2017年12月31日日曜日

2017年12月31日 第5主日礼拝 ベツレヘムへの路 ⑤  イエスと名づけた

招詞
わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
                                    詩篇 103篇 2節

聖書箇所
ルカの福音書2章21節

説教
ベツレヘムへの路 ⑤ イエスと名づけた 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/219 イエスの誕生と仮庵の祭り

 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
                             ヨハネの福音書 3章37~38節

 イエスの誕生は、ちょうどユダヤの「仮庵の祭り」が終わった10月頃とも言われます。上記のイエスの言葉は、この祭りの最終日に語られました。聖書とは、旧約聖書全体をさしています。 
【主】は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。 あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。  イザヤ12:2~3 
 この祭りは、出エジプトで荒野にマナを降らせ、日々の食物を下さる神さまに感謝して行われたことに由来していました。この時、毎日必要なだけマナを集めなさい、と神さまは命じました。今日のパンは今日与えられ、明日のパンは明日与えてくださる神を信頼することを民が学ぶためでした。この日にイエスさまが霊の食べ物・飲み物のことを大声で叫び、民を招かれたことは重要です。御子イエスは、私たちに霊の食べ物と飲み物を下さる方であることを忘れないようにしたいと思います。                      (銘形「アドベント瞑想」より引用)

2017年12月24日日曜日

2017年12月24日 クリスマス礼拝 ベツレヘムへの路 ④ 羊飼いたち

招詞
 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
                              ヨハネの福音書1章9、12節


聖書箇所
ルカの福音書2章1~20節

説教
ベツレヘムへの路 ④ 羊飼いたち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/218 忠実な羊飼い

 この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
                                  ルカの福音書2章8節

 ユダヤ人新約学者イーダーシャイムは、「イエスの生涯と時代」の中で、ベツレヘム郊外にあるミグダル・エーデル(見張りの塔)の傍の羊の群れは、エルサレムの神殿に捧げるための傷の無い特別な群れであること、羊飼いたちもえりぬきの人々で、年中休み無く羊を見守っていた、と言っています。普通の羊飼いは、夕方になると羊を囲いの中に入れて、自分たちは天幕の中で寝てしまうのに、焚き火を焚きながら、野宿してまで羊を見守るということは特別なことでした。「傷のない羊」を育てるために、不断の労苦をいとわない忠実な羊飼いだったからこそ、「野宿で夜番をしながら羊の群れを見守って」(2:8)いることができたのです。そして、最初のクリスマスに招かれたのはこの羊飼いたちでした。            (銘形「ベツレヘムの秘密」より引用)

2017年12月17日日曜日

2017年12月17日 アドベント第3週 第3主日礼拝 ベツレヘムへの路 ③

招詞
やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。        イザヤ書9章2~3節

聖書箇所
マタイの福音書1章18~25節

説教
ベツレヘムへの路  ③ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/217 ベツレヘム ②

 すると、試みる者(サタン)が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」     マタイの福音書 4章3~4節

 ベツレヘムは、へブル語でパンの家という意味でした。上記の聖句でイエスが言われた人が真に生きるために必要なパンとは、食べる食糧としてのパンではなく、神の口から出る一つ一つのことばを意味しています。この意味において、主の祈りの中にある「日ごとの糧」について考えなければなりません。四つの福音書がみな共通に記している「五千人の給食」の奇蹟は、イエスこそ「天から下って来た生けるパン」であることを示唆するものでした。イエスは「わたしがいのちのパンです。」(ヨハネ 6:35)、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。」(同 6:51)と言われました。また「それを食べると死ぬことがない。(中略)永遠に生きます。」(同 6:50, 51)とも言われました。福音書のイエスの言葉を理解し、信じることで、私たちも永遠のいのちをいただくことができます。             (銘形 「ベツレヘムの秘密」より引用) 

2017年12月10日日曜日

2017年12月10日 アドベント第2週 第2主日礼拝 ベツレヘムへの路 ②

招詞
人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。
                                詩篇103篇15~17節

聖書箇所
ルカの福音書1章26~45節

説教
ベツレヘムへの路  ② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/216 ベツレヘム(パンの家)
 
ベツレヘム=エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。                              ミカ書5章2~3節
 
 ベツレヘムはダビデの育った町であり、ダビデを育てた町でもあります。ルツ記を読むと大麦も小麦も産出する「パンの家」でした。ダビデはイスラエルのまことの牧者の心をもった王のモデルでした。やがて一千年後に、ダビデの町ベツレヘムに、ダビデに勝るところの真の王であり、永遠の大牧者となられるイエス・キリストが生まれることになるのです。そしてその永遠の大牧者、真の王は、「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。・・・・わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」ことを実現してくださるのです。                     (銘形 「べツレヘムの風景」から一部引用)

2017年12月3日日曜日

2017年12月03日 アドベント第1週 第1主日礼拝 ベツレヘムへの路 ①

招詞
幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。【主】はわざわいの日にその人を助け出される。【主】は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上でしあわせな者とされる。
                                   詩篇41篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書1章1~25節

説教
ベツレヘムへの路 ① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/215 イエスの誕生と仮庵の祭り

「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる【主】の仮庵の祭りが始まる。最初の日は聖なる会合であって、あなたがたは、労働の仕事はいっさいしてはならない。」                             レビ記 33章34~35節
 
イスラエルの人びとは、出エジプト以来、3大祭を守ってきました。春には過ぎ越しの祭りと7週の祭り(ペンテコステ)、秋には、仮庵の祭りで、現在もユダヤ人たちの間で守られています。
 イエスの誕生は、この仮庵の祭りの時だったのでは、と多くの聖書学者が書いています。理由の一つは、ルカ2章にある天使のみ告げを受けた羊飼いたちのシーンです。ベツレヘム郊外で羊の放牧が許されたのは、牧草の制限から7週の祭り(6月)から仮庵の祭り(10月)でしたから、イエスの誕生も10月より早くはないだろう、というのです。
 12月に、世界中のクリスチャンたちとイエスの誕生を祝うのは意味がないでしょうか?クリスマスは、キリストの祭りという意味ですが、西方教会(ローマカトリック)が定めたのも、キリストの降誕を祝う祭りという意味で太陽暦では12月と定められました。ですから、イエスの場合、私たちの誕生日のように、戸籍にある誕生日でお祝いするのではなく、神が人として来られたという「メシアの地上での生涯の始まりという事実」を感謝しつつ祝うという意味があります。ツリーを飾り、美味しいケーキを食べること以上に、イエスさまに感謝と愛を表すこの待降節の期間を大切に過ごしましょう。親しい方々にメシア・イエスをお伝えしましょう。



2017年11月26日日曜日

2017年11月26日 第4主日礼拝 救いの奥義

招詞
私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私のほうに身を傾け、私の叫びを聞き、 私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。                                詩篇40篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙3章2~11節

説教
救いの奥義 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/214 ルーテル教会④ 日本編
 イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」                              マルコの福音書16章15節

 1903年以来、中国で宣教してきたルーテル同胞国外宣教団は、第2次世界大戦の終了とともに、政体の変化のため中国を出て、台湾で宣教を始めました。台湾の宣教も進み、現在に至っています。さて、同時に宣教団は、長年祈ってきた日本宣教を実行に移すことにしました。初代宣教師モーリス・ワーダル師夫妻が横浜に到着したのは、1949年9月のことでした。当時日本は、東北地方が最も未伝の地でしたので、東北での伝道を開始しました。最初に選んだのは、山形県酒田市で、酒田ルーテル同胞教会が設立されました。当時は、学校の体育館や天幕があふれる程の人びとが教会の伝道集会に集まり、沢山の人びとがイエスさまを信じ洗礼を受けました。実は、ワーダル先生は、中国での旧日本兵の言動から、日本が嫌いになり、「神さま、日本以外ならどこにでも遣わしてください」と祈っていたそうです。「しかし、神さまが、私に命じられた全世界は、日本でした」、と話しておられました。

2017年11月19日日曜日

2017年11月19日 第3主日礼拝 キリストの囚人パウロ

招詞
人の歩みは【主】によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。【主】がその手をささえておられるからだ。  詩篇37篇23~24節

聖書箇所
エペソ人への手紙3章1節
ピリピ人への手紙3章12節

説教
キリストの囚人パウロ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/213 ルーテル教会③ アフリカ編
 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。               第二テモテ4章2節

 米国ルーテル同胞教会は、1902年に中国へ、1918年に西アフリカのチャドに宣教師を送りはじめました。
 チャド共和国は、フランスから独立した国なので、フランス語とアラビア語が話されており、言葉の難易度は中国語並みです。隣国カメルーンの内陸部にも宣教師を送りましたが、そこも道路や医療施設などインフラゼロ地帯でした。しかも最初の10年は、宣教の実としての回心者もゼロという中で、一人の宣教師夫人が疫病で亡くなりました。
 その時、本国で緊急の宣教団会議がもたれ、アフリカへの宣教を中止すべきだという意見も強かったそうです。しかし、「時が悪いように見えても続けましょう」という声が勝ちました。その後、奇跡とも思える沢山の回心者が与えられ、現在、チャドでは、16の部族からなる650の教会と神学校、11の聖書学校があり、124人の牧師と880人の信徒牧師が奉仕しています。5つの部族語聖書と4つの新約聖書が翻訳され用いられています。次回は、中国と日本編です。

2017年11月12日日曜日

2017年11月12日 第2主日礼拝 神の御住まいとなる教会

招詞
主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。 あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。                                  詩篇36篇5~6節

聖書箇所
エペソ人への手紙2章20~22節

説教
神の御住まいとなる教会 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/ルーテル教会② 
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。                 マタイの福音書28章19~20節

 ルターの宗教改革は、ヨーロッパ各地に広がりましたが、ノルウェー、デンマーク、フィンランドなどの北欧の国々の王様は、ルターの教えに賛同し、ルーテル教会を国教会としてスタートさせました。
 ノルウェーの宗教改革は、デンマーク=ノルウェー王であったクリスチャン3世が、1537年にルター派を国教とすると宣言し、時のローマ・カトリック大司教を追放しました。その後、1814年にノルウェーがデンマークから独立を果たした際、ノルウェー憲法でルター派教会を国教会と承認し、牧師は王に任命されて公務員として奉仕しました。敬虔主義運動が国内で起こり、信徒と聖職者との距離が縮まるようになり、平信徒の集会がそれなりに教会生活でも受け入れられました。このことで、信徒のリーダーシップが育つ要因になりました。
 1905年にノルウェーから米国に移住したクリスチャンたちが現地法人として、ルーテル同胞教団(Lutheran Brethren Church)を結成し、礼拝式文を用いない、講壇も簡素なルーテル教会をスタートさせました。2年後、当時、教会数は、10に満たなかったのですが、外国宣教の熱いビジョンによりアフリカのチャドとカメルーンと中国に宣教師を送り始めたことは驚くべきことです。ルーテル同胞教会の特徴は、教団を大きくすることよりも、イエスさまの大宣教命令に従い、未伝地のために祈り、宣教師を送り出すことをしてきたことでした。            (続く)   

2017年11月5日日曜日

2017年11月05日 ルター宗教改革500念記念礼拝④ ルターと音楽

招詞
【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。正しい者の悩みは多い。しかし、【主】はそのすべてから彼を救い出される。      詩篇34篇18~19節

聖書箇所
詩篇46篇1~2節

説教
ルターと音楽 田口勇新教師
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言(こと)ローグ/211 ルーテル教会①
 宗教改革者マルティン・ルターによって始まったルーテル教会は、「聖書のみ、恵のみ、信仰のみ」という宗教改革のいわゆる三大原則に立っています。神様の前にすべての人は平等で、人の努力ではなく、神様の恵み、イエス・キリストの十字架と復活を信じることによってのみ、人は救われ、永遠のいのちを頂きます。改革の声は、ドイツをはじめ全ヨーロッパに伝わり教会が形成されました。しかし現地のローマ・カトリック教会は、「ルターの仲間」と呼んで斥(しりぞ)けました。これが、「ルーテル教会」と呼ばれるようになった由来です。
 ルーテル教会は、音楽の父と言われるバッハを生み出した教会としても知られています。バッハによって多くの教会音楽が作曲されましたが、それらは信仰の証として今日に至るまで教会の遺産として継承されています。
 その後、ドイツから北欧にかけて広がったルーテル教会の人々が、新大陸アメリカに移住し、北米にルーテル教会を形成していきました。ルーテル同胞教団もノルウェーからアメリカに移住したクリスチャンたちが、法人として届け出た名前です。特徴などは、②で記します。

2017年10月29日日曜日

2017年10月29日 ルター宗教改革500念記念礼拝③ ルターと子どもたち

招詞
主に信頼する者には、恵が、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべての心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。            詩篇32篇10~11節

聖書箇所
詩篇127篇1~5節

説教
ルターと子どもたち 田口勇新教師
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言(こと)ローグ/210
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。             エペソ人への手紙1章5節

ここでは、似たような二つのことば(名詞)が重ねられて使われています。一つは「ユードキア」(みむね)、もう一つは「セレーマ」(みこころ)です。後者はすでに1節に「みこころ」と訳された語彙です。
 「ユードキア」は、新約聖書で9回。エペソ書では2回、1章5・9節に使われています。新改訳第2版では「ご計画」、第3版では「みむね(御旨)」と改訳されました。
 「みむね」(御旨)は、善意、好意、喜びとするこころという意味で、キリストにおいてあらかじめお立てになった神のご好意を意味します。英語では “good will” などと訳されています。
 動詞形の「ユードケオー」は、新約聖書では21回使われ、神が喜ぶというように訳されています。
   「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、
    わたしはこれを喜ぶ』」          マタイ 12章18節
   「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの
    愛する者。」                  ルカ 12章32節
   「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなた
    がたに御国をお与えになるからです。」    Ⅰコリント 1章21節
 
神のみむね(心)は、私たちを喜ぶことです。神は、喜んで、私たちに御国を与えて、そこに導き入れてくださる方です。苦しい時、悩む時も、神の国は、死の向こうにまでつながっていることを忘れないようにしましょう。素直に、「喜んでしてくださる」神の助けを受けましょう。
                         (銘形「エペソ書の重要語い」より引用)

2017年10月22日日曜日

2017年10月22日 ルター宗教改革500年記念礼拝② ルターと賛美

招詞
新しい歌を【主】に歌え。全地よ。【主】に歌え。
【主】に歌え。御名をほめたたえよ。日から日はと、御救いの良い知らせを告げよ。
                                 詩篇96篇1~2節

聖書箇所
詩篇33篇1~9節
説教
ルターと賛美 田口勇新教師

2017年10月15日日曜日

2017年10月15日 ルター主教改革500年記念礼拝① マイ聖書が無かったら

招詞
私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
                                     詩篇30篇2節

聖書箇所
第2テモテ3章14~17節

説教
マイ聖書が無かったら 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/208
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 エペソ人への手紙1章3節
 エペソ人への手紙1章3節は、1節の中に一つの言葉が三つの品詞によって使われているめずらしい箇所です。名詞としては「祝福」を表すユーロギア、形容詞としては「祝福された、ほむべきかな」と訳されるユーロゲートス、動詞としては「祝福する」のユーロゲオーです。祝福をもって祝福するという日本語は難解なので、共同訳をみましょう。
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。(新共同訳)
 「祝福する」というのは、神が人に対してなされる行為であり、人が神を祝福する場合には「賛美する」となります。1章3節の聖句を順にみていくと、最初にあるのが形容詞のユーロゲートスで、新約聖書では8回使われています。新改訳では、「ほむべき(方)」(マルコの福音書14章61節)のように訳されています。動詞のユーロゲオーは、「(神を)ほめたたえる」・「祝福する」・「聖別する」という意味ですが、エペソ1章3節では、神が私たちをキリストを通して「祝福にあずからせてくださった」としています。俗な言い方をするなら、「幸せにしてくださった」とも言えます。詞のユーロギアは、「祝福」だけでなく、「賛美」(黙示録5章12節,13節,7章12節)、「聖別」(Ⅰコリント10章16節)、「(神からの具体的な)恵み、恩恵、賜物、贈り物」をも意味します(Ⅱコリント9章5,6節)。祝福という言葉だけでも、神さまがわたしたちに惜しみなく愛を注いで育ててくださっている熱心を感じ取ることができますね。
                                           (銘形 エペソ書の重要語彙」より引用)

2017年10月8日日曜日

2017年10月08日 第2主日礼拝 和解のいけにえ 神の食物

招詞
まことに、【主】は、とこしえに王として御座に着いておられる。【主】は、ご自身の民に力をお与えになる。【主】は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。
                                 詩篇29章10~11節

聖書箇所
レビ記 3章1~17節

説教
和解のいけにえ 神の食物 老松望KGK主事
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言(こと)ローグ/207 父なる神(セオス・パテール)
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。                           エペソ人への手紙5章20節

「セオス・パテール」は、ヨハネの福音書から黙示録まで42回使われている重要語です。英語では、人間の父の場合は小文字のfatherを使い、父である神の場合には大文字のthe Fatherを使っています。福音書の御子イエスさまを見ると、イエスさまのすべての考え、思い、意志、感情は、御父に向けられています。御父の愛のまなざしが御子のすべてでした。それゆえ、御子の栄光は御父の栄光を完全に現わすことでした。

 この父なる神さまの愛のまなざしは、私たちでにも惜しみなく向けられています。そして、私たちは一人残らず、イエスさまの御名によって父なる神さまにいつでも、どこでも祈ることができます。ダビデが歌った詩篇23篇を見ましょう。
 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
 これは、居心地の良い部屋でソファーに座って瞑想しながら祈ったのではなく、敵に命を狙われて絶体絶命の荒野での祈りでした。なんと、彼は、自分のこの状況を緑の牧場に横たわっている羊だと描写しました。それほど安心して父なる神に信頼しているダビデの信仰に習いましょう。いつでもすべてのことについて祈りましょう。                      
                      (銘形 「エペソ書の重要語彙集」から一部引用)


2017年10月1日日曜日

2017年10月01日 第1主日礼拝 見張っている神

招詞
「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
                                  エレミヤ書1章5節

聖書箇所
エレミヤ書1章11,12節

説教
見張っている神 松丸嘉也宣教師
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2017年9月24日日曜日

2017年09月24日 第4主日礼拝 よくやった!

招詞
【主】は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。                 詩篇28篇7節

聖書箇所
マタイの福音書25章14~30節

説教
よくやった! 菅 孝雄兄

言(こと)ローグ/206 恵み(カリス)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
                               エペソ人への手紙1章2節

パウロが、「恵み」と「平安」と二つのことばをもって挨拶しています。「平安」はヘブル語シャーロームという神の祝福の総称を意味しますが、それを与える神の動機が「恵み」なのです。
 「・・・のことをしたので」与えられるものは、「恵み」とは言いません。「報酬」と言います。逆に、「・・・のことをせず、むしろ反対のことをしたにもかかわらず」与えられるのは、「報酬」ではなく、「恵み」と呼ばれます。つまり、人の行いによることなく、人の能力によることなく、人が何か良いことをしたという業績にも関係なく、「私がそうしたいのだ、そうしてあげたいのだ」という神ご自身の一方的な好意として与えられる祝福、これが「恵み」です。ですから、当然ではないのです。当たり前のことではないのです。本来、受けるに値しない者に与えようとする神の好意、これが神の心の動機です。しかも、神の恵みは神の愛のゆえに、無償で与えられるものです。だれにでも、別け隔てなく、すべての人に与えられます。
 「恵み」は、イエス・キリストを通して実現しました。罪人と蔑(さげす)まれていた、取税人のザアカイやマタイに友として迫ったのは、イエスの愛と恵みの業です。思い起こすと、私たちにもイエスさまが、「罪を悔い改めて、今日、神を信じるように」、と迫ってくださったことがありましたね。                   (銘形 「エペソ書の重要語彙」から引用)

2017年9月17日日曜日

2017年09月17日 第3主日礼拝 信じて帰途につく

招詞
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
              主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。      
                                   詩篇27篇1節

聖書箇所
ヨハネの福音書4章46〜54節

説教
信じて帰途につく 高橋和義牧師
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言(こと)ローグ205/忠実な者(ピストス)
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。                          エペソ人への手紙1章1~2節

エペソへの手紙は、エペソ教会員全てにあてられた手紙ですから、「忠実な者たち」と複数形です。ここでは、キリストにある忠実な者は、「キリストのしもべ」と同義で使われています。2つの言葉を重ねることによって、「しもべ」を意味する「ドーロス」の特質は主人に対してどこまでも忠実であることが要求されますが、あなたがたはまさに主に忠実な信徒だと言われています。 
使徒パウロは、自己紹介するときには、決まって、自分のことを「キリスト・イエスのしもべであるパウロ」と表現しています。つまり、パウロは、常に、キリストの忠実なしもべとしての自己認識を持って生きていました。「キリスト・イエスの使徒パウロ」(エペソ1:1)という場合には、イエスの十字架と復活に立ち会っていなかったために、本来自分は使徒と呼ばれるには相応しくない者でありながら、神の恵みによって使徒とされたという認識がこめられていますが、「キリスト・イエスのしもべ」という場合には、その神の恵みに自分がふさわしく応えたい、ふさわしく歩みたいという意欲が込められた表現と言えます。私たちもまた、パウロと同じく十字架の場に立ち会っていませんし、復活のイエスさまを直接見た者でもありませんが、使徒たちの証言によって、イエスの十字架と復活を知っています。知っているだけでなく、罪赦された者として、復活の希望を持つ者として日々歩んでいます。それを喜びとしましょう。
                        (銘形 「エペソ書の重要語彙」より引用)

2017年9月10日日曜日

2017年09月10日 第2主日礼拝 神の家族

招詞
【主】よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
                あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。
                                詩篇25篇4~5a節

聖書箇所
エペソ人への手紙 2章19節

説教
神の家族  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ204/ハギオス(聖徒)
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、
     キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。   エペソ人への手紙1章1節

 バギオスは、新約聖書で233回、エペソ書だけでも15回使われています(1:1/1:4/1:13/1:15/1:18/2:19/2:21/3:5/3:8/3:18/4:12/4:30/5:3/5:27/6:18)。

 さて、聖徒たちとは誰のことでしょうか?エペソ教会のある特別な品行方正な人たちのことでしょうか?そうではなく、イエスさまを救い主メシア(キリスト)と信じてクリスチャンになったすべての教会員のことを聖徒たちと呼んでいます。彼らを持ち上げて言っているのではありません。

 大都市エペソでは、偶像崇拝と魔術が盛んでしたが、そこから救われた人たちは、偶像に帰ることはありませんでした。ローマ皇帝は、自分を主(キュリオス)と呼ばせ、神格化しました。これも偶像崇拝ですから、クリスチャンたちは抵抗しました。少数派でしたが、彼らは、神に選び分けられた人たちでした。ハギオスの聖さはサタンの支配から選び分けられた者という意味があり、聖徒たちは、暗闇の業(わざ)から光の生活に入った人たちでした。

 ハギオスは、聖霊(プニューマ・ハギオス)のお名前にも使われ、エペソ書では1:13, 4:30の2回です。

 毎週、いっしょに唱えている主の祈りのなかにもハギオスの動詞形が使われています。 「御名がをあがめられますように」という「あがめる」は、ハキアゾーで、聖い方と礼拝されるという意味です。ここでも、聖なる、特別な方として他と区別されて崇められますように、という意味合いがでています。

 私たちは、盛岡月が丘キリスト教会の聖徒です。ご聖霊にもイエスさまに対しても用いられているハギオスが、救われたとは言え、罪びとの私たちの呼称として聖書に233回も登場することを畏れながら感謝しましょう。それほどにイエスさまは、この世界で私たちが地の塩となり、光として輝き続けることを期待しておられるわけですね。

2017年9月3日日曜日

2017年09月03日 第1主日礼拝 キリストによる平和

招詞
だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義をける。                     詩編 24篇3~5節

聖書箇所
エペソ人への手紙 2章11~18節

説教
キリストによる平和  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ203/みこころ(セレーマ)
「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」          エペソ人への手紙 1章5節

 セレーマは、「~したい」という自分の「意志」や「願い」や「要求」を表す語で、神が、私たちを愛しているがゆえに、私たちのためになさりたい強い意志が込められています。セレーマが使われている個所としては、以下の例があります。

みこころが天で行われるように地でも行われますように。」   マタイの福音書 6章10節
「天におられるわたしの父のみこころを行うものはだれでも、
          わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」 マタイの福音書 12章50節
「この小さなものたちのひとりが滅びることは、天にいます
        あなたがたの父のみこころではありません。」 マタイの福音書 18章14節

 イエスの警告の中にも使われています。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな御国にはいるのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行うものが入るのです。」  マタイの福音書 7章21節

 イエスでさえも、父のセレーマを第一になさいました。
「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、
どうぞみこころのとおりをなさってください。」        マタイの福音書 26章42節
 上掲のように、エペソ人への手紙1章5,9節では、好意や善意、神の喜びとするところのご計画を意味する「みむね(ユードキア)」とセットで用いられています。私たちを救ってくださった神さまは、ご自身の好意と喜びとのセットでみこころを示してくださっています。その幸せを味わいましょう。                  (銘形 「エペソ書の重要語彙」より引用)

2017年8月29日火曜日

2017年08月27日 第4主日礼拝 神の作品

招詞
地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。 まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。     詩篇24篇1~2節

聖書箇所
エペソ 人への手紙 2章 7~10節

説教
神の作品  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ202/主(キュリオス)
 「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」                           ピリピ人への手紙 2:9~11
 
 へブル語を知らないユダヤ人のために訳された70人訳ギリシャ語聖書では、「ヤーウェ」や「アドナイ(わが主)」の訳語としてこのキュリオス(主)を使っています。
 新約聖書では、「主」は神の称号です。ローマ皇帝は自分こそ神、すなわち「主」であると公言したため、初代教会において「イエスが主」であると告白することは、自分の首が飛ぶことを覚悟しなければなりませんでした。つまり、「イエスは主である」との告白は、殉教覚悟の告白を意味したのです。上記ピリピ2:9~11は、イエスこそ「主の主」という信仰告白です。イエスは、支配者たちの支配者という意味です。2000年前には、ネロ皇帝が自分を「主」と呼ばせたことへの抗議の意味を込めて、クリスチャンたちが、イエスこそが「主」であると告白しました。80年前にヒトラーは自分への最敬礼を強要し、恐怖政治と侵略を続けた結果、滅びました。イエスさまを「主」と呼べる信仰の自由を感謝し、喜びましょう。
                          (銘形「エペソ書の重要語」より引用)

2017年08月20日 第3主日礼拝 過去と今の私

招詞
【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
              主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
                                   詩篇23篇1~2節
聖書箇所
エペソ人への手紙 2章 1~6節

説教
過去と今の私 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ201/「キリスト」(クリストス) 
ギリシャ語のクリストスは、新約聖書に529回も使われていますが、福音書よりもパウロの書簡に多く使われています。その数383回です。
 クリストスはヘブル語の「マーシーアッハ」(油注がれた者)の直訳で、メシアと音訳されます。
 旧約聖書で油注がれた者とは、王や預言者、祭司などを指しました。それで、イエスは自分がキリスト(メシア)と呼ばれることを極力避けました。なぜなら、イエスがこの世の人々が期待している地上の王としてのキリストでないことを示唆するためです。つまり、キリストは人々の罪のために十字架で死なれて後、栄光を受けられることを理解できなかっためです。
 ペンテコステ以降、弟子たちはイエスがキリストであることをはっきり悟り、明確に宣言し、イエスに「キリスト」の称号をつけて伝道しました。さらに、初代教会は「キリスト」に「主」(キュリオス)という神を表わす最高の称号をつけて「主キリスト」、あるいは「主イエス・キリスト」と呼びました。迫害下の教会で、ローマ皇帝が、自分をキュリオスと呼ぶことを強制していた時代ですから、リスクが大きかったわけです。
 私たちもイエスさまを証するときに、周りの目を恐れずにイエスさまはキリスト(メシア)救い主です、とはっきりと伝えましょう。
                          (銘形 「エペソ書の重要語」より引用)

2017年8月13日日曜日

2017年08月13日 第2主日礼拝 教会はキリストのからだ

招詞
まことに、【主】のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。         詩篇18篇31~32節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章 20~23節

説教
教会はキリストのからだ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ200/「使 徒」(アポストロス)
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、
            キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。  エペソ1章1節

 エペソ人への手紙の講解説教が始まっていますが、今回からこの手紙に登場する重要語いをとりあげていきます。最初は、使徒(アポストロス)です。使徒は新改訳聖書では103回も頻出し、エペソ人への手紙には、4回 (1:1、2:20、3:5、4:11) 使われています。
 「使徒」とは、特別な使命を帯びて派遣された者を言います。新約聖書ではまずイエス・キリストによって直接弟子として任命された12人の者たちが、使徒または弟子と呼ばれました。使徒としての条件はイエスの直弟子であり、さらにイエスの復活を目撃した証人でなければなりませんでした。しかし、使徒パウロはイエスの直弟子でも、イエスの復活を目撃した証人でもありません。ですから、彼は自分でこう言っています。
 「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって私は今の私になりました。」 Ⅰコリント 15:8~9
 使徒たちは,パウロを除いて,無学な普通の人々でした(使4:13)。しかし、彼らはペンテコステに下った聖霊によって変えられ、大胆に,十字架と復活のイエスと救いを伝えました。この命がけの使徒たちの働きを忘れてはなりませんね。
                   (銘形 「エペソ書の重要語い」より編集し、一部引用)

2017年8月6日日曜日

2017年08月06日 英語であそぼう特別礼拝 子どものように

招詞
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
ガラテヤ人への手紙 5章22~23節

聖書箇所
マルコの福音書 10章14~16節 

説教
子どものように  田口勇新牧師
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2017年7月30日日曜日

2017年07月30日 第5主日礼拝 最初の人アダム

招詞
すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住むすべての者よ。
       耳を傾けよ。 低い者も、尊い者も、富む者も、貧しい者も、
              ともどもに。 私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。
                                  詩篇49篇1~3節
聖書箇所
創世記  1章26~28節 
     2章7~8節

説教
最初の人アダム  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ121/尋ね調べて(ハーファス ハーハル) 
私たちの道を尋ね調べて、【主】のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。 哀歌 3章40~41節
 「尋ね調べる」は、二つの動詞から成っています。いずれも似たような意味を持っていますが、それを重ねることで意味が強調されています。尋ね(ハーファス)は、「(自分に)問いかける」という意味で、調べる(ハーカル)は、「探る」という意味です。「とこしえの道へと導かれる」ために、私を探ってくださいと祈っています。その「探り」とは、人の内にある本当の問題点を明らかにすることを意味します。「調べる」という意味も同様に、自分たちの問題点を明らかにするためのものだと言えます。ただ、大事なことは、自己流ではなく、神さまに探っていただくことです。そして、問題が明らかにされた時には、涙をながして悔い改めることが必要で、それこそ預言者エレミヤがユダヤ人たちに願ったことでした。
 
新約聖書には、「悲しみなさい」というユニークな勧めがあります。
 
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。            Ⅱコリント7章10~11節
 
神さまが良しとする悲しみが、真の悔い改めに導き、信仰の熱心を起こさせたと言っています。一人のコリント教会員に信仰のリバイバルが起きて、教会全体に広がりました。一人ひとりの神様の前での悔い改めを神様は用いて喜んでくださるのですね。     (銘形 「哀歌」より引用)

2017年07月23日 第4主日礼拝 心の目

招詞
神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王に
         ほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。 まことに神は全地の王。
              巧みな歌でほめ歌を歌え      詩篇47篇 6~7節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章15~19節

説教
心の目 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ120/哀歌2 悔い改めのプロセス
「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
     私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」
                              哀歌 3章 10~11節
 前回と同じみことばです。
 ユダ王国の人たちは、悔い改めのプロセスに70年かかりました。安易な悔い改めでは足りませんでした。2世代にまたがった大きな悔い改めでした。
 なぜユダの民全体の悔い改めに70年もの時間が必要だったのでしょうか。なぜなら、悔い改めには、単に罪を認めるだけでなく、神のことば(教え)に従順に従う生き方の実を結ぶという、聖書的ライフスタイルの回復が求められるからです。
 実は、エレミヤ書29章によれば、亡国と捕囚の憂き目を経験したユダの民たちが、神に対する悔い改めの実を結ぶまでに70年の歳月が必要であることを預言者エレミヤはすでに語っていました。しかし、この時、にせ預言者たちは、わずか「2年」で十分だ、と言い張りました。彼らは、悔い改めを自分のこととして真剣に考えず、また、神さまからのお告げもないのに、甘言で王や民たちに偽りの平安や希望を与えようとしたのです。私たちも、安易な安心や希望を与えようとする、「現代のにせ預言者たち」に惑わされないように、しっかり聖書の教えに立っていなければなりませんね。
次回は、「訪ね調べる」をへブル語のことばから再考してこの項を閉じます。
                        (銘形 聖書を横に読む「哀歌」より引用)

2017年7月16日日曜日

2017年07月16日 第3主日礼拝 救いの証(しるし)

招詞
すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。 まことに、いと高き方【主】は、恐れられる方。全地の大いなる王。                   詩篇47篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章11~14節

説教
救いの証 (しるし) 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ119/ああ、なにゆえ(エハー)
ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。        哀歌1章1節

 「哀歌」は「エレミヤの哀歌」とよばれて旧約聖書の中で一番読まれていない書のひとつかもしれません。「哀歌」のヘブル語の原題は最初に登場する語彙「ああ、なにゆえ」と訳される「エーハー」です。新改訳聖書は「ああ」だけです。 旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳には、タイトルが「エレミヤ哀歌」となっており、「まえがき」として次のような説明が記されています。
 「イスラエルが捕囚に導かれ、エルサレムが荒廃した後、エレミヤは座して泣き、この哀歌をもってエルサレムのために哀悼した。」と。「哀歌」は文字通り「悲しみの書」です。なにゆえにこの悲惨な出来事が起こったのかが「哀歌」の内容です。それは、40人の分裂王国時代の神さまへの背信の罪の結果でした。しかし、預言者エレミヤの語ることばに、指導者や民たちが耳を傾けなかったことです。エレミヤはこんな霊的な暗黒の中にある同胞にもあきらめずに呼びかけました。哀歌3:40~41には、「私たちの道を尋ね調べて、【主】のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」と語りかけています。この言葉は、霊的に弱っているかもしれない私たちにも新鮮なことばですね。     (銘形 「哀歌の黙想」より引用)

2017年7月9日日曜日

2017年07月09日 第2主日礼拝 御国を受け継ぐ祝福

招詞
主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。 その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。               詩篇25篇12~13節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章11節

説教
御国を受け継ぐ祝福  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ118/一番すぐれているのは「愛」
愛は決して絶えることがありません。いつまでも残るものは信
                       仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
                              第一コリント13章 8,13節
 
この地上での人生は、苦しみや試みがあって神の愛が見えなくなってしまいそうな時でも、信仰と希望をもって生きることができます。上の聖句では、3つの中で一番すぐれているのは「愛」だと述べています。なぜ、愛が一番優れているのでしょうか。それは、天のみ国において、神の愛の中で過ごすようになる時、愛が完全に現わされるので、信仰も希望も意識しなくて済むようになるからでしょう。天においては、病気や悲しみや嫉妬などから解放されて、神さまの愛、心から愛し合う兄弟愛の関係が備えられています。神の子どもとされた者たちは、そこで神の愛に満ち足りるのです。
 エペソ1章11節によれば、私たちはすでにキリストにあって「御国を受け継ぐ者」とされているのです。完全な相続財産である神ご自身との交わりは、天にしっかりと備えられています。では今は、どうでしょうか。実は、私たちは聖霊によって、この世でその前味を味わうことができるのです。不完全ではあっても、教会でも前味としての兄弟愛や犠牲的な行いを見ることができます。私たちには、信仰の歩みの中で、教会内外で互いに助け合い、補い合って神からいただく愛のすばらしさを味わい楽しむことが期待されています。このことに気づく人は、幸いです。
                        (銘形 「エペソ書の瞑想」より一部引用)

2017年7月2日日曜日

2017年07月02日 第1主日礼拝 信仰の奥義

招詞
私はいつも、私の前に【主】を置いた。
          【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
                                   詩篇16篇8節
聖書箇所
エペソ人への手紙 1章7~10節

説教
信仰の奥義  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ117/賛美の力 ②
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」
                               エペソ人への手紙1章3節

 使徒パウロが、この手紙において、挨拶からはじまり、そのあとに最初にしていることは、感謝やお願いではなく、まず神への賛美でした。私たちが神を礼拝するために教会に集まるとき、最初にすることは、お願いではなく、訴えでもなく、まずは神を賛美することです。しかし、私たちの口は賛美ではなく、願いとか感謝が多いのです。感謝は「・・・してくださってありがとうございます」ということで、願いは「・・・してください。」「私を祝福してください」ということです。しかし賛美は、「あなたは・・の方です」「あなたは・・・にふさわしい方です」、「ほめたたえられるべきです。」、「賛美されるべき方です。」、「あなたをほめたたえます」という表現です。そしてその後に、神を賛美する理由がつけられます。その偉大さのゆえに、その愛と恵みのゆえに、その真実さのゆえに、というふうにです。
 賛美は勝利に先立つ力です。神を賛美することは、私たちの想定外の出来事を引き起こすのです。2つめは、賛美は、信仰の成熟に至る力を生みます。神に賛美することで、神さまは、もっと祝福なさろうとします。賛美と神の祝福は正の連鎖です。こうして、神さまは、私たちを困難にも負けない、骨太の大人のクリスチャンに育ててくださいます。そして、そこにもイエスさまが共にいて一緒に歩いてくださいます。         (銘形 「ほむべきかな神」から一部引用)

2017年6月25日日曜日

2017年06月25日 第4主日礼拝 神の祝福の計画

招詞
正しい神は、心と思いを調べられます。
            私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。
                                  詩篇7篇9b ~10節
聖書箇所
エペソ人への手紙 1章3~7節

説教
神の祝福の計画 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ115/賛美の力 
「あなたは幼子と乳飲み子の口に賛美を用意されました」    マタイの福音書 21章16節

旧約聖書の時代、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ユダ王国のヨシャパテ王の軍と戦おうとして攻めてきたことがありました(歴代誌Ⅱ 20章)。ヨシャパテ王は恐れて、ただひたすら主を求め、ユダの全国に断食を布告しました。つまり、国家存亡の危機に際して、王は民たちに祈るように呼びかけたのです。ユダの人々は、大人も子どももみな、共に集まって祈りました。すると、神の預言者がこう語りました。「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」と。
ヨシャパテ王は、その主の励ましに従って行動しましたが、驚いたことに翌朝の出陣に際して、その先頭に主を賛美する聖歌隊を配置したのです。武器をもった者たちではなく、楽器をもって主を賛美する聖歌隊です。非常識にみえます。ところが、聖歌隊が、「主に感謝せよ、主を賛美せよ。その恵みはとこしえまで」と賛美し、その歌声が響きわたるやいなや、ユダに敵対する連合軍は打ち破られたのです。主ガ戦ってくださいました。その分捕りものはあまりに多く、それを整理するのに三日も要したとあります。そして、四日目に彼らは「ベラカの谷」で主をほめたたえました。ベラカとは、祝福、ほめたたえるという意味です。こうして、戦いの先にも後にも主を賛美したのです。
訓練された聖歌隊が歌った賛美だから力があったとお思いですか。いいえ、違います。イエスは詩篇の中のことばを引用しながら、父にこう祈りました。「あなたは幼子と乳飲み子の口に賛美を用意されました」と。賛美は昔も今も勝利をもたらす神の力なのです。賛美の優先性です。賛美は、あなたの信仰を倍増させ、今日の信仰生活に勝利をもたらします。教会でも自宅でも、声高く賛美しましょう。                    (銘形 「褒むべきかな主」より引用)

2017年6月18日日曜日

2017年06月18日 第3主日礼拝 福音の真髄(しんずい)

招詞
あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、「【主】をあがめよう」と、いつも言いますように。        詩篇 40篇16節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章1~2節

説教
福音の真髄(しんずい) 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ114/賛美と感謝
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。
                                エペソ人への手紙1章3節

 感謝と願いの違いはだれでもわかります。感謝は「・・・してくださってありがとうございます」ということで、願いは「・・・してください。」「私を祝福してください」ということです。しかし、賛美は、「あなたは・・の方です」「あなたは・・・にふさわしい方です」「ほめたたえられるべきです。」「賛美されるべき方です。」「あなたをほめたたえます」という表現です。そしてその後に、神を賛美する理由がつけられます。その偉大さのゆえに、その愛と恵みのゆえに、その真実さのゆえに・・・というふうに、です。

 賛美とは、私たちの神がどのような方であるかを告白することです。神は私を造られた創造主で、栄光に満ち、力に満ち、あわれみ深く、恵みに満ちた方、しかも変わることのない真実な方であることを、口で告白することです。

 感謝は、賛美という土台から生まれるものです。パウロが神に感謝する前に、その感謝を生み出す神ご自身を賛美しているのです。私たちの感謝は、神を賛美するという土台から生まれているでしょうか?                    (銘形 「賛美と感謝の違い」より引用)

2017年06月11日 第2主日礼拝 歩き始めのクリスチャン

招詞
主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。
多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。                 詩篇40篇3節

聖書箇所
使徒の働き 2章40~47節

説教
歩き始めのクリスチャン 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ113/イエスの御名
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって 歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
使徒の働き 3章6~8節

 使徒ペテロとヨハネが「わたしにあるものを上げよう」と言ってイエスの御名を与えたことによって、生まれてから一度も歩いたことのなかった男が立ち上がって、踊りながら神を賛美しました。「ナザレのイエス・キリストの名」の力は、そのような力なのです。こんななすばらしい力が経験できるようにさせられていることはまさに福音です。

私たちはいつでもこの「イエスの御名」によって生きること、「イエスの御名」の力の通り良き管となってその名をあかしすることが求められています。初代教会の霊的な力は実に「イエスの御名」にありました。「聖霊の力」とは「イエスの御名の現われ」です。今一度、このことを私たちは深く捉え直すことが問われているのです。
                          (銘形「イエスのみ名の力」から引用)


2017年6月4日日曜日

2017年06月04日 第1主日礼拝 ペンテコステの舞台裏

招詞
【主】よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいましたから、私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。
詩篇92篇4節

聖書箇所
使徒の働き 2章1~12節

説教
ペンテコステの舞台裏 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ112/聖霊のシンボル
聖霊のシンボルは、「鳩」を除けば、「風」「息」「水」「火」「雨」「露」のような自然現象で表わされています。それらは常に他のものの中に浸透し、定まったかたちというものを持ちません。聖霊は完全に独立したペルソナ(位格)ですが、「神は霊であり」、「主の霊が」ともいわれます。つまり聖霊(御霊)は、御父と御子から一時も切り離すことのできない方であり、永遠に御父がおられるところに聖霊も存在し、御子がおられるところにも同時に存在しておられる方なのです。エゼキエル書37章で、神の民は神の息吹によって生き返りました。はじめて自分の足で立つことができました。「自分の足で立つ」とは、主体的、自発的な生き方をすることを意味します。

このように人を新しく生かし、人を神に立ち返らせて回復させるのは神の「息吹(ルーアッハ)」である聖霊です。この方こそ私たちが神とのかかわりを豊かにし、神の愛を知るための必要不可欠なお方です。
(銘形 「聖霊の象徴」から引用)

2017年5月28日日曜日

2017年05月28日 第4主日礼拝 イエスの昇天

招詞
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。  使徒の働き 1章8節

聖書箇所
ルカの福音書24章 44~53節
使徒の働き1章 1節~11節

説教
イエスの昇天 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ111/待ちなさい(ペリメノー)
「五旬節(ペンテコステ)」に約束された聖霊が注がれたことは、神の救いと教会の誕生のご計画における驚くべき戦略です。イエスは昇天前にこのことを明確には教えませんでした。あたかも、なぜ「五旬節」に聖霊が注がれたのか、後で弟子たちがよく悟るようにと課題を与えたかのようです。イエスは弟子たちに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)と言われました。弟子たちは言われたとおりに、エルサレムで、自分たちの泊まっている屋上の間に上がって、みな心を合わせて祈りに専念していたとあります。
 ここでイエスが「待ちなさい」と命じた「待つ」は「ペリメノー」というギリシア語です。「メノー」は「とどまる」という意味で、ヨハネの福音書ではきわめて重要なキーワードです。それに接頭語としての「ペリ」がついています。「~を越えて」「必要以上に」という意味で強意を示しています。つまり、ここでの「ペリメノー」は、これまでにはない特別な意味において弟子たちに「待つ」ことを命じています。そして、待ったかいがあったのです。私たち、クリスチャンにとっても待つことほど、忍耐の要ることはないでしょう。しかし、イエスさまは、時々、ペリメノー(待て)と強く命じられます。その時は、弟子の気持ちを思い出しましょう。
                     (銘形「7週の祭りの預言的意味」より一部引用)

2017年5月21日日曜日

2017年05月21日 第3主日礼拝 湖畔での励まし

招詞
力ある者の子らよ。【主】に帰せよ。栄光と力とを【主】に帰せよ。
                 御名の栄光を、【主】に帰せよ。   詩篇29篇1~2節

聖書箇所
ヨハネの福音書21章 1~14節
説教
湖畔での励まし 田口勇新牧師

言(こと)ローグ110/共に(ヤーハド)②
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
          なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。    詩篇133:1
 
 神の家において「共に住む」ことの祝福が、詩篇133篇2~3節では二つのたとえで表現されています。

①大祭司を通して末広がりに(2節) 神の民全体に流れしたたる祝福の油は特別な祝福、あるいは歓迎のしるしです。大祭司は旧約ではアロンでしたが、新約ではイエス・キリスト(Jesus)です。つまり、大祭司イエスを通して「共に住む」ことが実現されるのです。

②いのちをもたらす露として(3節) 「共に住む」ことのもうひとつの祝福は、「シオンの山々に下りるヘルモンの露」にたとえられています。「シオンの山々に下りるヘルモンの露」とはどういう意味でしょう。イスラエルは雨季と乾季がはっきりしていて、乾季の時はほとんど雨が降りません。ところが乾季(5月~10月頃まで)には多くの果物がなります。どうして雨が降らないのに果物がなるのでしょう。それは露のせいです。「露」は寒暖の差が大きいとより多くできます。ヘルモンは、おびただしいほどの露を発生するのですが、シオンにそうしたヘルモンほどの露が降るということはありません。しかし兄弟たちが「共に住む」ということの中に、そうしたヘルモンの露にも似た霊的な祝福が注がれ、多くの結実がみられるというのです。
                   (銘形 「神の家族のトーヴ(良いもの)」から引用)

2017年5月14日日曜日

2017年05月14日 第2主日礼拝 土の器

招詞
主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。                   詩篇28篇7節

聖書箇所
コリント人への手紙第二 4章1-7

説教
土の器 ジョン・ロビソン師
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言(こと)ローグ109/共に(ヤーハド)住む
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
           なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。   詩篇133:1

 「共に住む」は原文では「共に座る」です。つまり共に座って食卓を共にし、共に語り合う、共に学ぶ姿、団欒を共にするーそれが「共に座る」ことであり、「共に住む」ことなのです。
 「共に(ヤーハド)」ということばは聖書の中には484回、「共に集まる」ということばは97回示されていますから、これを読むクリスチャンにとって中心的な重要語と言えます。
 共に集まり、共に歌い、共に礼拝し、共に戦い、共に交わり、共に苦しみ、共に喜び、共に泣き、共に助け合い、共に結ばれ、共に住み、共に成長し、共にいこい、共に包まれ、共に編みこまれ、共に形づくられ、共に組み立てられ、共に働き、共に歩み、共に語り、共に親しく交わり、共に建て上げる。神は、私たち神の民が、「共に」あることを意図されました。
 神の家において「共に住む」ことの祝福が、詩篇133篇では二つのたとえで表現されています。それは、①末広がりの恩寵(おんちょう)としての祝福と、②いのちをもたらす露としての祝福です。次回、詳しく説明します。
                    (銘形「神の家族のトーヴ(良いもの)」から引用)

2017年5月7日日曜日

2017年05月07日 第1主日礼拝 この場所居場所?

招詞
【主】、わが力。私は、あなたを慕います。
【主】はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。
                                   詩篇18篇1~2節

聖書箇所
エステル記4章14節

説教
この場所居場所? 老松  望KGK主事
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言(こと)ローグ108/イヴリート(ヘブル語)
宗教改革者マルチン・ルターは1521年、3か月で新約聖書をドイツ語に翻訳し、翌年の1522年に新約聖書を出版して、原語以外は、ラテン語以外の聖書がない世界に一石を投じました。その後すぐに、旧約聖書の翻訳にとりかかり、12年かけて完成させました。ルター自身もヘブル語を知っていましたが、ヘブル語教師のメランヒトンたちの助けを借りました。ルター自身はヘブル語の原文にふれることの重要性を信じて次のように言っています。「詩篇を味わう」(鍋谷尭爾著)からの引用です。「私はヘブル語を学び、これを怠らないようにすすめる。この言葉がたとえ役立てる機会がないとしても、なおも感謝して学ばねばならない。ヘブル語を教え、また、学ぶこと自体が信仰の一部であり、礼拝そのものである。・・・もし、私たちがヘブル語を知らなければ、ローマ・カトリック教会は私たちをロバとののしるだろう。一方、ヘブル語を知っているならば、彼らの愚かな口を封じることができる。」 へブル語の賛美歌を口ずさみながら、詩篇記者の信仰に触れたいものですね。
                            (銘形 へブル語コラムより引用)

2017年4月30日日曜日

2017年04月30日 第5主日礼拝 天にあるものをおもって

招詞
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。
                          コロサイ人への手紙 3章23~24節

聖書箇所
コロサイ人への手紙 3章1~4節

説教
天にあるものをおもって 齋藤満師
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言(こと)ローグ107/信ずる者と信じない者(ピストスとアピストス)
  「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」        ヨハネ20章27節

イエスの復活の日に言われた次の3つのことは、つながりがあります。
1.復活されたイエスがマグダラのマリヤに言われたこと。
2.その後に、イエスが弟子たちのところに入ってこられて「聖霊を受けよ」と言われたこと。
3.そして弟子のトマスのところに来られて「見ないで信じる者は幸いである」と言われたこと。
特に、3つめのトマスに対する取り扱いは重要です。なぜなら、その後の時代のキリスト者は見ないで信じる者となるからです。トマスも他の弟子たちも、マグダラのマリヤも、そしてペテロもヨハネも、みな「見て、信じた」のです。「見て、喜んだ」のです。「見ないで信じる者は幸いである」とは、やがてイエスが昇天されて人々の目には見えなくなくことを前提として語っておられるのです。
ヨハネの福音書が書かれた時代には、すでにキリスト者に対する迫害が始まっていました。異端との戦いもはじまっていました。そうした戦いをくぐり抜けるためには、御子イエスとの愛のかかわりをしっかりと築き、目に見えずとも、御座におられるイエスの御名の力に支えられて、この世にあって神に従う決意が求められていたのです。私たちが、ただお一人の創造主を信じる信仰を表すとき、信じないこの世の人々との摩擦が起きます。そんな時にも、イエスさまの御名の力に支えられて、この日本で神に従う決意はできているでしょうか?
               (銘形 「復活後のイエスの顕現の意味するところ」より引用)

2017年4月23日日曜日

2017年04月23日 第4主日礼拝 信じるなら、神の栄光を見る

招詞
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
                           コリント人への手紙第2 3章18節

聖書箇所
ヨハネの福音書11章39~40節

説教
信じるなら、神の栄光を見る 玉井邦美牧師
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言(こと)ローグ106/「神の力」の同義語と類義語
 神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。        エペソ人への手紙1章19節
 
信仰は神の力を知る通路だといえます。電気は、発電所で得た電気のエネルギーが電線という通路をつたわって、工場、事務所、家庭で熱であったり、光であったり、動力となったりして働きます。
 神の全能の力も、私たちの信仰という通路を通って、ひとつの力となります。それはある行動を促したり、思いや想像を越えた出来事(奇蹟)を引き起こしたりします。困難な問題が解決したり、病が癒されたり、私たちの心にある心配や不安に変えて平安をもたらします。これは信仰によって、神の全能の力が働いたからです。パウロが、エペソ教会につながる一人一人がより多く、豊かに、神の全能の力の働きを知ることができるように、祈っているように、神さまは、今日のすべての聖徒たち(つまり、私たち)にも神の力を経験してほしいと願っておられます。



2017年4月16日日曜日

2017年04月16日 イースター・召天者記念礼拝 イエスの復活を信じて

招詞
あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。        マタイ28章5~6節

聖書箇所
ルカの福音書  24章1~12節、44~53節

説教
イエスの復活を信じて 田口勇新牧師
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2017年4月9日日曜日

2017年04月09日 第2主日礼拝 受難③ イエスの死と勝利

招詞
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。                             へブル人への手紙12章2節                        
聖書箇所
ルカの福音書 23章24~49節

説教
受難③ イエスの死と勝利 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ105/きょう(ハツヨーム)
あなたは、きょうわたしとともにパラダイスにいます。      ルカの福音書 23章43節

イエスさまの十字架上の7つのことばのうち、2番目に語られたことばで、隣の十字架にかけられている強盗の一人がこの慰めのことばを聞きました。「パラダイス」とはラザロと金持ちの話(ルカ16:19~31)にある「アブラハムのふところ」です。そこは、自分の罪を悔い改めて、イエスを信じて義とされた者たちが行くところです。
 「きょう」という言葉は、私たちが考えている「昨日、今日、明日」という意味での「今日」ではありません。ヘブル語では「ハッヨーム」で「その日」とも訳せます。つまり、神によって「定められた日」、神によって「しるしづけられた日」を意味します。「私たちが。目覚めていても、眠っていても、主とともに生きる」(テサロニケ第一5:9)ところが、パラダイスです。ですから、神の定められた「その日=きょう」という日に現存するのです。そこに私たちの希望があります。パラダイスの希望をもって進みましょう。イエスさまは招いていてくださいます。家族や友人がこのパラダイスにいっしょに入れるように祈りましょう。
                          (銘形 「十字架のイエス」から引用)


2017年4月2日日曜日

2017年04月02日 第1主日礼拝 受難② 十字架のみち

招詞
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
                            コロサイ人の手紙1章13~14節

聖書箇所
ルカの福音書 22章 39~54a、 63~71節
       23章 1~23節
説教
受難② 十字架のみち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ104/ヘーフェツ(愛)
 
ソロモンは、シェバの女王が求めた物は何でもその望みのままに与た。
                                 第1列王記10章13節

ヘーフェツが、人の親切や寛容に使われるときは、上記のように、望みのままにとなります。
 ヘーフェツの愛は、人が神になにかを願って求めることに対して、神が喜んで良いものを「惜しみなく与えようとする愛」です。そもそも天の父はその子どもたちに良いものを惜しみなく与えることを何よりも喜びとされる神です。
 人が自分の欲望や私利私欲のために求めるものに対してではなく、神のみこころにかなって願い、求められることに対しては、神は黙っておられない方なのです。与えることを何よりも喜びとされる神、この神の惜しみなく与えようとする愛こそ「ヘーフェツの愛」なのです。旧約聖書では、4つの愛する、という言葉があります。アハヴァー(一方的な選びの愛)、ヘセド(契約愛)、ヘーン(受けるに値しない者に対する神の好意・愛)、そして、ヘーフェツです。図は、ギリシャ語の愛(アガペー、フィリア、カリス)との関係を表しています。
 目を上げて、求めること、要求することを待っておられる神さまに願いましょう、惜しみなく与えてくださる神さまに。
                         (銘形 ヘブル語のキーワードより引用)

2017年3月26日日曜日

2017年03月26日 第4主日礼拝 受難① 聖餐

招詞
主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。 主が行われた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。
                               1歴代誌16章11~12節

聖書箇所
ルカの福音書  22章 1~23節

説教
受難①  聖餐 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ103/ホーラ(時)
さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のも  のを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。                              ヨハネの福音書13章1節
 
上記の「時(ホーラ)」は、本来、時期とか季節とかを意味しますが、ここではある特定の出来事を伴った時のしるしを意味するようです。ホーラの一例がヨハネ16:21にあります。「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」とあるように、新しいものを生み出すための産みの苦しみの出来事(しるし)としてヨハネはこの「ホーラ」を使っています。また、それは死からよみがえられて高く挙げられ御父のもとに帰られる栄光の時をも含んでいます。
 「栄光の時」は同時に、「暗闇の時」がサタンの抵抗が最高潮に達する時でもあります。私たちは、復活と永遠のいのちの希望に生きていますから、受難を最高点とは考えにくいのですが、四つの福音書において、イエスの生涯はいずれも受難の時を頂点として描かれています。毎週繰り返される信仰告白で、「ポンテオピラトもとで苦しみを受け.....十字架につけられ、死んで葬られ」というくだりをていねいに告白し、イエスさまの「あの時」を思い起こしたいものです。

2017年3月19日日曜日

2017年03月19日 第3主日礼拝 神の国のまえぶれ②

招詞
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
詩篇46篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書 21章7~27節

説教
神の国のまえぶれ② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ102/隠れ場(セーテル)
「あなたは、御もと(セーテル)に彼らをかくまって(サータル:セーテルの動詞形)、人間のはかりごとから守ってくださいます。仮庵の中に隠し、争いを挑む舌を免れさせてくださいます。」    
詩篇 31篇20節 (新共同訳)

 主がダビデを詩篇27篇にあるような「悩みの日」だけでなく、31篇のように、人からのそしりや人との舌の争いから守るためにも、ダビデをひそかに所にかくまわれたことを記しています。これは恩寵としての秘密の場所にダビデが招かれ、導かれたということを意味します。3000年前に読まれ歌われた詩が現代の私たちの心に響きますね。

 神の「隠れ場」に身を避け、そこに住み(とどまり)、神のみことばを待ち望むことは、力を得ます。上掲の詩篇におけるダビデも、預言者エリヤも、使徒パウロも、そしてイエス・キリストも「隠れ場」を知っていました。私たちも、争いから逃れ、一時神に身をさけることは、知恵です。恥ずかしいことでも不名誉なことでもありません。

(銘形ヘブル語のキーワード」より引用)

2017年3月12日日曜日

2017年03月12日 3.11祈念礼拝 神の国の前ぶれ1①

招詞
わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。                                  詩篇40篇8節

聖書箇所
ルカの福音書 21章5~6節

説教
神の国の前ぶれ① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ101/ヘーン(好意と親切の愛)
しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。              (創世記6章8節)
 へブル語で、神の愛をあらわす言葉は、3つあります。1つ目は、アハバーで選びの愛です。2つめは、ヘセドで契約の愛です。3つめは、ヘーンで、好意とか親切と訳されています。
 上記、創6:8は、原文では「ノアは主の目に恵みを見出した。特別な好意を見出した」です。ノアは、神を信じない暴力や退廃(たいはい)の支配する時代の中にあっても、彼と家族のみの完全な少数派であっても、時代の流れに流されることなく、主体的に、自発的に「神とともに歩んだ人」でした。こうした生き方だけでも「慰め」を意味する「ノア」の存在が光ります。
 そのノアに対して、主は特別に目をかけられて、特別にひいきされて神の地上での新しい出発のためにあの「箱舟」が用いられたのです。この神の態度が今回のキーワードである「ヘーン」なのです。ルツ記2章には、「親切」ということばが3回使われていて、人ができる好意・親切が取り上げられています。一方的な親切、「よそ者である私にどうしてこんな親切にしてくださるのですか。あなたの使用人でもないのに、こんな親切にしてくださるとは・・・」とルツがボアズの親切に感動しています。実に一方的な親切です。これが「ヘーン」の愛なのです。
 ヘーンは、神さまとボアズにならってわたしたちもできる愛です。6年目の冬を耐えて春を待つ大震災の被災者の方々に、さらなる一方的で親切な言動を続けていきましょう。見返りを期待しないで。
                        銘形「ヘブル語のキーワード」から一部引用)

2017年3月5日日曜日

2017年03月05日 第1主日礼拝 レプタ銅貨2枚の信仰

招詞
主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
                               サムエル記第一  15章22節

聖書箇所
ルカの福音書 21章1 ~4節

説教
レプタ銅貨2枚の信仰 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ100/祝福された望み
祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。         テトスへの手紙 2章 13 節

 キリストの再臨はキリスト教信仰においてきわめて重要です。明治時代のクリスチャンとして知られる内村鑑三は、「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその脳髄であろう。再臨なしに十字架は意味をなさない。したがって、我々クリスチャンは再臨の信仰の立場に立って聖書を通観する必要がある」と述べました。
 初代教会は、そうした意味ではまさに再臨の希望に満ち溢れる教会でした。迫害の中でも彼らが世に勝ったのは、目に見えるものに心を奪われなかったからです。
 このことは現代に生きる私たちにとっても真理なのです。再臨によってもたらされるこの世の終わり、救いの究極的完成の時を、最も確かな出来事として信じながら、困難な時代を生き抜きましょう。                    (銘形「キリストの再臨と終末預言」より引用)

2017年2月26日日曜日

2017年02月26日 第4主日礼拝 詩篇でうたわれたメシア

招詞
私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。          詩篇16篇89節

聖書箇所
ルカの福音書 20章41 ~47節

説教
詩篇でうたわれたメシア 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ99/ミズモール(楽器を伴う神への賛美) 
ダビデの賛歌(詩篇110篇の表題)

 「ミズモール」とは「楽器を伴う神への賛美」を意味します。詩篇にのみ使われている語彙で、しかもすべて表題の中にあります。新改訳では「賛歌」と訳されています。
 詩篇の表題の中でも最も多いのが「ダビデの賛歌」(ミズモール レ・ダヴィド)です。これはダビデと楽器を伴う神への賛美が密接な関係にあることを意味しています。礼拝において音楽を導入したのはダビデが最初と言われます。ダビデが王となってから最初にしたことは、神の契約の箱をギルヤテ・エアリムからエルサレムに運び移すことでした。そのときダビデはレビ人たちを集めて、彼らに楽器をもって神への賛美を歌うように命じました(1歴代誌15:16, 25, 28, 29)。
 ダビデは神殿において昼も夜も24時間の賛美をささげるヴィションをもっていました。やがてソロモンの時代に、祭司たち、および四千のレビ人たちが「ダビデが賛美するために作った楽器を手にして、主を賛美する者」として活躍しました。  (銘形「ヘブル語のキーワード」より引用)


2017年2月19日日曜日

2017年02月19日 第3主日礼拝 復活を信じて生きる

招詞
その義にふさわしく、主を、私はほめたたえよう。 いと高き方、主の御名をほめ歌おう。
                                     詩篇 7篇17節

聖書箇所
ルカの福音書 20章27 ~40節

説教
復活を信じて生きる 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ98/サドカイ派 
「その日、復活はないと言っているサドカイ人(派)たちが、イエスのところに来て、質問して、 言った。」                        マタイの福音書22章23~24節

 これは、今朝の説教箇所、ルカの福音書 20:27~40の並行記事で、ルカの福音書には 名言されていない、サドカイ派(人)がこの突っ込み質問をイエスさまにしたことがわかります。背景がわかるとルカの福音書の理解に役立ちます。サドカイ派は、イエスさまの時代の上流社会の人々で、祭司、教育のある金持ち、そして貴族階級に属する人々でした。彼らのうちの一部はローマ帝国の支配下で総督に取り入り、ユダヤの代表者でした。
 彼らは、モーセ五書(トーラー)しか聖書と認めず、死後の世界を信じませんでした。パリサイ派のように大衆の支持を得ていましたが、サドカイ派は、大衆に人気がありませんでした。今朝のイエスさまへの問答は、イエスさまを敵として仕掛けたというより、大衆の前で自分たちの正当性を認めさせることにより、パリサイ派に一矢を報いようとした可能性があります。
 せっかく、39巻の(旧約)聖書がありながら、最初の5巻しか読まない、信じないという態度は、残念であり、不遜(ふそん)ですね。私たちには、1冊の中に旧約・新約66巻が詰まった聖書が手元にあります。ある方は箴言が大好きだといいます。そのように、愛読の一巻があるのは素敵ですが、1~3年かかっても全巻を読み通してみる祝福を経験しましょう。


2017年2月12日日曜日

2017年02月12日 第2主日礼拝 神のものは神に

招詞
正しい神は、心と思いを調べられます。私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。
詩篇 7篇9~10節

聖書箇所
ルカの福音書 20章20~26節

説教
神のものは神に 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ97/デナリと王の権威
「納め金にするお金をわたしに見せなさい。」 そこで彼らは、デナリを一枚イエスのもとに持って来た。 そこで彼らに言われた。
 「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」 彼らは、「カイザルのです」と言った。
 マタイの福音書 22章19~21節
古代世界においては、王位のしるしは貨幣の発行にありました。王たちは、即位するとすぐに新貨幣を発行しました。そこには、肖像と銘が刻まれました。さらに、貨幣を発行する権利を得れば、それにともない国民に一人いくらという人頭税を課税する権利も得られたことになり、あまねく認められていました。上記、デナリ1枚は、当時の労働者の日当にあたり、ローマ皇帝(カエザル)は、これを一年の一人当たりの税としました。さて、イエス様の言い分はこうです。「あなたがたがカイザルの貨幣を受け入れて、それを日常用いているなら、当然カイザルの課税の権利も受け入れざるを得ないだろう」と。「しかし」とイエスは続けました。「カイザルの令状が及ばない領域、完全に神に属する領域もあるのだよ」と。このように、イエス様は、この間者(かんじゃ)側の根拠そのものに鋭いメスを入れました。
マタイ22:22で、「彼らは、これを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」とあります。イエス様は、上手に言い逃れをなさったのではなく、罠の根拠そのものにメスを入れられたことに気づいた結果だったのではないでしょうか? 現代の私たちも、自国のお金を使い、便利を享受していますから、納税責任があり、国の権威に縛られます。でも、国の法律の及ばない領域もあること、神さまにだけ服従する領域ももっていることを自覚し、改めて神さまに感謝しましょう。                         (バークレー「ルカの福音書」より引用)

2017年2月5日日曜日

2017年02月05日 第1主日礼拝 ぶどう園と農夫

招詞
幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。      詩篇1篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書 20章9~19節

説教
ぶどう園と農夫 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ96/「シャーローム」再考
あなたのみおしえを愛する者には豊かな平和があり、つまずきがありません。    詩篇119篇165節

ヘブル語では、シャーロームと読みます。旧約では237回使われています。この詩篇の「平和」は、争いのない、平穏無事の平和ですが、同時に力と生命に溢れた動的な状態をいいます。シャロームが意味するものは、以下にあげるようにきわめて豊かです。
① 繁栄
② 健康 (肉体的、精神的) ・・・健全、成熟
③ 充足 (生命的) ・・・満足、生きる意欲
④ 知恵 (学問的) ・・・悟り、霊的開眼
⑤ 救い (宗教的) ・・・暗闇から神の愛の支配へ
⑥ 勝利 (究極的) ・・・罪と世に対する勝利
日本では別れるときの挨拶として、「それでは失礼いたします」と言いますが、今でもイスラエルにおいては「シャローム」(豊かで溢れるほどの祝福があるように)と言うのです。私たちもそんな意味を込めた挨拶をしたいものです。シャローム!!                 (銘形「ヘブル語コラム」から引用)  

2017年1月29日日曜日

2017年01月29日 第5主日礼拝 イエスの権威

招詞
ハレルヤ。私のたましいよ。【主】をほめたたえよ。 私は生きているかぎり、【主】をほめたたえよう。
                                     146篇1~2節
聖書箇所
ルカの福音書 19章45節~20章8節

説教
イエスの権威 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ95/ハレルヤ(ハレルヤーハ)
息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。               詩篇150篇6節

詩篇の最後は第150篇で、ハレルヤで始まり、ハレルヤで閉じられます。ハレルヤは、「主をほめたたえよ」の意味です。旧約では24回使われています。ヘブル語で「ハレルヤ」は⼆つの語彙から成り⽴っています。⼀つは動詞「ハーラル」で「ほめたたえよ」の意味。もう⼀つは固有名詞の神聖四⽂字ヤーヴェ【YHWH】の短縮形「ヤーハ」です。この最後の「ハ」は、激⾳を伴っていますから喉を絞るように「ハ」と発音します。 これを⼀般に「ハレルヤ」と表記しているのです。やさしく「ハレルヤー」と歌うだけでなく、覇気(はき)をもって「ハレルヤーハ」と歌いながら、3000年前に真の神さまを礼拝していた信仰者たちの息吹に触れたいと思います。                             (銘形「ヘブル語コラム」より一部引用)

2017年1月22日日曜日

2017年01月22日 第4主日礼拝 イエスのエルサレム入場

招詞
祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。
                                 ルカの福音書 19章38節
聖書箇所
ルカの福音書 19章28~44節

説教
イエスのエルサレム入場  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ94/隠れ場(ソーテル)
「あなたは、彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所 (ソーテル))にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。」                            詩篇31篇20節
 大統領選で舌戦というのを毎日ご覧になった方々も多いでしょう。私たちの生活の中では、避けたいと思っても舌の争いを挑(いど)まれることがあります。詩篇の作者は、その時に、神さまは「隠れ場」を提供してくださると歌いました。 新共同訳では、仮庵(かりいお)と訳しています。「御もとに彼らをかくまって、人間の謀(はかりごと)から守ってくださいます。仮庵(かりいお)の中に隠し、争いを挑む舌を免れさせてくださいます。」  多くの場合、争いを挑(いど)む舌に受けて立つのは避けた方が良いのですが、それでも相手がやめない時はどうすれば良いのでしょう。ダビデは、巨人ゴリアテに立ち向かう勇気も知恵も備わっていた信仰の人でしたが、弱さも持っていました。そこに敵は攻撃をしかけ、舌の争いをしかけました。ダビデは、部屋の戸を閉め、一人主に祈りました。そして平安をいただき、知恵をいただいて部屋から出ることができました。ダビデのように政敵はいなくても、日常のいろいろな舌の争いから、神さまの隠れ場に逃げ込むことが必要な時があります。遠慮なく神さまのもとに身を避けましょう。
                         (銘形「ヘブル語のキーワード」より一部引用)

2017年1月15日日曜日

2017年01月15日 第3主日礼拝 イエスの子ども時代

招詞
キリストは神の御姿である方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。                             ピリピ人への手紙 2章6~7節

聖書箇所
ルカの福音書 2章39~52節

説教
イエスの子ども時代 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ93/必ず(ディ) 
「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」     ルカの福音書 2章48節

 必ず(ディ)という言葉にはイエス様自身の意識が現れています。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」。必ず(ディ)は、新約聖書で101回も出てきます。ディは、後にご自分が十字架にかけられて死ぬことを弟子たちに予告する時にも出て来ます。
 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです」                     ルカの福音書 9章22節
 ここでの「必ず~ねばならない」と訳されている部分がディです。
 何が「必ず~」なのでしょうか。それは「父の家にいること」です。「父の家」は、原語をそのまま訳すならば「父のもの」の意味になります。イエス様はただ神殿のことだけを言っておられたのではなく、父なる神の働きに共に携わっていると言っているのです。
 それは具体的には、やがて十字架にかけられることになる人生を歩んでいるということです。そのようにして人々の罪を贖い、神の救いの御業を実現することになる歩みです。それが「必ず~なる」と言われたのです。たった12歳の少年でしたが、イエス様は既にその時、天の父の定められた道を意識しておられました。

2017年1月8日日曜日

2017年01月08日 第2主日礼拝 御霊とシメオン

招詞
主よ。 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。                             ルカの福音書 2章31~32節

聖書箇所
ルカの福音書 2章25~35節

説教
御霊とシメオン 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ92/「共に」住む ヤーハド
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、 なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」
                                    詩篇133章1節
 「家の中で共に住むということは、家族が集まる場所を確保し、そこで食卓を共にすることなのだ」とある作家は言っています。家族のしるしとは、食卓を共にすることー同じテーブルで同じ時間に、同じものを食べる、同じ時を過ごすことということです。
 神の家族としての教会も同様です。毎月の聖餐式と毎週の愛餐昼食は、この教会の祝福ですね。神の食卓を共にするということは、同じ時間に同じ神のみことばを食べ、味わい、そしてそれを分かち合うことです。神の家に集い、神を賛美し、神のみことばを共に聞くーこれが神の家族としての基本的な姿なのです。
 教会の交わりには、教会の建物の中でも外でも境界線はありません。祈りと主にある交わりでつながっています。今年も「なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」と言える交わりが続きますように。
                         (銘形「へブル語のキーワード」より一部引用)

2017年1月1日日曜日

2017年01月01日 元旦礼拝 新しいドアは開かれた

招詞
新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。
日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。               詩篇96篇 1~2節

聖書箇所
イザヤ書 43章16~20節

説教
新しいドアは開かれた 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ91/新しい歌(シール ハーダ-シュ)
「新しい歌を【主】に歌え。」      詩篇96篇1節
 新しい歌の定義は、何でしょうか? 
 詩篇33:3、40:4、96:1、144:9、149:1、イザヤ42:10などの文脈から次のように定義できるでしょう。
① 新作の歌という意味ではなく、神への救いの驚き、感謝、感動を新たな思いで歌う歌のこと。
②主に贖われた者(救われた者)にしか歌えない歌(賛美)のこと。
③ 救いの感謝と喜びの歌、教会の愛兄姉の交わりの歌、信仰と希望の歌のこと。
 3000年前に歌われた「新しい歌」は、今日の教会にも必要です。教会のサイズに関わらず、教会が制度化、組織化、固定化、伝統化されていく中でキリストのいのちが希薄になっていく状況が起こり得ます。そうした閉塞感の中で私たちは今を生きるための神への「新しい歌」を必要としています。なぜなら、「新しく造られる民が主を賛美しますように。」(詩篇102:18)とあるように、生きた賛美は主によって刷新された民によって、新しい心をもって歌われていくからです。主に向かっての「新しい歌」の特徴は、喜びに満ちあふれた賛美と祈りであり、主体的な信仰の告白によって息づいています。私たちの教会が新しい歌で満ち溢れますよう。                            (銘形「へブル語のキーワード」より)