2024年9月22日日曜日

2024年09月22日 第4主日礼拝 最初の奇蹟 ー あなたの一大事はイエスの一大事だ!

招詞
 ダビデの賛歌。力ある者の子らよ。主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。               詩篇29篇13節

聖書箇所
ヨハネの福音書2章1節~11

説教
最初の奇蹟 ー あなたの一大事はイエスの一大事だ! 菅 神学生


言(こと)ローグ/559 謙遜についての教え(12)「謙遜 」

 (イエスは)ご自分を空しくして、しもべの姿をとり……     ピリピ人への手紙2章7節


 大学バスケットボールのスター選手が、試合後、会場の従業員と一緒にゴミを拾っていました。ファンがその動画を投稿すると8万人以上が視聴し、「最も謙虚な人の一人」という賞賛もありました。
 キリストの模範は、私たちを促し、家事の手伝いやゴミ拾いといった謙遜な行いをさせるかもしれません。しかし、それが最も大きな影響力を持つのは、謙遜な行動が謙遜な心を作ったときでしょう。
 本当の謙遜は品性です。目に見える行動だけでなく、何が大切かという価値観も変えてしまいます。文筆家であり牧師のアンドリュー・マーレーは「謙遜はきよさの花であり美しさである」と語りました。私たちも、キリストの思いを抱くことで、聖霊の力によって、この美しさを表していけますように(2-5節)。            (J. シュルツ 「謙遜に生きる」より一部引用)

2024年9月15日日曜日

2024年09月15日 第3主日礼拝 腐敗のパン種

招詞
 ほむべきかな、主。主は私の願いの声を聞かれた。 主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。私の心は喜び踊り、私は歌をもって、主に感謝しよう。 詩篇28篇6~7節

聖書箇所
ヨハネの黙示録2章18~29

説教
腐敗のパン種 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/558 謙遜についての教え(11)「謙遜の報い」

 へりくだりと、主を恐れることの報いは、富と誉れといのち。        箴言22章4節

 米国での教員に関する最近の調査によると、協力の効果が増大するのは、お互いが弱さを隠さない時だそうです。各々がへりくだって弱さをさらけだすなら、意見を言っても安全だと感じ、同僚の間で効果的な助け合いが生まれるといいます。聖書は謙遜の重要性を教えますが、それは仲間の協力のためだけではありません。「主を恐れる」とは、麗しく力強い全能の神と比較して自分を正しく理解することです。その報酬は「富と誉れといのち」です。謙遜は、世俗の価値ではなく、神の目に実りあるとされる共同体生活へと私たちを導きます。自分と同じく神のかたちをした信仰者の益を相互に求めるからです。ただし、「富と誉れといのち」を獲得するために、神を恐れるわけではありません。もしそうなら真の謙遜とはいえません。むしろ、「ご自分を空(むな)しくして、しもべの姿をと」られた(ピリピ2:7)イエスに倣うのです。 
                          (K. H「謙遜に生きる」より一部引用)

2024年9月8日日曜日

2024年09月08日 第2主日礼拝 マナと白い石

招詞
 一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗(うるわ)しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。    詩篇27篇4節

聖書箇所
ヨハネの黙示録2章12節~17

説教
マナと白い石 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/557 謙遜についての教え(10)「謙遜に生きる 」

 彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。    歴代誌第二26章16節

 ムーディ聖書学院の創設者、ドワイト・ムーディーは言いました。「自分は強いと自信をもったとき、その人の転落は、遠くない。誰の目にも明らかになるまで数年かかるかも知れないが、転落はもう始まっている。」 ユダ王国の第10代の王ウジヤ王の場合も、全くこの通りでした。

 ウジヤの人生は、すべてが順調のようでした。彼は、在位した期間の大半は、神に従い霊的指導者に服従しました。王は神に助けを求め、神は必ず王に成功を与えられました。ところが、自分の成功に酔って分別がなくなってしまったのです。彼の思い上がりは、色々なところに現れました。彼は神の神聖を侵しました。自分は祭司の地位についていないにもかかわらず、聖所に入って香をたこうとしました(16節)。さらに、彼を正そうとした祭司の助言に耳を貸さず、悔い改めのチャンスを逃してしまいました。ウジヤは罪の報いを恐れるどころか、気にも留めませんでした(18-19節)。主は、彼をハンセン氏病で打たれました。ウジヤは「主は強める」という意味ですが、彼の暴走を主が止める結果になりました。

 神が何らかの分野で成功させてくださったなら、その成功の源である神さまを忘れてはいけません。神の前にへりくだりましょう。神は、謙遜な人を祝福してくださるのですから。低く生きるよう決断するなら、神が高くしてくださいます。
                    (M.ウィリアムズ「謙遜に生きる」より一部引用)

2024年9月1日日曜日

2024年09月01日 第1主日礼拝 華のスミルナ教会

招詞
 主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦(とりで)。だれを私は怖(こわ)がろう。                            詩篇27篇1節

聖書箇所
ヨハネの黙示録2章8節~11節

説教
華のスミルナ教会 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/556 謙遜についての教え(9)「イエスに仕える 」

 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢(ろう)におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。                            マタイの福音書25章39節

 エリザベス・フライは、19世紀初頭、ロンドンの女性刑務所の環境に衝撃を受けました。受刑者とその子どもたちは、すし詰め状態で冷たい石の床に寝具もなく横たわり、水道の蛇口からはジン(酒類)が出ていました。彼女の監獄改良事業が始まり、英国の女性刑務所が変わり始めました。彼女は、受刑者に衣服を与え、子どもたちの学校を始め、聖書を教え、何年もかけて改革しました。しかし、最大の影響力は、その深い愛情と希望のメッセージだったそうです。
 聖霊の助けを得て他者に仕えるとき、不思議なことに、私たちはイエスに仕えています。エリザベスの模範に倣うことも、自宅でとりなしの祈りをしたり、励ましの手紙を書いたりすることも、また然りです。人を助けるために自分の力や霊の賜物を用いる行為を、イエスは、ご自分に対する愛と捉え喜んでくださいます。       ( A.ブッシャー「イエスに仕える」より一部引用)

2024年8月29日木曜日

2024年08月25日 第4主日礼拝 主は近い

招詞
 主よ、私を弁護してください。私は誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼しています。主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを、私は歩み続けました。         詩篇26篇1~3節

聖書箇所
ピリピ人への手紙4章4節~7

説教
主は近い 周士筠神学生

言(こと)ローグ/555 謙遜についての教え(8)「プライドに勝つ」
 何事も自己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。                         ピリピ人への手紙2章3節

 シンクレア・ルイスの小説「本町通り」(岩波文庫)は、田舎の開業医と結婚した洗練された都会の女性、キャロルの物語です。彼女は、新しく暮らすことになった小さな町で、自分はみんなより優れているとお高く止まっていました。しかし、重症の患者に対応する、医師である夫の姿を見て、自分の間違いを示されます。それは移民の小作農が大怪我をして運び込まれ、腕を切断しなければならないというときでした。キャロルは、患者と取り乱している患者の妻を優しく励ます夫の姿を見て、心から彼を尊敬しました。暖かく真摯に人に仕える医師の姿は、プライドに凝り固まったキャロルの心に衝撃を与え溶かしていきました。

 冒頭のみ言葉は、クリスチャンが、イエスに従うものとして、自己の優越感(プライド)を捨てて相手の益のために喜んで仕える姿勢を求めています。イエスの模範をしっかり見るならば、私たちも、他人の必要を自分の必要以上に大切にすることを学んでいけるでしょう。イエスは「仕える者の姿」をとってくださり、私たちのためにご自身をささげてくださいましたから(5-8節)。
                        ( D.フィッシャー「田舎医者」より一部引用)

2024年8月17日土曜日

2024年08月18日 第3主日礼拝 看守家族の救い

招詩
 主は、いつくしみ深く正しくあられます。それゆえ、罪人に道をお教えになります。主は貧しい者を正義に歩ませ、貧しい者にご自分の道をお教えになります。主の道はみな恵みとまことです。主の契約とさとしを守る者には。                   詩篇25篇8~10節


聖書箇所
使徒の働き16章16節~34

説教
看守家族の救い 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/554 謙遜についての教え(7)「模範に励まされる 」

 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、…… わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
                            ヨハネの福音書13章14~15節

 D.L.ムーディー聖書学院長の聖書講座が1800年代後半に米マサチューセッツ州で行われたとき、ヨーロッパ中から牧師たちの一行がやって来ました。当時のヨーロッパの習慣では、ホテルの宿泊客は、寝る前に自分の靴を部屋の外に置きました。ホテルの従業員に靴を磨いてもらうためです。ムーディーは、アメリカ人でしたがその習慣を知っていたので、外に出してある彼らの靴を見たときに、ホテルの従業員に伝えましたが、誰も磨こうとしません。それでムーディーは靴を全部集め、自ら磨きました。ある晩、友人が不意に彼の部屋にやって来て、ムーディーがしていることを目撃しました。するとその話が広がり、出席者の牧師たちが持ち回りで靴を磨くようになりました。
 私たちは謙遜であることによって、神の真理を順送りに伝えることができます。その模範に倣いたいと思う他の人を励ましたり、奮い立たせたりします。こうして、神の真理が伝わるのです。
 イエスご自身が奉仕の模範です。イエスはご自身のすべてを私たち下さいました。
                    (アルバート・リー「模範に励まされる」より引用)

2024年8月10日土曜日

2024年08月11日 第2主日礼拝 エペソ市のクリスチャン

招詞
 主よ。あなたの道を私に教え、歩むべき所を私に示してください。あなたの真理の道に私を導き、私を教え諭してください。あなたこそ、私の救いの神、私は一日中あなたに望みを置いています。                               詩篇25篇4~5節 (現代訳)

聖書箇所
黙示録2章1節~7

説教
エペソ市のクリスチャン 田口勇新牧師

音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/553 謙遜についての教え(6)「仕える者に」

 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
                            マルコの福音書10章43~45節

 アメリカの小さな大学での話です。この大学は経営難に陥り、資金が必要でした。建物は古くなり、先生たちの給料も払えなくなってしまいました。ある日、見知らぬ人がこの大学にやってきました。たまたま作業服を着て、壁を洗っている人を見かけたので、その人に訪ねました。「学長にお目にかかりたいのですが。」 すると、彼は、「12時に学長室にいらしたら、お会いになれると思います」と答えました。
 訪問客が言われたとおりの時間に学長室に行くと、なんと先ほどの作業服の人がきちんとした洋服に着替えて、学長室にいるではありませんか。彼は、実は学長だったのです。
 数日後、一通の手紙が学長宛に届きました。その中に大学への寄付金として5万ドル(約750万円)の小切手が同封されていました。学長の謙遜な心と行いがこの見知らぬ人の心を打ち動かしたのです。
 冒頭のみ言葉は、「謙遜について」の教えであり、その教えはイエス自らがその模範となっているのです。                      (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年8月4日日曜日

2024年08月04日 第1主日礼拝 ラオデキヤのクリスチャン

招詞
 だれが、主の山に登りえるのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。その人は、主から祝福を受け、自分の救いの神から義を受ける。                 詩篇24篇3~5節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章7節~18

説教
ラオデキヤのクリスチャン 田口勇新牧師


音声のみはこちら:MP3音声ファイル


言(こと)ローグ/552 謙遜についての教え(5)「謙遜の第一歩」

 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
                     マタイの福音書23章12節 (ルカ14:11、18:14)

 「謙譲」という日本独特の文化があり美徳とされます。自分や自分の家族を実際より低く見せることによって相手を高めて尊敬しようというかかわりです。ですから、何か物を出す時に「何もございませんがどうぞ」とか、「つまらない物ですけどどうぞ」とかいう言い方が使われるわけです。これは相手の目線を気にする文化、自分が相手からどう思われている
だろうかという日本特有の相手を意識した語彙です。「謙譲」は、あくまでも人と人との関わりから生まれた知恵です。
 しかし聖書のいう「謙遜」は、「謙譲の美徳」とは全く異なるものです。人と人ではなく、「主の御前にへりくだること」です。それが、聖書のいうほんとうの「謙遜」です。
 十字架は壮絶な痛みを伴う刑罰です。しかも極悪人がつけられる恥辱に満ちた刑でした。しかし御子イエスは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方におまかせになりました。ここにイエスの謙遜の極みがあります。使徒パウロは、こう表現しています。「キリストは、・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死までも従われた
のです。」(ピリピ人への手紙 2:6~8) 「無にして、仕える、卑しくし、従う」ということばが羅列されていますが、最後の「従われた」ということが、換言すると、「はい」なのです。「はい、主よ」が謙遜の第一歩です。 <つづく>         (銘形「謙遜への招き」より一部引用)