招詞
新しい歌を主に歌え。 全地よ、主に歌え。 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。主の栄光を国々の間で語り告げよ。 その奇しいみわざを、あらゆる民の間で。 詩篇96篇1~3節
私は切に、主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いて下さった。
詩篇 40篇1節
待つのは、いやなものです。車の渋滞やスーパーのレジ、病院の待合室など…退屈したり、イライラしたりします。別次元の「待つ」もあります。手紙やメールの返事を待つ、家族の誰かが変わってくれることを待つなどです。私たちは、切なる思いで願いが叶う時を待ち望みます。
ダビデは、詩篇40篇で「私は切に主を待ち望んだ」と語りますが、この文章のへブル語を詳訳すると、主が祈りに応えてくださることを「待って、待って、待ち続けた」となります。神はなかなか応答してくださらなかったのですが、その体験を振り返ってなお、ダビデは神をほめたたえます。「主はこの口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けてくださった」と語ります(40:3)。
「きょうの祈り」の著者 F.B.マイヤーは、次のように語ります。「神の『遅れ』を記している聖書個所があるとは、何ということでしょう…しかし、これが人の霊性を教育する神秘です。人が最良の性質になるために、この神秘が必要です。」 私たちは、待つという訓練を通して徳を身に着けます。その徳とは、服従する、腰が低い、気長である、苦境を明るく耐える、あきらめずに善行を続けるなどです。これは地味な性質ですが、長い時間をかけなければ備わらない美しい品性です。
神は、私たちが神を愛し、信頼できるように助けてくださいます。明るい心で「遅れ」を受け入れることができるように、徳を養う良い機会だととらえられるように、また神を賛美できるようにも助けてくださいます。 (ダビデ・ローパー「神の時」 より一部引用)