2026年6月28日日曜日

2026年06月28日 第四主日礼拝 ヤロブアムとダビデ/祝福される教会のモデル

招詞
 主よあなたは正しくあられます。あなたのさばきは真っ直ぐです。義をもってあなたはさとしを与えられました。この上もない真実をもって。         詩篇119篇137~138節

聖書箇所
第一礼拝:第1列王記 12章25~33節、14章7~11節
第二礼拝:使徒の働き 2章40~47節

説教
第一礼拝:ヤロブアムとダビデ 田口勇新 牧師

第二礼拝:祝福される教会のモデル 玉井邦美 牧師

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言(こと)ローグ/648 謙遜 ⑩ 弟子の特徴

 あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 ヤコブの手紙3章13節

 私は確信しています。多くのクリスチャンがこの点について私自身とほとんど同じような経験をしてきたと告白するでしょう。つまり、私たちは長いあいだ主を知るうえで重要な点をとり逃してきました。心の柔和さとへりくだりが、弟子が師のものであることを裏付ける際立った特徴であるという点です。さらに、この謙遜はそれ自身から来るものではなく、特別な願いと祈りと信仰と実践の目標とされなければならないという点です。
 私たちがみことばを研究すると、イエスが弟子たちにこの点についてどれほど明確にまた何度も繰り返して教えておられたか、そして弟子たちが主の言われることを理解するのがどれほど遅かったことかを理解するようになります。私たちの考察のまさしく序章において、ぜひ認めようではありませんか。
 高ぶりほど、人間にとって自然なものはほかになく、私たちの目に隠れてじわじわと広がるものはほかになく、困難で危険なものはほかにないということを、ぜひ実感しようではありませんか。確固たる意志をもって神とキリストを忍耐強く待ち望むことほど、私たちに謙遜の恵みがどれほど不足しているかを痛感させるものはほかになく、また私たちが探し求めるものを獲得するのにどれほど無力であるかを痛感させるものはほかにないということを。
            (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。次回は「⑪謙遜の種」です。)

2026年6月21日日曜日

2026年06月21日 第三主日礼拝 イエスの洗礼と私たち

招詞
 わたしは あなたの神 主である。わたしがあなたをエジプトの地から連れ上った。 あなたの口を大きく開けよ。わたしが それを満たそう。                 詩篇81篇10節

聖書箇所
マルコの福音書1章1~11節

説教
イエスの洗礼と私たち 菅牧師
説教動画
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言(こと)ローグ/647 謙遜 ⑨ 明け渡すもの

 みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。                                1ペテロ5章5節

 謙遜は私たちが神に捧げるものではなく、神が与えてくださるものです。それは単純に「まったく無に等しい者」であるという感覚です。その感覚は、神こそがすべてであるという真実をはっきりと理解するときに与えられます。私は無であるという感覚が、神にすべてとなっていただく道を作ります。謙遜こそが本物の高貴さであることを人が認識するとき、また人が神のいのちと栄光が働き、それらをあらわすための形であり器であることに自らの意志、思い、愛をもって彼自身が同意するとき、彼は謙遜を本当に理解するようになります。謙遜は被造物としての身の丈に関する真理をシンプルに認めることであり、もともと神の場所であったものを神に明け渡すことなのです。
 神が自由にすべてとなってくださるままに神にお任せする謙遜と「無なること」こそが、被造物の関係をあらわす第一にして主要なる表徴、彼が祝福を受けたものであることを示す奥義なのではないでしょうか。   <アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は、「⑩弟子の特徴」です。>

2026年6月14日日曜日

2026年06月14日 第二主日礼拝 ピリポ、散らされて

招詞
 あなたのさとしは奇しくそれゆえ私のたましいはそれに目を留めます。みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。私は口を大きく開けてあえぎます。まことに私はあなたの仰せを慕います。                       詩篇119篇129~131節

聖書箇所
使徒の働き8章1~25節

説教
ピリポ、散らされて 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/646 謙遜 ⑧ 回復の刻印

 みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。                                ペテロの手紙第一 3章8節

 前回、キリストの謙遜は私たちの救いです。キリストの救いは私たちの謙遜です。と書きました。
 それですから、私たち救われた者たちの生活には、罪から解放され、神との関係と人との関係のすみずみにまで謙遜が浸透している本来のありさまを十二分に回復したという刻印がぜひとも押されなければなりません。このことを差し置いて、神の臨在に本当の意味でとどまることや、神の恵みや御霊の力を経験することはありえませんし、信仰や愛や喜びや強さがやどることはありません。謙遜は、恵みが根をはる唯一の土壌なのです。どんな敗北も失敗も、謙遜が欠けているならそのことが十分な説明となります。謙遜は他の恵みや徳と同列に並べられるものではありません。それはすべての根です。なぜなら、それだけが神の御前に正しい態度をとり、神が神としてあらゆることをなさるのを妨げないからです。
 神は私たちを理性的な存在に造ってくださったので、私たちはある命令についてその本質を洞察し、その命令の絶対的な必要性を真に理解すればするほど、ますます自ら進んで、心から従うようになります。残念なことに、教会のなかで謙遜への召しがあまりにも軽く見られてきました。というのも、その本質と重要性が理解されてこなかったからです。謙遜は私たちが神に捧げるものではなく、神が与えてくださるものです。
          (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。次回は「⑨ 明け渡すもの」です。)

2026年6月6日土曜日

2026年06月07日 第一主日礼拝 聖霊に満たされたステパノ

招詞
 私の目はあなたの救いとあなたの義のみことばを慕って絶え入るばかりです。あなたの恵みによってあなたのしもべを取り扱ってください。私にあなたのおきてを教えてください。
                              詩篇119篇123~124節

聖書箇所
使徒の働き7章55~60節

説教
聖霊に満たされたステパノ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/645 謙遜 ⑦ 謙遜の回復

 謙遜の限りを尽くして外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。 
                               コロサイ人への手紙4章5節

 したがって、私たちの贖いとは、堕罪によって失われた謙遜を回復すること、被造物の神に対する本来的なただ一つの真実な関係を回復すること以外の何ものでもありません。ですからイエスが来られた目的は、地上に謙遜を取り戻すため、私たちを謙遜にあずからせるため、それによって私たちを救うためです。天においてイエスはご自分を低くされて人間となられました。私たちがキリストの内に見ている謙遜が、天においてはキリストを保っていました。謙遜がキリストを天から下らせ、キリストが謙遜を天から下らせました。この地上で「ご自分を低くして、死に至るまで従順となられた」のです。キリストの謙遜が彼の死に
徳を与え、それゆえ私たちの贖いとなりました。
 いまやキリストの分け与える救いとはキリストご自身のいのちと死、キリストご自身のご性質と霊、キリストご自身の謙遜を転移させること以下のものではなく、それ以外のものでもありません。キリストご自身の謙遜はキリストの神に対する関係と彼の贖いのわざの、土台であり、根です。イエス・キリストが完全な謙遜の生涯によって、被造物としての人の運命を私たちの代わりに実現してくださいました。
 キリストの謙遜は私たちの救いです。キリストの救いは私たちの謙遜です。 
            (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。次回は「⑧回復の刻印」です。)

2026年05月31日 第五主日礼拝 弱者とご聖霊

招詞
 私は、二心のある人たちを憎み、あなたのみおしえを愛します。 あなたは私の隠れ場、私の盾。私はあなたのみことばを待ち望みます。             詩篇119篇113~114節

聖書箇所
使徒の働き6章1~7節

説教
弱者とご聖霊 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/644 謙遜 ⑥謙遜というこころの場所

 みな互いに謙遜を身に着けなさい。                ペテロの手紙第一 5章5節

 神が御力によってひとたび創造したことが真実であるのと同じように、神は瞬間ごとに同じ御力によって被造物を保っておられることも真実です。被造物は存在の起源とはじまりに立ち返らなければならないだけでなく、その起源においていっさいを神をよりどころとしてい
ることを認めなければなりません。すなわち、被造物の主要な関心、その最も崇高な徳、その唯一の幸福は、今から永遠にわたって、それ自身を空の器として捧げることです。神がそのなかに住まい、御力と良きご性質をあらわすことができるからです。
 人の弱点・欠点は、謙遜の欠如に由来します。どんな人でも他者を自分を比べてしまい自分を卑下したり、逆に高ぶりの誘惑が沸き出てきます。悲しい性質です。しかし、神は、創造以来、謙遜なこころの場所を造ってくださっています。神にまったくより頼む謙遜というこ
の場所は、被造物の本来的な性質に由来します。このことを神に感謝し、それと同時に、主のみ力によりこのこころの場所を誘惑から意識的に守りましょう。
 高ぶり、すなわち謙遜の欠如はあらゆる罪と悪の根です。あの堕落天使が不従順に陥って天の光から外の闇へと追放されたのは、独りよがりな自己賞賛を始めたときでした。
      (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は「⑦失われた謙遜の回復」について)

2026年5月24日日曜日

2026年05月24日 聖霊降臨日礼拝 ペンテコステと私

招詞
 主よ。どうか、私の心からの賛美を受け入れ、御教えを教えてください。あなたの御教えは、永遠に私の宝です。                   詩篇119篇108、111節 現代訳

聖書箇所
使徒の働き2章32~4節

説教
ペンテコステと私 田口勇新牧師

音声のみはこちら:

言(こと)ローグ/643 謙遜 ⑤ 被造物の栄光

 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。               エペソ人への手紙4章2~3節

 神が宇宙を創造なさったとき、被造物を神の完全性と祝福にあずかる者とし、そうして宇宙のなかに神の愛と知恵と力との栄光をあらわすをあらわすという目的がありました。
 最後に造られた人間について考えましょう。その目的は、神が造られた者たちの内に、また造られた者たちを通して、おのおのが受けられる器の大きさに応じて、神ご自身の良きご性質と栄光を転移(トランスファー)することによって、ご自身をあらわすことでした。
 したがって、この転移は、被造物が自分自身の内に所有できるものを与えることではありません。被造物の側で自由に管理したり使ったりできるような種類のいのちと良き性質を与えることではありません。そうではなく、神が永遠に生きておられ、永遠に存在され、永遠に働いておられる方であって、神がすべてのものをご自分の力あるみことばによって保ち、神の内にすべてのものが存在しているのですから、被造物の神に対する関係は、絶えざる、絶対的な、普遍的な依存という関係しかあり得ないのです。
        (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は「謙遜という心の場所」について )

2026年5月17日日曜日

2026年05月17日 第三主日礼拝 起き上がらせて下さるキリスト

招詞
 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。      主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。                     詩篇119篇105、107b節 

聖書箇所
マルコの福音書5章21~24、35~43節

説教
起き上がらせて下さるキリスト 菅孝雄牧師補
説教動画

言(こと)ローグ/642 謙遜④ 恵みが根を張る土壌

  あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。                   マルコの福音書10章43~45節 
     
 弟子たちへのイエスのこの言葉は、私たちに対しても真実です。私たちが、皆に仕える者になっている時、私たち自身がイエスの恵みが根を張る土壌となっています。イエスは、すべての人に仕え、助ける者となることほど天的な神のご性質を現すものはほかにないという、祝福された真理を教えてくださったのです。 忠実なしもべは自分の分をわきまえているので、主人や客の欲するものを給仕することに本当の喜びを見出します。謙遜が罪の意識と比較にならないほど無限に深いものであると知り、またイエスのいのちに参与することであるという事実を受け入れるとき、謙遜こそが本当の高潔さであるという真理を私たちは学び始めるでしょう。また、すべての人のしもべとなることによって謙遜をはっきり示すことは、神のかたちに造られた人間としての私たちの運命を最も高い次元で実現するということもわかるでしょう。 
          (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は「被造物の栄光」について) 

2026年5月10日日曜日

2026年05月10日 第二主日礼拝 目を覚まして祈りなさい

招詞
  あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。                          詩篇119篇103~104節

聖書箇所
ローマ人への手紙13章11節
コリント人への手紙15章34節
エペソ人への手紙6章18節

説教
目を覚まして祈りなさい 松本章宏牧師

言(こと)ローグ/641 謙遜③ 高ぶりは謙遜の欠如から
 
 ですから、高ぶり、すなわちこの謙遜の欠如はあらゆる罪と悪の根です。現在の堕落天使が不従順に陥って天の光から外の闇へと追放されたのは、独りよがりな自己賞賛を始めたときでした。それと同じように、へびが私たちの最初の先祖に神のようになりたいと願う高ぶりの毒をささやきかけたとき、彼らも高い地位から現在の人類が沈んでいる悲惨さへと落ちました。天においても地においても、高ぶり、すなわち自分を高めることは、地獄の門であり、地獄の誕生であり、地獄の呪いです。
 したがって、私たちの贖いとは、失われた謙遜を回復すること、被造物の神に対する本来的なただ一つの真実な関係を回復すること以外の何ものでもありません。ですからイエスが来られた目的は、地上に謙遜を取り戻すため、私たちを謙遜にあずからせるため、それによって私たちを救うためです。     (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は「恵みが根を張る土壌」について)

2026年5月3日日曜日

2026年05月03日 第一主日礼拝 家に帰らせてくださるキリスト

招詞
 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。                              詩篇119篇72~73節

聖書箇所
マルコの福音書5章14~20節

説教
家に帰らせてくださるキリスト 菅 孝雄牧師補
https://youtu.be/rypqlum1xgY

言(こと)ローグ/640 謙遜② 自身を空の器として捧げること

 神が御力によってひとたび創造したことが真実であるのと同じように、神は瞬間ごとに同じ御力によって被造物を保っておられることも真実です。被造物は存在の起源とはじまりに立ち返らなければならないだけでなく、その起源においていっさいを神をよりどころとしていることを認めなければなりません。すなわち、被造物の主要な関心、その最も崇高な徳、その唯一の幸福は、今から永遠にわたって、それ自身を空の器として捧げることです。神がそのなかに住まい、御力と良きご性質をあらわすことができるからです。
 神の付与するいのちは一度にすべての者に分配されたのではなく、全能の御力の絶えざる働きかけによって、そのつど、持続的に与えられています。神にまったくより頼む謙遜という場所は、被造物の本来的な性質に由来します。それは、第一の義務であり、被造物の最も崇高な徳であり、すべての徳の根です。     (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は謙遜の欠如について)

2026年4月26日日曜日

2026年04月26日 第四主日礼拝 まことに主はこの場所におられる 

招詞
 主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。  詩篇119篇65~66節

聖書箇所
創世記28章10~22節

説教
まことに主はこの場所におられる 永井創世KGK東北主事

言(こと)ローグ/639 謙遜① 被造物の栄光

 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」                       (黙示録4:10〜11)

 神が宇宙を創造なさったとき、被造物を神の完全性と祝福にあずかる者とし、そうして宇宙のなかに神の愛と知恵と力との栄光をあらわすという一つの目的がありました。神は造られた者たちの内に、また造られた者たちを通して、おのおのが受けられる器の大きさに応じて神ご自身の良きご性質と栄光を転移することによって、ご自身をあらわすことを願われました。
 けれども、この転移は、被造物が自分自身の内に所有できるものを与えることではありません。被造物の側で自由に管理したり使ったりできるような種類のいのちと良き性質を与えることではありません。そうではなく、神が永遠に生きておられ、永遠に存在され、永遠に働いておられる方であって、その方がすべてのものをご自分の力あるみことばによって保ち、その方の内にすべてのものが存在しているのですから、被造物の神に対する関係は、絶えざる、絶対的な、普遍的な依存という関係しかあり得ないのです。次回から栄光の転移について詳しく学びましょう。
                          (アンドリューマーレー「謙遜」より)

2026年4月19日日曜日

2026年04月19日 第三主日礼拝 サタンに打ち勝つキリスト

招詞
 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。  
                                                                                                                     詩篇119篇18~19節

聖書箇所
マルコの福音書5章1~20節

説教
サタンに打ち勝つキリスト 菅孝雄牧師補
https://youtu.be/Flo7z8P-AFg

2026年4月12日日曜日

2026年04月12日 第二主日礼拝 

招詞

 私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのみことばを忘れません。 あなたのしもべに豊かに報い、私を生かし、私があなたのみことばを守るようにしてください。  詩篇119篇16~17節

聖書箇所
使徒の働き1章3~14節

説教
イエスの昇天 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/638 雲(ネフェレー): 神の栄光の現われ

 そして、(イエスは、)祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
                                ルカの福音書 24章51節

 同じ昇天の記事が、使徒の働き1:9では、「雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。」とあります。ここにある「雲:ネフェレー」は、神の栄光の現われです。
旧約時代では、モーセがシナイの山頂において雲の中で律法を与えられています。荒野における幕屋における主の臨在は雲によって現われました。ソロモンが神殿を奉献したときにも、やはり雲が現われ、祭司たちはその臨在に圧倒されて立っていることができませんでした。雲は神の臨在のしるしです。
新約では、イエスの変貌の時に雲がわき起こり、弟子たちをおおいました。するとその雲の中から、「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け。」という声がしました(ルカ 9:34~35)。復活された神の子であるイエスは雲の中に包まれて昇天されたことによってその栄光を現わされました。そして同様に、イエスが再びこの地上に戻って来られる時にも、雲に乗って来ることが約束されているのです(使徒1:11、マタイ24:30, 26:64、黙示14:16)。見えないものも見たいのが私たちです。主のご栄光を可視化して見せて下さる神の粋なお取り計らいに感謝ですね。
                               (銘形 「雲」から一部引用)

2026年4月5日日曜日

2026年04月05日  イースター・召天者祈念礼拝 イエスの復活

招詞
 主よ、あなたはほむべき方。・・・ 私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。         詩篇119篇12、18節

聖書箇所
ルカの福音書24章1~12節

説教
イエスの復活 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/637 信じ難いこと:十字架か復活か

 パウロは、最高法院の議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」 パウロがこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。 サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、いずれも認めているからである。 使徒の働き 23章6~8節

 イエスの時代、ユダヤ人最高法院(サンヘドリン)は、祭司長たちのいるサドカイ派と律法を教えるパリサイ派から構成されていて、復活は両派の論争の火種になっていました。現世の権威にしがみつくサドカイ派は、復活も天国も信じなかった不信仰者でした。パリサイ派のユダヤ人は、反対にどちらも信じていましたが、メシア=キリストが恥辱の十字架刑になるはずが無いと主張し躓きました。あなたにとってどちらが信じ難いでしょうか。身代わりに死んでくださったイエスの十字架ですか? あるいはイエスの復活ですか?

2026年3月29日日曜日

2026年03月29日 第5主日礼拝 最後に救われた男

招詞
 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはと   こしえまで。主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。                    詩篇118篇1、8節

聖書箇所
ルカの福音書23章26~43節

説教
最後に救われた男 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/636  最後の1週間 ⑦ 三つの出来事

 イエスが十字架において確実に死んだことを表わす表現として、ヨハネの福音書だけは、その死の確実性を表わすために、十字架につけられた二人の者は死を早めるために、「すねを折った」(19:31-32)のですが、イエスの場合には、「すでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった」(19:33)と記し、「イエスのわき腹を槍で突き刺した。すると血と水が出てきた」(19:34)と、ヨハネは証言しています。  

 イエスの確実な死によって三つの出来事が記されています。  

 その一つ目は、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた (マタイ 27:51、 マルコ 15:38)」ことです。これは何を意味する出来事でしょうか。これはイエスの死によってもたらされた 「天的現実の地的な現われ」と言えます 。
 二つ目は、墓が開いて眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返ったことでした(マタイ 27:52)。  神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたことが、「天的現実の地的な現われ」だとすれば、墓が開いて眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返ったことは、「地下的現実の地的な現われ」ということができます。  
 三つめは、百人隊長の目が開かれ、「イエスが神の子である」と告白したこと (マタイ 27:54、 マルコ 15:39、ルカ 23:47)で、これはやがて異邦人にもイエスが神の子であることに霊的な目が開かれて行くことを象徴する出来事でした。                     (銘形 「イエスの死」より一部引用) 

2026年3月22日日曜日

2026年03月22日 第4主日礼拝 イエスの打ち傷のゆえに

招詞
 すべての国々よ、主をほめたたえよ。すべての民よ、主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。              詩篇117篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書27章26~32節
イザヤ書53章1~8節

説教
イエスの打ち傷のゆえに 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/635 最後の1週間 ⑥イエスの女弟子たち

 彼(アリマタヤのヨセフ)は、からだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。・・・・・イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。それから、戻って香料と香油を用意した。                       ルカの福音書 23章53,55~56節

 イエスが十字架から引き降ろされ、墓に納められる様子をしっかりと見届けた勇気ある女性たちがいました。十字架刑に処された罪人は埋葬されず、死体は野に晒されます。この段階では誰も、この墓から三日目にイエスが蘇って出て行くとは知りません。しかし、彼女たちも、イエスの弟子としてできる最後の証として、安息日前の一時間あまり、心を込めてイエスを墓に葬ることができました。
 三日目の朝、彼女たちは、本格的な葬りの準備をするために、またお別れのために墓に出向いたのでした。ここまで間違いだらけの行動のように思いますか? しかし、空になった墓のそばで、天使のみ告げによってイエスの復活を最初に信じたのは彼女たちでした。信仰と勇気と行動力、彼女たちの存在が、やがて誕生する教会を下から支える力となっていったのではないでしょうか。人の目にふれないところでも、イエスに対する弟子としてのあかしを立てようとする志はすばらしいと思います。いつでも、どこでも、自分がひとりのキリスト者であるという自覚をもって真実に生きることが求められていると思います。      (銘形 「イエス墓に葬られる」より一部引用)

2026年3月15日日曜日

2026年03月15日 第3主日礼拝 総督ピラトとイエス

招詞
 私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。 主が私に耳を傾けてくださるので、私は生きているかぎり主を呼び求める。               詩篇116篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書18章28~40節

説教
総督ピラトとイエス 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/634 最後の1週間 ⑤ ヘロデ・アンテパスの尋問

 それを聞いたピラトは、この人(イエス)はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前からイエスに会いたいと思い、またイエスの行なうしるしを何か見たいと望んでいたからである。 
                               ルカの福音書 23章6~8節

 ガリラヤとペレヤ地方はヘロデ大王の二番目の息子アンテパスに与えられていましたが、過ぎ越しの祭りでエルサレムに来ていました。ピラトに託されてイエスを尋問しようとしているヘロデとは、このアンテパスのことです。このヘロデ・アンテパスは、かつて弟のピリポの妻ヘロデヤと密通し、バプテスマのヨハネから、公然と「あなたが(ヘロデヤを)めとるのは律法違反=姦淫です」と言われたことで、ヨハネを投獄しました。ヘロデは悪妻ヘロデアとその娘の奸計で獄中でヨハネを殺しました。
 さて、好奇心ゆえにいろいろと質問するヘロデに対して、イエスは一言も答えられませんでした。このイエスの毅然とした沈黙に、ヘロデは怒りを覚え、イエスを「侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した」のです(23:11)。反省なしに罪を重ね、ここでは場を読まず、しゃべり続けるヘロデに対してイエスさまは沈黙で対処なさるほかありませんでした。                         (銘形「ヘロデの尋問」より一部引用)

2026年3月8日日曜日

2026年03月08日 3・11祈念礼拝 ペテロ(岩)と呼ばれた男

招詞
 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。                       詩篇115篇1節

聖書箇所
マタイの福音書26章31~35節

説教
ペテロ(岩)と呼ばれた男 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/633 最後の1週間 ④ 軽蔑と侮辱に耐えて

 (兵士たちは)、イエスが来ていた物を脱がせて、緋色のマント(上着)を着せた。 それから、いばらで冠を編んでイエスの頭に置き、右手に葦の棒を持たせた。そしてイエスの前にひざまずき、「ユダヤ人の王さま。万歳。」 と言って、からかった。またイエスに唾をかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたいた。                     マタイの福音書 27章28~30節

 イエス様はユダヤ人からもローマの兵士からも、身体的・肉体的な痛みだけでなく、精神
的なありとあらゆる屈辱を受けました。屈辱ー軽蔑、嘲笑、嘲弄、嘲り、罵り、揶揄( や
ゆ)、侮り、中傷、批判、非難、嫉み、憎悪、冷笑、唾をかけられる、陰謀、偽証、裏切り
― これらすべてがイエスに注がれたのです。
 私たちはこれらのひとつでも他人から仕向けられるなら、おそらく、けんか腰になるか、落ち込んでしまうことになるのではないかと思います。私たちは、しかし、イエス様を信じて救われるまで、イエス様のこの苦しみに気づきませんでした。
 すべて、私たちの罪と咎を赦し、サタンの鎖から救うためにイエス様が耐えられたことを知ったのです。イエス様が飲まなければならなかったこの苦杯(くはい)を思い起こして心から感謝しましょう。                    (銘形「ローマ兵たちの侮辱」より一部引用)

2026年3月2日月曜日

2026年03月01日 第1主日礼拝 ゲッセマネの祈り

招詞
 ハレルヤ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。今よりとこしえまで、主の御名がほめられるように。日の昇るところから沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。                                 詩篇113篇1~3節

聖書箇所
マルコの福音書14章32~42節

説教
ゲッセマネの祈り 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/632 最後の一週間 ③ハレル(ヤ)詩篇

 そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。
                              マタイの福音書 26章30節

 詩篇113~118篇までの六篇は「ハレル詩篇」と呼ばれ、過ぎ越しの祭りを含むユダヤ人の三大祭りの時に歌われてきた詩篇です。例えば、過越の祭りには、その食事の前に113篇と114篇が歌われ、食後に115篇から118篇までが歌われます。上記の賛美の歌とは詩篇115~118篇の朗誦です。「彼らは」とあるのは、イエスさまと弟子たちが一緒に歌ったのです。
 ハレル詩篇の概要は、113 神のへりくだり、114 贖いの力、115 神対偶像、116 聖徒の死、117異邦人の賛美、118メシヤの凱旋の様です。
 詩篇118:22-23は、「家を建てる者たちの捨てた石、それが要(礎)の石になった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。」です。イエス様がエルサレムに入って、ユダヤ人の宗教指導者らと議論された時、この言葉が成就すると言われました。ユダヤ人指導者らがこれからメシヤを殺すたとえを、ぶどう園の農夫を使って話された後に、この詩篇118篇の箇所を引用されました。神の家を建て上げるはずの宗教指導者らが、かえってイエス様を捨ててしまった。けれども、そのイエス様がメシヤであった、という預言です。教会の礎の石となられたイエス様を主と信じて救われた私たちは幸いですね。            (ロゴス「ハレル詩篇」より一部引用)

2026年2月22日日曜日

2026年02月22日 第4主日礼拝 洗足の教え

招詞
 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩、わが救い、わがやぐら。私は決して揺るがされない。              詩篇62篇1~2節

聖書箇所
ヨハネの福音書13章1~17節

説教
洗足の教え 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/631 最後の一週間 いちじくの 木 からのたとえ

 弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わりのしるしは、どのようなものですか。」 
                                マタイの福音書24章3節

 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が、戸口まで近づいていることを知りなさい。    マタイの福音書24章32~33節(マルコ 13:28、ルカ 21:29)
 夏を知るには、いちじくの枝や葉を見れば分かります。そのように、キリストの再臨の時期を知るにはこの箇所の前に語られた諸々の現象を見るべきである、とイエスは語ります。
 後半の節は3節に対する答えの要約のようなもので、3節の 「そのようなこと」だけでなく、4~31節に示されたそのほかの、「これらのこと、すべて」が起れば、それは「キリストの再臨と世の終末の兆」であると言われました。ただし、その「時期」については、誰もこれを知ることができない(36節)、とイエスは述べられ、それが、初めの弟子たちの質問への答えだと言われたのです。
 聖書を良く読み、世界の今を見ることで、時を見る目、洞察は常に養っておかなければなりませんね。今、与えられている猶予(あわれみ)の中で神の国の福音を宣べ伝えながら、神の国の完成を仰ぎ待ち望みたいと思います。            (黒崎「イエスの再臨の前兆」より一部引用)
 

2026年2月15日日曜日

2026年02月15日 第3主日礼拝 柔和な者の幸い

招詞
 神よ、あなたへの誓いは私の上にあります。感謝のいけにえで、あなたにそれを果たします。まことに、あなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むために。          詩篇56篇12~13節

聖書箇所
マタイの福音書5章5節
コロサイ人への手紙3章12~13節

説教
柔和な者の幸い 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/630 最後の一週間 祈りの家で

 それから、イエスは宮に入って、その中で売り買いしている者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」
                            マタイの福音書21章12~13節

 上記、「祈りの家」とは教会のことではありません。イザヤ書56章によれば、これは「メシア王国における神殿」のことです。神と人とがともに住む神殿は、メシア王国においては「祈りの家」と呼ばれるのです。その「祈りの家」のことを、イエスは「わたしの父の家」、「わたしの家(イザヤ56:7)」と言っているのです。
 このイザヤ書の預言は、メシア王国における異邦人たちに対するもので教会が携挙されたのちに救われる異邦人(非ユダヤ人すべて)に対する預言であり、彼らを「わたしの聖なる山」、すなわち、エルサレムに連れて来て、「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」という預言です。にもかかわらず、当時の祭司たちは私利私欲のために「神殿を強盗の巣にした」のです。ほどなく神の裁きが下りました。紀元70年9月7日、ローマ軍によりエルサレムは攻略され、神殿は基礎まで徹底的に破壊されました。イエスはこの裁きを知っていて涙を流されたのでした。
 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、お前の子らを集めようとしたことか。それなのに、お前たちはそれを望まなかった。(ルカ13:34)。      (銘形「祈りの家」の意味から一部引用)

2026年2月6日金曜日

2026年02月08日 第2主日礼拝 悲しむ人のこれから

招詞
  主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山、私たちの神の都で。 
                                     詩篇48篇1節

聖書箇所
マタイの福音書5章3~4節

説教
悲しむ人のこれから 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/629 受難節(レント)と棕櫚の日

 その翌日、(過ぎ越しの)祭りに来ていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」            ヨハネの福音書12章12~13節
(*これまでの訳「しゅろの木の枝」は、新改訳2017では「なつめ椰子の枝」となってます。)

 教会は、イースター前日の土曜日から逆算して46日目、日曜を除けば40日間を受難節と呼んで、イエス様の十字架と復活の季節に心備えをしてきました。今年は、4月5日がイースターですから、46日前は、2月18日です。

 イエス様が十字架にかかられた一週間前は特筆すべきなことが起こり、福音書に記されていますので4つの福音書の最後の部分を読み比べながら受難節を過ごしてみてはいかがでしょうか。

 その中で、上記にあるように、イエス様がロバに乗ってエルサレムに入城したエピソードを記念する「棕櫚の日(Palm Sunday)」は世界中の教会で祝われ、子供も参加できる楽しい礼拝です。この木が育たない緯度の高い地域では他の枝を持ち寄り教会に集まります。私たち家族も1999年に一時ダーウィンに滞在した折、出席教会で受難節とイースターをお祝いしたことがありますが、この日曜日を祝いました。

 もちろん、イエス様は終わりの時に栄光の姿で再臨なさり、エルサレムに帰って来られますが、それまでにサタンと悪霊たち、それにサタンに取り込まれた人たちが世界に挑みます。しかし、主の勝利は定まっています。

2026年2月1日日曜日

2026年02月01日 第1主日礼拝 狭い門から入りなさい

招詞
  すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をもって、神に大声で叫べ。まことに、いと高き方主は恐るべき方。全地を治める、大いなる王。               詩篇47篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書7章13~14節

説教
狭い門から入りなさい 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/628 ハッピーと祝福

 幸いなことよ、そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。 幸いなことよ、主が咎をお認めにならず、その霊に欺きのない人は。                     詩篇32篇1~2節

 ダビデの詩(うた)です。幸いな人は「祝福された人」の訳語です。直訳は、「そのそむき赦された人、罪を覆われた人は祝福された人」です。
ダビデの気持ちを考えると、感情的な幸せ(ハッピー)よりも深いところの喜びが伝わってきますね。主に愛され、罪赦された者の喜びを「祝福されている」という思いとともにダビデと共有できますね。
 さて、次のローマ教会へのチャレンジは、他者との関係の祝福です。
「あなたがたを迫害する者たちを祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵ある者と考えてはいけません。 だれに対しても、悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。」 
                           ローマ人への手紙12章14~17節
「無理ですよ!」と叫びたくなりますが、これが神様の設定値です。全部、願い下げしますか?
 パウロは、この言葉を実行した人だと思います。そして、ローマ教会のクリスチャンたちにチェレンジしました。私たちはどうでしょうか? 「呪いの思いと言葉をやめる、人のために泣く、高ぶりを捨てる、人を優れていると思う」など、ご聖霊の力を頂ければ、まだまだ私たちにも伸びしろはあるように思いますが、いかがでしょうか?

2026年1月25日日曜日

2026年01月25日 第4主日礼拝 岩の上に家を建てる人

招詞
 神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。たとえ地は変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。       詩篇46篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書5章17節、7章24~27節

説教
岩の上に家を建てる人 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/627 幸いな人々 ② み国における現在形と未来形

 
図を観察すると、第一の幸いと第八の幸いの理由を示す動詞が現在形であること。そしてそれに囲まれるようにして他の幸いの理由を示す動詞が未来形であることが分かります。これは、「天の御国が近づいた」という福音における「すでに今」と「いまだ」との緊張関係を如実に表しています。すでに今手にできる幸いな現実と、やがて時が来た時に手にできる完全な幸いの約束です。この時制を知るだけでも、ここで語られている幸いとは、叱咤激励したり、私たちの努力で実現できたりするものではないことがわかります。天の御国はすでに近づいています(到着しています)が、その御国の祝福の実現は将来において確実に約束されているのです。イエスを信頼し、約束を信じて、焦らず、心穏やかにみ国の到来を待ち望みつつ現在を進みましょう。 (銘形「幸いな人々」から一部引用)

2026年1月18日日曜日

2026年01月18日 第3主日礼拝 主イエスの友 洗礼者ヨハネ

招詞
  幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される。主は彼を見守り、彼を生かし、地上で幸せな者とされる。          詩篇41篇1~2a節

聖書箇所
マタイの福音書3章1、2~5節
ヨハネの福音書2章42~52節、3章11節

説教
主イエスの友  洗礼者ヨハネ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/626 み国における幸いな人々 ①

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。    マタイの福音書5章1、10節

 山上の説教によれば、天の御国の幸いは、八つの面をもっています。天の御国はどのような人々によって成り立っているのでしょうか。それは「幸いな人々」によってです。「八つの幸い」は天の御国に住む人々の特権的幸いです。八つの中のどれかがあればそれで良いということではなく、天の御国に住む人々は八つのすべての面をもっているです。いくつかがあればそれで幸いということではなく、八つのすべての面をもっている人々です。つまり、それは八つで一つなのです。左の図はそのことを表しています。天の御国とは、八つの幸いのすべての面を持った民によって成り立っている神の支配(王国)なのです。              (銘形「幸いな人々」から一部引用)

2026年1月11日日曜日

2026年01月11日 第2主日礼拝 イエスの二泊三日

招詞
 私は切に、主を待ち望んだ。主に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げてくださった。私の足を巌(いわお)に立たせ、私の歩みを確かにされた。 主はこの口授けてくださった。新しい歌を、私たちの神への賛美を。 
                                   詩篇40篇1~3節

聖書箇所
ルカの福音書2章41~52節

説教
イエスの二泊三日 田口勇新牧師



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言(こと)ローグ/625 樹木の新年

 幸いなことよ。主を恐れ、主の道を歩むすべての人は。 あなたがその手で労下実りを食べること、それはあなたの幸い、あなたへの恵み。 あなたの妻は、家の奥で、たわわに実るぶどうの木のようだ。 あなたの子どもたちは、食卓を囲むとき、まるでオリーブの若木のようだ。
                                  詩篇128篇1~3節

 ユダヤ暦でシュバット月(11番目の月)の15日目を意味するトゥ・ビ・シュバットは「樹木の新年」を祝う日です。西暦では毎年1月頃に当たり、イスラエルのこの時期は雨季。木々が芽吹き、花が咲き始め、新しい一年のサイクルが始まる時期でもあります。トゥ・ビ・シュバットは、この自然界における新生をお祝いする日で、ドライフルーツやナッツ類を食べる習慣があり、植樹などの活動も盛んに行われます。
 主を畏れ、主の道を歩む者の幸いを(ドライ)フルーツを食べながら噛みしめるとは、すてきなアイデアですね。

2026年1月4日日曜日

2026年01月04日 第一主日礼拝 啓示の光

 招詞
    主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。 主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
                                   詩篇37篇3~5節

聖書箇所
ルカの福音書2章21~38節

説教
啓示の光 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/624 イスラエルの新年 ローシュ・ハシャナー

 毎年第七月の一日は祝日とし、ラッパを吹ふき鳴ならしなさい。その日はすべての民が仕事を休み、聖なる集会を開く。               民数記 29章1節 (リビングバイブル)

 イスラエルでは、ユダヤ暦の新年祭の時期になぞらえて、9月〜10月頃に新年を祝います。2025年は10月2日が新年でした。

 ローシュ・ハシャナーは元旦の2日間を示しますが、その後の連続した祝日を示すこともあります。10日後の「贖罪の日:ヨム・キプールまでの連続した祝日を「畏れの日々」としており、イスラエルでは長期の連休となることが多いです。

 贖罪の日:ヨム・キプールは罪のための贖いの犠牲を奉げる日です。十字架の金曜日と似ていますが異なります。

 「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」 ヘブル人への手紙 7章27節

 一回で完全に私たちの罪を赦し贖ってくださった主に感謝しましょう。このイエスさまを愛し、従いましょう。            シャナー・トヴァー(よいお年を=新年おめでとう)!

2026年1月1日木曜日

2026年01月01日 元旦礼拝 幸いな人ですか?

招詞
  ハレルヤ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。私は生きているかぎり、主をほめたたえる。いにちあるかぎり、私の神にほめ歌を歌う。                詩篇146編1,2節 

聖書箇所
詩篇1篇1~6節

説教
幸いな人ですか? 菅孝雄神学生