2024年7月21日日曜日

2024年07月21日 第3主日礼拝 ティキコとオネシモ

招詞
 あなたのしもべを、傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は、大きな背(そむ)きから解き放たれて、全き者となるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。
                                 詩篇19篇13~14節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章7節~18

説教
ティキコとオネシモ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/550 謙遜についての教え(3)「自分を無にして」

 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべ(ドゥーロス)の姿をとり、人間と同じようになられました。
                              ピリピ人への手紙2章6~7節

 イエスは決して神性を捨てられたのではありません。神の本質の変化ではありません。ただ、地位と状態が変化したのです。神の権威ある地位から、しもべの状態に、その働きを変えられたというのが、ピリピ2:6~7で言おうとしていることです。しかもその変化は、自覚的・主体的です。強制や義務から変えたというのではありません。むしろ積極的に「しもべ(仕える者)」となられたのです。
私たちはひとりひとり、主のことばに照らされて歩んでいるかを吟味しなければなりません。クリスチャンであることは、肩書きでもなく、飾りでもなく、キリストのしもべという実質をもった存在でなければならないのです。そのような存在になるようにと言われた主に従うことができるように、私たちに寄り添っていてくださる神の賜物、助け主である聖霊の助けを仰ぎたいと思います。

 わたしは、あなたの神、主である。・・・あなたの口を大きく開けよ。わたしが、それを満たそう。     詩篇81篇10節           (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年7月12日金曜日

2024年07月14日 第2主日礼拝 塩味の効いたことば

招詞
 主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで、人の目を明るくする。
                                   詩篇19篇7~8節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章2節~6

説教
塩味の効いたことば 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/549 謙遜についての教え(2) 「律法からの自由」


 私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。                             ローマ人への手紙7章24節

 使徒パウロは「謙遜の限りを尽くして・・主に仕えた(使徒20:19)」とエペソの長老たちに言いました。彼の前身はパリサイ派の律法学者でしたから、律法に照らすと以前の自分は失格者で、霊的に破産した者であることを認めたうえでの言葉でした。しかし、感謝すべきことに、あのダマスコ途上でイエス・キリストをメシアと信じた時(使徒9章)に、パウロの霊の目が開かれ、律法(=罪と死の原理)から解放され自由になったのでした。同時に、イエスを信じる福音には、人を変え、律法にはできないことを可能にする力があることを知ったのです。
 それ以来、パウロは、絶えず、主イエスさまにより頼んで、主との交わりの中に生きることをめざしました。そして、その過程で、ご聖霊が結ばせてくださる実が結ばれること悟り、ガラテヤ教会への手紙では、9つの実を紹介しています(ガラテヤ5:22~23)。
 イエスにより頼み、主との交わりの中に生きよという教えは、イエス様ご自身、ブドウの木の例えでわかり安く説明しています。
 「わたしにとどまりなさい。枝が・・・実を結ぶことができないのと同じように、あ
なたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」                ヨハネの福音書 15章4~5節(一部)
                          (銘形「謙遜への招き」より一部引用)
 

2024年7月7日日曜日

2024年07月07日 第1主日礼拝 神の家族

招詞

神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。      詩篇18篇30~31節


聖書箇所
コロサイ人への手紙3章11節~4章1

説教
神の家族 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/548 謙遜についての教え(1)「霊的貧困の自覚」

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
                                 マタイの福音書6章3節

 イエスの公生涯において、山上の説教で言われた最初の教えは「謙遜について」でした。「心の貧しい人」とは、どんな人のことを言うのでしょうか。ここで使われている「心の」と訳されたギリシャ語は、「霊において」という意味です。つまり、神とのかかわりにおける、人の貧しさです。1テサロニケ5:23によれば、人は「霊(ニューマ)とたましいと身
体」と言う三つの部分からなっているように記述されていますが、英語訳では、たましいは、「内なる自身」と訳され、霊を含むものと考えても良いでしょう。「霊(ニューマ、ヘブル語ルアハ)」とは人に与えられた部分のうち神との交わりをすることのできる部分です。この霊が与えられているのは被造物の中で人間だけでした。しかし、最初の人間であるアダムとエバは神の言われることに逆らい、ヘビ(悪魔)の言う事を信じてしまったために、神とのかかわりのニューマは傷つき、壊れて、機能不全を引き起こしてしまったのです。「貧しい」ということばは、ギリシャ語で、普通の貧しさ、貧乏ではなく、本当の、差し迫った窮乏、自己破産した状況を意味することばです。つまり、3節前半は、機能不全に陥った自分を認め、霊的に自己破産した状態で主に呼びかけ助けを求める姿です。そういう人が、天の御国に迎えられる、とイエスは言います。人間としての誇りの鎧(よろい)を脱ぎ、謙遜に「栄光は主に」、と心から叫ぶ人を主は、喜び受け入れられます。                         (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年6月30日日曜日

2024年06月30日 第5主日礼拝 神のことばだけが永遠に

招詞
 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。 主のほかにだれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。      詩篇18篇30~31節

聖書箇所
イザヤ書40章6~8節
ヨハネの福音書1章1節

説教
神のことばだけが永遠に 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/547 「三度も」ということばが意味するもの

 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」 
                               マルコの福音書14章36節


 聖書には「三度」ということばは意外と重要な意味合いをもっています。パウロの願いはなぜ何度でもなく「三度」なのでしょう。イエスのゲッセマネの祈りのときにも、十字架を前にしてイエスは御父に祈りました。たとえ一時的にしろ、死をもって父と切り離される、罪の無い、神の子としての苦しみの祈りでした。どうしてもこの杯—十字架による身代わりという手段—を飲まなければならないのですか。他の方法はないのですかと、イエスは三度御父に祈っています。そして三度ともイエスの祈りには御父は答えられませんでした。答えられなかったということが答えなのです。つまり、その「杯」を飲み干すことを通してしか、人類の救いがないということです。イエスは三度祈ってそれが御父のみこころだと受けとめ、それから敢然と自ら、十字架に向かって行かれたのです。                     (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年6月23日日曜日

2024年06月23日 第4主日礼拝 得たものと捨てるもの

招詞
 その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。 その比類なき偉大さにふさわしく、神をほめたたえよ。 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。 琴と立琴に合わせて、神をほめたたえよ。                                   詩篇150篇2~3節

聖書箇所
コロサイ人への手紙3章1~11節

説教
得たものと捨てるもの 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/546 ニムロデ ~ セムの家系なのに

 「さあ、われわれは自分たちのために、町(都市)と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。」                                創世記11章4節

 神とともに歩もうとしたセツの系譜のハムから、主に対抗する者たちが台頭してきました。ハムの子クシュから未子の問題児「ニムロデ」が生まれます。ニムロデは、メソポタニア地方で最高の権力者となり大きな町「ニネベ」と「バベル」を建てました。上記「名をあげる」とは自分たちの存在を誇示することであり、神ぬきの世界を築くことを意味します。それを神は、ことばを乱して意思疎通を妨げる方法で止めました。ニムロデたちが最も恐れていたことでした(10:7-10)。そうした流れの中に、セツからセムへ、やがてヘブル人アブラハムにつながっていく系譜が記されています。そして、時いたって主イエス・キリストが誕生します。私たちは今やこのイエス・キリストとつながることにより、信仰者の系譜の中に招かれているのです。
                           (銘形「ノアの系図」より一部引用)

2024年6月16日日曜日

2024年06月16日 教会創設50周年記念 音楽礼拝 

聖書箇所
イザヤ書49章15節
マタイの福音書25章31~40節

メッセージ
神が生きて働いてくださる実感 木下春樹牧師


2024年6月9日日曜日

2024年06月09日 第2主日礼拝 教会の主はイエス ②

招詞
 正しい人の救いは、主から来る。苦難のときの、彼らの砦から。主は彼らを助け、解き放たれる。                              詩篇37篇39~40節

聖書箇所
コロサイ2章8~23

説教
教会の主はイエス ② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/545 みことばを食べる(アコル)

 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べ(味わい)ました。
そうして、あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。
                                 エレミヤ書15章16節

 南王国のマナセ王が行った数々の悪行は、南ユダの滅亡、即ち、エルサレム陥落とバビロン捕囚を招く要因となりました。エレミヤは、この聞く耳を持たないマナセ王に預言と苦言を語り続けなければなりませんでした。次節の主の怒りの言葉を受け、無力感を経験し、預言者としての召命に揺らぎが出た時と言われています。

 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。彼らがあなたに、『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、捕囚に定められた者は捕囚に。』 
                                エレミヤ書 15章1~2節

 それでもエレミヤは、主のことばを王に語り続けました。上記、16節は、不信の王と主の怒りの狭間で見出した主からの励ましのみことばでした。後日、マナセ王自身は苦難に遭って、まことの神、主に立ち帰りましたので旧約の放蕩息子とも呼ばれています。悔い改めるのに遅すぎることはないという好例です。マナセ王の孫は、あの善王ヒゼキヤです。

2024年5月31日金曜日

2024年06月02日 第1主日礼拝 教会の主はイエス ①

招詞
 正しい人は地を受け継ぎ、いつまでもそこに住む。主を待ち望め。その道を守れ。主はあなたを高く上げ、地を受け継がせてくださる。              詩篇37篇29、34a節

聖書箇所
コロサイ人への手紙1章17節~2章7節

説教
教会の主はイエス① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/544 「慕い求める」と「捜し求める」


 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。                      エレミヤ書 29章13~14節 (新改訳2017)
わたしを捜し求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを尋ね求めるならば、わたしは見いだされる。                  エレミヤ書 29章13~14節 (聖書協会共同訳)

 13節には二つの渇望用語、慕い求める(バーカシュ)と捜し求める(ダーラシュ)が使われていますが、新改訳はその二つを同義的に訳しています。しかし、聖書協会共同訳ではその二つをそのまま訳しています。慕い求める(バーカシュ)が感情的な求めが強いのに対して、捜し求める(ダーラシュ)の方は、探り出す、調べるといった理性的意味合いが強いのです。そして、この二つの動詞で自己憐憫に陥っているバビロン捕囚で意気消沈している民にチャレンジしています。この二つの渇望なしに将来と希望の約束はあり得ないからです。神の民が感情と理性で文字通り全身全霊で神を尋ね求めることによって神を「見出し」ます。ただし、「心を尽くして」「一心に」することが条件です。なぜなら、心を尽くして求める時に、主は「見出される」とあるからです。では、神を「見出す」とはどういうことでしょう。それは神のみことばを通して、神を知り、神のみおしえを通してそのすばらしさを味わい、神の深い心に触れることを意味します。みことばが開かれて神のみこころを悟り、そのみこころがなされることを祈り求めるようになることです。神との愛のかかわ りが深められて、それ を喜ぶことです。
                 (銘形「ヘブル語のディリー ブレッド」から一部引用」)