2024年5月31日金曜日

2024年06月02日 第1主日礼拝 教会の主はイエス ①

招詞
 正しい人は地を受け継ぎ、いつまでもそこに住む。主を待ち望め。その道を守れ。主はあなたを高く上げ、地を受け継がせてくださる。              詩篇37篇29、34a節

聖書箇所
コロサイ人への手紙1章17節~2章7節

説教
教会の主はイエス① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/544 「慕い求める」と「捜し求める」


 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。                      エレミヤ書 29章13~14節 (新改訳2017)
わたしを捜し求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを尋ね求めるならば、わたしは見いだされる。                  エレミヤ書 29章13~14節 (聖書協会共同訳)

 13節には二つの渇望用語、慕い求める(バーカシュ)と捜し求める(ダーラシュ)が使われていますが、新改訳はその二つを同義的に訳しています。しかし、聖書協会共同訳ではその二つをそのまま訳しています。慕い求める(バーカシュ)が感情的な求めが強いのに対して、捜し求める(ダーラシュ)の方は、探り出す、調べるといった理性的意味合いが強いのです。そして、この二つの動詞で自己憐憫に陥っているバビロン捕囚で意気消沈している民にチャレンジしています。この二つの渇望なしに将来と希望の約束はあり得ないからです。神の民が感情と理性で文字通り全身全霊で神を尋ね求めることによって神を「見出し」ます。ただし、「心を尽くして」「一心に」することが条件です。なぜなら、心を尽くして求める時に、主は「見出される」とあるからです。では、神を「見出す」とはどういうことでしょう。それは神のみことばを通して、神を知り、神のみおしえを通してそのすばらしさを味わい、神の深い心に触れることを意味します。みことばが開かれて神のみこころを悟り、そのみこころがなされることを祈り求めるようになることです。神との愛のかかわ りが深められて、それ を喜ぶことです。
                 (銘形「ヘブル語のディリー ブレッド」から一部引用」)

2024年5月25日土曜日

2024年05月26日 第4主日礼拝 知恵の決断

招詞
    主によって、人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。 その人は転んでも、倒れ伏すことはない。主が、その腕を支えておられるからだ。正しい人の口は知恵を語り、その舌は義を告げる。                         詩篇37篇23~24、30節 

聖書箇所
使徒の働き6章1節~7

説教
知恵の決断 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/543 くつ(ナアール)を脱げ

 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」                      出エジプト記3章5節

 出エジプト記3章は偉大な神のしもべとして、イスラエルの民をエジプトから救い出したモーセの召命の場面です。モーセが神から召命を受けたのは80歳でした。そのモーセがシナイ山のふもとで不思議な光景を見たのです。その光景とは「燃えているのに燃え尽きない柴」でした。モーセはそこに近づこうとしたとき主の声を聞いたのです。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物(サンダル)を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
① これは、自分の権利、思いや考え、立場を捨てよという意味です。モーセ は40歳まで、エジプトの王室で王子たちと共に育ち、教育も受けまし た。それらを捨てよ、と主は言われました。
② また、奴隷の立場に立つことを意味します。履き物を履 けるのは自由人のしるしでした。名誉と誇りのしるしで す。奴隷や貧しい者は裸足で歩きました。したがって、 履き物を脱ぐということは、奴隷の立場に自分を置くことを意味します。 神のモーセに対する使命は、エジプトで奴隷となっている同胞を救い出す ことでした。それゆえ、リーダー自身が奴隷と同じ立場に身を置くこと を意味しています。
 2000年前、イエス・キリストは神であるにもかかわらず、そのあり方を捨てられ、ご自分を無にして、仕える者の姿を取って、人間と同じようになられました。この「しもべなるイエス」によって、私たちは罪の奴隷から救い出されたのです。
                    (銘形「ヘブル語のディリーブレッド」から一部引用」

2024年5月18日土曜日

2024年05月19日 第3主日礼拝 聖霊に押し出されて

招詞
 神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。 それゆえ、われらは恐れない。たといがは変わり、山々が揺れ動いても。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。                     詩篇46篇1~3節

聖書箇所
使徒の働き2章1節~42

説教
聖霊に押し出されて 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/542 七週の祭り② (シャブオット)

 旧約聖書、レビ記 23:15~17によれば、「七週の祭り」では、主への初穂として新しい小麦粉にパン種を入れて焼いたパンを二個ささげなければならないということです。なぜ、パンを二個なのでしょうか。
 律法が、ユダヤ人と異邦人を隔てる壁になっていることをかんがみ、使徒パウロはエペソにいる異邦人クリスチャンに次のように手紙を書きました。
 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。              エペソ 2:14~16
 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。 エペソ 3:6
二つのパンをユダヤ人と異邦人を象徴するものとみると、シャブオットが、二つのパンが主に捧げられ、受け入れられる日として制定されたのは、時いたって、イエスの十字架で異邦人もまた、父なる神に近づくことができる者となった、ということができます。
                     (銘形「五旬節と聖霊降臨の秘密」より一部引用)

2024年5月11日土曜日

2024年05月12日 第2主日礼拝 ペンテコステ前夜

招詞
 わが神よ。私は、みこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは、私の心のうちにあります。私は大いなる会衆の中で、義を喜び知らます。ご覧ください。私はくちびるを押さえません。主よ。あなたはご存じです。                   詩篇40篇8~10節

聖書箇所
使徒の働き1章3節~26

説教
ペンテコステ前夜 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/541 七週の祭り ①(シャブオット)

 ユダヤ教では「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」が三大祭ですが、キリスト教の三大祭は「クリスマス(聖誕祭)」「イースター(復活祭)」「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」です。「ペンテコステ」は「クリスマス」や「イースター」に比べると、なぜか最も祭(まつり)性を感じない祝祭日です。「ペンテコステ」は約束の聖霊が注がれて教会が誕生した日にもかかわらず、他の二つの祝祭のように特別に祝われるということはありません。なぜなのでしょう。不思議です。
もうひとつ不思議なことがあります。それは、ユダヤ教では「クリスマス」も「イースター」も共に祝うことはありませんが、「五旬節」の日だけは、キリスト教と同じ日に祝うのです。祝っている内容は異なっているのですが、いつの時代であっても祝 う日(曜日)が同じなのです。しかも一日限 りの祭りです。いったい「七週の祭り」とは何なのでしょう。そもそも「七週の祭り」に秘められた預言的意味があるとす れば、それはいったい何なのでしょうか。次回、シャブオットの預言的な意味 を考えてみます。                 (銘形「シャブオット」から引用)

2024年5月5日日曜日

2024年05月05日 第1主日礼 信仰のみ

招詞
 わが神主よ、なんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいは。あなたに並ぶものはありません。語ろうとしても告げようとしてもおそれはあまりにも多くて数えきれません。                               詩篇40篇5節

聖書箇所
ピレモンへの手紙10節~13

説教
信仰のみ 佐藤弘司牧師(DVD説教)

言(こと)ローグ/540 詩篇77篇の4つの瞑想語 ④ハーシャブ(思い返す)

 夜には私の歌を思い起こし、自分の心と語り合い、私の霊は探り求めます。  詩篇77篇6節

 この節のリビングバイブル訳は、「あのころは、夜になると 喜びの歌が自然に口から出てきました。この、たましいのあまりにも大きな変わりようは、どうしたことでしょう。」です。
 詩篇77篇にある四つの瞑想語(    meditation)の一番目は、ヘブル語で、①ザーハル(思い出す)、二番目は、スィーアッハで、「思いを詰める」で、三番目は、ハーガー(思いを巡らす)でした。今回が最終回です。

 ハーシャブは、自分を吟味しながら、自分の思いや行いを反省する行為です。自分を客観的に見ています。霊性の回復の転換点です。6節は、リビングバイブル訳のように(遠い)昔の生き生きとして、あるいは嬉々として信仰生活をしていたころを振り返り、自分自身にため息をしている言葉です。10節には、ため息が主への疑いにつながる危険な状態が見て取れます。しかし、感謝なことに12節で信仰の回復の兆しをみることができます。11節は、(しかし)を挿入して読むとよく理解できます。ここから信仰は回復していきます。事実、原語のヘブル語には、ヴァー(しかし)があります。

(しかし)私は主のみわざを思い起こします。ーーーーー11節

 癌細胞は、1日で体の中で生まれ、ほとんどはその日のうちに死滅するとは医師の言(ことば)です。つまり、いくつかは生き残り、人をむしばみはじめます。サタンの攻撃は、心と霊を攻撃します。巧妙で、失望落胆の心に疑いの種を蒔く名人です。主の恵みをハーシャブし(思い起こし)、主に顔を向けましょう。恵みの雨を思い出しましょう。賛美の歌を口ずさみましょう。疑いの種を芽生えさせないように。

 以上、詩篇77篇の4つのデボーション用語を詳しくみました。
                         (銘形「ヘブル語コラム」から一部引用)