招詞
ハレルヤ。私は心を尽くして主に感謝をささげよう。 直ぐな人の交わり、主の会衆において。主ののみわざは偉大、 それを喜ぶすべての人に、尋ね求められるもの。そのみわざは尊厳と威光。その義は永遠に立つ。 詩篇111篇1~3節
ガリラヤ湖の西岸にエ・タフガという漁村があります。その湖岸より道を上っていくと、山上の説教がなされたと言われる美しい丘があります。そこでイエスは山上の説教(マタイ5-7章)を語りました。最初の五章3-12節は、「幸いです」が繰り返られているので、七福の教えと呼ばれて親しまれていますが、そこには、イエスの弟子であることの意味と報いが語られています。
文語訳では、「さいわいなるかな」と感嘆の響きのある訳になっており、その方がイエスの意図を忠実に再現しているように思います。つまりイエスは、ここで幸福になる方法や秘訣を語っているのではななく神の子であることの客観的な事実を指摘しています。確かに神の助けと守りを祈り求めざるを得ない心の貧しい者にとって、神の支配の中にあることは、その人の現実ではないでしょうか(3節)、嘆き悲しみ、鬱積(うっせき)した心をぶちまける人は主に慰められます(4節)、自分の無力さと弱さを認め、神に信頼し、神の公平な取扱いに委ねる者は、神が味方になり、しかるべき祝福を受け継がせてくださいます(5節)。同じ姿勢で神の正義を熱心に求める者は、その報いを受けます(6節)。弟子たちは、身じろぎもしないでイエスの言葉に聞き入ってたはずです。あなたはどうですか? <後半へ続く> (「聖書通読一日一章「七福の教え」より一部引用)