招詞
だれが、主の山に登りえるのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。その人は、主から祝福を受け、自分の救いの神から義を受ける。 詩篇24篇3~5節
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
マタイの福音書23章12節 (ルカ14:11、18:14)
「謙譲」という日本独特の文化があり美徳とされます。自分や自分の家族を実際より低く見せることによって相手を高めて尊敬しようというかかわりです。ですから、何か物を出す時に「何もございませんがどうぞ」とか、「つまらない物ですけどどうぞ」とかいう言い方が使われるわけです。これは相手の目線を気にする文化、自分が相手からどう思われている
だろうかという日本特有の相手を意識した語彙です。「謙譲」は、あくまでも人と人との関わりから生まれた知恵です。
しかし聖書のいう「謙遜」は、「謙譲の美徳」とは全く異なるものです。人と人ではなく、「主の御前にへりくだること」です。それが、聖書のいうほんとうの「謙遜」です。
十字架は壮絶な痛みを伴う刑罰です。しかも極悪人がつけられる恥辱に満ちた刑でした。しかし御子イエスは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方におまかせになりました。ここにイエスの謙遜の極みがあります。使徒パウロは、こう表現しています。「キリストは、・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死までも従われた
のです。」(ピリピ人への手紙 2:6~8) 「無にして、仕える、卑しくし、従う」ということばが羅列されていますが、最後の「従われた」ということが、換言すると、「はい」なのです。「はい、主よ」が謙遜の第一歩です。 <つづく> (銘形「謙遜への招き」より一部引用)