2024年6月30日日曜日

2024年06月30日 第5主日礼拝 神のことばだけが永遠に

招詞
 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。 主のほかにだれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。      詩篇18篇30~31節

聖書箇所
イザヤ書40章6~8節
ヨハネの福音書1章1節

説教
神のことばだけが永遠に 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/547 「三度も」ということばが意味するもの

 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」 
                               マルコの福音書14章36節


 聖書には「三度」ということばは意外と重要な意味合いをもっています。パウロの願いはなぜ何度でもなく「三度」なのでしょう。イエスのゲッセマネの祈りのときにも、十字架を前にしてイエスは御父に祈りました。たとえ一時的にしろ、死をもって父と切り離される、罪の無い、神の子としての苦しみの祈りでした。どうしてもこの杯—十字架による身代わりという手段—を飲まなければならないのですか。他の方法はないのですかと、イエスは三度御父に祈っています。そして三度ともイエスの祈りには御父は答えられませんでした。答えられなかったということが答えなのです。つまり、その「杯」を飲み干すことを通してしか、人類の救いがないということです。イエスは三度祈ってそれが御父のみこころだと受けとめ、それから敢然と自ら、十字架に向かって行かれたのです。                     (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年6月23日日曜日

2024年06月23日 第4主日礼拝 得たものと捨てるもの

招詞
 その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。 その比類なき偉大さにふさわしく、神をほめたたえよ。 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。 琴と立琴に合わせて、神をほめたたえよ。                                   詩篇150篇2~3節

聖書箇所
コロサイ人への手紙3章1~11節

説教
得たものと捨てるもの 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/546 ニムロデ ~ セムの家系なのに

 「さあ、われわれは自分たちのために、町(都市)と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。」                                創世記11章4節

 神とともに歩もうとしたセツの系譜のハムから、主に対抗する者たちが台頭してきました。ハムの子クシュから未子の問題児「ニムロデ」が生まれます。ニムロデは、メソポタニア地方で最高の権力者となり大きな町「ニネベ」と「バベル」を建てました。上記「名をあげる」とは自分たちの存在を誇示することであり、神ぬきの世界を築くことを意味します。それを神は、ことばを乱して意思疎通を妨げる方法で止めました。ニムロデたちが最も恐れていたことでした(10:7-10)。そうした流れの中に、セツからセムへ、やがてヘブル人アブラハムにつながっていく系譜が記されています。そして、時いたって主イエス・キリストが誕生します。私たちは今やこのイエス・キリストとつながることにより、信仰者の系譜の中に招かれているのです。
                           (銘形「ノアの系図」より一部引用)

2024年6月16日日曜日

2024年06月16日 教会創設50周年記念 音楽礼拝 

聖書箇所
イザヤ書49章15節
マタイの福音書25章31~40節

メッセージ
神が生きて働いてくださる実感 木下春樹牧師


2024年6月9日日曜日

2024年06月09日 第2主日礼拝 教会の主はイエス ②

招詞
 正しい人の救いは、主から来る。苦難のときの、彼らの砦から。主は彼らを助け、解き放たれる。                              詩篇37篇39~40節

聖書箇所
コロサイ2章8~23

説教
教会の主はイエス ② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/545 みことばを食べる(アコル)

 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べ(味わい)ました。
そうして、あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。
                                 エレミヤ書15章16節

 南王国のマナセ王が行った数々の悪行は、南ユダの滅亡、即ち、エルサレム陥落とバビロン捕囚を招く要因となりました。エレミヤは、この聞く耳を持たないマナセ王に預言と苦言を語り続けなければなりませんでした。次節の主の怒りの言葉を受け、無力感を経験し、預言者としての召命に揺らぎが出た時と言われています。

 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。彼らがあなたに、『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、捕囚に定められた者は捕囚に。』 
                                エレミヤ書 15章1~2節

 それでもエレミヤは、主のことばを王に語り続けました。上記、16節は、不信の王と主の怒りの狭間で見出した主からの励ましのみことばでした。後日、マナセ王自身は苦難に遭って、まことの神、主に立ち帰りましたので旧約の放蕩息子とも呼ばれています。悔い改めるのに遅すぎることはないという好例です。マナセ王の孫は、あの善王ヒゼキヤです。