2025年6月29日日曜日

2025年06月29日 第五主日礼拝 賛美歌と聖書翻訳

招詞
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。 わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
                                  詩篇103篇1~2節

聖書箇所
コロサイ人への手紙3章12~17節

説教
賛美歌と聖書翻訳 田口勇新牧師



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言(こと)ローグ/598 神の秘蔵っ子


 心に植えつけられたみことばをすなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。                       ヤコブの手紙 1章21節

 古来、人々に愛読されてきた15世紀の修道僧トマス・ア・ケンピスの著書『キリストにならいて』には、誘惑に対する意外な見解が示されています。ケンピスは、誘惑されたとき、人はへりくだり、きよめられ、教えられると言います。そして、勝利の鍵は、真の謙遜と真の
忍耐。そのうちにあって、我々は敵よりも強くなると説明しています。私は大概、誘惑されたことを恥じ、自分に腹を立て、もがいてし    まうので、このことばで新しい光を感じました。
 ヤコブの手紙1章によると、誘惑を含むさまざまな試練には目的があるようです。誘惑に屈するなら、もちろん傷つくでしょう(13-15節)。一方、へりくだって神の恩寵と知恵を求めるなら、神は「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる」ことを知ります
(5節)。自分に内在する神の力を用いるなら、誘惑に抗う戦いは罪に対する耐性を育て、私たちを「何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者」にします(4節)。イエスを信頼しているなら、びくびくしなくてもよいのです。誘惑された時でさえ、神の愛に抱かれ、平安のうちに戦えます。私たちは神の秘蔵っ子なのです。     (M.Lローズ「罪に対する耐性」より一部引用)

2025年6月22日日曜日

2025年06月22日 第四主日礼拝 心の板に書き記す

招詞
 恵みと裁きを、私は歌います。主よ、あなたにほめ歌を歌います。 私は、全き道に心を留めます。いつあなたは、私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。 私は、目の前に卑しいことを置きません。私は、曲がったわざを憎み、それが私にまといつこことはありません。 詩篇101篇1~3節

聖書箇所
箴言3章1~6

説教
心の板に書き記す 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/597 謙遜になれない時

 しかし、彼(ウジヤ王)が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。 
                                 歴代誌第ニ26章16節

 ムーディ聖書学院の創設者、ドワイト・ムーディーは言いました。「自分は強いと自信をもったとき、その人の転落は、遠くない。誰の目にも明らかになるまで数年かかるかも知れないが、転落はもう始まっている。」 ウジヤ王の場合も、全くこの通りでした。
ウジヤ王の人生は、すべてが順調のようでした。彼は、在位した期間の前半は、神に従い霊的指導者に服従しました。王は神に助けを求め、神は必ず王に成功を与えられました。
 その人生は、成功に満ちた偉大なものでした。ところが、自分の成功に酔って分別がなくなってしまったのです。彼の思い上がりは、色々なところに現れ、ある日、彼は神の神聖を侵しました。自分は祭司の地位についていないにもかかわらず、聖所に入って香をたこうとしました(16節)。彼は、神の御力をもらいたいと勝手に考え、祭司のように振る舞いました。祭司の正しい助言に耳を貸さず、悔い改めのチャンスを逃してしまいました。ウジヤ王は罪の報いを恐れるどころか、気にも留めませんでした(19節)。怒りで反抗しようとした瞬間、彼の額にツァラアト(皮膚病)があらわれ、主の聖所から追放されました。
 神が何らかの分野で成功させてくださったなら、その成功の源を忘れてはいけません。神の前にへりくだりましょう。神は、謙遜な人を祝福してくださるのですから。低く生きるよう決断するなら、神が高くしてくださる。         (M.ウィリアムズ「謙遜に生きる」より一部引用)

2025年6月14日土曜日

2025年06月15日 第三主日礼拝 聖霊の力

招詞
 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。 喜び歌いつつ御前に来たれ。 知れ。主こそ神。 主が、私たちを造られた。 私たちは主のもの、主の民、その牧場(まきば)の羊である。                            詩篇100篇1~3節

聖書箇所
使徒の働き3章1~26

説教
聖霊の力 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/596 勇気

まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。              マタイの福音書 5章24節

 息子とスポーツ観戦に行ったとき、試合だけではなく人間ウォッチングもすることになりました。人間の良い面と悪い面の両方を見せてくれた人がいたからです。その人はスタジアムで迷子になって、自分の席に帰れなくなっていました。それで立って辺りを見回していたのですが、それが私たちの視界をさえぎるような場所でした。座っていた人は試合が見えないので、「どいてくれないか。見えないじゃないか」と言いました。するとその男性は、「そりゃ気の毒だな!」と皮肉たっぷりに答えたのです。そして、もう一度言われると、今度は怒気を含んだ声で同じ言葉を繰り返しました。しばらくすると、その男性はようやくあっちに行きましたが、驚いたことにすぐに戻ってきて、見えないと文句を言った男性に、「さっきは悪かったな。実は席が見つからなくてイライラしていたんだ」と言ったのです。ふたりは握手をして、この件は友好的に片付きました。
 彼らのやり取りを見て、私は考えさせられました。日々の生活の中で、イライラし、キリスト者として恥ずかしい言動をしたことがあるかもしれません。もしそうならば、私たちは、失礼をした相手に謝る勇気をくださいと、神に願わなければなりません。上記のイエスの言葉によると、そうするか否かで、私たちの礼拝が受け入れられるかどうかが決まるのです。和解を優先事項にしているなら、私たちは、神に栄誉を帰しています。天の父との交わりを十分に楽しむことができるのは、和解した後のことです。             (D.プラノン「悪かった」より一部引用)

2025年6月8日日曜日

2025年06月08日 第二主日礼拝 ペンテコステの秘密

招詞
 その後、わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。 その日わたしは、男どれにも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。
                                ヨエル書2章28~29節

聖書箇所
使徒の働き2章1~11

説教
ペンテコステの秘密 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/595 
 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。                     出エジプト記 20章3、5節

 トーゴ共和国のモノ河で洗礼を待つ間、コシは古びた不気味な木像をおこしておいた火に投げ込みました。彼の一族はずっとこれを拝んできたのです。これに最上の鶏をささげることは、もう二度とありません。
 トーゴでは、神と言われる木像は神そのもので、犠牲をささげ、なだめなくてはなりません。そういう文化で、木像を燃やしたり、洗礼を受けたりするのは大胆な行為です。新しいキリスト者は勇気をもって、唯一まことの神イエスにのみ忠誠を誓います。
 神以外のものに人生の答えを求めるなら、意識しているいないに関わらず、偽りの神を追いかけている偶像礼拝と同じです。私たちも、何かに囚われすぎているとすれば、自分の「偶像」について自問すべきではないでしょうか。
 主よ、あなたに焦点を合わせていないことを示す様々なものが私にあることを赦してください。何を手放し、 み言葉に帰り、聖霊に満たしていただくべきか、どうか教えてください。子どもたち、偶像から自分を守りなさい。ヨハネの手紙第一 5章21節
                     (T・グスタフソン「コシの勇気」 より一部引用)


2025年5月31日土曜日

2025年06月01日 第一主日礼拝 逆走の危険

招詞
 新しい歌を主に歌え。主は、奇しいみわざを行われた。主の右の御手、聖なる御腕が主に勝利をもたらしたのだ。主は御救いを知らしめ、ご自分の義を国々の前に現わされた。
                                   詩篇98篇1~2節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙4章8~20

説教
逆走の危険 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/594 二つのパン

 あなたがたは、(過越後の)安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主に献げる。あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるものを、二つ、奉献物としてのパンとして持っていく。これは主への初穂である。    レビ記23章:15~17節

 この二個のパンは「ユダヤ人」と「異邦人」を意味しています。この二つのパンが、罪を象徴する「パン種」を入れたものを祭司のところに持ってくるということは、あるがままで祭司を通して神に近づくことを意味しているのです。そして、メシアなるイエスと聖霊の注ぎの賜物によって、「七週の祭り」の真意を悟ることができるようにされたのです。使徒パウロは、この「奥義」をエペソ2章14節以下で明確にしています。
 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自身の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。 エペソ 2:14~18
 律法の障害が取り除けられて、ユダヤ人と非ユダヤ人はイエスをキリストと信ずる信仰によってのみ救われることが明らかにされました。(銘形:7週の祭りに秘められた神の啓示より一部引用)

2025年5月24日土曜日

2025年05月25日 第四主日礼拝 約束の子ども

招詞
 光は、正しい者たちのために蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。              詩篇97篇11~12節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章26節~4章7

説教
約束の子ども 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/593 聞き分ける耳

 羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。      ヨハネの福音書10章4節

 テネシーの牧場に住んでいた子どもの頃、いつも親友と楽しく過ごしました。森の中やロデオ競技場に行ったり、ポニーに乗ったり、家畜小屋に入って馬の世話をするカウボーイを見たりしました。しかし、父の呼び笛が聞こえるとすぐさま家に向かいました。その音は風も周りの雑音も切り裂くように明瞭でした。父に呼ばれていると分かる間違いようのない合図でした。数十年経った今でも聞き分けられると思います。
 イエスは、「ご自分が良い羊飼いで、従う人は羊です。羊たちはその声を聞き分けます。」と言われました。また「牧者は自分の羊たちを、それぞれの名を呼んで連れ出します」(ヨハネ10:3)と続けられました。今日、インターネットで沢山の情報が手に入りますが、偽情報や雑音とも言える有害なものもあります。AI は有用ですが、悪用する者もいます。
 注意してイエスの声に耳をそばだて、うっかり聞き逃すことがないようにしましょう。基本は変わりません。羊飼いははっきりと話され、羊は声を聞き分けます。聖書のみことばを通し、信仰の友の言葉を通し、また聖霊の促しを通して、イエスは語られます。そして、私たちは確かに聞くのです。                    (W・コリエール「羊飼いの声」 より一部引用) 

2025年5月19日月曜日

2025年05月18日 第三主日礼拝 アブラハムとモーセ

招詞
 聖い威光の中で、主を礼拝し、全地は、御前におののきなさい。 世界中の人々の中で言いなさい。「主は王として治められる。世界はこのお方によって造られ、揺らぐことはない。主は公平に人々を裁かれる。」。                     詩篇96篇9~10節(現代訳)

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章19~25

説教
アブラハムとモーセ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/592 聞く耳

 ところが、罪から私たちを解放する神のみ言葉を一心に見詰めて離れない人は、み言葉を聞いて忘れてしまう人ではなく、それに従い、それに生きる人である。そういう人は、その従順な生活によって、神に祝福される。                   ヤコブの手紙1:25 (現代訳)

 アフリカのウガンダで聖書セミナーに参加したときのことです。主催者の女性に「今朝、髪をとかしましたか?」と尋ねられました。うっかりしてホテルの鏡で自分の姿を確認したのに、なぜ気づかなかったのでしょう。
 ヤコブは比喩を用いることで、聖書の学びを現実的で有益なものとしました。聖書という鏡は、私たちの人格、態度、考え、行動などをチェックするよう助けてくれます(ヤコ1:23-
24)。すると、私たちは自分の生き方を聖書の原則に従うように修正することができます。「私たちは自分の舌にくつわをかけ」(26節)、「孤児や、やもめたちが困っているときに世話をします」(27節)。「内住の聖霊を畏れこの世から自分をきよく守ります」(27節)。
 鏡が外見を映すように、聖書は私たちの内側をあらわにします。
                        (L・ダルマニ 「鏡と聞く耳」 より一部引用)

2025年5月11日日曜日

2025年05月11日 第二主日礼拝 不変の約束

招詞
 まことに主は大いなる方、 大いに賛美される方。 すべての神々にまさって恐れられる方だ。まことに、どの民の神々も、みな偽りだ。しかし主は天をお造りになった。    詩篇96篇4~5節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章15~18

説教
不変の約束 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/591 日常の習慣

 その人は、流れのほとりに植えられた木。                  詩篇1篇3節

 ビルは退職した高齢の男性で、一人暮らしをしており、最近、車の免許を返納しました。食料品や薬などを買うときや日曜日の礼拝に行くときは、誰かに送迎してもらっています。しかし彼はみじめや孤独ではありません。「家で過ごすのは悪くないよ。ネットで無料の賛美歌を聴いたり、バイブル・スタディをしたり、一日中楽しんでいる」。ビルの日々は、神のみことば、祈り、賛美に包まれています。
 日常の習慣は、心に植えつけられるものを左右します。詩篇1篇は、神の恵みを受けた人の習慣を語ります。彼らは、真理を愛して何度も心の中で反すうし、神に逆らう世俗の流れに従いません(1-2節)。誰にでも苦難は訪れますが、神の道を歩んで確立された人生は「流れのほとりに植えられた木。…その葉は枯れず、…」(3節)です。人生には、じっくり聖書を読む時間など取れない、という時期もあるでしょう。しかし、イエスは、渇いている人が来るならば必ず潤してあげる、聖霊がその人を川のようにする、と言われました(ヨハネ7:37-39)。私たちは賛美や聖書のみことばを通して、心を命の水で潤すことができます。また、人を思いやり、神と語り合い、つまずいても赦しを請うならば、心がすがすがしくなります。
 みことばに対する従順は、私たちの心を肥沃な地に植えつけてくれます。それは義なる人生。神はそれを知っておられます(詩篇1:6)。
                 (K・ピンポ 「流れのほとりに植えられた」 より一部引用)