2025年8月10日日曜日

2025年08月10日 第二主日礼拝 キリスト者の自由 ①

招詞
 ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげよう。 直ぐな人の交わり、主の会衆において。主ののみわざは偉大、 それを喜ぶすべての人に、尋ね求められるもの。そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に立つ。                          詩篇111篇1~3節

聖書箇所
ガラテヤ書5章1~12節

説教
キリスト者の自由 ① 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/603 七福の教え

 ガリラヤ湖の西岸にエ・タフガという漁村があります。その湖岸より道を上っていくと、山上の説教がなされたと言われる美しい丘があります。そこでイエスは山上の説教(マタイ5-7章)を語りました。最初の五章3-12節は、「幸いです」が繰り返られているので、七福の教えと呼ばれて親しまれていますが、そこには、イエスの弟子であることの意味と報いが語られています。
 文語訳では、「さいわいなるかな」と感嘆の響きのある訳になっており、その方がイエスの意図を忠実に再現しているように思います。つまりイエスは、ここで幸福になる方法や秘訣を語っているのではななく神の子であることの客観的な事実を指摘しています。確かに神の助けと守りを祈り求めざるを得ない心の貧しい者にとって、神の支配の中にあることは、その人の現実ではないでしょうか(3節)、嘆き悲しみ、鬱積(うっせき)した心をぶちまける人は主に慰められます(4節)、自分の無力さと弱さを認め、神に信頼し、神の公平な取扱いに委ねる者は、神が味方になり、しかるべき祝福を受け継がせてくださいます(5節)。同じ姿勢で神の正義を熱心に求める者は、その報いを受けます(6節)。弟子たちは、身じろぎもしないでイエスの言葉に聞き入ってたはずです。あなたはどうですか? <後半へ続く>      (「聖書通読一日一章「七福の教え」より一部引用)

2025年8月3日日曜日

2025年08月03日 第一主日礼拝 自由の子

招詞
 神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌います。私の心の底も。 琴よ、立琴よ、目を覚ませ。私は暁を呼び覚まそう。主よ、私は諸国の民の間で、あなたに感謝し、もろもろの国民の間で、あなたをほめ歌います。                      詩篇108篇1~3節

聖書箇所
ガラテヤ書4章21~31節

説教
自由の子 田口勇新牧師



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言(こと)ローグ/602 普段着の福音

  まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。                   申命記30章14節

 福音書は、イエスさまの言行録です。福音書を読むとき、特に奇跡のエピソードに触れると、わたしたちの目はどうしても詳細な出来事に引きつけられてしまい、物語全体を見逃してしまいがちです。しかし、奇跡は決して物語の中心ではありません。
 奇跡が物語の中に置かれている理由は、物語全体のメッセージを支え、主張するためです。実は、新約聖書が書かれているギリシア語では、「奇跡」ではなく「しるし・わざ」という意味の言葉が使われています。
 特に、ヨハネの福音書は、次のように、しるし・わざの意味を読者に解説している優しい言行録です。文中、「~のために」が目印です。

 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらは この書には書かれていない。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
                                 ヨハネ福音書 20:30~31

 福音書や、使徒の働きなどのしるしなど歴史的なできごとを読む時、「このしるしはどのような目的で語られているのか?」「この出来事を通して、福音書記者は何を私に伝えようとしているのか?」などということを心に留めて、あなたに贈られるみことばをお受け取りください。