2025年6月22日日曜日

2025年06月22日 第四主日礼拝 心の板に書き記す

招詞
 恵みと裁きを、私は歌います。主よ、あなたにほめ歌を歌います。 私は、全き道に心を留めます。いつあなたは、私のところに来てくださいますか。私は家の中を全き心で行き来します。 私は、目の前に卑しいことを置きません。私は、曲がったわざを憎み、それが私にまといつこことはありません。 詩篇101篇1~3節

聖書箇所
箴言3章1~6

説教
心の板に書き記す 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/597 謙遜になれない時

 しかし、彼(ウジヤ王)が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。 
                                 歴代誌第ニ26章16節

 ムーディ聖書学院の創設者、ドワイト・ムーディーは言いました。「自分は強いと自信をもったとき、その人の転落は、遠くない。誰の目にも明らかになるまで数年かかるかも知れないが、転落はもう始まっている。」 ウジヤ王の場合も、全くこの通りでした。
ウジヤ王の人生は、すべてが順調のようでした。彼は、在位した期間の前半は、神に従い霊的指導者に服従しました。王は神に助けを求め、神は必ず王に成功を与えられました。
 その人生は、成功に満ちた偉大なものでした。ところが、自分の成功に酔って分別がなくなってしまったのです。彼の思い上がりは、色々なところに現れ、ある日、彼は神の神聖を侵しました。自分は祭司の地位についていないにもかかわらず、聖所に入って香をたこうとしました(16節)。彼は、神の御力をもらいたいと勝手に考え、祭司のように振る舞いました。祭司の正しい助言に耳を貸さず、悔い改めのチャンスを逃してしまいました。ウジヤ王は罪の報いを恐れるどころか、気にも留めませんでした(19節)。怒りで反抗しようとした瞬間、彼の額にツァラアト(皮膚病)があらわれ、主の聖所から追放されました。
 神が何らかの分野で成功させてくださったなら、その成功の源を忘れてはいけません。神の前にへりくだりましょう。神は、謙遜な人を祝福してくださるのですから。低く生きるよう決断するなら、神が高くしてくださる。         (M.ウィリアムズ「謙遜に生きる」より一部引用)

2025年6月14日土曜日

2025年06月15日 第三主日礼拝 聖霊の力

招詞
 全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。 喜び歌いつつ御前に来たれ。 知れ。主こそ神。 主が、私たちを造られた。 私たちは主のもの、主の民、その牧場(まきば)の羊である。                            詩篇100篇1~3節

聖書箇所
使徒の働き3章1~26

説教
聖霊の力 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/596 勇気

まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。              マタイの福音書 5章24節

 息子とスポーツ観戦に行ったとき、試合だけではなく人間ウォッチングもすることになりました。人間の良い面と悪い面の両方を見せてくれた人がいたからです。その人はスタジアムで迷子になって、自分の席に帰れなくなっていました。それで立って辺りを見回していたのですが、それが私たちの視界をさえぎるような場所でした。座っていた人は試合が見えないので、「どいてくれないか。見えないじゃないか」と言いました。するとその男性は、「そりゃ気の毒だな!」と皮肉たっぷりに答えたのです。そして、もう一度言われると、今度は怒気を含んだ声で同じ言葉を繰り返しました。しばらくすると、その男性はようやくあっちに行きましたが、驚いたことにすぐに戻ってきて、見えないと文句を言った男性に、「さっきは悪かったな。実は席が見つからなくてイライラしていたんだ」と言ったのです。ふたりは握手をして、この件は友好的に片付きました。
 彼らのやり取りを見て、私は考えさせられました。日々の生活の中で、イライラし、キリスト者として恥ずかしい言動をしたことがあるかもしれません。もしそうならば、私たちは、失礼をした相手に謝る勇気をくださいと、神に願わなければなりません。上記のイエスの言葉によると、そうするか否かで、私たちの礼拝が受け入れられるかどうかが決まるのです。和解を優先事項にしているなら、私たちは、神に栄誉を帰しています。天の父との交わりを十分に楽しむことができるのは、和解した後のことです。             (D.プラノン「悪かった」より一部引用)

2025年6月8日日曜日

2025年06月08日 第二主日礼拝 ペンテコステの秘密

招詞
 その後、わたしは、すべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。 その日わたしは、男どれにも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。
                                ヨエル書2章28~29節

聖書箇所
使徒の働き2章1~11

説教
ペンテコステの秘密 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/595 
 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。                     出エジプト記 20章3、5節

 トーゴ共和国のモノ河で洗礼を待つ間、コシは古びた不気味な木像をおこしておいた火に投げ込みました。彼の一族はずっとこれを拝んできたのです。これに最上の鶏をささげることは、もう二度とありません。
 トーゴでは、神と言われる木像は神そのもので、犠牲をささげ、なだめなくてはなりません。そういう文化で、木像を燃やしたり、洗礼を受けたりするのは大胆な行為です。新しいキリスト者は勇気をもって、唯一まことの神イエスにのみ忠誠を誓います。
 神以外のものに人生の答えを求めるなら、意識しているいないに関わらず、偽りの神を追いかけている偶像礼拝と同じです。私たちも、何かに囚われすぎているとすれば、自分の「偶像」について自問すべきではないでしょうか。
 主よ、あなたに焦点を合わせていないことを示す様々なものが私にあることを赦してください。何を手放し、 み言葉に帰り、聖霊に満たしていただくべきか、どうか教えてください。子どもたち、偶像から自分を守りなさい。ヨハネの手紙第一 5章21節
                     (T・グスタフソン「コシの勇気」 より一部引用)


2025年5月31日土曜日

2025年06月01日 第一主日礼拝 逆走の危険

招詞
 新しい歌を主に歌え。主は、奇しいみわざを行われた。主の右の御手、聖なる御腕が主に勝利をもたらしたのだ。主は御救いを知らしめ、ご自分の義を国々の前に現わされた。
                                   詩篇98篇1~2節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙4章8~20

説教
逆走の危険 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/594 二つのパン

 あなたがたは、(過越後の)安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主に献げる。あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるものを、二つ、奉献物としてのパンとして持っていく。これは主への初穂である。    レビ記23章:15~17節

 この二個のパンは「ユダヤ人」と「異邦人」を意味しています。この二つのパンが、罪を象徴する「パン種」を入れたものを祭司のところに持ってくるということは、あるがままで祭司を通して神に近づくことを意味しているのです。そして、メシアなるイエスと聖霊の注ぎの賜物によって、「七週の祭り」の真意を悟ることができるようにされたのです。使徒パウロは、この「奥義」をエペソ2章14節以下で明確にしています。
 実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自身の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができるのです。 エペソ 2:14~18
 律法の障害が取り除けられて、ユダヤ人と非ユダヤ人はイエスをキリストと信ずる信仰によってのみ救われることが明らかにされました。(銘形:7週の祭りに秘められた神の啓示より一部引用)

2025年5月24日土曜日

2025年05月25日 第四主日礼拝 約束の子ども

招詞
 光は、正しい者たちのために蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。主にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。              詩篇97篇11~12節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章26節~4章7

説教
約束の子ども 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/593 聞き分ける耳

 羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。      ヨハネの福音書10章4節

 テネシーの牧場に住んでいた子どもの頃、いつも親友と楽しく過ごしました。森の中やロデオ競技場に行ったり、ポニーに乗ったり、家畜小屋に入って馬の世話をするカウボーイを見たりしました。しかし、父の呼び笛が聞こえるとすぐさま家に向かいました。その音は風も周りの雑音も切り裂くように明瞭でした。父に呼ばれていると分かる間違いようのない合図でした。数十年経った今でも聞き分けられると思います。
 イエスは、「ご自分が良い羊飼いで、従う人は羊です。羊たちはその声を聞き分けます。」と言われました。また「牧者は自分の羊たちを、それぞれの名を呼んで連れ出します」(ヨハネ10:3)と続けられました。今日、インターネットで沢山の情報が手に入りますが、偽情報や雑音とも言える有害なものもあります。AI は有用ですが、悪用する者もいます。
 注意してイエスの声に耳をそばだて、うっかり聞き逃すことがないようにしましょう。基本は変わりません。羊飼いははっきりと話され、羊は声を聞き分けます。聖書のみことばを通し、信仰の友の言葉を通し、また聖霊の促しを通して、イエスは語られます。そして、私たちは確かに聞くのです。                    (W・コリエール「羊飼いの声」 より一部引用) 

2025年5月19日月曜日

2025年05月18日 第三主日礼拝 アブラハムとモーセ

招詞
 聖い威光の中で、主を礼拝し、全地は、御前におののきなさい。 世界中の人々の中で言いなさい。「主は王として治められる。世界はこのお方によって造られ、揺らぐことはない。主は公平に人々を裁かれる。」。                     詩篇96篇9~10節(現代訳)

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章19~25

説教
アブラハムとモーセ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/592 聞く耳

 ところが、罪から私たちを解放する神のみ言葉を一心に見詰めて離れない人は、み言葉を聞いて忘れてしまう人ではなく、それに従い、それに生きる人である。そういう人は、その従順な生活によって、神に祝福される。                   ヤコブの手紙1:25 (現代訳)

 アフリカのウガンダで聖書セミナーに参加したときのことです。主催者の女性に「今朝、髪をとかしましたか?」と尋ねられました。うっかりしてホテルの鏡で自分の姿を確認したのに、なぜ気づかなかったのでしょう。
 ヤコブは比喩を用いることで、聖書の学びを現実的で有益なものとしました。聖書という鏡は、私たちの人格、態度、考え、行動などをチェックするよう助けてくれます(ヤコ1:23-
24)。すると、私たちは自分の生き方を聖書の原則に従うように修正することができます。「私たちは自分の舌にくつわをかけ」(26節)、「孤児や、やもめたちが困っているときに世話をします」(27節)。「内住の聖霊を畏れこの世から自分をきよく守ります」(27節)。
 鏡が外見を映すように、聖書は私たちの内側をあらわにします。
                        (L・ダルマニ 「鏡と聞く耳」 より一部引用)

2025年5月11日日曜日

2025年05月11日 第二主日礼拝 不変の約束

招詞
 まことに主は大いなる方、 大いに賛美される方。 すべての神々にまさって恐れられる方だ。まことに、どの民の神々も、みな偽りだ。しかし主は天をお造りになった。    詩篇96篇4~5節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章15~18

説教
不変の約束 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/591 日常の習慣

 その人は、流れのほとりに植えられた木。                  詩篇1篇3節

 ビルは退職した高齢の男性で、一人暮らしをしており、最近、車の免許を返納しました。食料品や薬などを買うときや日曜日の礼拝に行くときは、誰かに送迎してもらっています。しかし彼はみじめや孤独ではありません。「家で過ごすのは悪くないよ。ネットで無料の賛美歌を聴いたり、バイブル・スタディをしたり、一日中楽しんでいる」。ビルの日々は、神のみことば、祈り、賛美に包まれています。
 日常の習慣は、心に植えつけられるものを左右します。詩篇1篇は、神の恵みを受けた人の習慣を語ります。彼らは、真理を愛して何度も心の中で反すうし、神に逆らう世俗の流れに従いません(1-2節)。誰にでも苦難は訪れますが、神の道を歩んで確立された人生は「流れのほとりに植えられた木。…その葉は枯れず、…」(3節)です。人生には、じっくり聖書を読む時間など取れない、という時期もあるでしょう。しかし、イエスは、渇いている人が来るならば必ず潤してあげる、聖霊がその人を川のようにする、と言われました(ヨハネ7:37-39)。私たちは賛美や聖書のみことばを通して、心を命の水で潤すことができます。また、人を思いやり、神と語り合い、つまずいても赦しを請うならば、心がすがすがしくなります。
 みことばに対する従順は、私たちの心を肥沃な地に植えつけてくれます。それは義なる人生。神はそれを知っておられます(詩篇1:6)。
                 (K・ピンポ 「流れのほとりに植えられた」 より一部引用)

2025年5月4日日曜日

2025年05月04日 第一主日礼拝 40日の教え

招詞
 新しい歌を主に歌え。 全地よ、主に歌え。 主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。主の栄光を国々の間で語り告げよ。 その奇しいみわざを、あらゆる民の間で。                                 詩篇96篇1~3節

聖書箇所
使徒の働き1章1~11

説教
40日の教え 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/590 徒労に終わらない

 私は切に、主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いて下さった。 
                                     詩篇 40篇1節

 待つのは、いやなものです。車の渋滞やスーパーのレジ、病院の待合室など…退屈したり、イライラしたりします。別次元の「待つ」もあります。手紙やメールの返事を待つ、家族の誰かが変わってくれることを待つなどです。私たちは、切なる思いで願いが叶う時を待ち望みます。
ダビデは、詩篇40篇で「私は切に主を待ち望んだ」と語りますが、この文章のへブル語を詳訳すると、主が祈りに応えてくださることを「待って、待って、待ち続けた」となります。神はなかなか応答してくださらなかったのですが、その体験を振り返ってなお、ダビデは神をほめたたえます。「主はこの口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けてくださった」と語ります(40:3)。
「きょうの祈り」の著者 F.B.マイヤーは、次のように語ります。「神の『遅れ』を記している聖書個所があるとは、何ということでしょう…しかし、これが人の霊性を教育する神秘です。人が最良の性質になるために、この神秘が必要です。」 私たちは、待つという訓練を通して徳を身に着けます。その徳とは、服従する、腰が低い、気長である、苦境を明るく耐える、あきらめずに善行を続けるなどです。これは地味な性質ですが、長い時間をかけなければ備わらない美しい品性です。
神は、私たちが神を愛し、信頼できるように助けてくださいます。明るい心で「遅れ」を受け入れることができるように、徳を養う良い機会だととらえられるように、また神を賛美できるようにも助けてくださいます。              (ダビデ・ローパー「神の時」 より一部引用)

2025年4月27日日曜日

2025年04月27日 第四主日礼拝 私たちは主を見た

招詞
 さあ、主に向かって、喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。 感謝をもって、御前に進み、賛美をもって、主に喜び叫ぼう。来たれ。ひれ伏し、膝をかがめよう。まことに、主は私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊。      詩篇95篇1~2,6~7節

聖書箇所
ヨハネの福音書20章19~31節

説教
私たちは主を見た 正木牧人牧師

言(こと)ローグ/589 時を待つ間

 私の時は、御手の中にあります。                     詩篇31篇15節

 南アフリカの牧師アンドリュー・マーレーは、英国に滞在していた1895年、持病の腰痛が再発して苦しみ、静養していました。ある日、滞在先の女主人が、大きな問題を抱えた女性が助言を求めていると告げました。マーレーは言いました。「これを渡してください。自分を励ますために書いたものですが、彼女のためになるかもしれません。」そこには、以下のように書かれていました。

「困難なときには、こう言おう。
① まず、神は私をここに置かれた。神のみこころで、私はここにいる。だから、私はやすらかだ。
② 神は、ご自分の愛の内に私を保たれ、この試練の中で、私が神の子どもらしく振る舞えるように、恵みを下さる。そして、神は試練を祝福に変えられる。これを通して私に、学ぶべきことを教えて下さる。その品性をいただけるように、私の内に働かれる。
③ 神は最善のときに、ここから脱出させて下さる。いつ、どのようにしてかは、神がご存じだ。神の定めにより、神に支えられ、神に訓練され、神の時のために、今、私はここにいる。」

 私たちは、問題はさっさと解決してもらいたいと思い、「神さま。。。」と祈ります。毎日、あきらめないで祈ることは大切です。しかし、同時にすぐには解決しない問題も多くあるのです。大切なことは、神はご自分の愛の内に私たちを留めて下さっていることを信じて疑わないことです。その時、神の恵みによって、私たちは主に憩うことができます。
                       (ダビデ・ローパー「神の時」 より一部引用)

2025年4月20日日曜日

2025年04月20日 イースター・召天者記念礼拝 復活のイエスに 出会ったトマス

招詞
 御使いは女たちに言った。「あなたがた、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのはわかっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」     マタイの福音書28章5~6節

聖書箇所
ルカの福音書24章13~32節

説教
イエスに心燃やされて 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/588 しるしを求める

 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人(非ユダヤ人)は知恵を追求します。しかし私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。    コリント人への手紙 第一 1章22~23a節

 この手紙を書いたパウロ自身ぺニヤミン族出身ですが、イエスの時代は、イスラエル人の子孫は、ユダヤ部族が人口の大部分を占めていたので、自分もユダヤ人として紹介しています。

 イエスは、弟子たちがしるしで確証を得る傾向ををご存知でしたから、復活の直後にしるしをみせました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられて。すると、イエスが来られ、彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」                          ヨハネの福音書 20章19~20節

 イエスは、しるしを見て、復活を信じ、喜びに沸く弟子たちに、最大の大事を再確認することを忘れません。「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 そしてこう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。許さずに残すなら、それはそのまま残ります。」(21~23)

 私たちは聖書を読み、そこから知恵を求め、イエスを、メシア、キリストと信じて救われました。この知恵の中には、弟子たちの信仰の追体験も含まれますから、聖書を読むときに、ご聖霊の働きで自分の罪を示されて涙を流し、イエスを信じて罪赦され、喜びながら、日々、天国の望みの中に生きています。

2025年4月13日日曜日

2025年04月13日 第二主日礼拝 ゴルゴダへの道

招詞
 いと高き方の隠れ場に住む者、その人は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。「私の避け所、私の砦(とりで)、私が信頼する私の神」と。            詩篇91篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書27章31~44

説教
ゴルゴダへの道 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/587 隠れ弟子たちの勇気

 ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。                           マタイの福音書27章59~60節

 十字架の日、イエスが洞窟の墓に葬られたことは、例外中の例外でした。なぜなら、十字架につけられた者たちはそのまま放置されて埋められるか、あるいは燃やされるかのいずれかであったからです。イエスの亡骸はイエスの隠れ弟子であったアリマタヤのヨセフ(以下ヨセフ)とニコデモによって葬られたのです。実は彼らは最高議会の有力な議員でした。ヨセフは、勇気をもってピラトのところに行って、イエスのからだの引き渡しを願って、それが許可され、自分のために造っておいた新しい墓にイエスを納めました(マタイ27:60、マルコ15:46、ルカ23:53、ヨハネ19:42)。特に、ヨセフについては「彼自身もイエスの弟子になっていた」(マタイ27:57)と記しています。彼は「議員たちの計画や行動には同意していなかった」(ルカ23:51)反骨分子であり、「神の国を待ち望んでいた」(マルコ15:43、ルカ23:51)のです。ヨセフは、イエスの亡骸を包む亜麻布を準備し、ニコデモが没薬とアロエを混ぜた香料で埋葬しました。
 隠れ弟子たちが、勇気ある最善の信仰を表して後世の私たちに伝えたことには意味があります。政治や社会(職場)などが複雑に絡んだ事情のなかでも主イエスを証し、主のご栄光を表す方法は必ずあるということですね。           (銘形「十字架の最後の一週間」から一部引用)

2025年4月5日土曜日

2025年04月06日 第一主日礼拝 イエス、子ろばに乗って

招詞
 幸いなことよ、喜びの叫びを知る民は。主よ。彼らは、あなたの御顔の光の中を歩みます。彼らは、あなたの御名をいつも喜び、あなたの義によって、高く上げられます。
                                 詩篇89篇15~16節

聖書箇所
マタイの福音書21章1~11

説教
イエス、子ろばに乗って 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/586 さとく、素直に
 カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。   マタイの福音書22章21節

 十字架の前の週、敵である祭司長、律法学者たちは自分の弟子たちを送送り(マタイ21:15-16)、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そうと計りました。彼らは「税金をカイザルに納めることは律法にかなっているか、いないか」という質問をしました。これはどちらに答えてもイエスをわなに陥れる狡猾な質問でした。もしイエスがカイザルに「税金を納めなさい」と言えば、神に背いているとパリサイ人たちから訴えられます。反対に、「納めなくてもよい」と答えたなら、カイザルに背く者として訴えられてしまいます。いずれも答えたら最後、言葉尻を捕えられて訴えられてしまう論法でした。(注)カイザルはローマ皇帝
 冒頭のイエスのことばは、彼らの質問の設定が誤っている事を指摘したもので、カイザルと神を同列に置き、神への忠誠かカイザルへの忠誠かを迫ったところに問題がありました。カイザルはあくまでも神の支配下にある者であり、カイザルに対して納税することと、神のものは神に返すことは決して矛盾しないことを意味することばでした。これを聞いた敵は驚嘆して立ち去ったのでした。
 かつてイエスが次のように話されました。「蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい。…人々があなたがたを引き渡した時、どのように話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、その時、示されるからです。話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される父の御霊だからです。(マタイ10:16, 19~20)」と。この信仰で私たちも進みたいと思います。                    (銘形「十字架の最後の一週間」から一部引用)

2025年3月29日土曜日

2025年03月30日 第五主日礼拝 紙にしゃべらせろ

招詞
 私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。私は言います。「御恵みは、とこしえに打ち立てられ、あなたはその真実を、天に堅く立てておられます。」                                詩篇89篇1~2節

聖書箇所
ペテロの手紙第一1章18~24節

説教
紙にしゃべらせろ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/585 見えないものにこそ

 私たちは見えるものではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。             コリント人への手紙第二4章18節

 十字架の前日、オリーブ山でイエスが弟子たちに話されたこと(マタイ4:3~25:46、マルコ13:3~37、ルカ21:37~38)は、すでに起こったものもあれば、今だ、起こっていないものもあります。セカリヤ書の最後の13~14章にはイエスがオリーブ山で語られた終末の話が記されています。「終わりの日」についてのイエスが語られたこと、また他の新約聖書の書巻(使徒たちの書巻、ヨハネの黙示録)を学ぶことで、終わりの日の出来事を知ることができます。
 しかしそれを知りながら、どのように待つかについて、① ある人々は「全世界に福音が伝えられる」ための使命感に強調点を置き、その働きに邁進しています。② ある人々(特にユダヤ人)はイスラエルへ帰還しています。③ ある人々はユダヤ人を助け、ユダヤ人と異邦人の一致(福音の奥義としての一致の実現)のための掛け橋の働きをしています。④ ある人々は世界の平和を祈り、実現しようとしています。⑤ ある人々は主の再臨を待望し、祈り続けています。
 私たちはどれにあたるでしょうか? 終末に対する理解が、今の自分の生き方を決定づけていくように思います。私たちは目に見えるものに振り回されやすい者です。あとから振り返ってみると、どうでもよかったと思えることのために、多くの時間と精力を費やしてしまう者です。どこに目を向けて生きるべきかこの受難節に深く考えませんか。
                      (銘形「十字架の最後の一週間」から一部引用)

2025年3月23日日曜日

2025年03月23日 第二主日礼拝 ナタナエルの求道

招詞
 主よ、あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。わが神、主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめます。あなたの恵みが私の上に大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。           詩篇86篇11~13節

聖書箇所
ヨハネの福音書1章47~51節

説教
ナタナエルの求道 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/584 レッテル
 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。      ローマ人への手紙5章8節


 ユニークな新来者カードを配る教会があります。「もしも、あなたが…聖者、罪人、失敗者、成功者、依存症患者、偽善者、うそつき、臆病者、嫌われ者…等々ならば、大歓迎いたします」と書かれているのです。これは神の愛と恵みを正しく表しています。
 このカードが言うように、神の恵みは人の自己認識(レッテル)とは無関係です。なぜなら、恵みは神の愛に基づいており、自分のことを優秀だと思おうが、悪人だと思おうが関係ありません。永遠のいのちは神の賜物なので、誰でもそれを受け取れます。
 神のご要求は、自力で変わりなさい、ではありません。神は、そのままでそばに来て、イエスに会って希望を見つけなさいと言われます。イエスを信じて癒され、罪から解放されなさいと言われます。神は今のままのあなたを受け入れようと待っておられます。神の赦しは人に貼られたどんなレッテルも寄せつけません。        (D・マッカスランド 「レッテル」から一部引用)

2025年3月16日日曜日

2025年03月16日 第三主日礼拝 アブラハムの祝福

招詞
 まことに、あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります。・・・まことに、かみである主は太陽。また盾。 主は恵みと施光を与え、誠実に歩む者に、良いものを拒まれません。
                                詩篇84篇10a、11節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章5~14節

説教
アブラハムの祝福 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/583 イエスの逆説 ② 心を配る

 主イエスご自身が、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われたみことばを覚えているべき・・・                            使徒の働き20章35節

 ジョン・ニュートン(1725-1807)は次のように言いました。「もし帰宅の途中、半ペニー(40円)を落とした子がいて、私が弁償してあげることでその子の涙を拭えたのなら、私は自分が何かを成したと思います。もっと大きなことをして喜ぶことも重要でしょうが、このことも軽んじはしません。」
 多くの人が悩んでいます。生活に疲れている人、災害や戦争で故郷を奪われた人、先の見えないシングルマザー、人に迷惑をかけることを恐れている老人などなど…。
 私たちに何ができるでしょう。ダビデは「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は」(詩41:1)と書きました。私たちは貧困を解消できないかもしれませんが、困っている人に心を寄せることはできるはずです。
 彼らはイライラしていたり、不遜な態度を取ったりするかもしれませんが、こちらは礼儀を持って接し、「あなたのことを気にかけています」と知らせることができます。彼らの話に耳を傾けたり、彼らのために祈ったり、共に祈ることもできます。祈りほど助けになり、癒しにつながる行為はありません。
 イエスが教えられた逆説、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)を思い出してください。イエスは、あなたの周りに、あなたが犠牲を払って心を配るべき誰かを置いておられます。                    (David・ローパー 「心を配る」から一部引用)

2025年3月8日土曜日

2025年03月09日 第二主日礼拝 3.11祈念礼拝 永遠は見えない

招詞
 私にとって、神のみそばにいることが、幸せです。私は、神である主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げます。                    詩篇73篇28節

聖書箇所
伝道者の書3章11~15

説教
永遠は見えない 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/582 イエスの逆説
 悲しむ者は幸いです、その人たちは慰められるからです。      マタイの福音書5章4節

 アイザック・ワッツの讃美歌142番(新聖歌117) 『施えの主イエスの』の歌詞に、「世の富、誉れは塵(ちり)にぞ等しき」という逆説的表現があります。これはオクシモロン(矛盾語法)という修辞技法で「恐ろしく美しい」とか「公然の秘密」のように、矛盾する単語で他方を修飾するものです。ワッツは、この技巧を用いて深い真理を表現しました。
 イエスもまた、しばしば逆説を用いられました。「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5:3)と言われ、望みのない人が、望み得る以上のものを受けることを示唆されました。私たちが大切な人を失って悲しんでいる時、イエスは「慰められる」(5:4)と言われます。イエスは、神の国が人の世の一般的な規範に必ずしも一致しないことを示されました。
 これらの逆説は、キリスト者にとって全ての当たり前は覆ると教えています。取るに足らない私たちが、地位のある人のように神に大切にされます。イエスは茨(いばら)の冠をかぶせられ十字架につけられましたが、これも視覚的な逆説です。私たちは、心を震わせて、最後の一節を胸に刻みます。「ああ 主の恵みにむくゆるすべなし、ただ身と霊(たま)とを献げてぬかすぐ」と。
                         (K.ピーターソン 「逆説」から一部引用)

2025年03月02日 第一主日礼拝 ああ愚かなガラテヤ人!

招詞
 私は、竪琴に合わせてあなたにほめ歌を歌います。イスラエルの聖なる方よ。私があなたにほめ歌を歌うとき、私の唇は高らかに歌います。あなたが贖い出された私のたましいも。
                                詩篇71篇22b~23節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙3章1~5

説教
ああ愚かなガラテヤ人! 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/581 キリスト者の香りを放つ


 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。                       コリント人への手紙 第二2章15節

作家であり医学者でもあるオリバー・ウェンデル・ホームズは、「記憶、空想、なつかしさ、連想。これらは、他の何にも勝って、嗅覚によって呼び起こされる」と語りました。
 私たちの人生が、人を神に引きつける芳香であるならばどうでしょう。上記のみことばは、「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。」と語ります。私たちは、神を喜ばせる芳しい香りです。同時に、ある人々を神に引き寄せる香りであり、別の人々には嫌な匂いでもあります。イエスの犠牲を理解している人々は、キリストの香り、すなわち、キリストを思い出させる香りになるチャンスがあります。
 キリストに似ているという甘い香りは、人々を救い主にひきつける強い魅力を秘めています。神とともに歩むなら、それに倣おうと人々を鼓舞する甘い残り香りが、その人の周りに漂うと思いませんか。                   (C.H.カスパー 「甘い香り」から一部引用)

2025年2月22日土曜日

2025年02月23日 第四主日礼拝 主イエスの友①  アンデレとヨハネ

招詞
 神よ、諸国の民があなたをほめたたえ、諸国の民がみな、あなたをほめたたえますように。国々の民が喜び、また喜び歌いますように。それはあなたが公正に諸国の民をさばき、地の国民を導かれるからです。                            詩篇67篇3~4節

聖書箇所
ヨハネの福音書1章35~41

説教
主イエスの友① アンデレとヨハネ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/580 互いに仕えあう ③

 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。               ペテロへの手紙第一4章10節

 孫ふたりが、学校でミュージカルのオーディションを受けましたが、手にしたのは「花」の役でした。しかし、ふたりは友だちが大役を射止めたことにエキサイトしていると言います。自分の結果に落胆する以上に、友人の喜びを共有しているのだそうです。
 キリストのからだもこうでなくてはいけません。どんな教会にも「主要な役」という立場があり、また、不可欠なのに目立たない立場もあります。「主要な役」につけなくても、ついた人たちを励まし、自分の「目立たない役」を忠実に果たしましょう。
 神の贈り物で重要でない物はありません。神にいただいた各々の賜物を、神の栄光のために忠実に用いている教会を想像してください。そこには必ず喜びがあります。 
                       (D・ブラナン 「自分の役割」から一部引用)

2025年2月16日日曜日

2025年02月16日 第三主日礼拝 神の前に義しい人に

招詞
 国々の民よ。私たちの神をほめたたえよ。神の誉れをたたえる声を響き渡らせよ。神は、私たちのたましいを、いのちのうちに保ち、私たちの足を揺るがされない。    詩篇66篇8~9節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙2章15~21

説教
神の前に義しい人に 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/579 互いに仕えあう ②

 見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、共に生きることは。                                 詩篇133篇1節

 この詩篇の作者は、「兄弟たちが一つになって、ともに生きることは…頭の上にそそがれた尊い油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る」(詩篇133:1-2)と言っています。この時代、頭に塗る聖油には色々な香料が含まれていたので、油を塗られた人の周りにはかぐわしい香りがただよいました。
 私たちは互いに愛し、互いに仕えることで一致します。その一致が、私たちの家族や教会、また交友関係の中に、かぐわしい香りのような恵みをもたらしますように。 みんな仲良しというクリスチャンの交わりは、自然にイエスの甘い香りを漂わします。
                  (ジョー・ストウェル 「互いに仕えあう」から一部引用)

2025年2月9日日曜日

2025年02月09日 第二主日礼拝 雨降って地固まる

招詞
 幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家の良いもの、あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。         詩篇65篇4節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙2章11~14

説教
雨降って地固まる 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/578 互いに仕え合う

 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。                  ペテロの手紙第一2章9節

 神と教会には特別な結びつきがあり、神は教会にご計画を持っておられます。教会は、建物でなく、信者のエクレシア(集合体)です。教会は、上記の下線部のように様々に例えられます。キリストを信じる者は、神のあわれみをいただき、一人ではありません。「愛する者たち」(11節)と呼ばれる人々の家族に迎えられるのです。
 さて、本題です。このことは、キリスト者同士の接し方にどう関わってくるのでしょうか。神にとって尊い存在である者同士、お互いを大切にし、配慮し合う必要があります。ペテロの手紙第一 4章8~11節は、神の家族の一員として、「互いに熱心に愛し合い」(8節)、「不平を言わないで、互いにもてなし合い」(9節)、「賜物を用いて互いに仕え合う」ことで、全てにおいて神が尊ばれるようにしなさいと促しています(10~11節)。特に「互いに仕え合う」ことは、イエスさまが一番喜ばれることです。
                     (A.ジャクソン 「神の民は神のもの)より一部引用)

2025年2月2日日曜日

2025年02月02日 第一主日礼拝 受け入れられたパウロ

招詞
 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。            詩篇62篇1~2節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙2章1~10節


説教
受け入れられたパウロ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/577 礼拝も命がけ ② 北朝鮮

 神の愛から私たちを引き離すことができるものは何一つない、と確信しています。死もいのちも、そんなことはできません。天使にもできません。地獄の全勢力が結集しても、神の愛から私たちを遠ざけることはできません。恐れも、不安も同様です。 
                      ローマ人への手紙8章38節 リビングバイブル


 <平壌リバイバル> 1907年1月に平安南道で聖書を学ぶ集まりが2週間に渡って開かれ、通声祈祷や懺悔も相次ぎました。それも横領、殺人、強姦など、墓場まで持っていくべき自分の犯罪行為を、何百人もの民衆の前で告白し、許しを請うたのです。このことは全国に広がり、プロテスタント信者が急速に増え朝鮮半島にキリスト教が広がり、定着する大きなきっかけとなりました。
<地下教会> ところが、日本の植民地支配から解放された後の1945年、北朝鮮のトップの座についた金日成は、自らがクリスチャンの家の出であるにもかかわらず、キリスト教の弾圧を開始し、処刑や投獄が相次いだのです。米政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA)は昨年5月、現地の情報筋からの情報として、「順川(スンチョン)市の東巌里(トンアムリ)で、午前5時ごろに集まって聖書を読んでいた5人の男女が秘密警察に踏み込まれて現行犯逮捕され、家宅捜索の結果、数十冊の聖書に関する冊子が押収された。」と報じました。韓国政府が発表した「2023年北朝鮮人権報告書」は熾烈(しれつ)な迫害の様子を報じています:「2019年に平壌市で秘密裏に教会を運営していた団体が摘発され、5人が公開処刑され、7人は政治犯収容所に送られ、30人は労働教化刑(長期の懲役刑)を受け、家族を含む関係者50人が強制追放された。」 朝鮮戦争時に拉致された韓国人は数十万人とも言われ、戦後も3,835人が拉致されていて、消息はつかめていません。隣国北朝鮮国民のために祈りましょう。迫害下で信仰を守っているクリスチャンのために祈りましょう。拉致被害者の家族のためにも祈りましょう。

2025年1月26日日曜日

2025年01月26日 第四主日礼拝 礼拝の民

招詞
 心に恐れを覚える日、私はあなたに信頼します。神にあって、私はみことばをほめたたえます。神に信頼し、私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。 詩篇56篇3~4節

聖書箇所
コロサイ人への手紙2章6~7、19b

説教
礼拝の民 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/576 礼拝も命がけ

 神の愛から私たちを引き離すことができるものは何一つない、と確信しています。死もいのちも、そんなことはできません。天使にもできません。地獄の全勢力が結集しても、神の愛から私たちを遠ざけることはできません。恐れも、不安も同様です。
                       ローマ人への手紙8章38節 リビングバイブル

 シリアのクリスチャンは、2000年代初めには人口の10%にあたる150万人でしたが、昨年12月7日まで50年間も続いたアサド父子政権下の迫害で、激減し、昨年の統計では五分の一の30万人(うちプロテスタントは37,000人)に減少しています。この50年間、礼拝に出席し、信仰生活を守るのは命がけでしたが、主イエスの愛と恵みの中で守られ、信仰はかえって強くされています。シリアでは、キリスト教徒の多くはアレッポ、ハマー、ラタキアなど北部と地中海沿岸部に暮らしています。あの使徒時代のアンテオケ(図中カップ印:現トルコ領)由来のキリスト教徒も健在です。現在、イスラム教徒よりもキリスト教徒の方が初等教育では高い水準にあり、多くの専門職に就いていますからシリアの将来にクリスチャンの影響力は大きくなっていくでしょう。
 それでも新しく樹立した政府は、イスラム色の強い国際的にはテロ組織と言われていた人たちから成っています。また一枚岩でもありませんから、キリスト教を敵視しないと新政府が明言したにも拘わらずこのクリスマスにアレッポの町に飾られた大クリスマスツリーが焼き討ちにあっています。いずれにしてもアラブ人クリスチャンが増えて、社会的には周りと協調しながら成長できるように、神さまからの知恵が与えられるように祈っていく必要があります。
                   (WEBLIO「シリアのキリスト教」などより一部引用)

2025年1月19日日曜日

2025年01月19日 第三主日礼拝 パウロの『スタート』 までの日々

招詞
 神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。       詩篇46篇1~2節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙1章18~24

説教
パウロの『スタート』までの日々 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/575 恵みに囲まれて

 主に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる。           詩篇32篇10節b

 巨大な看板広告が目に飛び込んできました。そこには、真っ赤な背景に白抜きで「今年、頑固が原因でたくさんの男性が死亡するでしょう」とでかでかと書かれています。これは、中年男性に定期健診を受けるように促す看板広告で、街のあちこちに作られたそうです。中年男性の定期健診受診率は低く、早期発見であれば治せる病気で亡くなる人が多いのだそうです。
 この詩篇は、罪という霊的な病について語ります。この病の治療法は、率直に罪を認めて悔い改めることです。最初の1-5節には、罪を隠しているがゆえの苦しみと、罪を告白して赦された解放感や喜びが綴られています。
 続いて、困難なときに神の助けを乞い(6-8節)、神の導きを求めることを、神は私たちに望んでおられると語ります。「わたしは、あなたが行く道で、あなたを教え、あなたを諭(さと)そう。あなたに目を留め、助言を与えよう」(8節)と、神が言われているからです。それなのに、罪を悔い改めて、神の導きに従おうとしないなら、自分の頑固さがせっかくの神の助けを邪魔することになります。
 罪にしがみつくのはやめましょう。謙虚に罪を認めて悔い改めるなら、「恵みが、その人を取り囲む」と聖書は語っています(10節)。
               (ダビデ・C・マカスランド 「恵みに囲まれて」より一部引用)

2025年1月12日日曜日

2025年01月12日 第二主日礼拝 イエス、二つの驚き

招詞
 幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される。主は彼を見守り、彼を生かし、地上で幸せなものとされる。どうか、彼を、敵の意のままにさせないでください。                             詩篇41篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書2章40~52

説教
少年イエスに、二つの驚き 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/574 神の愛に答える3つのステップ


 誰に対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。        ローマ人への手紙13章8節

 イエスを30歳で信じた後も多くの疑問がありました。聖書を読みだすとさらに疑問は増え、友人に言いました。「神の命令に全従うなんて、どうしたらできるの? 今日も夫に八つ当たりしちゃったのに。」友人は言いました。「とにかく聖書を読んで、イエスが愛して下さったように人を愛せますように、と聖霊にお願いして。」その単純かつ深淵(しんえん)な真実は、20年以上経った今も、神の偉大な愛のサイクルに従って生きることを助けてくれます。
 このサイクルには3つのステップがあります。まず、① 愛はキリスト者の生活の中心です。次に、② キリスト者の従順は、「互いに愛し合う」ということです。「他の人を愛する者は、律法の要求を満たしている」(ローマ13:8)からです。最後に、③ 「愛は隣人に対して悪を行わない」ので(13:10)、私たちは律法の要求を満たしているのです。
                  (ソキト・デキソン「神の愛のサイクル」より一部引用)

2025年1月5日日曜日

2025年01月05日 第一主日礼拝 今年は良くなる? 悪くなる?

招詞
 主はこの口に授けてくださった。新しい歌を、私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ、主に信頼するだろう。幸いなことよ。主に信頼を置き、高ぶる者や、偽りに傾く者たちの方を向かない人。                                詩篇40篇3~4節

聖書箇所
第二テモテ3章12~17

説教
今年は良くなる? 悪くなる? 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/573 恵みを受けた後

 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。                        ルカの福音書2章20節

 イギリスのケンブリッジにあるキングスカレッジの礼拝堂で行われるクリスマス・イブ礼拝は、その年もBBCラジオで生中継されました。集まった会衆の姿を表現したアナウンサーの言葉にはっとさせられました。彼は、「この人たちは、恵みの時から踏み出して、現実の世界へと戻って行きます」と述べました。
 2000年前の羊飼いたちも似た経験をしました。彼らは「恵みのとき」によって変えられました。彼らは現実の羊の世話をする世界に戻っていきましたが、その心はイエスの良き知らせを運びました。その口は、イエスの良き知らせを告げました。恵みを受けた後の仕事場は前と変わって見えました。
 クリスマスコンサート、クリスマス礼拝・祝会、イヴのキャンドル礼拝で恵まれ、元旦礼拝で知己との再会を喜び、そして今日の新年礼拝に参加し、私たちも今、現実の世界に戻ります。しかし変わっているのは、この期間、主からの恵みを受けたほっこりとした心です。羊飼いたちのように心はイエスの良き知らせを運びましょう。その口で、イエスの良き知らせを告げましょう。新年もこの心を持ち続けていきましょう。

2025年1月1日水曜日

2025年01月01日 元旦礼拝 神に期待する新しい心

招詞
 ハレルヤ。わがたましいよ、主をほめたたえよ。私は聞きているかぎり、主をほめたたている。いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌う。             詩篇146編1,2節 

聖書箇所
第二コリント5章17

説教
神に期待する新しい心 菅孝雄神学生