2019年5月26日日曜日

2019年05月26日 第4主日礼拝 王の夢の解明①

招詞
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。                         詩篇139篇14節

聖書箇所
ダニエル書2章24~33節、36~43節

説教
王の夢の解明①  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/289 正夢(ハラム)

 王さま。あなたは(夢で)一つの大きな像をご覧になりました。―― その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。
                               ダニエル書2章31~33節
 
  ダニエルが王のためにした正夢の解明は、まさに預言の言葉でした。それは、現代を生きる私たちクリスチャンにも関わる大事です。
 図を見てください。純金の頭は、バビロン帝国を、銀の胸と両腕は、ペルシャ帝国を、正道の腹と腿はギリシャ(アレクサンダー大王)を、鉄のすねはローマ帝国です。鉄と粘土の混じり合った国々は、ローマ帝国以降、現代までの戦争の多い時代です。そして、34節以降の解明で、終わりの日に続きます。ダニエルが将来を解明してくれたことと、その延長線上でイエスさまが、終わりの日の預言をなさったので、私たちは、終わりの日に備えて生きることができますね。
                             (銘形「ダニエル書」より引用)

2019年5月19日日曜日

2019年05月19日 第3主日礼拝 王の夢と神の啓示

招詞
 【主】よ。私は、国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。                               詩篇108篇3~4節

聖書箇所
ダニエル書2章1~23節

説教
王の夢と神の啓示 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/288 解きたい(ヤーダ) 

 ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。                           ダニエル書2章1節

 心が騒ぎ眠れないことは誰でも経験することです。時には、どんな意味があるだろうと考えたこともあるでしょう。
 王の心の騒ぎは、自分の見た夢の意味を「解きたい」(ヤーダ)という思いと同義です。「夢」は、古代人にとっては、やがて起こることの前兆と考えられていたようです。
 創世記37章以降にヨセフの生涯がスペースを取って紹介されています。兄たちの嫉妬心がもとでエジプトに売られてしまったヤコブ(イスラエル)の息子の一人であったヨセフがエジプトの王の見た夢を解き明かしたことで、大出世を果たしたように、バビロンへ人質となったダニエルもバビロンの王ネブカデネザルの見た夢を解き明かす存在となり、やはり王によって高い位につけられることになるのですが・・(2章47節)。
 夢でなくても神さまが私たちの心に思いを与え、深く考えさせ祈らせることもあると思います。そんな時は、時を割いて祈りましょう。            (銘形 ダニエル書より引用)

2019年5月12日日曜日

2019年05月12日 第2主日礼拝 ダニエルの決断

招詞
【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。だれが【主】の大能のわざを語り、そのすべての誉れをふれ知らせることができよう。    詩篇106篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章21~24節

説教
ダニエルの決断  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/287 3つの聖書言語 

 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。    イザヤ書40章8節

 旧約聖書の大部分は、ヘブライ語で記されていますが、ごくわずかの部分はアラム語で書かれました。エズラ記4:8~6:18、7:12~26、そして学び始めたダニエル書2:4~7:28などです。イスラエル民族はカナンの地(パレスチナ)に定着してからヘブライ語を使用しましたが、後にアラム語も使われるようになりました。このアラム語はアッシリア、ダニエルとエズラの活躍したバビロニア、ペルシアで用いられていましたから。
 紀元前7~6世紀、バビロン捕囚によりアラム語はユダヤ人の間に急速に浸透していきました。更に、紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王がペルシャを破り、ギリシャ語が加わり、やがて、ギリシャ語は、当時の世界言語になりました。
 新約聖書がギリシャ語で書かれた理由は何でしょうか? ご聖霊は、イエスの弟子たちを感化し、聖書の教えがひとりユダヤ世界だけに閉じ込められることなく、当時の全世界で読まれ、確かに後世に伝えられるためにギリシャ語を選ばせたのです。  (西神戸教会ブログより一部引用)

2019年05月05日 第1主日礼拝 パウロの祝祷

招詞
【主】に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。
                  主に歌え。主にほめ歌を歌え。  詩篇105篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章21~24節

説教
パウロの祝祷 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/286 ダニエル(神は私のさばき主) 

 その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。                         ダニエル書1章4節

 次週の礼拝から、旧約聖書の預言書の一つ、ダニエル書の講解メッセージを始めます。ユダの王族出身であるのに他の3人の友とバビロン捕囚の時にバビロンに連行され、ダニエルは、その後75歳までの大変な人生を歩きます。ダニエル書の主題は、「神の統治」です。
  彼らの名前は、主がどのような方であるかが分かる名前でした。
ダニエル ・・・神は私のさばき主
ハナヌヤ ・・・主はあわれみ深い
ミシャエル・・・神のような方が他にいるだろうか
アザルヤ ・・・主は助けてくださる
 このような名前がつけられるたことは、彼らが神に愛されているという預言的なしるしだったと言えます。ただし、4人は、それぞれベルテシャツァル、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴとバビロン(異教の国)の言葉で呼ばれました。
 さて、捕虜でありながら王の宮廷に仕える再教育が始まった時、4人のヘブル名にふさわしい信仰者への挑戦は、なんと毎日の食事から始まりました。
                        (銘形「ダニエル書の瞑想」より一部引用)

2019年4月28日日曜日

2019年04月28日 第4主日礼拝 理解の型紙

招詞
私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。私の心の思いが神のみこころにかないますように。             詩篇104篇33~34節

聖書箇所
ルカの福音書24章13~35章


説教
理解の型紙 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/285 (目が)さえぎられて(クラテオー) 

 「彼らの目がさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」
                                ルカの福音書24章16節

 エマオ途上の二人の弟子たちのエピソードです。古くからの疑問は、この2人の弟子たちは、なぜ見慣れていたはずのイエスさまを見分けれなかったか、ということです。西に向かって歩いていたので、西日がまぶしかったから、という意見があります。でも、そうでしょうか?
 ルカはここで明らかに、風貌の面だけではなく、より深い次元で語っているように思えます。「(目が)さえぎられて」と訳されているギリシャ語は「クラテオー」で「ある力によつて支配され」、その状態がずっと継続していることを意味する動詞の「未完了形」が用いられています。つまり、神の敵であるサタンの霊的な力によって支配されている状態(保持)を意味します。それゆえ、二人の弟子は「イエスだと分からなかった」とルカは解釈しています。
 そのことを、使徒パウロは、「この世の(偶像)神が不信者の思いをくらませる覆いをかけて、福音の光を輝かせないようにしている状態」と言いました。(コリント第二4:3~4)。私たちはイエスさまに目を向ける時にだけ、サタンの惑わしに勝つことができます。イエスさまに目を向けて歩みましょ                     (銘形「ルカの福音書解説」より)

2019年04月21日 イースター・召天者記念礼拝 天国の希望

招詞
あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
               あの方はよみがえられました。   マルコの福音書16章6節

聖書箇所
コリント人への手紙第一15章42~58節

説教
天国の希望 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/284 つまずきの石

 週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。                        マタイの福音書28章1~2節  
 
 イエスが岩穴の墓から復活する出来事は、4つの福音書全部に記されていますが、地震が入り口の大岩を転がしたという記事は、マタイの福音書だけです。 それは、週のはじめにイエスに香料を塗るためにやって来た女性たちに墓が空であることを知らせるためでした。しかし、この「イエス復活の良い知らせ」を弟子たちは信じませんでした。
 イエスの生涯における処女降誕、そして復活の事実は私たちの理性には「つまずきの石」です。これは神が置かれた「つまずきの石」です。この「つまずきの石」につまずかない者は幸いです。神のいのちの世界はこのつまずきの向こう側にあるからです。
 救いわれる前に、私たちが持ってしまった「つまずきの石」は神によって与えられた信仰によってのみ転がされました。感謝しましょう。理性や理不尽な経験でイエスに来られないでいる家族や友人たちから石が除かれるように祈りましょう。(銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)   

2019年4月14日日曜日

2019年04月14日 第2主日礼拝 信じた男

招詞
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行っ た。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(キリスト)に負わせた。           イザヤ 書53章6節

聖書箇所
ルカの福音書23章32~43節

説教
信じた男 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/283 わたしは渇く(ディプソー)

 「イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が
     成就するために、『わたしは渇く。』」と言われた。 ヨハネの福音書19章28節 
 
 「渇き(ディプソー)」は、私たちが生きていくために必要ものが欠乏するときに感じるものです。お腹がすくことも、なにか欲しいものがあることも、人との触 れ合いがほしいことも、対話者がほしいと思うときも、だれかにほめてもらいた いときにも、その背景には満たされていない「渇き」があります。
 イエスの場合、「食物」とは、「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げること」でした(ヨハネ4:34)。そして、もう間もなく御父のみこころを、自らの死を通して完了するのを目前にしながら言ったことばが、「わたしは渇く」だったのです。つまり、イエスの強烈な渇きは「御父のみこころを完全になし遂げたい」という使命遂行の決意のことばなのです。
 受難週にイエスが私の罪のためになさった愛の御業を思い、感謝しましょう。
                           (銘形「十字架のイエス」より引用)