2024年7月28日日曜日

2024年07月28日 第4主日礼拝 アリスタルコとマルコ

招詞
 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。
                                   詩篇23篇1~3節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章7~18節

説教
アリスタルコとマルコ 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/551 謙遜についての教え(4)「モデルはイエスさま」

 私は、・・・ 謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。
                                 使徒の働き20章19節

 これは、パウロが、エペソ教会の長老たちに語った惜別のことばです。
パウロはエペソの教会を三年余り、手塩にかけて建て上げるうえでかなり意識的に「謙遜の限りを尽くして」主に仕えたことが理解できます。しかしその背景には、「謙遜の限りを尽くして、神に仕え」た真のモデルがいます。それが主イエス・キリストです。パウロの生き方はまさに主イエス・キリストの従順に完全に倣うものであったと言えます。

 キリストは、神の御姿であられるのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。         ピリピ人への手紙2章6~9節

 この御子イエスの従順こそ、真の「謙遜」の姿です。パウロはこの謙遜を見倣うようにと勧めています。私たちはイエスさまから、以下のような、謙遜に歩む招きをいただいています。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。                          マタイの福音書11章29節
                          (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年7月21日日曜日

2024年07月21日 第3主日礼拝 ティキコとオネシモ

招詞
 あなたのしもべを、傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は、大きな背(そむ)きから解き放たれて、全き者となるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。
                                 詩篇19篇13~14節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章7節~18

説教
ティキコとオネシモ 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/550 謙遜についての教え(3)「自分を無にして」

 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべ(ドゥーロス)の姿をとり、人間と同じようになられました。
                              ピリピ人への手紙2章6~7節

 イエスは決して神性を捨てられたのではありません。神の本質の変化ではありません。ただ、地位と状態が変化したのです。神の権威ある地位から、しもべの状態に、その働きを変えられたというのが、ピリピ2:6~7で言おうとしていることです。しかもその変化は、自覚的・主体的です。強制や義務から変えたというのではありません。むしろ積極的に「しもべ(仕える者)」となられたのです。
私たちはひとりひとり、主のことばに照らされて歩んでいるかを吟味しなければなりません。クリスチャンであることは、肩書きでもなく、飾りでもなく、キリストのしもべという実質をもった存在でなければならないのです。そのような存在になるようにと言われた主に従うことができるように、私たちに寄り添っていてくださる神の賜物、助け主である聖霊の助けを仰ぎたいと思います。

 わたしは、あなたの神、主である。・・・あなたの口を大きく開けよ。わたしが、それを満たそう。     詩篇81篇10節           (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年7月12日金曜日

2024年07月14日 第2主日礼拝 塩味の効いたことば

招詞
 主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで、人の目を明るくする。
                                   詩篇19篇7~8節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章2節~6

説教
塩味の効いたことば 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル



言(こと)ローグ/549 謙遜についての教え(2) 「律法からの自由」


 私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。                             ローマ人への手紙7章24節

 使徒パウロは「謙遜の限りを尽くして・・主に仕えた(使徒20:19)」とエペソの長老たちに言いました。彼の前身はパリサイ派の律法学者でしたから、律法に照らすと以前の自分は失格者で、霊的に破産した者であることを認めたうえでの言葉でした。しかし、感謝すべきことに、あのダマスコ途上でイエス・キリストをメシアと信じた時(使徒9章)に、パウロの霊の目が開かれ、律法(=罪と死の原理)から解放され自由になったのでした。同時に、イエスを信じる福音には、人を変え、律法にはできないことを可能にする力があることを知ったのです。
 それ以来、パウロは、絶えず、主イエスさまにより頼んで、主との交わりの中に生きることをめざしました。そして、その過程で、ご聖霊が結ばせてくださる実が結ばれること悟り、ガラテヤ教会への手紙では、9つの実を紹介しています(ガラテヤ5:22~23)。
 イエスにより頼み、主との交わりの中に生きよという教えは、イエス様ご自身、ブドウの木の例えでわかり安く説明しています。
 「わたしにとどまりなさい。枝が・・・実を結ぶことができないのと同じように、あ
なたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」                ヨハネの福音書 15章4~5節(一部)
                          (銘形「謙遜への招き」より一部引用)
 

2024年7月7日日曜日

2024年07月07日 第1主日礼拝 神の家族

招詞

神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。      詩篇18篇30~31節


聖書箇所
コロサイ人への手紙3章11節~4章1

説教
神の家族 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル



言(こと)ローグ/548 謙遜についての教え(1)「霊的貧困の自覚」

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
                                 マタイの福音書6章3節

 イエスの公生涯において、山上の説教で言われた最初の教えは「謙遜について」でした。「心の貧しい人」とは、どんな人のことを言うのでしょうか。ここで使われている「心の」と訳されたギリシャ語は、「霊において」という意味です。つまり、神とのかかわりにおける、人の貧しさです。1テサロニケ5:23によれば、人は「霊(ニューマ)とたましいと身
体」と言う三つの部分からなっているように記述されていますが、英語訳では、たましいは、「内なる自身」と訳され、霊を含むものと考えても良いでしょう。「霊(ニューマ、ヘブル語ルアハ)」とは人に与えられた部分のうち神との交わりをすることのできる部分です。この霊が与えられているのは被造物の中で人間だけでした。しかし、最初の人間であるアダムとエバは神の言われることに逆らい、ヘビ(悪魔)の言う事を信じてしまったために、神とのかかわりのニューマは傷つき、壊れて、機能不全を引き起こしてしまったのです。「貧しい」ということばは、ギリシャ語で、普通の貧しさ、貧乏ではなく、本当の、差し迫った窮乏、自己破産した状況を意味することばです。つまり、3節前半は、機能不全に陥った自分を認め、霊的に自己破産した状態で主に呼びかけ助けを求める姿です。そういう人が、天の御国に迎えられる、とイエスは言います。人間としての誇りの鎧(よろい)を脱ぎ、謙遜に「栄光は主に」、と心から叫ぶ人を主は、喜び受け入れられます。                         (銘形「謙遜への招き」より一部引用)