2023年12月31日日曜日

2023年12月31日 第5主日礼拝 賢者たちの大冒険

招詞
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖われる。主は、あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を、良いもので満ち足らせる。あなたの若さは、鷲のように新しくなる。                 詩篇103篇2~5節

聖書箇所
マタイの福音書2章1節~16

説教
賢者たちの大冒険 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/522 陶器師(ハ・ヨツェール)
 
 見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、・・あなたがたは、わたしの手の中にある。 
                                 エレミヤ書18章6b 節

 神はご自身の民を、陶器師の手の中にある粘土(あるいは、器)のように自由に取り扱う権利があります。粘土を使って何を造るか、それを壊したり、つぶしたりするのは、いつも陶器師の心のままです。粘土や器が、陶器師に向かって、何か文句を言うことはあり得ません。
陶器師は粘土を選ぶことから始まって、粘土から小さなゴミや石ころを取り除き、柔らかくなるまでよく練ります。そしてろくろに乗せて思いのままの形に仕上げるのです。 「ろくろ」の原理は回転の繰り返しですが、これは私たちの日々の生活の日課にたとえることができます。「ろくろ」に置かれる粘土のように、私たちも毎日の生活の中で、神の御手によって神のみこころにあったものとして形造られていくのです。
細心の注意を払い、巧みに形造られたそれぞれの器は、仕上げとして、つまり円熟(完成)させられるためのプロセスを通ります。それは窯に入れて焼かれることです。火は粘土を陶器に変えます。私たちの人生においても火という試練が必要なのです。
                   (銘形「ヘブル語デーリーブレッド」から部分引用)

2023年12月24日日曜日

2023年12月24日 クリスマス礼拝 羊飼いたちの見た メシア、イエス

招詞
 御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
                              ローマ人への手紙1章3~4節

聖書箇所
ルカの福音書2章8節~20節

説教
羊飼いたちの見たメシア、イエス 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/521 主の霊の留まる方イエス (ルアハ・アドナイ)

 その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる、知識の霊である。                                 イザヤ書11章2節

「主の霊」(ルーアッハ・アドナイ)がメシアに注がれましたが、実際、主の霊はどのようにイエスに注がれたのでしょうか。
以下の三つのグループに分けられますが、それらはいずれも王に求められる資質なのです。
・第一はメシアの知的資質としての「知恵と悟りの霊」 マタイ4:1他
・第二はメシアの統治的資質としての「思慮と力の霊」 山上の説教(マタイ5章以下)他
・第三はメシアの霊的資質としての「主を恐れる、知識の霊」 イザヤ 11:9 他

 やがて、御国においては、神の民が「みな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになる」(エレミヤ 31:34)ということは、何という希望でしょうか。それは御国が御霊によって支配されているからにほかなりません。「見よ、その時代が来る」のです。大いなる期待をもって、それを待ち望む者となりましょう。また、「待ち望む」のは私たちだけではありません。被造物全体なのです。                  (銘形「アドベントの瞑想」から部分引用)

2023年12月16日土曜日

2023年12月17日 第3主日礼拝 マリヤとエリサベツ

招詞
 幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される。
                                     詩篇41篇1節

聖書箇所
ルカの福音書1章39節~56節

説教
マリヤとエリサベツ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/520 アドベント(待降節)の「なぜ」
 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。                        ルカの福音書2章12節

 問 ③ なぜ、飼葉桶(ファトネー)?
み使いは、羊飼いたちに飼葉桶(ファトネー)に寝ているみどりごが、あなたがたのためのしるしだと言いました。飼葉桶には、どんなメッセージが隠されているでしょうか。
飼葉桶(ヘブル語:エボス)は、石をくり抜いたものでイザヤ書の冒頭、1章2~3節に出てきて、内容は、辛辣です。

 天よ、聞け。地よ、耳を傾けるのだ。主が語られるからだ。「わたしは子らを育て大きくした。しかし、彼らはわたしを無視した。牛はその飼い主を知っている、驢馬(らば)はその飼葉桶を(知っている)。だが、イスラエルはわたしを知らず、民はわたしを理解しなかった。
                          イザヤ書1章2~3節 (秦 厚平 訳)

 物言わぬ動物でさえ分別があるのに、神の民は悟らないという驚くべきメッセージが「飼葉桶」に象徴されています。その700年後、イエスが誕生した時代の神の民(ユダヤ人)も、イザヤが預言した時代の人々と何ら変わらず霊的に外れた罪深い生き方をしていました。神の律法を重んじるパリサイ派や律法学者たちは、神の愛のみ教えを禁止や規則や罰則にすりかえて、それらを用いることで、民衆を支配する道具としていたのです。これは神の側からすると大変な事態で、霊的な危機でした。その民を救うために遣わされたのが、み子イエスだったのです。 
                        (銘形「アドベントの瞑想」から部分引用)

2023年12月10日日曜日

2023年12月10日 アドベント第2週 第2主日礼拝 インマヌエルの主イエス

招詞
 主はこの口に授けてくださった。新しい歌を、私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ、主に信頼するだろう。幸いなことよ、主に信頼を置き、高ぶる者や偽りに傾く者たちのほうを向かない人。                                詩篇40篇3~4節

聖書箇所
マタイの福音書1章18節~25節

説教
インマヌエルの主イエス 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/519 アドベント(待降節)の「なぜ」
 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。          マタイの福音書2章23節

 問② イエスはなぜ「ナザレ人」と呼ばれたのか。
マリヤとヨセフは、ナザレから国勢調査でベツレヘムに行き、そこでイエス様は生まれました。8日目にエルサレム神殿で割礼を受けさせ、ベツレヘム滞在中に博士たちの訪問を受けますが、直後にエジプトに逃げました。ヘロデの死後、ベツレヘムに帰りましたが、ヘロデより残虐なアケラオを恐れ、夢でのお告げでナザレに移り30年間住みます。そしてイエスさまはナザレ人と呼ばれました。しかし、上記のみ言葉にある預言者とは誰でしょうか。旧約聖書でナザレはヒットしません。3つの説があります。(1)ナジル人のこと。しかし、ナジル人は罪人や汚れたものにさわりません。イエスさまは進んで罪人たちと食事もされましたからこれはあたりません。(2)ナザレ人イエスという表現は軽蔑的な表現 イエスさまを信じる前のナタナエルがナザレから良いものがでるはずがない (ヨハネ1:6)と言ったことやナザレ人一派と蔑称していた事実からです(使徒26::9)。しかし、これも弱いです。(3)ナザレは、ヘブル語ネーツェル(若枝)に由来する地名だ、ということです。
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝(ネーツェル)が出て 実を結ぶ。 イザヤ書 11章1節
言語学的には、ナザレとネーツェルは、コグネィト(同起源語)の関係ですから、妥当な結論で、初代教会時代から、イザヤの預言と理解されていたということになります。
                         (銘形「アドベントの瞑想」から部分引用)

2023年12月3日日曜日

2023年12月03日 第1主日礼拝 最も小さい者から

招詞
 正しい正しい人の救いは、主から来る。苦難のときの、彼らの砦(とりで)から。主は彼らを助け、解き放たれる。悪しき者どもから解き放ち、彼らを救われる。彼らが主に身を避けているからだ。                               詩篇37篇39~40節

聖書箇所
ミカ書5章2節

説教
最も小さい者から 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/518 アドベント(待降節)の「なぜ」

 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。 これは、キリニウスがシリヤの総督であったときの、最初の住民登録であった。    ルカの福音書 2章1節

問① イエスの誕生がなぜ初代皇帝の住民登録の勅令の時期であったのか。

 ローマの初代皇帝となったアウグストゥスによって実現した「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)は、言うなれば、軍事力によって打ち立てられた平和でした。人々は、皇帝アウグストゥスこそ共和制による覇権争いのすべてを終わらせた「救い主」だと信じていました。ところが「そのころ」、もうひとりの「救い主」が「ダビデの町」、すなわち「ベツレヘム」に誕生した(ルカ 2:11)ことをルカの福音書は伝えます。この「救い主」こそが、まことの「救い主」イエス・キリストです。
 当時の人々は、「皇帝アウグストゥス」こそ、全世界のための救い主だとして歓迎し、彼の統治こそ「エウアンゲリオン」(福音)の始まりだと考えていたのです。そうした背景こそ、このルカの福音書2章1節の「そのころ」ということばが意味していることです。

次回は、②なぜベツレヘムか、です。     (銘形「アドベントの瞑想」から部分引用)      

2023年11月26日日曜日

2023年11月26日 第4主日礼拝 信仰の大盾で

招詞
 正しい人は地を受け継ぎ、いつまでもそこに住む。正しい人の口は知恵を語り、その舌は義を告げる。その心には、神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけることがない。
                                 詩篇37篇29~31節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章10節~18節

説教
信仰の大盾で 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/517 アドベント(待降節)の「なぜ」
 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、キリニウスがシリヤの総督であったときの、最初の住民登録であった。    ルカの福音書2章1~2節

 今年もアドベント(待降節)が近づいてきました。アドベントの中心的鍵語は、「ベツレヘム」です。ベツレヘムで展開された6つの事象は、(1) 皇帝の勅令、(2) ミカ書の預言、(3) 東方の博士たち(バラムの預言)、(4) 羊飼いたち、(5) ダビデの町(出生地)、(6) ルツ記物語です。
「ベツレヘム」はヘブル語で「ベート・レヘム」で、「パンの家」という意味です。ということは、そこが昔から小麦や大麦などの穀物の産地だったと言えますが、それだけではなく、「ベツレヘム」は神の救いのドラマにおいて多くの秘密が隠されている地なのです。クリスマスは、イエスの生まれた事実に焦点がいくあまり、「ベツレヘム」という場所についてはそれほど注目されていません。しかしこの「ベツレヘム」という場所こそ、救いのドラマにおいてきわめて重要な神の戦略的な場所なのです。聖書にあるクリスマス物語のすべてが、「ベツレヘム」という惑星を中心に回っている衛星のように位置づけられているのです。
次週から4回にわたって「なぜ」を考えます。最初の問いは、イエスの誕生がなぜ初代皇帝の住民登録の勅令の時期であったのかということです。   (銘形「アドベントの瞑想」から部分引用)

2023年11月18日土曜日

2023年11月19日 第3主日礼拝 マルタ島へ漂着

招詞
 主によって、人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は転んでも、倒れ伏すことはない。主が、その人の腕を支えておられるからだ。      詩篇37篇23~25節

聖書箇所
使徒の働き27章1節~44節

説教
マルタ島へ漂着 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/516 霊性の回復 ①追求力
 私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。         ホセア書 6章3節 (a)

 「霊性回復セミナー」というのがあり、三つのキーワードが掲げられていました。このキーワードを養うことがこのセミナーの目的だとありましたのでご紹介します。その三つとは、① 追求力、② 静思力、③ 共生力です。
今日は、①追求力について解説します。
上記、ホセア書に「主を知ることを切に追い求めよう」とあり、新約ではパウロが「私はすでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そしてそれを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。・・・ただこの一事に励んでいます 。」(ピリピ3:12~14、新改訳第3版)
何を追求しているのかといえば、 それは「キリストと復活の力」(3:10~11)です。それは「永遠のいのち」、あるいは「神との親しい揺るぎない愛の交わり」と同義です。これを「捕えられて、捕える」という姿勢は常に前傾姿勢であり、ある意味では狩猟的なイメージです。キリストにある成人はこのような考え方をしましょうとパウロは勧めています。
「追求力」-それは受身的な姿勢ではなく、積極的な姿勢です。牧師や講師の話を聞くだけで、「良かった、教えられた、恵まれた」と言うだけでは、神と自分との新しいかかわりをより新しく、創造的にしていくには「弱い」と言えます。むしろ、自分からみことばに向き合うことを通して、そこから何かを掘り当てるという「喜びを発見する」ことができると信じます。
                     (銘形「霊性の回復の三つの鍵語」から一部引用)

2023年11月12日日曜日

2023年11月12日 第2主日礼拝 アグリッパ王と

招詞
 主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。                         詩篇37篇3~4節

聖書箇所
使徒の働き26章1節~32節

説教
アグリッパ王と 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/515 すべてを相働かせる神のトーヴ
 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。    ローマ人への手紙8章28節

 フランシスコ会訳は、神を「聖霊」として訳していて、「聖霊は、神を愛する人、すなわち、ご計画に従って神に召された人とともに働き、すべてが益となるように計らわれることをわたしたちは知っています。」となっています。ご聖霊がともに働いて下さることは私たちの理性ではうまく描き切れないほどに、より綿密に仕組まれているのです。しかしご聖霊がともに働いて下さる目的は、私たちのために神が下さる「益(トーヴ)」なのです。
まるで、着物の帯の美しい文様のようです。それはその帯の裏を観るなら決して綺麗ではありませんが、表から観ると実に綺麗なのです。そんな人生を、神を愛する者たち、神の御計画に従って召された者たちに、ご聖霊(神は)は描いてくださるのです。なんとすばらしいことでしょうか。そんな生涯が約束されています。それゆえ、私たちに与えられている賜物としてのご聖霊の導きに感謝して歩みたいと思います。            (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用)

2023年11月4日土曜日

2023年11月05日 第1主日礼拝 俗人フェリクス

招詞
 いのちの泉はあなたとともにあり、あなたの光のうちに、私たちは光を見るからです。 注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人に。
                                  詩篇36篇9~10節

聖書箇所
使徒の働き24章1~27節

説教
俗人フェリクス 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/514 神のトーヴ ⑩ ~ 貧しい者のトーヴ
 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。                   マタイの福音書20章15節

 トーヴはギリシャ語ではアガソス(良い)ですが、上記の「私が気前がいい」という部分がそれです。皆の驚きは、夕方から働いた者も、朝から働いた者と同じ手間賃を貰えたことです。社会では考えられないことが神の国では現実のことになります。夕方から働いた者たちは、「だれも雇ってくれないからです。」と主人に訴えて、職を得ました。彼らは「貧しい者」たちの代表であり、これはそれを表すたとえです。
神のトーヴは、特に貧しい者たちに対する神の賜物の無償性という形で表わされているのです。それゆえ、神の前に謙遜に自分の貧しさを知ることは祝福につながります。この「貧しさ」は、決して神の呪いではなく、むしろ、神の計り知れない恩寵を受け取ることのできる資格なのです。
そして、これこそが永遠のいのちを得るためにイエスのもとに来た金持ちの青年に欠けていた「ただひとつのこと」だったのです。律法をすべて守っているとする金持ちの青年は、「自分の生存と防衛の保障を神にのみ信頼するという貧しさ」に欠けていました。     (マタイ19:16~22)

2023年10月29日日曜日

2023年10月29日 第5主日礼拝 ルターのチャレンジ

招詞
 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。 それゆえ、われらは恐れない。
                                   詩篇46篇1~2節
 
聖書箇所
ガラテヤ書3章23節~28節

説教
ルターのチャレンジ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/513 神のトーヴ ⑨ ~ 神の家族におけるトーヴ
 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。         詩篇133篇1~3節

 「共に住む」は原文では「共に座る」です。つまり共に座って食卓を共にし、共に語り合う、共に学ぶ姿、団欒を共にするーそれが「共に座る」ことであり、「共に住む」ことなのです。
詩篇133篇では二つのたとえで表現されています。
1) 末広がりの恩寵として(2節) 大祭司を通して、神の民全体に流れしたたる祝福の油は特別な祝福、あるいは歓迎のしるしです。大祭司は旧約ではアロンでしたが、新約ではイエス・キリストです。つまり、大祭司を通して「共に住む」ことが実現されるのです。
2) いのちをもたらす露として(3節) 兄弟たちが「共に住む」ということの中に、そうしたヘルモンの露にも似た霊的な祝福が注がれるというのです。つまり、多くの結実がみられるのです。「共に住む」ことのもうひとつの祝福は、兄弟姉妹と享受できるいのちの祝福です。 
                       (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用)

2023年10月22日日曜日

2023年10月22日 第4主日礼拝 エルサレム教会3

招詞
 主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。あなたの義は高くそびえる山。あなたのさばきは大いなる淵。あなたは人や獣を救ってくださいます。神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。                     詩篇36篇5~7節
 
聖書箇所
使徒の働き22章30節~23章22節

説教
エルサレム教会3 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/505 神のトーヴ⑧ 不条理の中でのトーヴ
 
 まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。    詩篇73篇1節

 この詩篇を書いたアサフが信仰の危機に直面したこと告白されている詩篇です。彼は、ダビデの時代、ダビデの幕屋での賛美礼拝におけるリーダの一人でした。ダビデの息子ソロモンの時代に建てられたソロモン神殿においてもトップの賛美リーダーでした。彼はレビ人で、嗣業としての土地はありません。
その彼が、神を信じない人々をねたみ、栄えるのを見て、獣のようになってしまったのです。2, 3節はそのことを告白しています。
幸いアサフは、この霊的危機から脱出できました。28節にはこうあります(新改訳)。
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、幸せなのです。」
たとえ他の人がどのように生きたとしても、私にとって良いことは、神の近くにいることなのだ、私は神の近くにあることを幸いとし、主なる神に避け所を置くのだ、と結論づけています。
これは作者が、不条理という暗闇の中で悟ったことです。霊的な暗闇の中にも神はおられるのです。 (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用)

2023年10月15日日曜日

2023年10月15日 第3主日礼拝 モーセとパウロ

招詞
 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。正しい人には苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから救い出してくださる。        詩篇34篇18~19節
 
聖書箇所
出エジプト記14章15節~31節

説教
モーセとパウロ 菅孝雄神学生

言(こと)ローグ/505 神のトーヴ ⑦将来のトーヴ
 「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。
                                詩篇119篇71~72節

 前回は「苦難における神のトーヴ」についてお話ししました。上記119篇は、大きな苦しみの経験をした人それぞれが自分にとっての苦難の意味、苦しみの意義を見出すとき、そこには喜びが湧き上がり、生きる力さえもが溢れてくることを。そんな体験した人々のことばです。これは、結果論的告白では、苦しみのさ中ではどうでしょうか?
哀歌3:25~27には3つのトーヴがあり、苦しみのさ中での告白見ることができます。
25 主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
26 主の救いを黙って待つのは良い
27 人が、若い時に、くびきを負うのは良い
人は将来に希望を持つことではじめて今の時を意味あることとして受けとめ、創造的に生きることができます。つまり、明日を信じることのできる人は、今日を生き抜くことができるのです。それゆえ、今の苦しみを黙って受けとめることができるのです。
                        (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用)

2023年10月8日日曜日

2023年10月08日 第2主日礼拝 神の喜ばれる礼拝

招詞
 悪しき者は心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者は、恵みが、その人を取り囲んでいる。正しい者たち。主を喜び楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。
                                  詩篇32篇10~11節
 
聖書箇所
創世記4章1~7節

説教
神の喜ばれる礼拝 松山裕師(録画説教)

言(こと)ローグ/509 トーヴ⑤ 苦難の時の悲しみ 3
 68 あなたはいつくしみ深くあられ、 いつくしみを施されます。 71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。               詩篇119篇71~72節

 原語は「トーヴ」ですが、上記の3節では、それがいろいろな意味合いをもって訳されています。68節では「いつくしみ深い」、71節では「しあわせ」、72節では「~よりも勝っている」と。ここでの作者はすでに苦しみを乗り越え、意味を見出すことができたので、このようなすがすがしいことを告白しているのですが、新共同訳では単なる「苦しみ」ではない、「卑しめられた」のだと解釈しています。
【新共同訳】卑しめられたのは、わたしのために良いことでした。
多くの人は、神がいるならなぜこんなことが起こるのかと思うでしょう。そして多くの場合、私は決してこんなことが起こることを許した神を赦さないという思いをもってしまうのです。しかし、そんな人の思いとは別に神の計画がありました。神が彼らを苦難に会わせられたのには理由があったのです。その理由とは、彼らをしてより真剣に神を求めさせるためであったのです。実は、この神の思いを預言者エレミヤがバビロン捕囚の出来事が起こる前に神の民たちに語っていたのですが、王も側近も祭司たちもそんな話に喜んで耳を傾ける真摯な信仰を持っていませんにでした。エレミヤ書29章で彼は、神の民イスラエルの人々がバビロンの捕囚の身となることを前提に語っています。(続く)                (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用」)

2023年10月1日日曜日

2023年10月01日 第1主日礼拝 神の御計画

招詞
 すべて、主の聖徒たちよ。 主を愛しまつれ。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。 雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。
                                 詩篇31篇23~24節
 
聖書箇所
イザヤ書29章11~14節

説教
神の御計画 銭谷幸器(録画説教)

言(こと)ローグ/509 トーヴ⑤ 苦難の時の悲しみ 2
 バビロンの川のほとり、そこに、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。町中の柳の木々に私たちは立琴を掛けた。それは、私たちを捕らえてきた者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、余興に、「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えるだろうか。            詩篇137篇1~4節

 バビロンでの「苦しみ」は、イスラエルの民にとって(特に、ユダ族にとって)、想像を超えるような、想定外の苦難でした。その苦しみとは彼らが大切にしていたエルサレムの神殿は跡形もなく破壊され、国を失っただけでなく、バビロンという異国の地の捕囚の民とされる辱めの経験でした。バビロンに捕囚となった者たちの多くは、有能な人々でしたが、灌漑工事の強制労働をさせられていた人も多かったと思われます。その灌漑した川のほとりで歌った歌が上記、詩篇137篇です。使徒パウロは、悲しみには二つの種類があると述べています。(コリント第二7章10節)。ひとつは、神のみこころにそった悲しみで、それは悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせるものです。この悲しみの涙の現実は、自分が神を認めず、神を忘れ、神のもとから離れたことが間違いだったと認める涙です。詩篇137篇の作者の涙はこの涙でした。
                   (続く) (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用」)

2023年9月24日日曜日

2023年09月24日 第4主日礼拝 希望、祝福を受け継ぐ人格

招詞
 聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。             詩篇30篇4~5節
 
聖書箇所
ペテロ第一3章8節

説教
希望、祝福を受け継ぐ人格 銭谷幸器(録画説教)


言(こと)ローグ/508 トーヴ④ 苦難の時の
 あなたはいつくしみ深くあられ、いつくしみを施されます。苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。               詩篇119篇68、71~72節

 私たちだれもが経験する苦しみの中にも神の善があることを心に刻みたいと思います。東日本大震災によって多くの方々が犠牲になりました。災害に会われた方の苦しみは今も、そしてこれからも続きます。
「苦難」には必ず意味があります。しかしその意味はすぐに掴むことはできないかも知れませんが、意味があることを私たちは聖書を通して知ることができるのです。意味を見出し得なければその苦しみから学ぶ事や大きく飛躍したりすることはできません。苦しみの経験をした人それぞれが自分にとっての苦難の意味、苦しみの意義を見出すとき、そこには喜びが湧き上がり、生きる力さえもが溢れてくると思います。
上記み言葉の下線部はトーヴと派生語の訳です。ここでの作者はすでに苦しみを乗り越え、意味を見出すことができたので、このようなすがすがしいことを告白しているのですが、新共同訳では単なる「苦しみ」ではない、「卑しめられた」のだと解釈していて、バビロン捕囚の経験に繋がります。(続く)                   (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用」

2023年9月17日日曜日

2023年09月17日 第3主日礼拝 神の子羊イエス

招詞
 ほむべきかな、主。まことに主は私の願いの声を聞かれた。主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。                                 詩篇28篇6~7節
 
聖書箇所
ヨハネの福音書1章29

説教
神の子羊イエス 菅孝雄神学生

言(こと)ローグ/508 トーヴ③ 良いものを拒む不信仰
 しかし、あなたがたは(良い地に)登って行こうとせず、あなたがたの神、主の命令に逆らった。 そしてつぶやいて言った。「主は私たちを憎んでおられるので、私たちをエジプトの地から連れ出してエモリ人の手に渡し、私たちを根絶やしにしようとしておられる。私たちはどこへ上って行くのか。私たちの身内の者たちは、『その民は私たちよりも大きくて背が高い。町々は大きく城壁は高く天にそびえている。しかも、そこでアナク人を見た』と言って、私たちの心をくじいた。」                               申命記1:26~28

 残念ながら、カレブとヨシュアたちを除けば、イスラエルの民は、神のトーヴ(よいもの)を受け取る信仰がありませんでした。人を恐れ、神の約束と現実の狭間で信仰は萎えてしまったのです。自分の力の現実、弱さの現実、無能な現実が神の祝福の約束を実現させなくしているのです。神の約束を握って、信仰によって立ち上がる必要があります。カレブが民を沈めて言ったことばはこうでした。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずできるから。」(民数記13:30)私たちもカレブのように、またヨシュアのように、神の約束を信じて、前に置かれている神のトーヴを自分のものとして進んでいくものにならせていただきたいと思います。
                       (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用」)

2023年9月10日日曜日

2023年09月10日 第2主日礼拝 教会のチャレンジ ⑲ エルサレム教会 2

招詞
 主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちの砦(とりで)。だれを私は怖(こわ)がろう。                            詩篇27篇1節
 
聖書箇所
使徒の働き21章20節~40節

説教
教会のチャレンジ ⑲ エルサレム教会 2 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/507 トーヴ(良きこと)②
 ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
                                    詩篇106篇1節

 神の「トーヴ」は、自然界を通して(一般啓示)も、神を求める者たちに愛の形で(特別啓示)も全ての民族に降り注いでいます。神の愛は、恵、憐れみ、忍耐として聖書に記されています。 具体的に見ましょう。
▷「そこには確かに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこの果物で す。」 (民数記 13:27)
▷「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。(中 略)あの地は、乳と蜜が流れる地だ。」 (民数記 14:7- 8節)
ヨシュアが、ヨルダン川の西に斥候を遣わした時期は、8月か9月頃であったと思われます。4月頃から半年はイスラエルではほとんど雨の降らない乾季ですが8月から実りの秋が始まります。斥候たちはぶどうが一房ついた枝を切り取り、それをふたりが棒をかつぐようにして帰って来ました。ぶどうだけでなく、ざくろやいちじくも枝ごと切り取って持ち帰りました。そしてイスラエルの会衆にそれを見せたのです。
神が良いお方であるゆえに、それにふさわしい土地が賦与されるということです。イスラエルの民に与えられた土地は「良い地」でした。新約の私たちに与えられているものは、メシア・イエスによる霊的な祝福ですが、いずれも「良いもの」です。さて、民の反応はどうだったでしょうか。(続く)                     (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用)

2023年9月3日日曜日

2023年09月03日 第1主日礼拝 教会のチャレンジ ⑱ エルサレム教会1

招詞
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。 だれを私はこわがろう。                                  詩篇27篇1~2節
 
聖書箇所
使徒の働き21章1節~17節

説教
アルネ諸教会のチャレンジ⑱  エルサレム教会1 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/506 トーヴ(良き業)
 神は乾いた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良し(トーヴ)と見られた。                           創世記1章10節

 神の「トーヴ」が聖書の中で最初に登場するのは天地創造の出来事においてです。創世記1章には神の「トーヴ」が7回。ちなみに、2章には5回。3章には3回と使われています。
まず、ここで創世記1:4をフォーカスしてみます。現代訳では、この部分を「神が一声、『光は、出て来い』と仰せられると、光が出て来た」と訳しています。そして、「神はそれをご覧になって、満足された。」と訳しているのです。
「トーヴ」というヘブル語を「良しとする」という言い方ではなく、神の目に、神のみこころに「満足する」ものであったと訳している名訳です。パウロは、これを引用して「『光がやみの中に輝け』と言われた神は、キリストの御顔にある栄光の知識を理解させてくださったのである。」(Ⅱコリント4章6節)と、これも現代訳です。神のトーヴを、イエスさまを通して理解させてくださった神様に感謝しましょう。         (銘形「神の善(トーヴ)」から一部引用」)

2023年8月27日日曜日

2023年08月27日 第4主日礼拝 アルネ諸教会の チャレンジ

招詞
 主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道をお教えになる。その人のたましいは、幸せの中に宿り、その子孫は地を受け継ぐ。               詩篇25篇12~13節
 
聖書箇所
ヨハネの福音書9章1節~12節

説教
アルネ諸教会のチャレンジ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/505 ルターとウィクリフ
 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。                  マタイの福音書5章11節

 マルチン・ルターよりも100年ほど早い時代に、カトリックの司祭でオックスフォード大学の教授であったジョン・ウィクリフがいました。彼は、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れていて、聖餐式のパンとワインがキリストの本物の肉と血に変じるという説(化体説)は誤りである等、法王とカトリック教会を批判しました。また、イングランド国王が英語の聖書を持たないのに、ボヘミア(チェコ)出身のアン王妃がチェコ語の聖書を所有し読んでいることに矛盾を感じていた彼は、晩年になってから、禁を犯して聖書を英語に翻訳しました。これが初めての英語聖書です。信徒の霊的糧である聖書とそれに基礎を置く説教を重要視し、翻訳した聖書を持った牧師たちを地方に派遣しました。彼の信仰は、ボヘミアのヤン・フス、また100年後の宗教改革にも大きな影響を与えました。カトリック教会は、1408年に、ジョン・ウィクリフの著書および英訳聖書読むことは死に値する異端の罪であるとしました。以下は、ウィクリフが貫き表明した信仰で、ルターに決定的な影響を与えました。① 教会の頭(かしら)はキリストであって法王ではない。② 法王は反キリスト③「目に見えない選びの民」と「目に見えるカトリック教会」は別物。 ④ 聖書はみんなのためのもの。 ⑤信仰によって人は義と認められる。⑥聖書のみに立つ。
ウィクリフもルターも命がけで、母語聖書と聖書信仰を伝えた大先輩です。

2023年8月19日土曜日

2023年08月20日 第3主日礼拝 教会のチャレンジ ⑰ エペソ教会 2

招詞
 主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。 あなたの真理に私を導き、教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。
                                   詩篇25篇4~5節
 
聖書箇所
使徒の働き19章11節~40

説教
教会のチャレンジ ⑰ エペソ教会 2 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/504 エピファネスとハヌカの祭り
 あなたがたは二度と、自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる。 
                                エゼキエル書 20章39節

 ユダヤ人の「ハヌカの祭り」は別名「光の祭典」とも呼ばれますが、この祭りの由来は、シリアの悪王エピファネスによって汚された第二神殿をきよめて、神に再奉献した出来事を祝うものです。イスラエルの民は、第二神殿以降、エズラの宗教改革で偶像と決別しました。しかし、アレクサンダー大王(BC356~323)の死後、遺言により二人の側近がシリアとエジプトで王国を築き、イスラエルを征服しました。特に、シリアの王となったエピファネスは最大の悪役でした。彼の7つの勅令は、イスラエルの文化と宗教を破壊する意図がありました。
(1)安息日を汚すこと。(2)主の7例祭と聖なる日を汚すこと。 (3)ギリシアの偶像(ゼウス)を祭壇に置いて拝ませること。 (4)祭壇には豚の血をささげること。(5)聖書で禁じている不浄 な食べ物を食べさせること。(6)割礼を禁じること。 (7)トーラーの学びを禁じること。
エピファネスは、違反した者はすべて死刑に処しました。このようにしてユダヤ人を徹底的に迫害したことでマカベヤの反乱が起き、短期間とは言えユダヤ人によるハスモン王国(BC147~37)が出現したのです。現代はどうでしょうか。国体の強要、神社参拝の強制などは戦時中の日本でもありましたから、クリスチャンは、目を覚ましていなければなりませんね。
                   <銘形:「ハヌカの祭りの現代的意義」より一部引用>

2023年8月13日日曜日

2023年08月13日 第2主日礼拝 教会のチャレンジ ⑯ エペソ教会 1

招詞
 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいます。                      詩篇23篇6節
 
聖書箇所
使徒の働き19章1節~10節

説教
教会のチャレンジ ⑯ エペソ教会 1 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/503 謙遜と高挙
 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
                                ピリピ人への手紙2章9節

 ここで大切なのは、神である御父が御子イエスを高く上げられたということです。ここには御子の御父に対する謙遜の極みを見ます。だから「それゆえ」なのです。主の十字架の死にまで従順であられた事に対する御父からの報いです。
私たちに対しても、聖書は「主の御前にへり下りなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」という約束があります。しかし、イエスの場合の「高くする」というのと、私たちの場合の「高くする」ということには違いがあります。私たちの場合、神のちょうど良い時に、「しかるべきところまで上げてくださる」の意味ですが、イエスの場合の「高く上げて」ということばのギリシャ語は「ヒュペルプソオー」です。このことばは、ピリピ2:9にのみ使われていることばで「最高の栄誉」を与えられたという意味です。
「・・あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時(神の時)に、あなたがたを高くしてくださるためです。」 ペテロの手紙第一5章6節
理不尽な扱いを受けてへこんだ時も、最高の栄誉を与えられて、神の右の御座に着かれたイエスさまを仰ぎつつ、「ちょうど良い時」を待ちませんか。 <銘形:「謙遜への招き」より一部引用>

2023年8月6日日曜日

2023年08月06日 第1主日礼拝 教会のチャレンジ ⑮ 名説教者アポロ

招詞
 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。
                                   詩篇23篇1~3節
 
聖書箇所
マルコの福音書4章1節~9節

説教
教会のチャレンジ ⑮ 名説教者アポロ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/502 病 気 ②

 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。                    コリント人への手紙 第二 4章16節

「病気になっても頑張ります」という人がいて、立派だと思いますが、三浦綾子さんの場合は、はっきりと神への信仰から来ています。つまり、神は真実で良い方であるという信仰です。確かに、彼女の病気は彼女の肉体を弱めましたが、彼女の精神をむしばむことはできませんでした。彼女の病は神から来る霊的ないのちを彼女から取り去ることはできませんでした。「外なる人は衰えても、内なる人は日々強められ」て行ったのです。
病気は確かに外なる人を衰えさせますが、彼女のうちに与えられた神への信仰は、彼女をより強くしていったのです。そんな彼女の存在は、私たちにとって励ましです。彼女の作家としてのエネルギーはいったいどこから来たのか。やはり信仰から、そしてご聖霊の力を帯びて、ということになるでしょう。
北海道旭川市、緑濃いカラマツ林の奥に三浦綾子記念館があります。綾子さんの書斎も移築復元されています。もし記念館に行くことがあれば、彼女のエネルギーの源に注目して、彼女の信仰の足あとを辿って下さい。              <銘形:「謙遜への招き」より一部引用 >

2023年7月30日日曜日

2023年07月30日 第5主日礼拝 教会のチャレンジ ⑭ パウロの約束

招詞
 主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。主は貧しい人の苦しみを蔑まずいとわず、御顔を彼から隠すこともなく助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。          詩篇22篇23~24節
 
聖書箇所
使徒の働き18章18節~22節

説教
教会のチャレンジ ⑭ パウロの約束 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/501 病 気 ⓵
 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。                    コリント人への手紙第ニ章16節

クリスチャン作家の三浦綾子さんは病気の展覧会みたいな人で、若いころから、肺結核に始まり次々といろいろな病気にかかった方です。体調が良いとは言えないときでも、彼女は夫の協力を得ながら口述筆記で多くの作品を意欲的に作られました。ある本で、私は三浦綾子さんが自分の病気についてこう語っているのを読んだことがあります。「私は、こんなに多くの病気にかかって、神様は自分をえこひいきしているのではないかと思います。」 彼女が言うには、「私は病気を一つするたびに、一つずつ新しいことを学んだ。すばらしい恵みを受けた。」と受け止めていました。「病気になっても頑張ります」という人のことばとは違うようです。(つづく)
                          <銘形:「謙遜への招き」より一部引用>

2023年7月23日日曜日

2023年07月23日 第4主日礼拝 教会のチャレンジ ⑬ キリストの香を放つ

招詞
 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。 それらは、金よりも、多くの純金よりも慕わしく、蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべも、それらにより戒めを受け、それを守れば、大きな報いがあります。
                                  詩篇19篇9~11節
 
聖書箇所
コリント人への手紙第二2章15節~17節

説教
教会のチャレンジ ⑬ キリストの香を放つ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/500 弱 さ
 私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。         コリント人への手紙第二12章9~10節

ここでいう「弱さ」とはいったいなんのことでしょうか。コリント第2 12章1節以下を読んでいきますと、パウロに対して啓示された事柄、<パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いた経験>が、あまりにもすばらしいことであったようです。そのために、神はパウロが高ぶることのないようにと肉体に一つのとげが与えられました。
パウロは、主にこのとげを取り除いてくださいと祈ったのです。そうすればもっと神様のために働けますから。どうぞ取り去ってくださいと三度も嘆願しましたが、神はそのとげを取り去って下さいませんでした。なんと、主の答えは意外でした。「わたしの恵みは弱さの中に完全に現される」という返答でした。つまり、弱さの中にこそ、主の恵みと御力はさらにまさって示されるというのです。パウロはそのことを受けとめたのです。パウロのように、弱さに現れる主の強さを経験させていただきましょう。                (銘形:「謙遜への招き」より一部引用)

2023年7月16日日曜日

2023年07月16日 第3主日礼拝 徒ヨハネの足あと / 喜びに招かれて

招詞
 いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。そのなかで一番すぐれているのは愛です。   
                                第一コリント13章13節
 
聖書箇所
第一礼拝:マタイの福音書4章17~25節
第二礼拝:マルコの福音書4章1節~9節

説教
第一礼拝:徒ヨハネの足あと 田口勇新牧師
第二礼拝:喜びに招かれて キャサリン・ポーター宣教師

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聖書のことば
 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。非常に多くの群衆がみもとに集まったので、イエスは湖で、船に乗って腰を下ろされた。群衆はみな、湖の近くの陸地にいた。イエスは、多くのことをたとえによって教えられた。その教えの中でこう言われた。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いていると、ある種が道端に落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったのですぐに芽を出したが、日が昇るとしおれ、根づかずに枯れてしまった。
また、別の種は茨の中に落ちた。すると、茨が伸びてふさいでしまったので、実は結ばなかった。
また、別の種は良い地に落ちた。すると芽生え、育って実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
そしてイエスは言われた。「聴く耳のある者は聞きなさい。」
                       マルコの福音書 4章1~9節 (新改訳2017)

2023年7月9日日曜日

2023年07月09日 第2主日礼拝 教会のチャレンジ ⑫ 生涯の友たち

招詞
 主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで、人の目を明るくする。
                                   詩篇19篇7~8節
 
聖書箇所
使徒の働き18章1節~17節

説教
教会のチャレンジ⑫ 生涯の友たち 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/499 人の弱さ(アッセネイア)
 私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 
                           コリント人への手紙第ニ 12章9節

 パウロは、キリストの力が私たちをおおうと「強くなる」と言っています。自分が弱い存在であることに同意するとき、はじめてキリストの力が私を覆って、強くされるのです。これが「弱い時にこそ、私は強いのです」というパウロの宣言するところなのです。
但し、信仰の強さは聖書が勧めていることです。「アブラハムはおよそ百歳にもなって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。信仰が強くなることは神が喜ばれることです。」(ローマ 4:19)
しかし、パウロは教会の中では「信仰の弱い人を受け入れなさい」とも言っています(ローマ14:1)。また「力のある者は、力のない人たちの弱さを担うべきです。自分を喜ばせるべきではありません。」(ローマ15:1)とも言っています。
ここでの強い弱いは、互いにその存在を認め合うことによって、調和がもたらされるという考え方です。弱い人を受け入れ、進んで助ける人になりましょう。
                          (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2023年7月2日日曜日

2023年07月02日 第1主日礼拝 教会のチャレンジ ⑪ ギリシャで

招詞
 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え、夜は夜へ知識を示す。話しもせず、語りもせず、その声も聞こえない。しかし、その光芒(こうぼう)は全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた。                詩篇19篇1~4節

聖書箇所
使徒の働き17章16~34

説教
教会のチャレンジ⑪ ギリシャで 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/498 しもべと仕える者 (ディアコノスとドゥーロス)
 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子(イエス)も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。                          マルコの福音書10章43~45節

 ここには「仕える者」と「しもべ」という二つのことばが出てきます。「仕える者」、ギリシャ語では「ディアコノス」ということばで、「執事」(教会に仕える者)とか、「奉仕者」とも訳されていることばです。もうひとつは「しもべ」ということばが使われています。ギリシャ語では「ドゥーロス」で、「奴隷」のことです。「仕える者」と「しもべ」とは、意味するところは同じであると言えます。
神の世界においては、最高の称号は「神のしもべ」という称号です。モーセは「神のしもべ」と呼ばれ、使徒パウロも自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」と自己紹介しています。常に、彼がそういう意識で生きていたことを物語っています。クリスチャンというのは、「キリストの奴隷、キリストのしもべ」という意味です。あなたは、どこでも、また誰に対してでも、「私はクリスチャンです」と言えているでしょうか。        (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2023年6月24日土曜日

2023年06月25日 第4主日礼拝 教会のチャレンジ ⑩ 聴く異邦人たち

招詞
 神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。     詩篇18篇30~31節

聖書箇所
使徒の働き17章1~15

説教
教会のチャレンジ ⑩ 聴く異邦人たち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/497 心砕かれた人 (ダカー)

 「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」    イザヤ書57章15節

 預言者イザヤは、「主は、へりくだった者と共に住む」と語ります。活躍したイスラエル南王国では、王や民たちの尊大さに心痛めたイザヤでした。「へりくだった人」とは、「心砕かれた人」のことです。人の心の何が砕かれたのでしょうか。人の何が砕かれなければならなかったのでしょうか。それは人の心にある「高ぶり」です。
詩篇 90篇3節には、「あなたは人をちりに帰らせます。『人の子らよ、帰れ。』と言われます。」とあります。 ここでの「ちり(ダカー)」とは、人を土のちりで造った(創世記2:7)という「ちり(アファル)」ではなく、「打ち砕く」という動詞がもとになっている名詞です。神によって打ち砕かれて粉々にされるという意味です。つまり神は人の高ぶりを打ち砕いて、悔い改めさせて、自分のもとへ帰ってくるように招いておられるのです。悔い改めて、神のもとに帰るためには、神は人の高慢(高ぶり)を打ち砕かれるのです。その意味では、「打ち砕き」は、人が救われるための主からの一方的なご干渉です。感謝しましょう。    (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2023年6月18日日曜日

2023年06月18日 第3主日礼拝 教会のチャレンジ ⑨ 救われるためには

招詞
 わが力なる主よ。私は、あなたを慕います。主はわが巌いわお、わが砦、わが救い主。身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。         詩篇18篇1~2節

聖書箇所
使徒の働き16章16~40

説教
教会のチャレンジ ⑨救われるためには 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/496 謙遜への招き 2言

 「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」                       マタイの福音書11章29節
「わたしにとどまりなさい。・・わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができなのです。」          ヨハネの福音書15章4、5節

 御子イエスはいつも御父とくびきを共にしておられました。御子はいつも御父にとどまっておられました。そしていつも御父の呼吸と合わせておられたのです。その御子が私たちに「わたしのくびきを負いなさい」、「わたしにとどまりなさい」と呼びかけておられます。この呼びかけは「謙遜」への呼びかけです。私たちは主イエスの謙遜に学ぶように招かれています。そしてこの招きに応えることは、自分の救いを達成していくことにつながります。罪によって失われた謙遜を回復することは、人生をかけたチャレンジです。真の謙遜の回復は、体と心を通して神の栄光が現わされていく道であると信じます。             (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2023年6月11日日曜日

2023年06月11日 第2主日礼拝 教会のチャレンジ⑧ 聖霊の導きで

招詞
 神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。私に耳を傾けて、私のことばを聞いてください。瞳のように私を守り、御翼の陰にかくまってください。
                                    詩篇17篇 6、8節

聖書箇所
使徒の働き16章6~15

説教
教会のチャレンジ⑧聖霊の導きで 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/495 追加された断食日
 
 律法に定められた「断食」は年一度、第七の月の十日の「贖罪の日」だけでした(レビ記 23:27)。この日には、民が自分たちの罪を嘆き、いけにえをささげて悔い改める日でしたが、神を愛し隣人を愛する心が根底にありました。バビロン捕囚の期間に、断食日はさらに四日加えられました。過去の悲しい出来事を嘆き、身を戒めるという意味で追加されたようです。以下、月日は、ユダヤ暦によります。
(1) 10月10日 B.C.588 エルサレムが包囲された日(エレミヤ 39:1/52:4)
(2) 4月9日 B.C.586 エルサレムの城壁が破壊された日(エレミヤ 39:2)
(3) 5月10日 B.C.586 神殿が焼失した日(エレミヤ52:12~14)
(4) 7月9日 B.C.586 総督ゲダルヤ暗殺の日(エレミヤ41:1~3)
2000年前、イエスさまは、私たちの犯した罪をすべて赦し、罪を贖ってくださいました。教会の時代の今、このイエスさまに感謝すると共に、神を愛し隣人を愛する心で日々過ごしましょう。そして罪から遠ざかることは忘れないようにしましょう。 (銘形「ザカリヤ書の瞑想」より一部引用)

2023年6月4日日曜日

2023年06月04日 第1主日礼拝 教会のチャレンジ ⑦ アジア宣教

招詞
 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが、あなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります。                詩篇16篇11節

聖書箇所
使徒の働き15章36節~16章5

説教
教会のチャレンジ ⑦西アジア宣教 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/494 断食の真意
 万軍の主はこう言われる。「真実のさばきを行い、誠意とあわれみを互いに示せ。やもめ、みなしご、寄留者(在留異国人)、貧しい者を虐げるな。互いに対して、心の中で、悪を企むな。」
                                ゼカリヤ書7章9~10節

 ゼカリヤは、バビロン捕囚の末期、ペルシャ王ダリヨスの時代の預言者です。年二回、行っていた断食は、自分たちの利益を願う心のこもっていない形式的なものだったと語り、民と指導者を断罪します。イエスさま以来、教会の時代の今、断食は、「ねばならぬ行為」ではありません。聖書をよく理解し、変えられて正しい裁きと弱者救済の心を養い、神を愛し、隣人を愛しなさい、という神の御心を行うことこそが救われた者の「ねばならぬ」ことです。
イエスさまも、マタイの福音書 23:23で律法学者たちを厳しく裁いています。
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、ミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。」
                        (銘形「ザカリヤ書の瞑想」より一部引用)

2023年5月27日土曜日

2023年05月28日 ペンテコステ礼拝 教会のはじめ

招詞
 私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。それゆえ、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。
                                   詩篇16篇8~9節

聖書箇所
使徒の働き2章1~47

説教
教会のはじめ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/493 断食と宣教
 彼ら(預言者や教師たち)が主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。そこで彼らは、断食して祈り、二人の上に手を置いてから、送り出した。       使徒の働き13章2~3節

 


シリアのアンテオケ教会が、パウロとバルナバを第一次伝道旅行に送り出したことが記されています。アンテオケ教会の設立は初代教会における一つの転換期で、ステパノの殉教から起こった迫害によって散らされた人々は、エルサレムから追い出されることを余儀なくされました。主からの新しいビジョン=世界宣教の啓示は、アンテオケ教会における礼拝と断食と祈りによって受けとめられました。現在のトルコ南西部へのこの第一次伝道旅行において、パウロとバルナバは福音を宣べ伝えて、ユダヤ人たちの迫害にもめげず、多くの弟子が与えられました。彼らはルステラ、イコニオム、デルベの町ごとに、長老たちを選び、断食をして祈って後、信じた人々を主にゆだねて、アンテオケに戻っています(使徒の働き1423節)。次回は断食の真意を探ります。
                              (銘形「断食」より一部引用)

2023年5月21日日曜日

2023年05月21日 第3主日礼拝 キリストの昇天

招詞
 私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私に良くしてくださいましたから。                 詩篇13篇5~6節

聖書箇所
使徒の働き1章3~14

説教
キリストの昇天 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/492 サプリメントではなく
  私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。        マタイの福音書6章11節

 普通に読めば、私たちが毎日、口にする「日ごとの食物」に言及する大切な祈りです。しかし、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)をはじめ、山上の説教の流れをみるとそれだけではないことに気が付きます。マタイ6:31~33を見ても、文脈から、イエスの教えのもう一つの意味は、御国に入る者たちが毎日食べる霊的糧ととることができます。
マタイ4:4に照らすと「私たちの日ごとの糧」とは、「神が私たちに定めておられる必要な神のことば」のことです。霊的なサプリメントとして「私が食べたい神のことば」ではなく、神の永遠のご計画において「神から受けるべきものとして定められている必要不可欠なことば」なのです。それは、私たちクリスチャンが、日々生きるためにどうしても必要なパン(神のことば、神の教え)であり、おそらく「堅い食物」です。「乳ばかり飲んでいる幼子」とは違って、この「堅い食物」は、大人の物です(1コリント3:2)。
「乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。堅い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」(ヘブル 5:12~13)。進んでまんべんなく聖書を学び、「よく噛んで味わい」、分かち合うことを習慣とし、喜びとしたいものです。 
                            (銘形「主の祈り」より一部引用)

2023年5月14日日曜日

2023年05月14日 第2主日礼拝 教会のチャレンジ ⑥ エルサレム会議

招詞
 心を尽くして主に感謝をささげます。あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。私はあなたを喜び、誇ります。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌います。     詩篇9篇1~2節

聖書箇所
使徒の働き15章1~31

説教
教会のチャレンジ ⑥エルサレム会議 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/491 罪の赦し②
 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」 
                                マタイの福音書6章12節

 前回、神に対する負債、負いめ、的外れな罪を完全に赦されたことを正しく受け止めことと、自分に対して負い目のある者、あるいは自分に対して悪いことをした者を赦すこととが同義的な関係にあると書きました。それゆえ、私たちは、「私たちの罪(負い目)をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある人たちをみな赦します。」という祈りをする必要があります。しかも、赦すことは間髪を置かず、すかさず赦すことが必要です。日ごとに私たちが神からの無条件の赦しを受けていることを絶えず意識しながら生きるために、この祈りはとても重要な祈りと言えます。
主人(王)のあわれみによって膨大な負債を帳消しにしてもらったしもべ、そのしもべが自分から借り (自分が帳消しにされた負債から比べるならば、ごくわずかな負債) のある者を赦さなかったことが王に知られ、怒った王が、借金を返すまで彼を牢に投げ入れたというイエスのたとえ話(マタイ18:21~35)にあるように、私たちもそのような事態になることが多々あるからです。また、この祈りは神の子とされた者が、「平和を作る者(ピース・メーカー)となる」ための土台石の役割を持つと考えられます。神の子としてのチャレンジは続きますね。(銘形「主の祈り」より一部引用)
 
 

2023年5月5日金曜日

2023年05月07日 第1主日礼拝 花婿キリストの備え

招詞
 主よ、あなたの指のわざである天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは、何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。                               詩篇8篇3~4節

聖書箇所
ヨハネの福音書14章1~4

説教
花婿キリストの備え 佐藤弘司師(DVD)

言(こと)ローグ/490 罪の赦し①
 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある者たちを赦しました。」
                                マタイの福音書6章12節
「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者たちをみな赦します。」 
                                 ルカの福音書11章4節

 マタイとルカのテキストには微妙な違いが三つ見られます。①一つは、マタイの「負いめ」はルカでは「罪」ということばになっていること。②二つ目は、マタイの「赦しました」という表現が、ルカでは「赦します」(赦している)となっていることです。③そして三つ目は、ルカにはマタイにない「みな(皆)」ということばが入っているということです。しかし、これらの違いはこの祈りを理解する上で妨げとはなりません。むしろ、その違いを相補的に理解することが賢明です。パウロ「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)と述べているように。あくまでも神の恵みによる無条件の赦しが大前提としてあり、その前提に立って、他の人を赦すべきことを勧めています。神の無条件の赦しが先行しています。ではなぜ、「私たちの罪(負いめ)をお赦しください。」と特に祈る(願う)必要があるのでしょうか。それは、神からの赦しと人を赦すことの密接な関係を正しく保つことが必ずしも容易ではないからです。赦しには、理屈とともに感情が伴います。だれにとってもチャレンジですね。 
                           (銘形「主の祈り」より一部引用)

2023年4月30日日曜日

2023年04月30日 第5主日礼拝 さあ、行こう

招詞
 主よ。私たちの主よ。この地上において、あなたほどすばらしいお方はありません。あなたの栄光は天の上にまで輝き、幼子や乳飲み子によって、ほめたたえられています。
                               詩篇8篇1~2節(現代訳)
 
 
聖書箇所
イザヤ書52章12節
マタイの福音書26章26、56節

説教
さあ、行こう 金田与施夫師(DVD)

言(こと)ローグ/489 日ごとの糧(アルトス)
 「人はパン(アルトス)だけで生きるのではなく、神の口から
出る一つ一つのことばによる。」と書いてある。マタイ4章4節

 イエスがこう言われた意味は、目に見える食物としての「パン」だけでは人は生きることができず、天から下ってきた「パン」を食べることで永遠に生きることができる(ヨハネ6:48~51)という意味です。天から下ってきた「パン」としてのキリストが、「アルトス」という隠喩(暗喩)として用いられています
このように考えてくると、「主の祈り」にある糧(パン)=アルトスは、単に私たちが口にする食物としての「パン」でなく、私たちが神と共に生きるに必要な、神と永遠に生きるに必要な「パン」、すなわち、キリストとキリストによってもたらされる天にあるすべての霊的祝福という「パン」という二つの意味を持っています。御国との繋がりが見えました。しかし、思うに、後者の意味でこの「主の祈り」を祈っている人は少ないかも知れません。私たちはどうでしょうか。 (銘形「主の祈り」より一部引用)

 

2023年4月23日日曜日

2023年04月23日 第4主日礼拝 キリストのみ

招詞
 主よ、どうかあなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾のようにいつくしみでおおってくださいますように。 詩篇5篇11~12節
 
聖書箇所
マタイの福音書11章28~30節 

説教
キリストのみ 銭谷幸器師(DVD)

言(こと)ローグ/488 天の父②
 私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。              マタイ6章11節

 主の祈り(マタイ6:9~13ほか)は、当教会を含め多くのキリスト教会の礼拝において、公に祈られている祈りです。ところで、主の祈りには5つの重要な御国の概念が含まれています。①神を「父」としています。なぜ神を「父」と呼ぶのでしょうか。ギリシア語の「パテール」には家父長的な意味合いしかありませんが、父を意味するヘブル語の「アーヴ」にはそれ以上に深い「霊的な父」の意味も隠されています。②「御名」とは、神である父が御子イエスを通しての言動すべてを意味します。③「御国」とは、神が支配する国のことであり、神と人とがともに住む「家」(幕屋、神殿、都)を意味します。④「みこころ」とは、神がなそうとしておられるご計画と神ご自身の喜びを意味します。⑤「御国が来る」とは、神と人とがともに住む神の王国(神の家)が地上に来ることを意味します。まとめると、キリストにあって、「天にあるもの、地にあるもののすべてがキリストにあって一つとなるように」という祈りです。さて、では関心事の食べ物はどうでしょうか。御国と「日ごとの糧」はどう関わるのでしょうか。次回に続きます。
                            (銘形「主の祈り」より一部引用)

2023年4月15日土曜日

2023年04月16日 第3主日礼拝 イエスのくびきを負いなさい

招詞
 主よ、あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。                  詩篇4篇7~8節
 
聖書箇所
マタイの福音書11章28節~30節

説教
イエスのくびきを負いなさい 菅孝雄兄

言(こと)ローグ/487 天の父①
 「主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。」          イザヤ書9章6~7節

 主の祈り(マタイ6:9~13ほか)で、イエスさまがまず教えられたことは、神さまを「父」と呼ぶことでした。その意図は、イエス様を信じる者が子として父との関係をもっていること、そして、その関係が麗しく親密な関係を持つことを築くことが求められているからです。イザヤ書9章にあるメシア預言で「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれていますが、なぜメシアが「永遠の父」と呼ばれるのかといえば、それは、メシアなるひとりのみどり子、御子イエスが「永遠の父」を啓示するからです。ヨハネは「父のふところにおられるひとり子としての神が、神を解き明かされるのである」(1:18)と記しています。単なる「子」ではなく、「ひとり子」という特別な存在、「父のふところにおられる」という最も親密さを表現する言い回しで、父なる神との永遠の親密なかかわりを持ち、人となって神を完全に啓示する神の御子であることを表しています。「父よ」「天にいます父よ」と声を出して語りかけることはできます。しかし親しい関係を感じながら、ゆるぎない信頼関係をもって「父よ」と呼びかける、そんな関係を持つことが祈りの土台です。私たちが父に対してそうした信頼の土台を持つとき、どんな人生の雨や嵐、洪水が押し寄せてきたとしても、ブレることなく、堅く立つことができるのです。 (銘形「主の祈り」より一部引用)

2023年4月9日日曜日

2023年04月09日 第2主日礼拝 イースター・召天者記念礼拝 復活、私の希望

招詞
 幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。       詩篇1篇1~2節
 
聖書箇所
ヨハネの福音書21章1~19節

説教
復活、私の希望 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/486 「三つの必ず成る」 デイ
 ルカの福音書24章では三つのエピソードを通して、イエスの復活の必然性が記されています。三か所ともに、動詞デイ(必ず成る)が記されています。
第一のエピソード (1~12節)「人の子は必ず罪人の手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない」ことを思い出させました。そして女性たちはそのことを思い出したのでした。
第二のエピソード (13~35節) イエスは、エマオの途上にある二人の弟子に現われ、「キリストは、必ず、・・苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのか。」と問いかけ、その必然性を聖書全体の中で説き明かされました。
第三のエピソード (36~49節) イエスが11人の使徒、および弟子たちの真ん中に立たれて、「聖書に書かれていることは、必ず全部成就する」ということを述べただけでなく、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、イエスの復活によって弟子たちに託される使命について語っています。
十字架の死と復活の事実について、旧約聖書を通して啓示されてきたことが成就した必然的な出来事であることをイエスご自身が聖書を用いて説き明かされました。このことはとても重要なことです。なぜなら、イエスが復活された事実を弟子たちは自分の目で見たのですが、私たちは彼らの証言だけでなく、神の啓示の書である聖書によってその事実の必然性を悟る必要があるからです。三つのデイ(必ず)は私たちの救いのための必然でした。主イエスの愛にもう一度感謝しましょう。 
                         (銘形:ルカ24章の瞑想より一部引用)

2023年04月02日 第1主日礼拝 四つの杯 ② 完了した

招詞
 ハレルヤ。角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。 琴と竪琴に合わせて、神をほめたたえよ。息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。         詩篇150篇1、3、6節
 
聖書箇所
ヨハネの福音書19章1節~42節

説教
四つの杯 ② 完了した 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/485 三日目と初穂 アパルケー
 キリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
                           コリント人への手紙第一15章20節
     イエスさまは、三日目に死から復活されました。なぜ三日だったのでしょう。
イエスさまが十字架で死なれたのは、「過越の祭り」の日でした。その後に、順序として初穂の祭りがありましたが、当時は、太陽暦でないのでその間隔は毎年異なっていました。ところが、この年の初穂の祭りは、安息日を挟んで三日目でした。「初穂の祭り」は必ずその週の安息日の翌日である週の第一日目(日曜日)と決まってたからです。
当然、ヨハネ 2:19で、「三日で(霊の)神殿を建てる」と豪語されたイエスさまは、自分の苦難と死を迎える十字架の年の初穂の祭りは、安息日を挟む三日めであることを知っていたはずです。これが「三日目によみがえらなければならない」という「三日目」の必然性です。イエスさまの「よみがえり」の日は、この年は、「初穂の祭り」の日と重なるのでなければならなかったわけです。
このように、モーセの時代、レビ記 23:10〜11で制定された初穂の祭りでさえも、神の救いのご計画を正確に預言・啓示していたのです。それゆえ、「(旧約)聖書の示すとおりに」(Ⅰコリント 15:4)となるのです。上記、ギリシャ語のアパルケーの元の意味は「最初の犠牲」です。そこから転じて「初穂」と呼ばれました。神のみ子イエスさまは、人の子として生まれ、人の罪のために死んで下さった最初で最後の方です。十字架上でご自分の血をもって死の呪縛に恐れる全人類をサタンから奪還なさった方です。同時に、これは十字架の贖いのみ業で力を失ったサタンの敗北の出来事でした。このイエスさまのみ業に感謝して、受難週を過ごし、イースターの喜びを倍々で祝いましょう。

2023年3月26日日曜日

2023年03月26日 第4主日礼拝 四つの杯

招詞
 ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。敬虔な者たちの集まりで、主への賛美を。踊りをもって、主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。
                                  詩篇149篇1、3節 
 
聖書箇所
マタイの福音書26章17節~29節

説教
四つの杯 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/484 躓つまずく スキャンダリゾー

 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」    マタイの福音書26章31~32節

 「つまずく」と訳されたギリシア語は「スカンダリゾー」です。ここからスキャンダル(醜聞=人を躓かせる出来事)という言葉が派生しています。新約では「つまずかせる、罪を犯させる」という意味で29回使われています。イエスの言葉にペテロを始めとする他の弟子たちがこぞって、「私たちは、決してあなたを知らないとは言いません」とそれを打ち消しました。
しかし、この後、ペテロはイエスを知らないと3度も否定し、弟子たちは恐怖からイエスを置き去りにして逃げました。弟子たちを非難したくなりますが、上記下線部のゼカリヤ14:7aに注意すると、そこには敵であるサタンが関わっていてサタンとの「霊の戦いの場」だったことが分かってきます。イエスは、「わたしは、この手を小さい者たちに向ける」(同7b)の成就として「先にガリラヤに行き、あなた方の失意の手当てをする」と語りました。つまづきは避けられないでしょうが、私たちの弱さを看破して執り成し、ケアしてくださるイエスに感謝し、従ってまいりましょう。 (銘形: 「つまづく」から一部引用)

2023年3月18日土曜日

2023年03月19日 第3主日礼拝 教会のチャレンジ ⑤ ~ 迫害者の回心

招詞
 ハレルヤ。天において主をほめたたえよ。いと高き所で、主をほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。主が命じて、それらは創造されたのだ。            詩篇148篇1、5節
 
聖書箇所
使徒の働き9章1節~31節

説教
教会のチャレンジ ⑤ ~ 迫害者の回心 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/483 引き渡される(パラデドーミ)
 イエスは、これらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」                       マタイの福音書26章1~2節

 「引き渡される」と訳された「パラディドーミ」は、「受難」を表すことばです。パラディドーミは、裏切る、捕らえる、手に渡される、売りわたすとも訳され、新約では119回も使われています。ところが、弟子たちはこのイエスのことばをまともに聞こうとはせず、理解しようともしませんでした。一方、ベタニヤのシモンの家におられた時、「ある女」がこのことを正しく理解して、イエスのために香油を注いで埋葬の備えをしたのです。
他のか所でも受難告知に対する弟子たちの反応は、以下のようです。
① 16:21 「そんなことがあってはなりません」 ② 17:21~23 「非常に悲しんだ」⇒イエスの期待した反応ではない。 ③ 20:18~19 無反応。 そして、上記、26:1~2では、悲しいことに「無関心」です。
弟子たちのこのような無関心、無反応は、今日の教会でも起こり得ます。聖書が1テサロニケ4:13~18で、教会の祝福の望みである携挙(携え上げ)について明確に語っているにもかかわらず、ある教会では明確に語っていないので、多くのクリスチャンが携挙を知りません。たとえ聞かされていたとしても、無視したり、無関心の人も多いのです。聖書のどの預言も預言者たちを通して神が語られたものです。いまだ実現していない預言が数多くあるのです。ですから、今日においても、聖書預言は、すべての神の民に対するテストだと言えます。イエスの弟子として預言を信じ、信仰のテストに合格して進みましょう。           (銘形:「パラデドーミ」から一部引用)

2023年3月5日日曜日

2023年03月05日 第1主日礼拝 教会のチャレンジ ④ 分散

招詞
 われらの主は偉大であり、力強く、その英知は測り知れない。主は心の貧しい者を支え、悪しき者を地面に引き降ろされる。感謝をもって主に歌え。竪琴に合わせてわれらの神にほめ歌を歌え。
                                  詩篇147篇5~7節
 
聖書箇所
使徒の働き8章1節~25節

説教
教会のチャレンジ ④ 分散 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/481 「神のかたち」と「神のように」

 「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」 創世記3章1節

 サタンの武器は、真理を偽りにし、偽りを真理に見せる「嘘」です。その手口は、「園の木のどれからも」と神の言葉を曖昧にし、次に「本当に?」と疑わせ、相手が迷うと「決して死にません(4節)」と断定します。さらに、「アダムとエバよ、あなたは神のようになれる」と罪を魅力的に教え、最後は「食べるな」と愛の忠告をした神を「敵」に仕立て、敵意さえ持たせます。
マタイ4章でサタンは、イエスを試みています。40日間の断食で弱っていたイエスに近づいたサタンの誘惑は功名でした。荒野の試みは、
「石をパンに」…(父に関係なく、あなた自身でいのちを造れ)
「飛び降りよ、神は支える」…(あなた自身が計画し父を従わせよ)
「ひれ伏せ、全て与える」…(父ではなく、あなたが支配者になれ) でした。
サタンの目的は、父なる神からイエスを離し、独立させ、救いのマスタープランを失敗させることでした。同じく、サタンはあなたを主イエスから引き離そうとします。神のかたちに造られた人は、主なる神から目を離しません。しかし、神の様になろうとする人は、自分と世界だけ見ます。私たちが主イエスから離れたら、信仰のいのちを失います。友よ。「父と御子と聖霊」の交わりから、今日も、決して離れてはなりません。聖餐式は、この三位一体の神との交わりを感得 (かんとく) するものです。               (鵜の木教会「聖書日課」より一部引用)

2023年2月25日土曜日

2023年02月26日 第4主日礼拝 アルネ人を照らす光

招詞
 ハレルヤ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。私は生きているかぎり、主をほめたたえる。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌う。              詩篇146篇1~2節
 
聖書箇所
ルカ福音書2章25節~32節

説教
アルネ人を照らす光 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/480 われわれの似姿に
 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上をはうすべてのものを支配するようにしょうよう。」 神は人をご自身のかたちとして創造し、男と女とに彼らを創造された。
                                 創世記1章26~27節

 「神」と訳されたヘブル語の「エロヒーム」は、複数形ですが、単数動詞(バラー:彼は造った)で受けています。神は三位一体の神です。父と子(イエス)と聖霊なる神は、各自(位格と呼びます)が独立していても一つです。それは、父は御子イエスのため、御子は父のため、聖霊は父と子のために自分を捨てて仕え合うので、三つの位格(独立した存在)でも、「一つ(思い・目的・考え・行動)」です。ですから、誤解を避けるために、聖書では、神は「一人」でなく「唯一」と表現します(1テモテ1:17他)。
人間同士は、相手を仕えさせようとする罪に支配されやすいので、自分力では一つになれません。そこには、憎しみ、怒り、争いが絶えません。世界の争い(戦争)の原因がまさにこれです。しかし、神の愛で人が互いに仕えあうときには、そこに「いのち、喜び、感謝」を見ることができます。
人の救いは、御子イエスを信じて、父と御子と聖霊の交わりに入ることです。神の家族になるのです。その時、自分も神の似姿に造られた存在であることを実感できます。あなたも私も、とっても大切な神の家族の一人です。

2023年2月19日日曜日

2023年02月19日 第3主日礼拝 教会のチャレンジ ③

招詞
 主よ。あなたの造られたすべてのものは、あなたに感謝し、あなたにある敬虔な者たちは、あなたをほめたたえます。主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに、主は近くあられます。                        詩篇145篇10、18節
 
聖書箇所
使徒の働き6章1節~10節

説教
教会のチャレンジ ③ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/479 イエスのパターンに
 
議会の面々はガマリエルの勧告に従い、 使徒たちを呼び出してから、むちでたたき、これ以上イエスについて語らぬよう厳しく命じた上、釈放した。 使徒たちは議会から出て行ったが、イエスのために辱めを受ける者とされたことをむしろ喜んだ。それから毎日、神殿でも家でもどこででも教えたり、イエスがキリストであることを宣べ伝えてやまなかった。
                         使徒の働き 5章39~42節 (現代訳)

  ペテロやヨハネたちが大胆になれたこと、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜ぶことができたのは、イエスと同じパターンを経験したことにあると考えられます。イエスも使徒たちも同じく、人間のねたみによって捕えられました。そして、人間の手では開けることの出来ない場所(イエスの場合は墓、使徒たちの場合は留置場)にそれぞれ入れられました。そして、イエスの場合は御父によって復活し、使徒たちは天使によって救出されました。
今日においても、「主の御名のために値する者」となるためには、このパターンを経験させられるかもしれません。主イエスがそうであられたように、この世に歓迎され、正しく受け入れられることはほとんどないからです。主も使徒たちもそうであったように、いのちのことばを握っている者は迫害を避けては通れないことを自覚しなければなりません。それでも彼らは「宣べ伝えてやまなかった」のです。キリストの福音はそのような人々によって現代に伝えられ、私たちもいのちのことばを握っている者となっています。        (銘形:「使徒の働き5章」より一部引用)

2023年2月11日土曜日

2023年02月12日 第2主日礼拝 教会のチャレンジ ②

招詞
 主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。 主はすべてのものにいつくしみ深く、 そのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。 詩篇145篇8~9節
 
聖書箇所
使徒の働き4章32節~5章16節

説教
教会のチャレンジ ② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/478 イエスの二つの名(オノマ)

 「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」                     使徒の働き3章6節

 ペテロがここで初めて使ったことばに注目しましょう。それは、「ナザレのイエス・キリストの名」という表現です。この名前には二つの名前が結合されています。一つは「ナザレのイエス」です。もう一つは「イエス・キリストの名」です。「ナザレのイエス」は「ナザレ人イエス」と同義です。これは地上で実際に生きたイエスの存在を意味します。しかし、「イエス・キリストの御名」は、十字架と復活の後に昇天して神の右の座に着座されてから与えられた名前です。使徒パウロはこの「イエスの御名」を「すべての名にまさる名」という表現をしています(ピリピ 2:9)。
「ナザレのイエス・キリストの名」の力とはそのような力なのです。使徒たちは、このイエス・キリストのみ名の力を帯びて毎日を生き、そして新生したクリスチャンを教え導きました。私たちはいつでもこの「イエスの御名」によって生きること、「イエスの御名」の力の通り良き管となってその名をあかしすることが求められています。     (銘形:「使徒の働き」より一部引用)

2023年2月5日日曜日

2023年02月05日 第1主日礼拝 教会のチャレンジ ①

招詞
 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。 その偉大さは、測り知ることもできません。 代よは代よへと、あなたのみわざをほめ歌い、 あなたの大能たいのうのわざを告げ知らせます。
                                  詩篇145篇3~4節
 
聖書箇所
使徒の働き4章1節~33節

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教会のチャレンジ ① 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/477 イエスの御名の力 (デュナミス)②
 
(当局者は)使徒たちを呼び入れて、むちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと命じたうえで、釈放した。使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。                使徒の働き5章40~41節

 かつてイエスは弟子たちに、「義のために迫害される者は幸いです。天の御国はその人のものです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。」(マタイ5:10~12)と言われました。使徒たちは、今や、イエスの言われた事が本当であることを感じ始めていました。
イエスの御名の力を体験している使徒たちはまた、「いのちのことば」を握っている者です。彼らは、迫害を避けては通れないことを自覚していました。それが「主の証人」となることです。「証人」とはギリシャ語で「マルトゥス」ですが、それは「殉教者」という意味でもあります。聖霊に満たされていなければ、「主の証人」=「殉教者」となることを喜びとすることは到底できません。キリストの福音はそのような人々によって伝えられ、今日に至っているのです。
                          (銘形:「使徒の働き」より一部引用)

2023年1月28日土曜日

2023年01月29日 第5主日礼拝 ラハブの命がけ ②

招詞
 主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。朝にあなたの恵みを聞かせてください。私はあなたに信頼していますから。行くべき道を知らせてください。私のたましいはあなたを仰いでいますから。                         詩篇143篇1,8節
 
聖書箇所
ヨシュア記6章1節~25節

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ラハブの命がけ ② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/476 イエスの御名の力 (デュナミス)①

 この方(イエス)は、ご自分の前に置かれた喜びのために、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。           ヘブル人への手紙12章2節

 「御座についての教え」は、「十字架についての教え」とともに重要な教えです。どちらも重要です。しかし「十字架についての教え」だけではキリスト者はこの世において勝利することができません。多くのキリスト者は「十字架についての教え」だけでとどまっているかも知れません。
「御座についての教え」は「イエスの御名」の権威と力を受け取ることです。この「イエスの御名」は、十字架の贖いを成し遂げて、天に帰られて神の右に着座されてから与えられた新しい名です。地上では「イエス」でしたが、昇天後は「イエスの御名」(あるいはイエス・キリストの御名)というのが正しい名前なのです。使徒3章で、ペテロとヨハネが神殿の異邦人の庭の入り口にあった美しの門(東門)で、生まれつき足のきかない40歳の男性に出会いました。ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、 彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしたのです。(使徒6~8) これは、神の右に着座されているイエスの御名の力を示すできごとでした。
私たちは祈りの最後に、必ず、「イエスの御名によって」と閉じます。毎日、そう信じて祈っています。私たちは、この「イエスの御名」の力を、信仰生活の中でどのように用いているでしょうか。もし定型句のように唱えているだけでは、あまりにもったいない話ではないでしょうか。
                          (銘形:「使徒の働き」より一部引用)

2023年1月21日土曜日

2023年01月22日 第4主日礼拝 バビロンの礼拝の民

招詞
 私は知っています。主が苦しむ者の訴えを支持し、貧しい者のために、さばきを行われることを。まことに、正しい人はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。
                                詩篇140篇12~13節
 
聖書箇所
詩篇33章1節~5節


説教
バビロンの礼拝の民 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/475 会堂(シナゴーグ)

 その後、パウロはアテネを去って、コリントへ行った。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人とギリシヤ人の説得に努めていた。 シラスとテモテがマケドニヤ州やってくると、パウロはみ言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対して、メシアはイエスであると力強く証しした。
                       使徒の働き 18章1、4~5節 聖書協会共同訳

 コリントの町にシナゴーグがあったことについては,発掘によって出土した「(シナ)ゴーグのヘブラ(イ)人」と刻まれた銘によっても裏付けられています。
パウロは,コリント教会への手紙1:14~16の中で特に名指ししている三人,すなわちガイオ,クリスポ,ステパナに自ら洗礼を授けた後は,洗礼は弟子たちに委ねて,自身は専ら宣教に専念したようです。
さて、信じた者たちの礼拝と聖書教育・親交の場は、教会でしたが建物はありません。おそらく,彼らの自宅が「家の教会」として使われるようになっていったものと思われます。家の教会というのは,信徒たちの中の比較的裕福な人の家に、一定数の信徒たちが集まって行なわれた集会のことです。こうした家の教会が大都市と地方の町々に徐々に増えていきました。教会は信徒の集まりであり、建物ではありません。ローマ帝国が禁教を解く325年までは迫害下、家の教会が最も活発で有効な宣教の群れであり、福音の前進基地となっていきました。
                  (阿部包:私訳「コリント信徒への手紙」より一部引用)

2023年1月15日日曜日

2023年01月15日 第3主日礼拝 イエス、12才の秘密

招詞
 主よ、私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや奇しいことに、私は足を踏み入れません。まことに私は、私のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親とともにいるように、乳離れした子のように、私のたましいは私とともにあります。
                                  詩篇131篇1~2節
 
聖書箇所
ルカの福音書2章41節~52節

説教
イエス、12才の秘密 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/474 サマリヤ人とイエス

 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。     使徒の働き1章8節

 ルカはサマリヤ人について何度か言及していますが、その中の少なくともいくつかは、非常に重要です。マルコの福音書はサマリヤ人について何も言及していませんし、マタイの福音書はイエスがサマリヤ人の町に入ることを禁止したことを記録しているだけでです(10:1)。サマリヤ宣教は、異邦人宣教の最初であり、神のご計画の一部であることを示すためでした。
ルカの福音書の中心部分、すなわちイエスのガリラヤからエルサレムへの記事(9:51~19:40)は、イエスがサマリヤ人と出会う記事(9:51~56)で始まっています。イエスは使いを送ってサマリヤの町に彼と弟子たちが泊まるところを用意させようとしますが、町の住民は拒絶しました。ヤコブとヨハネは怒って、あの預言者エリヤのように、天から火を呼び下してサマリヤ人の町を焼こうと進言しましたが、イエスは二人の弟子を叱り、他のサマリヤの町へ行きました。ここで心に留めておかなければならないことは、ユダヤ人は、サマリヤ人に敵意を持っていたからです。この態度は、サマリヤ人が過去にユダヤ人の神殿を汚し、ユダヤ人の巡礼者たちを殺したことによります。しかし、復活した主は、エルサレムとユダヤの後に、サマリヤが福音の受け取り手となるであろうと告げました(使徒1章8節)。サマリヤ宣教は、伝統的なユダヤ的バリアからの決別を示唆するもの でした。私たちの思いを超えて働かれる主を崇め 従いましょう。 
                       (銘形「ルカの福音書の神学」より一部引用)

2023年1月8日日曜日

2023年01月08日 第二主日礼拝 イエス、40日めの秘蜜

招詞
 幸いなことよ。主を恐れ、主の道を歩むすべての人は。あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸い、あなたへの恵み。              詩篇128篇1~2節

 
聖書箇所
ルカの福音書2章21節~40節

説教
イエス、40日めの秘蜜 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/473 イエスの呼名: 大祭司
 
 イエスは、神の御前にあわれみ深い大祭司となって、人々の罪を償うために、あらゆる点で、私たちと同じようになることが必要だった。イエスご自身、試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることができるのである。      ヘブル人への手紙 2章17~18節

 紀元前5世紀、ユダヤ人がバビロンからエルサレムに帰還しました。直後、聖書学者エズラの礼拝改革「律法 = 聖書に帰ろう、運動」が始まりました。レビ族から任命された大祭司が国の頂点に立ち、礼拝が規則正しく行なわれるようになりました。またエズラはシナゴーグ(会堂)礼拝を組織し聖書が読まれ、解説する礼拝の場を作りました。
さて、「大祭司」は多くあるイエスの呼び名一つです。イエスの呼び名は、メシヤ、救い主、神の御子、人の子、罪人の友、などあり、それぞれがイエスがどんな方であり私達にどう関わって下さる方なのかを示しています。「祭司」という言葉には主に二つの意味があり、一つ目は神と人との仲介者、二つ目は聖なる働きをすることができる聖い人物の意味です。イエス様は、この二つの職務を果たすことのできる方でしたが、極めつけは、さらに、ご自身が十字架の死によって人を罪から完全に赦すためのいけにえとなられたことです。この救いのマスタープランの大前進により、サタンは敗北し、神の国は大勝利しました。サタンとその残党(悪霊ども)のまやかしから、日々守られる ようにイエスさまに祈り、従いましょう。 (銘形「ルカの福音書の神学」より一部引用)