招詞
幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。彼らは、あなたの御名をいつも喜び、あなたの義によって、高く上げられます。
詩篇89篇15~16節
カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。 マタイの福音書22章21節
十字架の前の週、敵である祭司長、律法学者たちは自分の弟子たちを送送り(マタイ21:15-16)、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そうと計りました。彼らは「税金をカイザルに納めることは律法にかなっているか、いないか」という質問をしました。これはどちらに答えてもイエスをわなに陥れる狡猾な質問でした。もしイエスがカイザルに「税金を納めなさい」と言えば、神に背いているとパリサイ人たちから訴えられます。反対に、「納めなくてもよい」と答えたなら、カイザルに背く者として訴えられてしまいます。いずれも答えたら最後、言葉尻を捕えられて訴えられてしまう論法でした。(注)カイザルはローマ皇帝
冒頭のイエスのことばは、彼らの質問の設定が誤っている事を指摘したもので、カイザルと神を同列に置き、神への忠誠かカイザルへの忠誠かを迫ったところに問題がありました。カイザルはあくまでも神の支配下にある者であり、カイザルに対して納税することと、神のものは神に返すことは決して矛盾しないことを意味することばでした。これを聞いた敵は驚嘆して立ち去ったのでした。
かつてイエスが次のように話されました。「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい。…人々があなたがたを引き渡した時、どのように話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、その時、示されるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される父の御霊だからです。(マタイ10:16, 19~20)」と。この信仰で私たちも進みたいと思います。 (銘形「十字架の最後の一週間」から一部引用)