2025年4月27日日曜日

2025年04月27日 第四主日礼拝 私たちは主を見た

招詞
 さあ、主に向かって、喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。 感謝をもって、御前に進み、賛美をもって、主に喜び叫ぼう。来たれ。ひれ伏し、膝をかがめよう。まことに、主は私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊。      詩篇95篇1~2,6~7節

聖書箇所
ヨハネの福音書20章19~31節

説教
私たちは主を見た 正木牧人牧師

言(こと)ローグ/589 時を待つ間

 私の時は、御手の中にあります。                     詩篇31篇15節

 南アフリカの牧師アンドリュー・マーレーは、英国に滞在していた1895年、持病の腰痛が再発して苦しみ、静養していました。ある日、滞在先の女主人が、大きな問題を抱えた女性が助言を求めていると告げました。マーレーは言いました。「これを渡してください。自分を励ますために書いたものですが、彼女のためになるかもしれません。」そこには、以下のように書かれていました。

「困難なときには、こう言おう。
① まず、神は私をここに置かれた。神のみこころで、私はここにいる。だから、私はやすらかだ。
② 神は、ご自分の愛の内に私を保たれ、この試練の中で、私が神の子どもらしく振る舞えるように、恵みを下さる。そして、神は試練を祝福に変えられる。これを通して私に、学ぶべきことを教えて下さる。その品性をいただけるように、私の内に働かれる。
③ 神は最善のときに、ここから脱出させて下さる。いつ、どのようにしてかは、神がご存じだ。神の定めにより、神に支えられ、神に訓練され、神の時のために、今、私はここにいる。」

 私たちは、問題はさっさと解決してもらいたいと思い、「神さま。。。」と祈ります。毎日、あきらめないで祈ることは大切です。しかし、同時にすぐには解決しない問題も多くあるのです。大切なことは、神はご自分の愛の内に私たちを留めて下さっていることを信じて疑わないことです。その時、神の恵みによって、私たちは主に憩うことができます。
                       (ダビデ・ローパー「神の時」 より一部引用)

2025年4月20日日曜日

2025年04月20日 イースター・召天者記念礼拝 復活のイエスに 出会ったトマス

招詞
 御使いは女たちに言った。「あなたがた、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのはわかっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」     マタイの福音書28章5~6節

聖書箇所
ルカの福音書24章13~32節

説教
イエスに心燃やされて 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/588 しるしを求める

 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人(非ユダヤ人)は知恵を追求します。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。    コリント人への手紙 第一 1章22~23a節

 この手紙を書いたパウロ自身ぺニヤミン族出身ですが、イエスの時代は、イスラエル人の子孫は、ユダヤ部族が人口の大部分を占めていたので、自分もユダヤ人として紹介しています。

 イエスは、弟子たちがしるしで確証を得る傾向ををご存知でしたから、復活の直後にしるしをみせました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられて。すると、イエスが来られ、彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」                          ヨハネの福音書 20章19~20節

 イエスは、しるしを見て、復活を信じ、喜びに沸く弟子たちに、最大の大事を再確認することを忘れません。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 そしてこう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。許さずに残すなら、それはそのまま残ります。」(21~23)

 私たちは聖書を読み、そこから知恵を求め、イエスを、メシア、キリストと信じて救われました。この知恵の中には、弟子たちの信仰の追体験も含まれますから、聖書を読むときに、ご聖霊の働きで自分の罪を示されて涙を流し、イエスを信じて罪赦され、喜びながら、日々、天国の望みの中に生きています。

2025年4月13日日曜日

2025年04月13日 第二主日礼拝 ゴルゴダへの道

招詞
 いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。「私の避け所、私の砦(とりで)、私が信頼する私の神」と。            詩篇91篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書27章31~44

説教
ゴルゴダへの道 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/587 隠れ弟子たちの勇気

 ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。                           マタイの福音書27章59~60節

 十字架の日、イエスが洞窟の墓に葬られたことは、例外中の例外でした。なぜなら、十字架につけられた者たちはそのまま放置されて埋められるか、あるいは燃やされるかのいずれかであったからです。イエスの亡骸はイエスの隠れ弟子であったアリマタヤのヨセフ(以下ヨセフ)とニコデモによって葬られたのです。実は彼らは最高議会の有力な議員でした。ヨセフは、勇気をもってピラトのところに行って、イエスのからだの引き渡しを願って、それが許可され、自分のために造っておいた新しい墓にイエスを納めました(マタイ27:60、マルコ15:46、ルカ23:53、ヨハネ19:42)。特に、ヨセフについては「彼自身もイエスの弟子になっていた」(マタイ27:57)と記しています。彼は「議員たちの計画や行動には同意していなかった」(ルカ23:51)反骨分子であり、「神の国を待ち望んでいた」(マルコ15:43、ルカ23:51)のです。ヨセフは、イエスの亡骸を包む亜麻布を準備し、ニコデモが没薬とアロエを混ぜた香料で埋葬しました。
 隠れ弟子たちが、勇気ある最善の信仰を表して後世の私たちに伝えたことには意味があります。政治や社会(職場)などが複雑に絡んだ事情のなかでも主イエスを証し、主のご栄光を表す方法は必ずあるということですね。           (銘形「十字架の最後の一週間」から一部引用)

2025年4月5日土曜日

2025年04月06日 第一主日礼拝 イエス、子ろばに乗って

招詞
 幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。彼らは、あなたの御名をいつも喜び、あなたの義によって、高く上げられます。
                                 詩篇89篇15~16節

聖書箇所
マタイの福音書21章1~11

説教
イエス、子ろばに乗って 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/586 さとく、素直に
 カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。   マタイの福音書22章21節

 十字架の前の週、敵である祭司長、律法学者たちは自分の弟子たちを送送り(マタイ21:15-16)、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そうと計りました。彼らは「税金をカイザルに納めることは律法にかなっているか、いないか」という質問をしました。これはどちらに答えてもイエスをわなに陥れる狡猾な質問でした。もしイエスがカイザルに「税金を納めなさい」と言えば、神に背いているとパリサイ人たちから訴えられます。反対に、「納めなくてもよい」と答えたなら、カイザルに背く者として訴えられてしまいます。いずれも答えたら最後、言葉尻を捕えられて訴えられてしまう論法でした。(注)カイザルはローマ皇帝
 冒頭のイエスのことばは、彼らの質問の設定が誤っている事を指摘したもので、カイザルと神を同列に置き、神への忠誠かカイザルへの忠誠かを迫ったところに問題がありました。カイザルはあくまでも神の支配下にある者であり、カイザルに対して納税することと、神のものは神に返すことは決して矛盾しないことを意味することばでした。これを聞いた敵は驚嘆して立ち去ったのでした。
 かつてイエスが次のように話されました。「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい。…人々があなたがたを引き渡した時、どのように話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、その時、示されるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される父の御霊だからです。(マタイ10:16, 19~20)」と。この信仰で私たちも進みたいと思います。                    (銘形「十字架の最後の一週間」から一部引用)