2024年8月29日木曜日

2024年08月25日 第4主日礼拝 主は近い

招詞
 主よ、私を弁護してください。私は誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼しています。主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを、私は歩み続けました。         詩篇26篇1~3節

聖書箇所
ピリピ人への手紙4章4節~7

説教
主は近い 周士筠神学生

言(こと)ローグ/555 謙遜についての教え(8)「プライドに勝つ」
 何事も自己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。                         ピリピ人への手紙2章3節

 シンクレア・ルイスの小説「本町通り」(岩波文庫)は、田舎の開業医と結婚した洗練された都会の女性、キャロルの物語です。彼女は、新しく暮らすことになった小さな町で、自分はみんなより優れているとお高く止まっていました。しかし、重症の患者に対応する、医師である夫の姿を見て、自分の間違いを示されます。それは移民の小作農が大怪我をして運び込まれ、腕を切断しなければならないというときでした。キャロルは、患者と取り乱している患者の妻を優しく励ます夫の姿を見て、心から彼を尊敬しました。暖かく真摯に人に仕える医師の姿は、プライドに凝り固まったキャロルの心に衝撃を与え溶かしていきました。

 冒頭のみ言葉は、クリスチャンが、イエスに従うものとして、自己の優越感(プライド)を捨てて相手の益のために喜んで仕える姿勢を求めています。イエスの模範をしっかり見るならば、私たちも、他人の必要を自分の必要以上に大切にすることを学んでいけるでしょう。イエスは「仕える者の姿」をとってくださり、私たちのためにご自身をささげてくださいましたから(5-8節)。
                        ( D.フィッシャー「田舎医者」より一部引用)

2024年8月17日土曜日

2024年08月18日 第3主日礼拝 看守家族の救い

招詩
 主は、いつくしみ深く正しくあられます。それゆえ、罪人に道をお教えになります。主は貧しい者を正義に歩ませ、貧しい者にご自分の道をお教えになります。主の道はみな恵みとまことです。主の契約とさとしを守る者には。                   詩篇25篇8~10節


聖書箇所
使徒の働き16章16節~34

説教
看守家族の救い 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/554 謙遜についての教え(7)「模範に励まされる 」

 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、…… わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
                            ヨハネの福音書13章14~15節

 D.L.ムーディー聖書学院長の聖書講座が1800年代後半に米マサチューセッツ州で行われたとき、ヨーロッパ中から牧師たちの一行がやって来ました。当時のヨーロッパの習慣では、ホテルの宿泊客は、寝る前に自分の靴を部屋の外に置きました。ホテルの従業員に靴を磨いてもらうためです。ムーディーは、アメリカ人でしたがその習慣を知っていたので、外に出してある彼らの靴を見たときに、ホテルの従業員に伝えましたが、誰も磨こうとしません。それでムーディーは靴を全部集め、自ら磨きました。ある晩、友人が不意に彼の部屋にやって来て、ムーディーがしていることを目撃しました。するとその話が広がり、出席者の牧師たちが持ち回りで靴を磨くようになりました。
 私たちは謙遜であることによって、神の真理を順送りに伝えることができます。その模範に倣いたいと思う他の人を励ましたり、奮い立たせたりします。こうして、神の真理が伝わるのです。
 イエスご自身が奉仕の模範です。イエスはご自身のすべてを私たち下さいました。
                    (アルバート・リー「模範に励まされる」より引用)

2024年8月10日土曜日

2024年08月11日 第2主日礼拝 エペソ市のクリスチャン

招詞
 主よ。あなたの道を私に教え、歩むべき所を私に示してください。あなたの真理の道に私を導き、私を教え諭してください。あなたこそ、私の救いの神、私は一日中あなたに望みを置いています。                               詩篇25篇4~5節 (現代訳)

聖書箇所
黙示録2章1節~7

説教
エペソ市のクリスチャン 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/553 謙遜についての教え(6)「仕える者に」

 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
                            マルコの福音書10章43~45節

 アメリカの小さな大学での話です。この大学は経営難に陥り、資金が必要でした。建物は古くなり、先生たちの給料も払えなくなってしまいました。ある日、見知らぬ人がこの大学にやってきました。たまたま作業服を着て、壁を洗っている人を見かけたので、その人に訪ねました。「学長にお目にかかりたいのですが。」 すると、彼は、「12時に学長室にいらしたら、お会いになれると思います」と答えました。
 訪問客が言われたとおりの時間に学長室に行くと、なんと先ほどの作業服の人がきちんとした洋服に着替えて、学長室にいるではありませんか。彼は、実は学長だったのです。
 数日後、一通の手紙が学長宛に届きました。その中に大学への寄付金として5万ドル(約750万円)の小切手が同封されていました。学長の謙遜な心と行いがこの見知らぬ人の心を打ち動かしたのです。
 冒頭のみ言葉は、「謙遜について」の教えであり、その教えはイエス自らがその模範となっているのです。                      (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年8月4日日曜日

2024年08月04日 第1主日礼拝 ラオデキヤのクリスチャン

招詞
 だれが、主の山に登りえるのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。その人は、主から祝福を受け、自分の救いの神から義を受ける。                 詩篇24篇3~5節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章7節~18

説教
ラオデキヤのクリスチャン 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/552 謙遜についての教え(5)「謙遜の第一歩」

 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
                     マタイの福音書23章12節 (ルカ14:11、18:14)

 「謙譲」という日本独特の文化があり美徳とされます。自分や自分の家族を実際より低く見せることによって相手を高めて尊敬しようというかかわりです。ですから、何か物を出す時に「何もございませんがどうぞ」とか、「つまらない物ですけどどうぞ」とかいう言い方が使われるわけです。これは相手の目線を気にする文化、自分が相手からどう思われている
だろうかという日本特有の相手を意識した語彙です。「謙譲」は、あくまでも人と人との関わりから生まれた知恵です。
 しかし聖書のいう「謙遜」は、「謙譲の美徳」とは全く異なるものです。人と人ではなく、「主の御前にへりくだること」です。それが、聖書のいうほんとうの「謙遜」です。
 十字架は壮絶な痛みを伴う刑罰です。しかも極悪人がつけられる恥辱に満ちた刑でした。しかし御子イエスは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方におまかせになりました。ここにイエスの謙遜の極みがあります。使徒パウロは、こう表現しています。「キリストは、・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死までも従われた
のです。」(ピリピ人への手紙 2:6~8) 「無にして、仕える、卑しくし、従う」ということばが羅列されていますが、最後の「従われた」ということが、換言すると、「はい」なのです。「はい、主よ」が謙遜の第一歩です。 <つづく>         (銘形「謙遜への招き」より一部引用)