。人々はメシアの到来だと神を崇め喜んだ反面、イエスを信じない律法学者たちは、律法を盾に罪を赦す権威など誰にもない、と敵意をむき出しにしました。書かれた律法(タナク)と口伝(くでん)律法(りっぽう)で人々を縛り、コントロールしてきた彼らの権威が崩されかけたのです。「神を愛し、隣人を愛せよ」という律法の心を失った律法学者たちの暴走が始まります。律法の心を失わないように、弱い人、器用で無い人と共に神の国を前進させましょう。                   (銘形「イエスの破天荒な言動」より一部引用)

2022年7月10日日曜日

2022年07月10日 第2主日礼拝 2家族の洗礼

招詞
 だれが自分の過ちを悟ることができるでしょう。どうか隠れた罪から私を解き放ってください。あなたのしもべを傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。私の口のことばと私の心の思いとが御前に受け入れられますように。     詩篇19篇12~14節


聖書箇所
使徒の働き10章1節~48

説教
2家族の洗礼 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/447 神の導きの確証

 神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。     使徒の働き10章15節

 使徒の働き10章で、ユダヤ人のペテロが敬神者といえども異邦人の百人隊長の家を訪れたことは、ユダヤ人の側からすると物議を呼ぶ出来事だったのです。お互いに、家の敷居を跨がない関係でした。この人種的・文化的な壁を超えさせるために不思議な、しかも確かな神の導きがあったことをルカは10章全部を使って強調し、記録したのです。それは、神の導きが決して独りよがりなものではなく、第三者にも分かるような具体的な証拠(あかし)があることを教えるためです。
神の導きのパターンのひとつに「統合型」があります。それは全く知れない者たちが、それぞれ神の導きに従って行動したとき、そこにはじめてそれが神の導きであったことが確証されるパターンです。双方に対する神の導きによって、ペテロの話を聞いたコルネリオとその関係者の上に聖霊が下り、信仰による賜物が与えられました。異邦人の救いに懐疑的だった、同行したユダヤ人クリスチャンをも納得させる出来事でした。そこでペテロはイエスがキリストであることを信じた人々に洗礼を授けたのです。ここに異邦人がユダヤ教に改宗することなく、そのままでユダヤ人と同じ救いが与えられたのです。                (銘形 「神の導きの確証」から引用)

2022年7月3日日曜日

2022年07月03日 第1主日礼拝 強権者ファラオと ①

招詞
 主のおしえは完全でたましいを生き返らせ、主の証しは確かで浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで人の心を喜ばせ主の仰せは清らかで人の目を明るくする。   詩篇19篇7~8節

聖書箇所
出エジプト記5章1節~23節
      6章1節~13節

説教
強権者ファラオと ① 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/446 去らせよ(シャーラハ)

 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。主の言葉には力があります。 
                               ヘブル人への手紙 4章12節

 出エジプト記5章から始まるモーセとファラオとの交渉のキーワードは、シャーラハ(去らせよ)です。ファラオに謁見したモーセは、ファラオに「去らせよ」と要求します。それに対してパロは「去らせない」と断固断わります。再度、主はモーセに、パロのところに行って「去らせよ」と告げよと命じます。ここで使われている動詞はすべて強意形「シャーラハ」です。ただの押し問答のように聞こえますが、ファラオにはマイナスの心理的プレッシャーを与えていきます。強がりを言っていますが、主の後ろ盾の無いファラオには恐れが膨れていきます。神のみことばは、ファラオに対しては脅威でしたが主(ヤーヴェ)を信じるモーセには安心の保証でした。
そして、教会の時代に入り、みことばは、主イエスを信じる者全てに罪からの救いの証印です。私たちは、折にかなった助けを得るために大胆に復活の主イエスに近づくことができます(ヘブル 4:16)。                (銘形 「出エジプト記56章の言葉」から一部引用)

2022年6月26日日曜日

2022年06月26日 第4主日礼拝 80歳の召命 ②

招詞
 心を尽くして 私は主に感謝をささげます。あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。私はあなたを喜び 誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。    詩篇9篇1~2節

聖書箇所
出エジプト記4章1節~31節

説教
80歳の召命 ② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/445 行け(レーフ)

 今、行け。わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ。                        出エジプト記 3章10節

 モーセの召命において顕著な語彙は「行く」(ハーラフ)の命令形、「レーフ」という主のことばです。主がかつてアブラムを召し出すときにも、同様に、「わたしが示す地へ行け(レーフ)」ということばでした(創世記 12:1)。アブラムは、75歳の時、主の「行け」というお告げのとおりに出かけました(同12:4)。
モーセは80歳になってから主の召命を受けますが、主はモーセに繰り返し、繰り返し、「行け(レーフ)」と命じられました。3章と4章で9回も行けと言われています。40歳の時は自信満々のモーセでした。モーセは、エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにも行いにも力がありました(使徒 7:22)。ですから、「行け」と主に言われなくても飛び出して行って大失敗したモーセでしたが、40年経って変わりました。ついに主は、もう一つの「行け」を兄アロンに向けて語り、代弁者として彼を召します。共同の奉仕者を得たモーセの心に平安の火が灯りました。
私たちの教会も48年前に祈りの中で準備され、主がオルソン宣教師夫妻を召して始められました。同時に、一緒に働く方々も主によって備えられて前進しました。教会の主、イエスさまに感謝しましょう。                        (銘形 出エジプト記から一部引用)

2022年6月19日日曜日

2022年06月19日 第3主日礼拝 80歳の召命 ①

招詞
 人とは何ものなのでしょう。 あなたが心に留められるとは人の子とはいったい何ものなのでしょう。 あなたが顧みてくださるとは。                      詩篇8篇4節

聖書箇所
出エジプト記3章1節~22節

説教
80歳の召命 ① 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/444 
神の自己宣言

 わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。 
                                 出エジプト記3章6節a

 モーセに明らかにされた神の名は二種類あって、一つは上記「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でした。もう一つは「わたしはあるというものである」で、自己宣言文と言いますが、「わたしはあるというものである」だけではよく分からなかったのではないかと思います。しかし、いろいろな神経験をする中ではじめて知っていく名前となります。たとえば、「わたしは主、あなたをいやす者である。」(出15:26)、「わたしはあなたがたを聖別する主である」(出31:13)、「主はあわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者」(出34:6)と宣言されています。
イエス様も自己宣言文を使われていて、「いのちのパン」(6:35)、「世の光」(8:12)、「門」(10:9)、「よみがえりであり、いのち」(11:25)、「道であり、真理であり、いのち」(14:6)、などと自己宣言しておられますが、このように、一つのことばでは言い切れないためです。神の名前は、まことに、永遠性、超越性、不変性を持っていることが良くわかります。 
                              (銘形 出エジプト記から引用)


2022年6月12日日曜日

2022年06月12日 第2主日礼拝 モーセの80年

招詞
 静まって、わたしこそ神であることを知れ。(口語訳)
 力を捨てよ、知れ。わたしは神。(新共同訳)            詩篇46篇1節

聖書箇所
使徒の働き2章1節~25節

説教
モーセの80年 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/443 トーヴ(上品な美しさ)

 レビの家のある人がレビ人の娘を妻に迎えた。 彼女は身ごもって男の子を産み、その子がかわいい(トーヴ)のを見て、三か月間その子を隠しておいた。       出エジプト記2章1~2節

 モーセについての際立った特徴は「かわいさ」です。ヘブル語では単に「トーヴ」です。トーヴは、「気品がある」の意味もあります。皮肉にも、男児殺害を命じたファラオの娘の子として、しかも、実の母親ヨケベデによって乳が与えられ、やがては王宮の中で育てられていくことになります。モーセは「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました」と記されています(使徒7:22)。姿かたちだけでなく、王となるべき者にふさわしい最高の学問と教養を身につけさせられた人物なのです。これは神の不思議な計らいとしか言いようがありません。神の不思議は続きます。注視していきましょう。          (銘形 出エジプト 記から引用)


2022年6月4日土曜日

2022年06月05日 ペンテコステ礼拝 教会の誕生日

招詞
 あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
                            マタイの福音書28章19~20節

聖書箇所
使徒の働き2章1節~42節

説教
教会の誕生日 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/442 ペンテコステは、最高のタイミング

 五旬節(ペンテコステ)の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。            使徒の働き2章1~4節

 ユダヤ人の三大祭りの一番目が、過越しの祭りでエジプトからの解放が祝われました。二番目が五旬節に祝われた7週の祭りです。 これは、モーセを介して律法が授けられ、イスラエルの国の骨組みが出来た「国の誕生日」と言えます。そして、まさにこの日、イエスの弟子たちに聖霊が与えられ、「霊的な神の民である教会の誕生日」となりました。
このことからも分かるように、この日を境に、イエス様は大きな舵切りをなさいました。それは、ユダヤ、サマリヤそして全世界へ向かう舵切りで「救いのマスタープラン」号を進めたことです。ユダヤ人と異邦人が共に乗り込む船です。使徒二章の世界中の言語で弟子たちが、神の恵みを話し出したという奇跡は、まさにイエスによる「全世界へ」の方向づけてした。この日、成人男性だけで3,000人がイエスを信じ、弟子たちから洗礼を受け教会がスタートしましたが、この時点では、ユダヤ人と改宗した異邦人だけでした。さらにサマリヤ、全世界へと弟子たちが出ていくことを促されたわけです。日本まで宣教師を送ってくださった、宣教の主に感謝しましょう。
                            (銘形「使徒の働き」より一部引用)

2022年5月28日土曜日

2022年05月29日 第5主日礼拝 暗闇の力から解放されて

招詞
 あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。
                            マタイの福音書28章19~20節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章10節~18節

説教
暗闇の力から解放されて 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/441 ダヴァール(ことば)

 雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。                   イザヤ書55章10~11節

 ヘブル語で「ことば」のことを「ダヴァール」 と⾔います。ダヴァールは、あることを伝達するための⾔語としての「ことば」という意味だけでなく、「出来事」という意味があります。つまり、神のことばはそれを聞く者に出来事、しかも奇蹟的な出来事、をもたらすという意味です。そして、そのために主は人を用いられます。それは、その人の人生によって、数多くの人々がまことの神に触れることです。
ただし、私たちが、自身の基準で成功したと思う人生で他の人を感化するということではありません。むしろ、自分では気がついていない何かを神は用いられるかもしれないです。神ご自身とその言葉(ダヴァール)が、あなたやある人を通して確実に広がっていきます。その人は、人々からは注目されず、そのまま死んだとしても、その人の証しが人々を神に立ち返らせます。自分の人生がいかに失敗のように見えても、神は確実にご自分の働きを行なわれます。そして、神は今、あなたも用いておられるのです。人々は、あなたに注目するのではなく、あなたを通して神を見ることができ、神と共に歩む生活を送るようになるのです。 (ロゴスミニストリー「イザヤ書」より引用)

2022年5月22日日曜日

2022年05月22日 第4主日礼拝 350年後のミツライム

招詞
 義の門よ 私のために開け。私はそこから入り主に感謝しよう。家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。
                             詩篇118篇19、22、24節

聖書箇所
出エジプト記1章1節~22節

説教
350年後のミツライム 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/440 ヘブル人

 それで、王(ファラオ)は、エジプト全国民に、「以後、ヘブル人の子は、女の子だけを残して、男の子はみなナイル川に投げ込め」と命じたのです。      出エジプト記1章22節

「ヘブル人」と「イスラエルの民」という呼び方について、エジプト人との対応の場面ではヘブル人と呼び、自分たちの身内同士で呼ぶときはイスラエルの民と、両方の呼び方が使い分けられている、という指摘があります。しかし、旧約全体では33カ所でヘブル人と書かれており、申命記15:12では自国民の中でもヘブル人という表現を使っています。まとめると、エジプトに限らず、イスラエル民族が自身のことを外国人に話すときに使われるか、または外国人がイスラエル民族について話す時に使われています。
以下は、典型的な、二つの用例です。1サムエル14:11ではペリシテ人が上から目線でヨナタンと僕をヘブル人と呼んでいます。これに対して、ヨナは、船に乗り合わせた不特定の異邦人に「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を恐れています(ヨナ1:9)」、と堂々と自己紹介しています。イスラエルは「主は勝利」の意味ですが、ヘブルの語源ははっきりしません。メソポタミヤからカナンに渡って来たので、「渡り者(イブリー)」からきたという説も有力です。主の声に従い、偶像と罪に満ちたメソポタミヤを去り、カナンに渡って来たアブラハム夫妻でした。私たちも、偶像や、罪の習慣を去り、イエスを信じる教会の交わりに「渡って来た者たち」ですね。この祝福の道は、主と共に前に向かってのみ進む道です。感謝しましょう。

2022年5月14日土曜日

2022年05月15日 第3主日礼拝 神の計画と人の配慮

招詞
 主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりも良い。主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。                      詩篇118篇9、16節 

聖書箇所
創世記50章1節~26節

説教
神の計画と人の配慮 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/439 はじめに(バラシット)

 はじめに神が天と地を創造された。                     創世記1章1節

 ヘブル語聖書の創世記は、バラシット(はじめに)と呼ばれます。聖書は、すべての事象には初めがあったことと、終わりもあることを告げています。
人は永遠への思いを神に与えられた(伝道者3:11)ので、すべての事の始まりを探ろうとします。無神論の探求者は、無機物から有機物が偶然できて、進化により人間にたどり着こうとしますが全く成功していません。聖書と神を信じる先人たちは、「なにゆえに神は、天と地を創造されたのか」を探求しました。その問いの答えこそ聖書全体を貫く本道です。その本道とは、神が「創造の冠」として人を造り、交わりを持つためです。天と地の創造はすべて神が人との永遠のかかわりをもつための舞台設定と言えます。「創造の冠」とは、人が神にとって他の被造物とは異なる特別な存在であるということです。創世記3章で初めて神に敵対するサタンの存在を知らされ、死と死の恐怖が人に入ったことで神と人の歴史は複雑になりました。そこから人類の救いのマスタープランが始まりました。ヨセフ物語で終わる創世記は、このマスタープランのプロローグ(序章)でした。それゆえ、神の、人に対する特別な関心とまなざしにしっかりと目を向けていきたいと思います。                      (銘形「ヤコブの祝福の預言」より一部引用)

2022年5月8日日曜日

2022年05月08日 第2主日礼拝 ヤコブの信仰の総決算

招詞
 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。苦しみのうちから私は主を呼び求めた。主は答えて私を広やかな地へ導かれた。        詩篇118篇1、5節

聖書箇所
創世記49章1節~33節

説教
ヤコブの信仰の総決算 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/438 シロが来る(ヤーヴォー・シロー)

 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。                           創世記49章10節

 「シロ」とはヘブル語の動詞「シャーラー」に由来し、「栄える、引き出す」という意味です。つまり「シロ」はユダ族から引き出されるメシアを表わす特別な名前なのです。さらに興味深いことがあります。ヘブル語アルファベットには数値があてられていて、聖書の章節にも付加されていますが、「シロが来る(ヤーヴォー・シロ)」は加算すると、358になります。そして、「キリスト」のヘブル語である「メシア」も、358になります。このように、ヘブル語の数値換算をゲマトリアと呼びますが、偶然の一致ではありません。事実、ユダヤ人たちは、「シロ(メシア)が来る」と信じています。但し、やがて来るという未来形としてです。私たちクリスチャンの役目は、「シロ(メシアであるイエス・キリスト)はもう来たよ。信じて救われましょう。」と彼らに伝えることです。ユダヤ人の方々のために祈ることや、またそのような重荷をもって伝道活動をしている方々を支えることもその大きな働きですね。
                      (銘形「ヤコブの祝福の預言」より一部引用)

2022年5月1日日曜日

2022年05月01日 第1主日礼拝 ヨセフの使命 ⑪ エフライムとマナセ

招詞
 すべての国々よ 主をほめたたえよ。すべての国民よ、主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。                詩篇117篇1節

聖書箇所
創世記48章1節~22節

説教
ヨセフの使命 ⑪ エフライムとマナセ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/437 伏し拝む(ハーヴァー)

 「私に愛と真実を尽くしてくれ。私をエジプトの地には葬らないでほしい。 私が先祖とともに眠りについたら、エジプトから運び出して、先祖の墓に葬ってくれ。」 ヨセフは言った。「必ずあなたの言われたとおりにいたします。」
イスラエルは言った。「私に誓ってくれ。」 ヨセフは彼に誓った。イスラエルは寝床の枕もとで、ひれ伏した。                          創世記 47章29b~31節

 神は、ヨセフの夢の中で、すでにヨセフが長子としての権利が与えられることを啓示したのですが、父も、そして兄弟たちもそれを素直に受け入れることができませんでした。第一の夢は、他の兄弟たちの束がヨセフの麦束を伏し拝んだことです(創世記 37:7)。第二の夢は、太陽と月と12の星が、ヨセフを伏し拝んだ(39:9)ことです。「ひれ伏した」と「伏し拝んだ」はヘブル語のハーヴァーです。イスラエル(ヤコブ)の行為はヨセフに自分の持っていた家督権をヨセフに譲ったことを意味しています。すでに神は22年前のヨセフの夢の中でこのことを指し示していたのです。
イスラエルの長子の権利はイスラエルの子ヨセフとその子孫に与えられました。系図の記載は長子の権利(序列)に従って行うものとはなりませんでした。(第1歴代誌5:2)
それにしても、創世記3:15から始まる人類の救いのマスタープランの中で、主の祝福の継承者として、11番目の弟ヨセフの抜擢は異例だったわけです。
                      (銘形「長子の権利を渡されたヨセフ」より引用)

2022年4月23日土曜日

2022年04月24日 第4主日礼拝 エマオの弟子たち

招詞
 私のたましいよ、おまえの全きいこいに戻れ。主が、おまえに良くしてくださったのだから。まことに、あなたは、私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから救い出してくださいました。私は生ける者の地で、主の御前を歩みます。       詩篇116篇7~9節

聖書箇所
ルカの福音書24章13節~49節

説教
エマオの弟子たち 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/436 自責の涙

 イエスは三度目もペテロに、「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛していますか」と言われた。ペテロは、イエスが三度目も「あなたはわたしを愛していますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ、あなたはすべてをご存じです。あなたは、私があなたを愛していることを知っておられます。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」
                               ヨハネの福音書21章17節

 ガリラヤ湖畔での出来事です。復活の主イエスとペテロが二人だけで居る時のやりとりです。このやりとり以上の何があったのかは記していません。しかし、後のペテロを見る限りにおいて、あの夜イエスを三度否んだときに流した自責の涙を引きずってはいません。文脈以外に、どこかで主が彼の罪を赦してくださった場面があったかもしれません。
50日後、ペンテコステのペテロを見ると、あの時の自責の涙はすっかり乾いているのを見ることができます。かつて自分は決して失敗することはないと豪語していたペテロが、考えられないような大きな罪を犯しましたが、彼は、主の赦しによって変えられたのです。
ある人が本当に悔い改めたかどうかは、その人のことばよりは、その人の行動にはっきりと表れて見えるものです。私たちもことばだけでなく、イエスさまの赦しと永遠の命を約束されて生きる、その喜びから生まれる行いの実を結ぶように主の祝福を日々願いましょう。
                      (銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)

2022年4月17日日曜日

2022年04月17日 イースター・召天者記念礼拝 復活のイエスに 出会った人々

招詞
 ダビデは、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。                 使徒の働き2章31~32節

聖書箇所
マタイの福音書28章1節~10節

説教
復活のイエスに出会った人々 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/435 復活の力 (デュナミン…アナスタシス)

 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
                            ピリピ人への手紙3章10~11節

 「イエスさまを信じること(知ること)」と「復活」はセットになっています。ピリピ教会は、復活の力で成長し、喜びの教会という嬉しいニックネームをもらいました。この復活セットを知り、信じた私たちもまた、生きる力を与えられています。生きる力とは、何歳になっても、神の聖霊によって実を結び、成長を続ける力です。イエスさまは、「そのためには、わたしとわたしのことばに繋がっていなさい(ヨハネの福音書15:4~5)」と注意なさいました。
私たちの生きる目的が、家族のためとはいえ、ただ働き続けるなら、いつか燃え尽きてしまうでしょう。しかし、使徒パウロやピリピ教会の多くの人々のように、私たちの人生の目的が、イエスを知り、イエスを愛することなら、日々、神の力を体験するでしょう。そして、イエスのこと、すなわち、十字架と復活 を人々に伝え続けることができます。イエスに繋がり、神のご聖霊の力によって、喜びながら前進しましょう。

2022年4月10日日曜日

2022年04月10日 第2主日礼拝 イエスの十字架: 六つの奇蹟

招詞
 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。                             ヘブル人への手紙12章2節

聖書箇所
マタイの福音書27章45節~56節

説教
イエスの十字架:六つの奇蹟 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/434 真理(アレーセイア)

 イエスはピラトに答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」
                            ヨハネの福音書18章37~38節

 私たちは、礼拝の中の信仰告白で、「主は、ポンテオ・ピラトに苦しみを受け」と唱えていますが、苦しみとは、イエスの尋問と結審を指していて、マタイ27:11~14、マルコ15: 1~5、ルカ23:3~5、ヨハネ18:33~40に記されています。
ところで、ピラトが最後に訊いた「真理とは何なのか」はどんな意味でしょうか。「ギリシャ語新約聖書直訳によるヨハネの福音書」(山岸登著)によれば、ここでの「真理(アレーセイア」」には冠詞がなく、新改訳2017は「あなたの語っているその真理とは何ですか」と訳しているが、ここではむしろ、「真理なんていうものは世にあろうか」と訳すべきだと述べています。これは不可知論という誰も神とか真理を知ることはできないという立場です。神を信じない多くの人々は、ピラトと同じく不可知論に逃げます。しかし聖書は、「(バプテスマの)ヨハネは真理について証ししました。」(ヨハネ5:33)と、イエスが真理その方であることを証言します。真理であられ、聖い神の子イエスを信じて救われる者は幸いですね。     (銘形「ピラトの尋問」から 一部引用)

2022年4月3日日曜日

2022年04月03日 第1主日礼拝 弟子の足を洗ったイエス

招詞
 群衆は、イエスにこう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」              マタイの福音書21章9節

聖書箇所
ヨハネの福音書13章1節~15節

説教
弟子の足を洗ったイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/433 主の聖餐

 イエスは彼らに言われた。「よく言っておきますが、確かに、わたしの肉(パン)を食べ、わたしの血(ぶどう液)を飲まなければ、あなたがたのうちに永遠の命はありません。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むというのは、世の人々を罪から救うために、十字架上で体を裂き血を流す、そのわたしを信じることです。そういう人々には永遠の命が与えられ、わたしはその人々を、終りの日に復活させます。命を与えるのは御霊です。」
                     ヨハネの福音書6章53~54,63節(現代訳)

 この箇所は、「主の聖餐」の意味を明瞭に記しています。聖餐におけるパンとぶどう液は、永遠のいのちの世界を示す象徴です。目に見える「パン」を食べ、「ぶどう液」を飲むことを通して、その奥に秘められている神と人との霊的ないのち(交わり)の世界を、信仰によって味わうことが求められています。永遠の命を与え、私たちを育んでくださる御霊の神に感謝しつつ受難週に向かわせていただきましょう。             (銘形「聖餐のための瞑想」より一部引用)

2022年3月26日土曜日

2022年03月27日 第4主日礼拝 ヨセフの使命 ⑩ ヤコブの終活

招詞
 私は主を愛している。主は私の声私の願いを聞いてくださる。主が私に耳を傾けてくださるので私は生きているかぎり主を呼び求める。                詩篇116篇1~2節

聖書箇所
創世記47章1節~31節

説教
ヨセフの使命 ⑩ ヤコブの終活 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/432 子ロバ(アイル)

 娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』    マタイの福音書21章5節(ゼカリヤ書9章9節)

 教会歴では、4月17日が復活節(イースター)です。イエスは、十字架の金曜日の週に、弟子たちと共にエルサレムに入りました。メシア預言であるゼカリヤ書9:9の成就です。ロバは平和の象徴で、馬は戦車を想像させ戦争の象徴です。イエスさまは、人と神を結ぶ平和の神、また救い主です。
イエスの公生涯の最後の一週間は、エルサレム宣教の記述で21~28章の8章分を費やして、天の御国についての教えが凝縮して書かれています。ところで、ヘブル語アイル(ろば)語源の動詞「ウール」には「目を覚ます」という意味と、動詞「アーヴィル」には、その反対の「盲目にする」という意味があります。イエスを信じた者はメシアの登場に目を覚まし、イエスを頑なに拒んだ律法学者たちは、かえって盲目になっていきました。イエスの再臨を知っている私たちは、目を覚まして(ウール)、今日を生きたいと思います。
「わたし(イエス)について、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇(=旧約聖書)に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」           ルカの福音書24章24節
                             (銘形「受難週」から一部引用)

2022年3月18日金曜日

2022年03月20日 第3主日礼拝 ヨセフの使命 ⑨ 父との再会

招詞
 私たちにではなく主よ、私たちにではなくただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。
                                  詩篇114篇1、3節

聖書箇所
創世記46章1節~34節

説教
ヨセフの使命 ⑨ 父との再会 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/431 主により頼め(ペタハ)

 心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。              箴言3章5節

 日本語の「心」は情緒に重きが置かれますが、ヘブル語の心(レーヴ)は、むしろ知性や意志の心です。レーヴは、計画・意図・良心・決断の意味を含んでいます。順境においても、逆境においても、いかなる状況においても、知性と意志を働かせて主に信頼しなさいと言われています。私たちは、苦境から最短距離で逃れたいと願い、そう祈ってしまいます。しかし、時に主は凸凹な回り道をさせることがあります。回り道にもおられる主に出会い、知性と意志を総動員して「こころ」から主により頼む者にさせて頂きましょう。 (銘形「ヘブル語のディリーブレッド」から一部引用)

2022年3月12日土曜日

2022年03月13日 第2主日礼拝 生きる元気

招詞
 今よりとこしえまで、主の御名はほめられよ。日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。主はすべての国々の上に高くいまし、その栄光は天の上にある。
                                  詩篇113篇2~4節

聖書箇所
創世記45章16節~28節

説教
生きる元気 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/430 右手をおおう陰(ツェール)

 主は、あなたを守る方。主は、あなたの右手をおおう陰。         詩篇121篇5節

 5節にある「主は、あなたの右の手をおおう陰」とはいったいどういう意味なのでしょうか。神が「右の手をもって」という場合には、それは神の力と権威を表わします。聖書では多くの場合、「神の右の手」という言い方が使われますが、この節では、人の右の手を主が覆われるという言い方になっています。
「主は、あなたの右の手をおおう陰」とは、主があなたの隠れ場となってくださることを意味しています。その隠れ場とは、積極的な意味において神との親密な交わりを意味します。その交わりにおいて人は神を知り、神の知恵と力を与えられることになります。
生存と防衛の保障としての主というだけではありません。それは、より内的な神と人との生きたいのちのかかわり、これこそが、「あなたの右の手をおおう陰」だと言えます。神が選ばれたイスラエルの民もそのような祝福と特権を神から与えられていました。イエスの十字架以来、イスラエルも私たちも、イエスを通してよりはっきりと神を知り、神の知恵と力を与えられて進むことができます。感謝しましょう。         (銘形「ヘブル語のディリーブレッド」より一部引用)

2022年3月6日日曜日

2022年03月06日 第1主日礼拝 ヨセフの使命⑦ 回復4

招詞
 幸いなことよ、主を恐れ その仰せを大いに喜ぶ人は。その子孫は地の上で勇士となり直ぐな人たちの世代は祝福される。直ぐな人たちのために光は闇の中に輝き昇る。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。                      詩篇112篇1、2~3節

聖書箇所
創世記44章1節~34節
   45章1節~15節

説教
ヨセフの使命⑦ 回復4 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/429 汝よ、行け(レフ・レハー)

 主はアブラムに命じました。「あなたは、ここを発ちなさい。あなたの親族も住み慣れた地も捨てて出かけるのです。行く先はわたしが教えるから、ただ示されたとおりに進みなさい。そうすれば、あなたを偉大な国民の父にしよう。あなたを祝福し、その名を広めて、だれ一人知らぬ者がないようにしよう。あなたによって、ほかの多くの者も祝福されます。
                      創世記12章1~2節(リビングバイブル)2022

2022年2月27日日曜日

2022年02月27日 第4主日礼拝 ヨセフの使命⑥ 回復3

招詞
 私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。主を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。  詩篇111篇1、10節

聖書箇所
創世記43章1節~34節

説教
ヨセフの使命⑥ 回復3 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/428 共に生きる(シェベト・ガムヤハド)①

 見よ。なんというしあわせ、なんという楽しさであろう、兄弟たちが一つになって共に生きることは。それは頭に注がれた貴い香油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモン山からシオンの山々におりる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。                 詩篇133篇1~3節

 この詩篇では、主にある共同体における一致の祝福が描かれています。主にあって、すべてが「一つになること」は神が描かれた究極の絵です。主イエスにある兄弟姉妹たちが一つとなること、「共に住むこと」は、初代教会において実現しました。そこには麗しい一致が見られました(使徒の働き2章参照)。
「一つとなること」、それは信じた者たちによる愛の交わりです。画一的な一致ではなく、それぞれが個性を持つことを受け入れる、多様性をもった相互依存という一致の祝福です。しかも、それは「ひげから衣の裾にまで流れしたたる」末広がりの祝福です。また、「ヘルモンの露にも似た」豊かないのちの水によって多くの実が結実する継続する祝福と言っています。この一致を宝としてしっかり守りましょう。        (銘形「ヘブル語のディリーブレッド」より一部引用)

2022年2月20日日曜日

2022年02月20日 第3主日礼拝 ヨセフの使命⑤ 回復2

招詞
 神よ私の心は揺るぎません。私は歌い、ほめ歌います。私の心の底も。主よ、私は諸国の民の間であなたに感謝し、もろもろの国民の間であなたをほめ歌います。    詩篇108篇1、3節

聖書箇所
創世記41章53節~57節
創世記42章1節~38節

説教
ヨセフの使命⑤ 回復2 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/427 陶器師の粘土(ホーメル)

 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。                               エレミヤ書18章6節

 神はご自身の民を、陶器師の手の中にある粘土のように自由に取り扱う権利があります。陶器師は目的に従って粘土を選ぶことから始まって、粘土から小さなゴミや石ころを取り除き、柔らかくなるまでよく練ります。そしてろくろに乗せて思いのままの形に仕上げるのです。ゴミや石ころは、まとわりつく罪や無用なこだわりなどでしょう。
「ろくろ」に置かれる粘土のように、私たちも毎日の生活の中で、 神の御手によって神のみこころにあったものとして形造られていくのです。そして、最後の仕上げとして、つまり円熟(完成)させられるための最終テストに入ります。それは窯に入れて焼かれることです。火は粘土を陶器に変えます。私たちの人生においてもご聖霊の火が必要なのです。
                   (銘形「ヘブル語のディリーブレッ ド」から一部引用」)

2022年2月12日土曜日

2022年02月13日 第2主日礼拝 ヨセフの使命 ④ 回復 1

招詞
 主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。感謝のいけにえを献げ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。              詩篇107篇21~22節

聖書箇所
創世記41章46節~52節

説教
ヨセフの使命④ 回復 1 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/426 主を愛し尽くす(アハバー)

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
                                     申命記6章5節

 心、いのち、力を尽くして、神、主を愛することは、人間の自分力によってはなし得ないことを旧約の歴史があかししています。神である主の恩寵(恵み)によって、主を知り、信じるとき、はじめてできるようになります。
ところで、日本語の「心」は情緒に重きが置かれますが、ヘブル語の心は、理解力、洞察、悟りといった知性や意志の働きと強くかかわっています。ですから、自発性、主体性、自立性といった意味合いが含まれます。教会に集まり(あるいはズームで)、主を礼拝するというとき、「心を尽くす」とは、しなければならないからするといった義務からではなく、自ら進んでともに集まり、主体的に主の前に出るという自発性からのものです。今、主の恵みによってそうできていることに感謝しませんか。            (銘形「ヘブル語のディリーブレッド」より一部引用」

2022年2月5日土曜日

2022年02月06日 第1主日礼拝 ヨセフの使命③

招詞
 主に感謝せよ。その恵みのゆえに。人の子らへの奇しいみわざのゆえに。まことに主は、渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。    詩篇107篇8~9節

聖書箇所
創世記41章1~46節

説教
ヨセフの使命③ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/425 み言葉を食べる(アーハル)

 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。         エレミヤ書15章16節

 紀元前7世紀にエルサレムはネブカドネザル王に攻め落とされ、バビロン捕囚が始まりました。神の救いのマスタープランから見れば、その目的が神の民に将来と希望を与える計画だと言えるのは、バビロンの地で主が神の民によって「見つけられる」「出会う」からです(エレミヤ29:14)。やがてそれほどに神の民は真剣に主を尋ね求めるようになるのです。ですから預言者エレミヤは、「わたしはあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました」と告白しているのです。新共同訳では、「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました」と訳しています。
神と人とのかかわりは愛に対する歓喜です。それこそ「新しいぶどう酒」であり、それがいつの時代でも「新しい皮袋」を必要としていくのです。しかし、そうなる前には「古い皮袋」の存在があり、新しいブドウ酒と「古い皮袋」とのギャップに悩まされるのです。エレミヤも神のみことばによって預言者としての喜びを経験していました。彼がそれを経験できたのはひとえに「私はあなたの名をつけられていからです(同15:17)」とあるように、神に召されたからです。
私たちも、新しい皮袋をいただき、イエスの福音という新しいぶどう酒を頂いていますが、古い自我という皮袋とのギャップに悩まされることがありませんように。まして、それを取り出してそこに自己主張を貯めておくことがありませんように。最善の予防法は、み言葉をむさぼり食うことでしょう。               (銘形「ヘブル語のディリーブレッド」より一部引用)

2022年1月29日土曜日

2022年01月30日 第5主日礼拝 ヨセフの使命 ②

招詞
 ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。だれが主の大能のわざを告げ、主の誉のすべて語り聞かせることができよう。幸いなことよ。さばきを守る人々、いかなるときにも正義を行う人は。               詩篇106篇1~3節

聖書箇所
創世記40章1節~23節

説教
ヨセフの使命 ② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/424 主は私の羊飼い (アドナイ・ローイ)

 主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません。           詩篇23篇1節

 この詩篇23篇は珠玉の詩篇といわれるほど、多くの人々がこの詩篇によって励まされ、いやされ、力づけられてきました。「羊の習性」を調べてみると、第一に、羊は臆病で脆弱です。群れをはぐれてしまった羊を捕まえようとすると、不安と恐怖心で逃げてばかりで捕まらないそうです。第二に、迷いやすい。目が悪いということもありますが、実際、羊は羊飼いに連れられて毎日行き来している道を自分では行きも帰りもできず、すぐ迷ってしまうそうです。こんな方向感覚の悪い動物は他にいません。そして第三は、とても頑固です。羊は従順な反面、頑固で、羊飼いに逆らって自分勝手に進んで行き、群れから離れて危険なところに行って自滅するという習性をもっています。ですから羊飼いが必要なのです。羊を笑うことはできません。私たちの信仰を省みると羊に似て、臆病で脆弱です。迷いやすい者たちです。そして、頑固です。そういう者をイエス様は見つけて救ってくださいました。感謝しましょう。 
「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」 ペテロの手紙 第一 2章25節 
                     (銘形:「ヘブル語ディリーブレッド」より引用)

2022年1月23日日曜日

2022年01月23日 第4主日礼拝 礼拝の民のはじめ

招詞
 主を慕い求める者たちの心よ喜べ。主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。                 詩篇105篇3~5節

聖書箇所
創世記4章25節~26節

説教
礼拝の民のはじめ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/423 マナ(ヘブル語:マーン)

 それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるためであった。    申命記8章3節

 荒野で40年間食べた奇跡の食物マナは、罰として神が与えたまずい食物ではなく、神が養ってくださるという信仰体験そのものとなりました。これは預言的で す。千年王国では、私たちの衣食住は、100%神様に頼ることになりますから。マナの記事を他人事と思わず、神のことばを日々正しく悟って生きる者にさせていただきたいものです。
                      (銘形「ヘブル語講座アラカルト」より一部引用)

2022年1月17日月曜日

2022年01月16日 第3主日礼拝 ヨセフの使命 ①

招詞
 私はいのちの限り主に歌い、生きるかぎり私の神をほめ歌います。私の心の思いがみこころにかないますように。私は主を喜びます。               詩篇104篇33~34節

聖書箇所
創世記39章1節~23節

説教
ヨセフの使命 ① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/422 神を呼ぶ名前(シェム)
 
   初めに、神が天と地を創造した。                   創世記1章1節
  
 神という普通名詞は、ヘブル語でエルですが、聖書ではその複数形エロヒムが、上記天地創造の神の固有名詞です。ヤーヴェも固有名詞で、初めから存在なさる方としての神です。神は、この2つの固有名詞の他、いろいろな名前で呼ばれています。アブラムの前に登場したメルキゼデクという人物は「主」を「いと高き神」(エル・エルヨーン)と紹介しました。それは「すべてを超越した存在者」を意味します。また、神はアブラムに「全能の神」(エル・シャダイ)として現われました。すべての必要を与えることのできる力ある神という意味です。信仰の先輩たちが、いろいろな時代の中で、創造主「主」をいくつかの名前で呼ぶとき、そのようなお方として体験的に知ったからです。頭で知ったのではなく、体験として知ったからです。
ダビデは、詩篇23篇で「主は私の羊飼い」(アドナイ・ローイ)と告白しています。主を「私の羊飼い」(ローイ)と表現しました。それは主にあって、私は乏しいことが何一つない(ロー・エフサール)という告白です。この方にあってすべては満たされていることを意味する「アドナイ・ローイ」。これが、ダビデの生涯の信仰体験を集約した創造主の名前でした。私たちも、「インマヌエルの神さま」と呼ばれたイエスさまを信じて救われ、礼拝しています。イエスにあって、日々祈りの交わりをしている神の民とされていることを感謝して歩みましょう。
                       (銘形「ヘブル語のキーワード」から一部引用)

2022年1月8日土曜日

2022年01月09日 第2主日礼拝 夢見るヨセフ

招詞
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに大いなる方。あなたは威厳と威光を身にまとっておられます。あなたは光を衣のようにまとい、天を、幕のように張られます。                                詩篇104篇1~2節

聖書箇所
創世記37章1~36節

説教
夢見るヨセフ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/421 神の栄光(カヴォドとドクサ)
 
 何をするにも、ただ、神の栄光を現わすようにしなさい。コリント人への手紙第一10章31節

 「栄光」(ヘブル語:カヴォド、ギリシャ語:ゴクサ)とは、「目に見えない神の輝かしい臨在」のことです。旧約聖書に200回、新約聖書には166回使われている最重要語の一つです。
神さまは、稲妻や雷など自然界を通して、またモーセと燃える柴(出3)など超自然的な現象を伴ってご自身の栄光が現わされました。また、人や場所を通してご自身の栄光を表されます。
ある私訳では、「心を込めて熱心に、しかも、喜んで、惜しげもなく、大胆に、自発的に、気前よく、すべてのことをして神の栄光が現わされるようにしなさい」とあります。信じた人にとって、身体と心の所有者は神ご自身です。しかし使用権が私たちに与えられています。病弱であっても、身体の不自由をもっていたとしても、私たちはこの身体をもって神の栄光を現わすことができます。星野富弘さんはその良い例です。彼は体育の教師でした。宙返りをした時に頭から落ちて、首から下が不随になりました。苦しみの中で、寄り添う人々の助けでキリストに出会い、クリスチャンとなりました。一見、身体は不自由に見えるのですが、心は反対に空を飛ぶ鳥のように、自由に生きることができることは、星野さんの詩画集から歴然としています。
私たちの存在を丸ごと受け入れて下さった神の栄光を現わすことが、神の子どもとしての生きる目的です。祈りの生活を通して、ご聖霊の静かな声に耳を傾けるとき、私たちが神の栄光を現わす存在となっていきます。              (銘形「ヘブル語のキ―ワード」より引用)

2022年1月1日土曜日

2022年01月02日 新年礼拝 おめでとうの根拠

招詞
 人、その一生は草のよう。人は咲く、野の花のように。風がそこを過ぎると、それはもはやない。その場所さえもそれを知らない。しかし、主の恵みは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり。主の義はその子らの子たちに及ぶ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。
                             詩篇103編15~17、22節

聖書箇所
ルカの福音書10章1節~20節

説教
おめでとうの根拠 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/420 ザクロとイスラエル

 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜のある地である。    申命記8章7節

 ザクロは、イスラエルの新年に無くてはならない果物で、国中どこに行ってもザクロの生ジュースのスタンドがあるそうです。9~10月が新年で、ロッシュ・ハシャーナと呼ばれ、丁度ザクロの季節です。
聖書を見ると祭司の衣装や建築の中にもざくろのプレゼンスは高めです。大祭司のローブの一部のデザインだったり、紀元前1000年のソロモン神殿の柱のモチーフに使われました。イスラエルの歴史における重要アイテムがざくろだったことがわかります。
ところで、イスラエルでは、上記申命記の、蜜を除く6つにナツメ椰子を加え、カナン定着時代からの歴史的な7食材と言われます。主なる神さまは、約束通り、40年間の荒野での生活の後、豊かに実る良い地へ導いてくださいました。