招詞
神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。 詩篇18篇30~31節
聖書箇所
「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」 イザヤ書57章15節
預言者イザヤは、「主は、へりくだった者と共に住む」と語ります。活躍したイスラエル南王国では、王や民たちの尊大さに心痛めたイザヤでした。「へりくだった人」とは、「心砕かれた人」のことです。人の心の何が砕かれたのでしょうか。人の何が砕かれなければならなかったのでしょうか。それは人の心にある「高ぶり」です。
詩篇 90篇3節には、「あなたは人をちりに帰らせます。『人の子らよ、帰れ。』と言われます。」とあります。 ここでの「ちり(ダカー)」とは、人を土のちりで造った(創世記2:7)という「ちり(アファル)」ではなく、「打ち砕く」という動詞がもとになっている名詞です。神によって打ち砕かれて粉々にされるという意味です。つまり神は人の高ぶりを打ち砕いて、悔い改めさせて、自分のもとへ帰ってくるように招いておられるのです。悔い改めて、神のもとに帰るためには、神は人の高慢(高ぶり)を打ち砕かれるのです。その意味では、「打ち砕き」は、人が救われるための主からの一方的なご干渉です。感謝しましょう。 (銘形「謙遜への招き」より一部引用)