2026年8月1日土曜日

2026年08月02日 第一主日礼拝 神の知恵

招詞
 みことばのすべては真実です。ああなたの儀のさばきはことごとく、とこしえに至ります。
                                  詩篇119篇160節

聖書箇所
コリント人への手紙第一2章6~16節

説教
神の知恵 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/653 とりなしの祈り④ 互いのために祈りなさい

そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。         テモテへの手紙第一2章1節

 絶えず祈りなさい(1テサロニケ5:17)と言われても、「そんなこと一体だれができるのでしょうか。毎日生活のことに追われている者にどうしてそれができるのでしょうか。」とあなたは言われるかもそれません。あなたに質問させてください。「どのようにして、母はその子を絶えず愛することができるのでしょうか。どのようにして、まぶたは絶えず目を守るのでしょうか。どのようにして、わたしは絶えず呼吸し、感じ、聴くことができるのでしょうか。」と。

 なぜなら、これらはすべて、健康で自然ないのちの働きであるからです。ですから同様に、もし聖霊の力に満ち溢れて、私たちの霊的ないのちが健康な状態にあるならば、絶えず祈ることはごく自然なことなのです。

 何をどのように祈るのか、これから時間をとって一緒に考えて生きましょう。
                       (アンドリュー・マーレー「祈りの手帳」より)
 

2026年07月26日 第四主日礼拝 イエスの手が伸ばされた時

招詞
 ご覧ください。どんなに私があなたの戒めを 愛しているかを。主よ あなたの恵みによって 私を生かしてください。                                                                                           詩篇119篇159節

聖書箇所
マルコの福音書1章40~45節

説教
イエスの手が伸ばされた時 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/652 とりなしの祈り③ 絶えず祈りなさい、なぜ

 そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。                テモテへの手紙第一 2章1節

 絶えず祈りなさい(1テサロニケ5:17)と言われても、「そんなこと一体だれが出来るのでしょうか。毎日生活のことに追われている者にどうしてそれができるのでしょうか。」とあなたは言われるかもしれません。あなたに質問させてください。「どのようにして、母はその子を絶えず愛することができるのでしょうか。どのようにして、まぶたは絶えず目を守るのでしょうか。どのようにして、私は絶えず呼吸し、感じ、聴くことができるのでしょうか。」と。
なぜなら、これらはすべて、健康で自然ないのちの働きであるからです。ですから同様に、もし聖霊の力に満ち溢れて、私たちの霊的ないのちが健康な状態にあるならば、絶えず祈ることはごく自然なことなのです。
 何をどのように祈るのか、これから時間をとって一緒に考えていきましょう。 
                      (アンドリュー・マーレ―「祈りの手帳」より)

2026年7月18日土曜日

2026年07月19日 第三主日礼拝 イエスは神の力、神の知恵

招詞
 私はあなたの 仰せを 喜びます。それを私は 愛します。私は 愛するあなたの仰せを求めて 両手を上げ あなたのおきてに思いを潜めます。              詩篇119篇47~48節

聖書箇所
コリント人への手紙1章18~2章5節

説教
イエスは神の力、神の知恵 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/651 とりなしの祈り② とりなしの奥義

 主は人がいないのを見て、とりなす者がいないことに啞然とされた。   イザヤ書59章16a

 困難な時に神がとりなす者を探されたのに、その努力がむなしかった、と記されています。神の御国においては、とりなすものの占める位置は、なんと重要な事でしょうか。しかし、神がこのような力を与えられるのに、なお神の力をつかみ、主の祝福をこの世界にもたらすことを知っているものが非常に少ない、ということはまさに驚くべきことではないでしょうか。この立場を認めるように努めようではありませんか。
 主は今も生きて、祈っていてくださいます。祈りこそ御座にいます祭司・王としての主のもっとも神聖な特権の最高の実践なのです。神は御国の進展をこんなにまで民の忠実な祈りに依存しておられる、ということは驚くべき奥義であり、しかも絶対に確かなことです。神はとりなす者を求めておられます。主はその恵みのうちにご自身のわざを彼らにたよっておられるのです。主は彼らを待っておられるのです。
 「私たちの父よ。あなたの子供たちを祈りととりなしとに忠実であることによって御国の拡大にあずかるようにと、招いておられることを理解できるよう私たちの目を開いてください。この聖なる召しの栄光を見定める洞察力をお与えください。そしてこの祝福された奉仕に全力全霊をもってあたらせてください。」               (アンドリュー・マーレー「とりなし」より)

2026年7月14日火曜日

2026年07月12日 第二主日礼拝 一致が揺らぐときも

招詞
 あなたの恵みによって私の声を聞いてください。主よあなたの定めにしたがって私を生かしてください 。                              詩篇119篇149節

聖書箇所
コリント人への手紙1章10~17節

説教
一致が揺らぐときも 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/650 とりなしの祈り ①主要な恵みの手段

 ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。 エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。   ヤコブの手紙5章16~18節

 祈りにはなんという栄光が隠されていることでしょうか。私たちは一方で、人を祝福しようと待ち、求めておられる神を、その聖さと愛と力のうちに見、もう一方では、天の命と愛が神のもとから降り、人の心の中に住むようにと祈っている、塵の中の虫のような罪深い人間を見るのです。
 とりなしは、神の子どもたちにとって大胆で、最も聖なるわざであり、会話によって神と結ばれるという最高の特権と喜びであると言えない人がいるでしょうか。神が人々の内に住み、人々が神の栄光を表わすという神の偉大なわざのために、その道具となって神に用いられることの力はどんなに大きなものでしょうか。教会がとりなしを主要な恵みの手段のひとつと数え、何にもまさって、滅び行く世界のためにたゆみなく祈る、神の子どもたちの中にある力を、開発しようとしてきたことを心を留めない人があるでしょうか。    (アンドリュー・マーレー「とりなし」より)

2026年7月5日日曜日

2026年07月05日 第一主日礼拝 パウロ、遠回りの祝福

招詞
 私は夜明け前に起きて叫び求めます。あなたのみことばを待ち望んでいます。私は夜明けの見張りよりも先に目覚めあなたのみことばに思いを潜めます。    詩篇119篇147~148節

聖書箇所
コリント人への手紙1章1~7節

説教
パウロ、遠回りの祝福 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/649 謙遜 ⑪ 謙遜の種を蒔く

 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。                    エペソ人への手紙3章17~19節

 謙遜についての真理は次の通りです。高ぶりがあなたの内で死ぬのでなければ、天にある何ものもあなたの内に生きることはできません。真理の旗印のもとで、あなた自身を聖なるイエスの柔和でへりくだった霊に捧げなさい。謙遜は、種をまかなければ育ちません。そうでないと天での収穫がありません。
高ぶりをただの無作法な感情と見なしたり、謙遜をただの立派な徳と見なしたりしてはいけません。なぜなら、一方は死ですが他方はいのちであり、一方はまったくの地獄ですが他方はまったくの天だからです。あなたが自分の内側に高ぶりを保持している限り、堕落天使があなたの内で生きています。あなたが本当の謙遜を持っているなら、神の小羊があなたの内側にそれだけ豊かに住んでいてくださるのです。謙遜が、どれほど甘美で、神聖な、物事を変える力を持っているかわかりますか。それがいかにしてあなたの性質をむしばむ毒を排し、あなたの内に神の御霊が生きる余地を作り出すかわかりますか。            (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。)

2026年6月28日日曜日

2026年06月28日 第四主日礼拝 ヤロブアムとダビデ/祝福される教会のモデル

招詞
 主よあなたは正しくあられます。あなたのさばきは真っ直ぐです。義をもってあなたはさとしを与えられました。この上もない真実をもって。         詩篇119篇137~138節

聖書箇所
第一礼拝:第1列王記 12章25~33節、14章7~11節
第二礼拝:使徒の働き 2章40~47節

説教
第一礼拝:ヤロブアムとダビデ 田口勇新 牧師

第二礼拝:祝福される教会のモデル 玉井邦美 牧師

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言(こと)ローグ/648 謙遜 ⑩ 弟子の特徴

 あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。 ヤコブの手紙3章13節

 私は確信しています。多くのクリスチャンがこの点について私自身とほとんど同じような経験をしてきたと告白するでしょう。つまり、私たちは長いあいだ主を知るうえで重要な点をとり逃してきました。心の柔和さとへりくだりが、弟子が師のものであることを裏付ける際立った特徴であるという点です。さらに、この謙遜はそれ自身から来るものではなく、特別な願いと祈りと信仰と実践の目標とされなければならないという点です。
 私たちがみことばを研究すると、イエスが弟子たちにこの点についてどれほど明確にまた何度も繰り返して教えておられたか、そして弟子たちが主の言われることを理解するのがどれほど遅かったことかを理解するようになります。私たちの考察のまさしく序章において、ぜひ認めようではありませんか。
 高ぶりほど、人間にとって自然なものはほかになく、私たちの目に隠れてじわじわと広がるものはほかになく、困難で危険なものはほかにないということを、ぜひ実感しようではありませんか。確固たる意志をもって神とキリストを忍耐強く待ち望むことほど、私たちに謙遜の恵みがどれほど不足しているかを痛感させるものはほかになく、また私たちが探し求めるものを獲得するのにどれほど無力であるかを痛感させるものはほかにないということを。
            (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。次回は「⑪謙遜の種」です。)

2026年6月21日日曜日

2026年06月21日 第三主日礼拝 イエスの洗礼と私たち

招詞
 わたしは あなたの神 主である。わたしがあなたをエジプトの地から連れ上った。 あなたの口を大きく開けよ。わたしが それを満たそう。                 詩篇81篇10節

聖書箇所
マルコの福音書1章1~11節

説教
イエスの洗礼と私たち 菅牧師
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言(こと)ローグ/647 謙遜 ⑨ 明け渡すもの

 みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。                                1ペテロ5章5節

 謙遜は私たちが神に捧げるものではなく、神が与えてくださるものです。それは単純に「まったく無に等しい者」であるという感覚です。その感覚は、神こそがすべてであるという真実をはっきりと理解するときに与えられます。私は無であるという感覚が、神にすべてとなっていただく道を作ります。謙遜こそが本物の高貴さであることを人が認識するとき、また人が神のいのちと栄光が働き、それらをあらわすための形であり器であることに自らの意志、思い、愛をもって彼自身が同意するとき、彼は謙遜を本当に理解するようになります。謙遜は被造物としての身の丈に関する真理をシンプルに認めることであり、もともと神の場所であったものを神に明け渡すことなのです。
 神が自由にすべてとなってくださるままに神にお任せする謙遜と「無なること」こそが、被造物の関係をあらわす第一にして主要なる表徴、彼が祝福を受けたものであることを示す奥義なのではないでしょうか。   <アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は、「⑩弟子の特徴」です。>

2026年6月14日日曜日

2026年06月14日 第二主日礼拝 ピリポ、散らされて

招詞
 あなたのさとしは奇しくそれゆえ私のたましいはそれに目を留めます。みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。私は口を大きく開けてあえぎます。まことに私はあなたの仰せを慕います。                       詩篇119篇129~131節

聖書箇所
使徒の働き8章1~25節

説教
ピリポ、散らされて 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/646 謙遜 ⑧ 回復の刻印

 みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。                                ペテロの手紙第一 3章8節

 前回、キリストの謙遜は私たちの救いです。キリストの救いは私たちの謙遜です。と書きました。
 それですから、私たち救われた者たちの生活には、罪から解放され、神との関係と人との関係のすみずみにまで謙遜が浸透している本来のありさまを十二分に回復したという刻印がぜひとも押されなければなりません。このことを差し置いて、神の臨在に本当の意味でとどまることや、神の恵みや御霊の力を経験することはありえませんし、信仰や愛や喜びや強さがやどることはありません。謙遜は、恵みが根をはる唯一の土壌なのです。どんな敗北も失敗も、謙遜が欠けているならそのことが十分な説明となります。謙遜は他の恵みや徳と同列に並べられるものではありません。それはすべての根です。なぜなら、それだけが神の御前に正しい態度をとり、神が神としてあらゆることをなさるのを妨げないからです。
 神は私たちを理性的な存在に造ってくださったので、私たちはある命令についてその本質を洞察し、その命令の絶対的な必要性を真に理解すればするほど、ますます自ら進んで、心から従うようになります。残念なことに、教会のなかで謙遜への召しがあまりにも軽く見られてきました。というのも、その本質と重要性が理解されてこなかったからです。謙遜は私たちが神に捧げるものではなく、神が与えてくださるものです。
          (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。次回は「⑨ 明け渡すもの」です。)

2026年6月6日土曜日

2026年06月07日 第一主日礼拝 聖霊に満たされたステパノ

招詞
 私の目はあなたの救いとあなたの義のみことばを慕って絶え入るばかりです。あなたの恵みによってあなたのしもべを取り扱ってください。私にあなたのおきてを教えてください。
                              詩篇119篇123~124節

聖書箇所
使徒の働き7章55~60節

説教
聖霊に満たされたステパノ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/645 謙遜 ⑦ 謙遜の回復

 謙遜の限りを尽くして外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。 
                               コロサイ人への手紙4章5節

 したがって、私たちの贖いとは、堕罪によって失われた謙遜を回復すること、被造物の神に対する本来的なただ一つの真実な関係を回復すること以外の何ものでもありません。ですからイエスが来られた目的は、地上に謙遜を取り戻すため、私たちを謙遜にあずからせるため、それによって私たちを救うためです。天においてイエスはご自分を低くされて人間となられました。私たちがキリストの内に見ている謙遜が、天においてはキリストを保っていました。謙遜がキリストを天から下らせ、キリストが謙遜を天から下らせました。この地上で「ご自分を低くして、死に至るまで従順となられた」のです。キリストの謙遜が彼の死に
徳を与え、それゆえ私たちの贖いとなりました。
 いまやキリストの分け与える救いとはキリストご自身のいのちと死、キリストご自身のご性質と霊、キリストご自身の謙遜を転移させること以下のものではなく、それ以外のものでもありません。キリストご自身の謙遜はキリストの神に対する関係と彼の贖いのわざの、土台であり、根です。イエス・キリストが完全な謙遜の生涯によって、被造物としての人の運命を私たちの代わりに実現してくださいました。
 キリストの謙遜は私たちの救いです。キリストの救いは私たちの謙遜です。 
            (アンドリュー・マーレー「謙遜」より。次回は「⑧回復の刻印」です。)

2026年05月31日 第五主日礼拝 弱者とご聖霊

招詞
 私は、二心のある人たちを憎み、あなたのみおしえを愛します。 あなたは私の隠れ場、私の盾。私はあなたのみことばを待ち望みます。             詩篇119篇113~114節

聖書箇所
使徒の働き6章1~7節

説教
弱者とご聖霊 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/644 謙遜 ⑥謙遜というこころの場所

 みな互いに謙遜を身に着けなさい。                ペテロの手紙第一 5章5節

 神が御力によってひとたび創造したことが真実であるのと同じように、神は瞬間ごとに同じ御力によって被造物を保っておられることも真実です。被造物は存在の起源とはじまりに立ち返らなければならないだけでなく、その起源においていっさいを神をよりどころとしてい
ることを認めなければなりません。すなわち、被造物の主要な関心、その最も崇高な徳、その唯一の幸福は、今から永遠にわたって、それ自身を空の器として捧げることです。神がそのなかに住まい、御力と良きご性質をあらわすことができるからです。
 人の弱点・欠点は、謙遜の欠如に由来します。どんな人でも他者を自分を比べてしまい自分を卑下したり、逆に高ぶりの誘惑が沸き出てきます。悲しい性質です。しかし、神は、創造以来、謙遜なこころの場所を造ってくださっています。神にまったくより頼む謙遜というこ
の場所は、被造物の本来的な性質に由来します。このことを神に感謝し、それと同時に、主のみ力によりこのこころの場所を誘惑から意識的に守りましょう。
 高ぶり、すなわち謙遜の欠如はあらゆる罪と悪の根です。あの堕落天使が不従順に陥って天の光から外の闇へと追放されたのは、独りよがりな自己賞賛を始めたときでした。
      (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は「⑦失われた謙遜の回復」について)

2026年5月24日日曜日

2026年05月24日 聖霊降臨日礼拝 ペンテコステと私

招詞
 主よ。どうか、私の心からの賛美を受け入れ、御教えを教えてください。あなたの御教えは、永遠に私の宝です。                   詩篇119篇108、111節 現代訳

聖書箇所
使徒の働き2章32~4節

説教
ペンテコステと私 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/643 謙遜 ⑤ 被造物の栄光

 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。               エペソ人への手紙4章2~3節

 神が宇宙を創造なさったとき、被造物を神の完全性と祝福にあずかる者とし、そうして宇宙のなかに神の愛と知恵と力との栄光をあらわすをあらわすという目的がありました。
 最後に造られた人間について考えましょう。その目的は、神が造られた者たちの内に、また造られた者たちを通して、おのおのが受けられる器の大きさに応じて、神ご自身の良きご性質と栄光を転移(トランスファー)することによって、ご自身をあらわすことでした。
 したがって、この転移は、被造物が自分自身の内に所有できるものを与えることではありません。被造物の側で自由に管理したり使ったりできるような種類のいのちと良き性質を与えることではありません。そうではなく、神が永遠に生きておられ、永遠に存在され、永遠に働いておられる方であって、神がすべてのものをご自分の力あるみことばによって保ち、神の内にすべてのものが存在しているのですから、被造物の神に対する関係は、絶えざる、絶対的な、普遍的な依存という関係しかあり得ないのです。
        (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は「謙遜という心の場所」について )

2026年5月17日日曜日

2026年05月17日 第三主日礼拝 起き上がらせて下さるキリスト

招詞
 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。      主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。                     詩篇119篇105、107b節 

聖書箇所
マルコの福音書5章21~24、35~43節

説教
起き上がらせて下さるキリスト 菅孝雄牧師補
説教動画

言(こと)ローグ/642 謙遜④ 恵みが根を張る土壌

  あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。                   マルコの福音書10章43~45節 
     
 弟子たちへのイエスのこの言葉は、私たちに対しても真実です。私たちが、皆に仕える者になっている時、私たち自身がイエスの恵みが根を張る土壌となっています。イエスは、すべての人に仕え、助ける者となることほど天的な神のご性質を現すものはほかにないという、祝福された真理を教えてくださったのです。 忠実なしもべは自分の分をわきまえているので、主人や客の欲するものを給仕することに本当の喜びを見出します。謙遜が罪の意識と比較にならないほど無限に深いものであると知り、またイエスのいのちに参与することであるという事実を受け入れるとき、謙遜こそが本当の高潔さであるという真理を私たちは学び始めるでしょう。また、すべての人のしもべとなることによって謙遜をはっきり示すことは、神のかたちに造られた人間としての私たちの運命を最も高い次元で実現するということもわかるでしょう。 
          (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は「被造物の栄光」について) 

2026年5月10日日曜日

2026年05月10日 第二主日礼拝 目を覚まして祈りなさい

招詞
  あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。                          詩篇119篇103~104節

聖書箇所
ローマ人への手紙13章11節
コリント人への手紙15章34節
エペソ人への手紙6章18節

説教
目を覚まして祈りなさい 松本章宏牧師

言(こと)ローグ/641 謙遜③ 高ぶりは謙遜の欠如から
 
 ですから、高ぶり、すなわちこの謙遜の欠如はあらゆる罪と悪の根です。現在の堕落天使が不従順に陥って天の光から外の闇へと追放されたのは、独りよがりな自己賞賛を始めたときでした。それと同じように、へびが私たちの最初の先祖に神のようになりたいと願う高ぶりの毒をささやきかけたとき、彼らも高い地位から現在の人類が沈んでいる悲惨さへと落ちました。天においても地においても、高ぶり、すなわち自分を高めることは、地獄の門であり、地獄の誕生であり、地獄の呪いです。
 したがって、私たちの贖いとは、失われた謙遜を回復すること、被造物の神に対する本来的なただ一つの真実な関係を回復すること以外の何ものでもありません。ですからイエスが来られた目的は、地上に謙遜を取り戻すため、私たちを謙遜にあずからせるため、それによって私たちを救うためです。     (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は「恵みが根を張る土壌」について)

2026年5月3日日曜日

2026年05月03日 第一主日礼拝 家に帰らせてくださるキリスト

招詞
 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。 あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。                              詩篇119篇72~73節

聖書箇所
マルコの福音書5章14~20節

説教
家に帰らせてくださるキリスト 菅 孝雄牧師補
https://youtu.be/rypqlum1xgY

言(こと)ローグ/640 謙遜② 自身を空の器として捧げること

 神が御力によってひとたび創造したことが真実であるのと同じように、神は瞬間ごとに同じ御力によって被造物を保っておられることも真実です。被造物は存在の起源とはじまりに立ち返らなければならないだけでなく、その起源においていっさいを神をよりどころとしていることを認めなければなりません。すなわち、被造物の主要な関心、その最も崇高な徳、その唯一の幸福は、今から永遠にわたって、それ自身を空の器として捧げることです。神がそのなかに住まい、御力と良きご性質をあらわすことができるからです。
 神の付与するいのちは一度にすべての者に分配されたのではなく、全能の御力の絶えざる働きかけによって、そのつど、持続的に与えられています。神にまったくより頼む謙遜という場所は、被造物の本来的な性質に由来します。それは、第一の義務であり、被造物の最も崇高な徳であり、すべての徳の根です。     (アンドリューマーレー「謙遜」より。次回は謙遜の欠如について)

2026年4月26日日曜日

2026年04月26日 第四主日礼拝 まことに主はこの場所におられる 

招詞
 主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。  詩篇119篇65~66節

聖書箇所
創世記28章10~22節

説教
まことに主はこの場所におられる 永井創世KGK東北主事

言(こと)ローグ/639 謙遜① 被造物の栄光

 二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」                       (黙示録4:10〜11)

 神が宇宙を創造なさったとき、被造物を神の完全性と祝福にあずかる者とし、そうして宇宙のなかに神の愛と知恵と力との栄光をあらわすという一つの目的がありました。神は造られた者たちの内に、また造られた者たちを通して、おのおのが受けられる器の大きさに応じて神ご自身の良きご性質と栄光を転移することによって、ご自身をあらわすことを願われました。
 けれども、この転移は、被造物が自分自身の内に所有できるものを与えることではありません。被造物の側で自由に管理したり使ったりできるような種類のいのちと良き性質を与えることではありません。そうではなく、神が永遠に生きておられ、永遠に存在され、永遠に働いておられる方であって、その方がすべてのものをご自分の力あるみことばによって保ち、その方の内にすべてのものが存在しているのですから、被造物の神に対する関係は、絶えざる、絶対的な、普遍的な依存という関係しかあり得ないのです。次回から栄光の転移について詳しく学びましょう。
                          (アンドリューマーレー「謙遜」より)

2026年4月19日日曜日

2026年04月19日 第三主日礼拝 サタンに打ち勝つキリスト

招詞
 私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。  
                                                                                                                     詩篇119篇18~19節

聖書箇所
マルコの福音書5章1~20節

説教
サタンに打ち勝つキリスト 菅孝雄牧師補
https://youtu.be/Flo7z8P-AFg

2026年4月12日日曜日

2026年04月12日 第二主日礼拝 

招詞

 私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのみことばを忘れません。 あなたのしもべに豊かに報い、私を生かし、私があなたのみことばを守るようにしてください。  詩篇119篇16~17節

聖書箇所
使徒の働き1章3~14節

説教
イエスの昇天 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/638 雲(ネフェレー): 神の栄光の現われ

 そして、(イエスは、)祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。
                                ルカの福音書 24章51節

 同じ昇天の記事が、使徒の働き1:9では、「雲がイエスを包み、彼らの目には見えなくなった。」とあります。ここにある「雲:ネフェレー」は、神の栄光の現われです。
旧約時代では、モーセがシナイの山頂において雲の中で律法を与えられています。荒野における幕屋における主の臨在は雲によって現われました。ソロモンが神殿を奉献したときにも、やはり雲が現われ、祭司たちはその臨在に圧倒されて立っていることができませんでした。雲は神の臨在のしるしです。
新約では、イエスの変貌の時に雲がわき起こり、弟子たちをおおいました。するとその雲の中から、「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け。」という声がしました(ルカ 9:34~35)。復活された神の子であるイエスは雲の中に包まれて昇天されたことによってその栄光を現わされました。そして同様に、イエスが再びこの地上に戻って来られる時にも、雲に乗って来ることが約束されているのです(使徒1:11、マタイ24:30, 26:64、黙示14:16)。見えないものも見たいのが私たちです。主のご栄光を可視化して見せて下さる神の粋なお取り計らいに感謝ですね。
                               (銘形 「雲」から一部引用)

2026年4月5日日曜日

2026年04月05日  イースター・召天者祈念礼拝 イエスの復活

招詞
 主よ、あなたはほむべき方。・・・ 私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。         詩篇119篇12、18節

聖書箇所
ルカの福音書24章1~12節

説教
イエスの復活 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/637 信じ難いこと:十字架か復活か

 パウロは、最高法院の議会の中でこう叫んだ。「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」 パウロがこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。 サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、いずれも認めているからである。 使徒の働き 23章6~8節

 イエスの時代、ユダヤ人最高法院(サンヘドリン)は、祭司長たちのいるサドカイ派と律法を教えるパリサイ派から構成されていて、復活は両派の論争の火種になっていました。現世の権威にしがみつくサドカイ派は、復活も天国も信じなかった不信仰者でした。パリサイ派のユダヤ人は、反対にどちらも信じていましたが、メシア=キリストが恥辱の十字架刑になるはずが無いと主張し躓きました。あなたにとってどちらが信じ難いでしょうか。身代わりに死んでくださったイエスの十字架ですか? あるいはイエスの復活ですか?

2026年3月29日日曜日

2026年03月29日 第5主日礼拝 最後に救われた男

招詞
 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはと   こしえまで。主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。                    詩篇118篇1、8節

聖書箇所
ルカの福音書23章26~43節

説教
最後に救われた男 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/636  最後の1週間 ⑦ 三つの出来事

 イエスが十字架において確実に死んだことを表わす表現として、ヨハネの福音書だけは、その死の確実性を表わすために、十字架につけられた二人の者は死を早めるために、「すねを折った」(19:31-32)のですが、イエスの場合には、「すでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった」(19:33)と記し、「イエスのわき腹を槍で突き刺した。すると血と水が出てきた」(19:34)と、ヨハネは証言しています。  

 イエスの確実な死によって三つの出来事が記されています。  

 その一つ目は、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた (マタイ 27:51、 マルコ 15:38)」ことです。これは何を意味する出来事でしょうか。これはイエスの死によってもたらされた 「天的現実の地的な現われ」と言えます 。
 二つ目は、墓が開いて眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返ったことでした(マタイ 27:52)。  神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたことが、「天的現実の地的な現われ」だとすれば、墓が開いて眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返ったことは、「地下的現実の地的な現われ」ということができます。  
 三つめは、百人隊長の目が開かれ、「イエスが神の子である」と告白したこと (マタイ 27:54、 マルコ 15:39、ルカ 23:47)で、これはやがて異邦人にもイエスが神の子であることに霊的な目が開かれて行くことを象徴する出来事でした。                     (銘形 「イエスの死」より一部引用) 

2026年3月22日日曜日

2026年03月22日 第4主日礼拝 イエスの打ち傷のゆえに

招詞
 すべての国々よ、主をほめたたえよ。すべての民よ、主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。              詩篇117篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書27章26~32節
イザヤ書53章1~8節

説教
イエスの打ち傷のゆえに 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/635 最後の1週間 ⑥イエスの女弟子たち

 彼(アリマタヤのヨセフ)は、からだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。・・・・・イエスとともにガリラヤから来ていた女たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた。それから、戻って香料と香油を用意した。                       ルカの福音書 23章53,55~56節

 イエスが十字架から引き降ろされ、墓に納められる様子をしっかりと見届けた勇気ある女性たちがいました。十字架刑に処された罪人は埋葬されず、死体は野に晒されます。この段階では誰も、この墓から三日目にイエスが蘇って出て行くとは知りません。しかし、彼女たちも、イエスの弟子としてできる最後の証として、安息日前の一時間あまり、心を込めてイエスを墓に葬ることができました。
 三日目の朝、彼女たちは、本格的な葬りの準備をするために、またお別れのために墓に出向いたのでした。ここまで間違いだらけの行動のように思いますか? しかし、空になった墓のそばで、天使のみ告げによってイエスの復活を最初に信じたのは彼女たちでした。信仰と勇気と行動力、彼女たちの存在が、やがて誕生する教会を下から支える力となっていったのではないでしょうか。人の目にふれないところでも、イエスに対する弟子としてのあかしを立てようとする志はすばらしいと思います。いつでも、どこでも、自分がひとりのキリスト者であるという自覚をもって真実に生きることが求められていると思います。      (銘形 「イエス墓に葬られる」より一部引用)