2024年7月7日日曜日

2024年07月07日 第1主日礼拝 神の家族

招詞

神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。      詩篇18篇30~31節


聖書箇所
コロサイ人への手紙3章11節~4章1

説教
神の家族 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/548 謙遜についての教え(1)「霊的貧困の自覚」

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
                                 マタイの福音書6章3節

 イエスの公生涯において、山上の説教で言われた最初の教えは「謙遜について」でした。「心の貧しい人」とは、どんな人のことを言うのでしょうか。ここで使われている「心の」と訳されたギリシャ語は、「霊において」という意味です。つまり、神とのかかわりにおける、人の貧しさです。1テサロニケ5:23によれば、人は「霊(ニューマ)とたましいと身
体」と言う三つの部分からなっているように記述されていますが、英語訳では、たましいは、「内なる自身」と訳され、霊を含むものと考えても良いでしょう。「霊(ニューマ、ヘブル語ルアハ)」とは人に与えられた部分のうち神との交わりをすることのできる部分です。この霊が与えられているのは被造物の中で人間だけでした。しかし、最初の人間であるアダムとエバは神の言われることに逆らい、ヘビ(悪魔)の言う事を信じてしまったために、神とのかかわりのニューマは傷つき、壊れて、機能不全を引き起こしてしまったのです。「貧しい」ということばは、ギリシャ語で、普通の貧しさ、貧乏ではなく、本当の、差し迫った窮乏、自己破産した状況を意味することばです。つまり、3節前半は、機能不全に陥った自分を認め、霊的に自己破産した状態で主に呼びかけ助けを求める姿です。そういう人が、天の御国に迎えられる、とイエスは言います。人間としての誇りの鎧(よろい)を脱ぎ、謙遜に「栄光は主に」、と心から叫ぶ人を主は、喜び受け入れられます。                         (銘形「謙遜への招き」より一部引用)