2016年1月17日日曜日

2016年01月17日 第3主日礼拝 イエスはどなたか

招詞
あなたがたは、世界の光です。あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。          マタイの福音書5章14、16節
                       
聖書箇所
ルカ の福音書 9章18~21節

説教
イエスはどなたか 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ42/平和(シャローム)を作り出すこと
平和を作りだすことと平和を語ることは違います。今日、平和を作ることに対することとして、テロ、暴力、犯罪、戦争、貧困が最も重要な問題となっています。2000年前の世界でも、平和を作る努力に対し、暴力、犯罪、戦争、病気、貧困が人々を苦しめていました。イエスは、「 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」(イザヤ53:3)と預言されていましたが、このような現実の問題にルカの福音書と使徒の働きが焦点をあてているようにも見えますが、そこには武力を使った復讐や報復の原理とは異なる平和作りが解き明かされています。天使たちによる賛歌の「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(2章14節) は、クリスチャンたちが、いつも唱えていたい祈りであり、出発点です。平和を作り出すことは、教会の宣教の重要なメッセージです。使徒の働き10章36節 にも「神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせ」と記されています。イエスに従う者の心には復讐が入り込む余地はありません。それは、イエスが自分を十字架につけた者のために祈った祈り(23章 34節)の記事、また、殉教で死んでいくステパノの祈り(使徒7章60節)にも反映しています。平和(シャローム)を作る者たちは、まず自分の心にある妬み心や復讐心を神さまから取り除いていただければなりません。ご聖霊がなしてくださる業ですが、私たちも心の奥底の扉を開けることが必要です。
                                      (銘形 ルカの福音書の神学から一部引用)

2016年1月10日日曜日

2016年01月10日 第2主日礼拝 退修と奉仕

招詞
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
                                                詩篇100篇3節                       
聖書箇所
ルカの福音書 9章7~17節

説教
退修と奉仕 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ41/退修会(リトリート)と修養会
退修会と修養会はどう違うのでしょうか。ある説明には、「退修会とは、日常業務からしばらく退いて、祈り、学びあう修養会のことです。」とありました。本当にそうなら、退修会と呼ぶよりも、普通に修養会とか教会研修会のほうがわかり易いかな、と思います。退修(リトリート)は、もともとは軍隊用語で、日常の任務を離れ、研修のような知的な学習からも離れ、自然に囲まれたところで、スポーツを含めて心をリラックスさせる時、と定義されるようです。米軍などでは、強制的にリトリートの場に送られるようです。もちろん、個人の休暇とは別に取ります。
 教会の退修会の場合、「日常の義務からしばらく退いて、祈り、聖書を読み、神さまとみことばを瞑想し、また分かち合う時」と言えると思います。 せっかく2~3日もとって集まるのだから、◎◎先生をお呼びして学びましょう、となりやすいのは日本人クリスチャンだけではありません。現代病といわれる症状は、何かして結果を出す、蓄積する、と考えることでょう。生産性(プロダクティビティ)がいつでも優先にされます。つまり行動 (DO ドゥ)と結果第一主義です。
 イエスさまの退修は、奉仕を離れて、静かなところで、神と交わる(祈る)ことでした。行動に対して、神の子「である」 BE(ビー)であることを楽しまれました。クリスチャンもまた、聖書を読み、神の子となった自分を見つめ、神さまを考え(瞑想)る者です。
 DO(ドゥ)が活動する動詞と呼ばれるのに対し、「である」 は、状態動詞とも呼ばれます。私たちは、クリスチャンとして奉仕や何かする前に、神の子となっている事実(状態)を意識的に感謝できる環境に自分を置くことが重要です。そうでないと、行動ばかりで、奉仕疲れが出て、燃え尽きてしまうこともあります。人を批判的に見てしまうのも、行動型の人の弱点です。ルカの福音書10:41~42に、マルタとマリヤ姉妹のことが記されています。マリヤは、怠け者ではなかったでしょうが、周りが弟子たちでガヤガヤしていても、主の前に座り、静まって主のみことばに傾聴できる「特技」をもっていました。まるで姉のマルタとともに接待するのを忘れたかのようでした。「傾聴力」です。私たちも、傾聴力を磨き、日常生活の中で、イエスさまのことば、聖書のことばに傾聴し、瞑想できるスポットを見つける工夫が必要かと思います。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(同42節)

2016年1月3日日曜日

2016年01月03日 第1主日礼拝 イエスの力と権威が

招詞
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
                                           コロサイ人への手紙 2章9~10節
                       
聖書箇所
ルカの福音書 9章1~6節

説教
イエスの力と権威が 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ40/平和(シャローム)
昨年、「武力で敵を負かして平和を」というのが、対テロ戦争の名目になりました。しかし、武力による平和は、長続きしないことは誰でも知っています。 2000年前、天使の集団が「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、 平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2章14節) と賛美した中にも、「平和」ということばがあります。
 現在も、神との平和を伝えることは、教会の宣教の重要なメッセージです。イエスの与える平和は、ローマ帝国の軍事力によって達成した「平和」とは無関係です。イエスの場合、悪に対する非暴力によって、愛によって作り出される平和でした。それこそが、今日でも、この世における教会の果たすべき役割なのです。
 そのためには、私たちの様々な領域における障壁(バリア)が取り払われることが必要でした。イエスの誕生の時に、「地の人」と軽蔑されていた羊飼いたちが最初の礼拝者でした。これは、階級的バリアへの挑戦でした。また、彼らの活躍 (ルカ2:17~20)は、富める人と貧しい人の障がいである、経済的バリアも取り去られました。
 イエスは、サマリヤの女の回心を助けられ(ヨハネ4章)、人種的・宗教的なバリアを除かれました。次に、エルサレムとガリラヤを行き来されながら、使徒たちを育成訓練し、エルサレム教会がスタートするための道備え(インフラ整備)をなさり、地域的バリアを除くことに成功されました。
 このように、宣教の障がいとなる4つのバリアを取り払って下さった方が、救い主イエスでもあられました。                                         (銘形 「ルカの福音書の神学」から引用)

2016年01月01日 元旦礼拝 主があなたを守られる

招詞
心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道を まっすぐにされる。                             箴言3章5~6節
                      
聖書箇所
詩篇121編

説教
主があなたを守られる 田口勇新牧師
MP3音声ファイル



2015年12月27日日曜日

2015年12月27日 第4主日礼拝 ガリラヤの光

招詞
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。 光の子どもらしく歩みなさい。 光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。              エペソ人への手紙5章8~9節

聖書箇所
マタイ4章12~17節

説教
ガリラヤの光  田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ39/いのちと光
この方にいのちがあった。このいのちは人の 光であった。               ヨハネ1:4

 ヨハネの福音書のキーワードは、「光」で しょう。イエスは、人の光です。バプテスマ のヨハネの役割は、キリストの中にあるこの 光へと人々の注意を 向けることでした。イ エスは、2度、ご自身を光と呼ばれました。 この光は、人の中に「在る」ことができます (同11:10)。だから人々は、光の 子 となれるのです(12:36)。イエスは、「わた しは光としてこの世に来た」と言われました (同12:46)。イエスの光は、①混沌を打ち負か す光でした。➁隠れたものを明らかにする光 でした・③人を救いへと導く光でした。この 光を受け入れ、それを信じる時にもはや暗や みを歩くことはあ りません(同12:46)。イ エス無しでは、暗がりを手探りで歩く人生に なります。イエスとともにいてこそ、道は明 るいのです。        (バークレイ  「ヨハネ上」 より一部引用)

2015年12月20日日曜日

2015年12月20日 クリスマス礼拝 ベツレヘムとキリスト

招詞
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)           マタイの福音書  1章 23節


聖書箇所
ミカ書 5章2節4節
ルカの福音書 2章 8~16節

説教
ベツレヘムとキリスト  田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ38/ベツレヘムは『パンの家』
「神の御子は今宵しも ベツレヘムに生まれたもう」(讃美歌111)、「ああ、ベツレヘムよ などかひとり」(同115)、「いざ歌え友よベツレヘムの」(同120)などをはじめとするクリスマス・キャロルの中には、「ベツレヘム」という固有名詞が多く見られます。「ベツレヘム」はヘブル 語で「ベート・レヘム」で、『パンの家』という意味です。そこが昔から、パンの原料となる小麦や大麦などの穀物の産地だったからですが、この町にはそれ以上の歴史的な秘密があります。
  旧約聖書のルツ記の舞台は、ベツレヘムで、ルツさんとボアズさんの美しい恋が実る場でもありました。でも、 神さまはただの恋物語ではなく、この2人の子孫からやがてあのダビデが生まれるように計画しておられました。
  ルカ2章11節で、「きょうダビデの町で。。。」と天使が告げられたダビデの町は、ベツレヘムの通称でした。このことは、イエスさまが来られる700年以上も前に、ミカによって預言されていました。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。」 あの東方の博士たちは、メシア(キリスト)がベツレヘムに現れるというこの預言のことばを読んで、ベツレヘムに向かうことができました。
  このように、「ベツレヘム」は、神の救いのドラマにおいて多くのできごとと希望が隠されていた町なのです。クリスマスの賛美歌を歌いながら、2000年前のベツレヘムの町に思いを寄せてみましょう。
                                        (銘形 アドベントの瞑想より一部引用)  

2015年12月13日日曜日

2015年12月13日 第2主日礼拝 ヤコブから一つの星が

招詞
私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。 私の心の思いが神のみこころにかない ますように。                              詩篇 104篇 33~34節

聖書箇所
マタイの福音書 2章1節~11節

説教
ヤコブから一つの星が  田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ37/星とメシア
東方の博士たちは、はるばるパレスチナにやって来ましたが、星が彼らを導きました。キリスト誕生のおよそ1200~300年ほど前に、異邦人で ある預言者が語ったメシアの預言について、なんらかの形でそのことを聞いて知っていました。それは、バラムの預言でした(民数記24:17)。「ヤコブから出る一つの星」、それはメシアの星でした。そのメシアの星を、ヨハネの黙示録 22:16では「明けの明星」と表現しています。「明けの明星」とは、夜明け前に東の空に美しく輝いて見える金星のことを指します。ヨハネは、晩年、キリスト者であるという理由でパトモス島に幽閉されている間に黙示録を記していますが、いつものように夜明け前に起きて神に祈っている時は、いつも金星を東の空に見ていたのかもしれません。金星がヨハネの顔を照らし、 朝の冷気で元気づく時に、まるでイエスが「元気を出しなさい、私はあなたとともにいる」と言われているような気がしたかもしれません。星とメシア、そしてメシアを信じ救われた使徒ヨハネも、メシアであられるイエスを輝く明けの明星と語り継ぎ、「この星を見るたびにイエスを思いおこし。困難の中でも勇気を出しなさい」と励ますメッセージを私たちに送っています。                    (銘形 アドベントの瞑想を一部引用)

2015年12月6日日曜日

2015年12月06日 第1主日礼拝 夢と予言

招詞
私は心を尽くして【主】に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。 私 は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。                        詩篇9篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書 1章18節~25節

説教
夢と予言  田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ36/「しるし」と「象徴」2
前回は、「しるし」が神さまからのサインであるということを知りました。一方「象徴」は、「しるし」とは異なり、具体的な物事からある深い隠された真理を伝えるために用いられるものです。例えば、聖霊なる神は、「鳩」、「風」、「息」、「雨」、「露」、「酒」、「油」、「火」などで表わされます。朝や夜を象徴として用いることもあります。
 使徒パウロの生涯には、「ある夜」という三つの夜があったことをルカは「使徒の働き」に記してています。これらは、「ある夜」と表現される目に見えない特別な「夜」を意味します。いわばパウロの人生の節目 となるような特別な「夜」であり、象徴的な意味を持った夜なのです。具体的には、彼にとって行き詰まりの状態を指し示す「夜」、迫害者の手中に落ちて恐れと不安の中にある「夜」、将来のヴィジョンと励ましを与えられた「夜」などに、パウロは主の幻や語りかけを経験したのです。
 今年の待降節で取り上げる象徴は、特に、マタイの福音書のイエスの誕生にまつわる箇所に登場する「14」という数字、「夢」、「星」、「光」と続きます。これらの象徴的表現を通してヨセフとマリヤは何を見たのでしょうか?このエピソードを読む私たちに何が見えてくるでしょうか? これらの象徴の一つ一つに思いを置き、私たちが神の救いのご計画の中に入れていただけたすばらしさを再発見することができるでしょうか? 
                                           (銘形「アドベントの瞑想」より引用)