招詞
あなたのさとしは奇しくそれゆえ私のたましいはそれに目を留めます。みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。私は口を大きく開けてあえぎます。まことに私はあなたの仰せを慕います。 詩篇119篇129~131節
みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。 ペテロの手紙第一 3章8節
前回、キリストの謙遜は私たちの救いです。キリストの救いは私たちの謙遜です。と書きました。
それですから、私たち救われた者たちの生活には、罪から解放され、神との関係と人との関係のすみずみにまで謙遜が浸透している本来のありさまを十二分に回復したという刻印がぜひとも押されなければなりません。このことを差し置いて、神の臨在に本当の意味でとどまることや、神の恵みや御霊の力を経験することはありえませんし、信仰や愛や喜びや強さがやどることはありません。謙遜は、恵みが根をはる唯一の土壌なのです。どんな敗北も失敗も、謙遜が欠けているならそのことが十分な説明となります。謙遜は他の恵みや徳と同列に並べられるものではありません。それはすべての根です。なぜなら、それだけが神の御前に正しい態度をとり、神が神としてあらゆることをなさるのを妨げないからです。
神は私たちを理性的な存在に造ってくださったので、私たちはある命令についてその本質を洞察し、その命令の絶対的な必要性を真に理解すればするほど、ますます自ら進んで、心から従うようになります。残念なことに、教会のなかで謙遜への召しがあまりにも軽く見られてきました。というのも、その本質と重要性が理解されてこなかったからです。謙遜は私たちが神に捧げるものではなく、神が与えてくださるものです。
(アンドリュー・マーレー「謙遜」より。次回は「⑨ 明け渡すもの」です。)