2025年5月31日土曜日

2025年06月01日 第一主日礼拝 逆走の危険

招詞
 新しい歌を主に歌え。主は、奇しいみわざを行われた。主の右の御手、聖なる御腕が主に勝利をもたらしたのだ。主は御救いを知らしめ、ご自分の義を国々の前に現わされた。
                                   詩篇98篇1~2節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙4章8~20

説教
逆走の危険 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/594 二つのパン

 あなたがたは、(過越後の)安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主に献げる。あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるものを、二つ、奉献物としてのパンとして持っていく。これは主への初穂である。    レビ記23章:15~17節

 この二個のパンは「ユダヤ人」と「異邦人」を意味しています。この二つのパンが、罪を象徴する「パン種」を入れたものを祭司のところに持ってくるということは、あるがままで祭司を通して神に近づくことを意味しているのです。そして、メシアなるイエスと聖霊の注ぎの賜物によって、「七週の祭り」の真意を悟ることができるようにされたのです。使徒パウロは、この「奥義」をエペソ2章14節以下で明確にしています。
 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自身の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。 エペソ 2:14~18
 律法の障害が取り除けられて、ユダヤ人と非ユダヤ人はイエスをキリストと信ずる信仰によってのみ救われることが明らかにされました。(銘形:7週の祭りに秘められた神の啓示より一部引用)

2025年5月24日土曜日

2025年05月25日 第四主日礼拝 約束の子ども

招詞
 光は、正しい者たちのために蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。              詩篇97篇11~12節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章26節~4章7

説教
約束の子ども 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/593 聞き分ける耳

 羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。      ヨハネの福音書10章4節

 テネシーの牧場に住んでいた子どもの頃、いつも親友と楽しく過ごしました。森の中やロデオ競技場に行ったり、ポニーに乗ったり、家畜小屋に入って馬の世話をするカウボーイを見たりしました。しかし、父の呼び笛が聞こえるとすぐさま家に向かいました。その音は風も周りの雑音も切り裂くように明瞭でした。父に呼ばれていると分かる間違いようのない合図でした。数十年経った今でも聞き分けられると思います。
 イエスは、「ご自分が良い羊飼いで、従う人は羊です。羊たちはその声を聞き分けます。」と言われました。また「牧者は自分の羊たちを、それぞれの名を呼んで連れ出します」(ヨハネ10:3)と続けられました。今日、インターネットで沢山の情報が手に入りますが、偽情報や雑音とも言える有害なものもあります。AI は有用ですが、悪用する者もいます。
 注意してイエスの声に耳をそばだて、うっかり聞き逃すことがないようにしましょう。基本は変わりません。羊飼いははっきりと話され、羊は声を聞き分けます。聖書のみことばを通し、信仰の友の言葉を通し、また聖霊の促しを通して、イエスは語られます。そして、私たちは確かに聞くのです。                    (W・コリエール「羊飼いの声」 より一部引用) 

2025年5月19日月曜日

2025年05月18日 第三主日礼拝 アブラハムとモーセ

招詞
 聖い威光の中で、主を礼拝し、全地は、御前におののきなさい。 世界中の人々の中で言いなさい。「主は王として治められる。世界はこのお方によって造られ、揺らぐことはない。主は公平に人々を裁かれる。」。                     詩篇96篇9~10節(現代訳)

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章19~25

説教
アブラハムとモーセ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/592 聞く耳

 ところが、罪から私たちを解放する神のみ言葉を一心に見詰めて離れない人は、み言葉を聞いて忘れてしまう人ではなく、それに従い、それに生きる人である。そういう人は、その従順な生活によって、神に祝福される。                   ヤコブの手紙1:25 (現代訳)

 アフリカのウガンダで聖書セミナーに参加したときのことです。主催者の女性に「今朝、髪をとかしましたか?」と尋ねられました。うっかりしてホテルの鏡で自分の姿を確認したのに、なぜ気づかなかったのでしょう。
 ヤコブは比喩を用いることで、聖書の学びを現実的で有益なものとしました。聖書という鏡は、私たちの人格、態度、考え、行動などをチェックするよう助けてくれます(ヤコ1:23-
24)。すると、私たちは自分の生き方を聖書の原則に従うように修正することができます。「私たちは自分の舌にくつわをかけ」(26節)、「孤児や、やもめたちが困っているときに世話をします」(27節)。「内住の聖霊を畏れこの世から自分をきよく守ります」(27節)。
 鏡が外見を映すように、聖書は私たちの内側をあらわにします。
                        (L・ダルマニ 「鏡と聞く耳」 より一部引用)

2025年5月11日日曜日

2025年05月11日 第二主日礼拝 不変の約束

招詞
 まことに主は大いなる方、 大いに賛美される方。 すべての神々にまさって恐れられる方だ。まことに、どの民の神々も、みな偽りだ。しかし主は天をお造りになった。    詩篇96篇4~5節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章15~18

説教
不変の約束 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/591 日常の習慣

 その人は、流れのほとりに植えられた木。                  詩篇1篇3節

 ビルは退職した高齢の男性で、一人暮らしをしており、最近、車の免許を返納しました。食料品や薬などを買うときや日曜日の礼拝に行くときは、誰かに送迎してもらっています。しかし彼はみじめや孤独ではありません。「家で過ごすのは悪くないよ。ネットで無料の賛美歌を聴いたり、バイブル・スタディをしたり、一日中楽しんでいる」。ビルの日々は、神のみことば、祈り、賛美に包まれています。
 日常の習慣は、心に植えつけられるものを左右します。詩篇1篇は、神の恵みを受けた人の習慣を語ります。彼らは、真理を愛して何度も心の中で反すうし、神に逆らう世俗の流れに従いません(1-2節)。誰にでも苦難は訪れますが、神の道を歩んで確立された人生は「流れのほとりに植えられた木。…その葉は枯れず、…」(3節)です。人生には、じっくり聖書を読む時間など取れない、という時期もあるでしょう。しかし、イエスは、渇いている人が来るならば必ず潤してあげる、聖霊がその人を川のようにする、と言われました(ヨハネ7:37-39)。私たちは賛美や聖書のみことばを通して、心を命の水で潤すことができます。また、人を思いやり、神と語り合い、つまずいても赦しを請うならば、心がすがすがしくなります。
 みことばに対する従順は、私たちの心を肥沃な地に植えつけてくれます。それは義なる人生。神はそれを知っておられます(詩篇1:6)。
                 (K・ピンポ 「流れのほとりに植えられた」 より一部引用)

2025年5月4日日曜日

2025年05月04日 第一主日礼拝 40日の教え

招詞
 新しい歌を主に歌え。 全地よ、主に歌え。 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。主の栄光を国々の間で語り告げよ。 その奇しいみわざを、あらゆる民の間で。                                 詩篇96篇1~3節

聖書箇所
使徒の働き1章1~11

説教
40日の教え 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/590 徒労に終わらない

 私は切に、主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いて下さった。 
                                     詩篇 40篇1節

 待つのは、いやなものです。車の渋滞やスーパーのレジ、病院の待合室など…退屈したり、イライラしたりします。別次元の「待つ」もあります。手紙やメールの返事を待つ、家族の誰かが変わってくれることを待つなどです。私たちは、切なる思いで願いが叶う時を待ち望みます。
ダビデは、詩篇40篇で「私は切に主を待ち望んだ」と語りますが、この文章のへブル語を詳訳すると、主が祈りに応えてくださることを「待って、待って、待ち続けた」となります。神はなかなか応答してくださらなかったのですが、その体験を振り返ってなお、ダビデは神をほめたたえます。「主はこの口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けてくださった」と語ります(40:3)。
「きょうの祈り」の著者 F.B.マイヤーは、次のように語ります。「神の『遅れ』を記している聖書個所があるとは、何ということでしょう…しかし、これが人の霊性を教育する神秘です。人が最良の性質になるために、この神秘が必要です。」 私たちは、待つという訓練を通して徳を身に着けます。その徳とは、服従する、腰が低い、気長である、苦境を明るく耐える、あきらめずに善行を続けるなどです。これは地味な性質ですが、長い時間をかけなければ備わらない美しい品性です。
神は、私たちが神を愛し、信頼できるように助けてくださいます。明るい心で「遅れ」を受け入れることができるように、徳を養う良い機会だととらえられるように、また神を賛美できるようにも助けてくださいます。              (ダビデ・ローパー「神の時」 より一部引用)