招詞
神、その道は完全。主のみことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。 主のほかにだれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。 詩篇18篇30~31節
「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
マルコの福音書14章36節
聖書には「三度」ということばは意外と重要な意味合いをもっています。パウロの願いはなぜ何度でもなく「三度」なのでしょう。イエスのゲッセマネの祈りのときにも、十字架を前にしてイエスは御父に祈りました。たとえ一時的にしろ、死をもって父と切り離される、罪の無い、神の子としての苦しみの祈りでした。どうしてもこの杯—十字架による身代わりという手段—を飲まなければならないのですか。他の方法はないのですかと、イエスは三度御父に祈っています。そして三度ともイエスの祈りには御父は答えられませんでした。答えられなかったということが答えなのです。つまり、その「杯」を飲み干すことを通してしか、人類の救いがないということです。イエスは三度祈ってそれが御父のみこころだと受けとめ、それから敢然と自ら、十字架に向かって行かれたのです。 (銘形「謙遜への招き」より一部引用)