2019年12月29日日曜日

2019年12月29日 第5主日礼拝 イエス、人生の試金石

招詞
主は、御民のために贖いを送り、ご自分の契約をとこしえに定められた。主の御名は聖であり、おそれおおい。知恵の初め、それは【主】を恐れること。これを行う人はみな、賢明さを得る。
                                詩篇111篇9b~10節

聖書箇所
ルカの福音書2章21~35節

説教
イエス、人生の試金石 田口勇新牧師

言(こと)ローグ/318 東の国から ①
 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地(流浪の地)に住みついた。
                                    創世記4章16節

 東とは、聖書では、明確な意味をもっている。それは同時に、人間が「永遠」にかかわる企てにおいてとる道であり、また、神の招きに応じてたどる道でもある。
 バベルの塔を築こうとした人たちは、東からやってきた。歴史上、選民イスラエルを打ち破り、荒らしまわった各民族もそうだった。ところがまた、アブラハムも、神が呼び出される人々と同じく東からやってくる。
 そして、モーセやレビ人らは、祭壇の東側に立つのである(レビ記1:16)。
 さいごに、三人の王なる博士たち*が、(イエス様の誕生後)その時が来て東の方からやってくるのである(マタイ2章)。
 このいにしえよりの歴史上の一連のつらなりこそは、まさしく人間が待ち望んできたすべてを一挙に成就する、東方より来る最後のものの預言であった。
 カインがこうして、象徴的なこの東方に居を定めてより、人間はそれを待ち望んできたのである。  (*聖書では「三人」とも、「王」とも書いてありません。)
                         ジャック・エリュール「都市の意味」より


2019年12月28日土曜日

2019年12月24日 クリスマス キャンドルサービス みどりごのほほ笑み

聖書箇所
ルカの福音書2章8~12節

説教
みどりごのほほ笑み 田口勇新牧師
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聖書のことば
 ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちにあた与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。                                イザヤ書9章6~7節
   
さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。み使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」              ルカの福音書2章8~12節


2019年12月22日 クリスマス礼拝 ベツレヘムのイエスさま

招詞
 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。           コリント人への手紙第二 5章17節

聖書箇所
ルカの福音書2章6~20節

説教
ベツレヘムのイエスさま 田口勇新牧師
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聖書のことば
  そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。 これは、キリニウスがシリヤの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身重になっていた、いいなずけの妻マリヤとともに登録するためであった。
 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、その子を布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」              ルカの福音書2章1~12節


2019年12月16日月曜日

2019年12月15日 アドベント第3週 第3主日礼拝 ザカリヤの賛歌

招詞
 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。このようにして、【主】の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。」
                                 イザヤ書40章3、5節

聖書箇所
ルカの福音書1章67~79節

説教
ザカリヤの賛歌 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/317

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」              マタイの福音書9章12、14節

 「バリア・フリー」のバリアとは、体や心の障碍者の方々の生活環境上の「障壁や障害」を意味します。したがって、バリア・フリーとは「障壁、障害を取り払う」という意味です。
 上記のみことばにある「罪人」の中には、収税人、羊飼いなどが含まれていました。イエスのことばは「バリア・フリー的宣教」です。イエスは、社会制度や文化や宗教上の心のバリアを問題とされました。
 私たちの「こころ」の中にあるバリアはなかなか取れないもので、クリスチャンも例外ではありません。偏見もその一つです。心の中には強力なバリアを作っていることが多いかもしれません。たとえば、「私をあの人と一緒にしてほしくない。あの人たちは私たちとは違う、特殊な人たちだ。」といった発想、見方。これがバリアです。待降の季節、主に願い、そうした心のバリヤを取り除いていただきましょう。       (銘形 「ルカ福音書学びの視座」より一部引用) 


2019年12月8日日曜日

2019年12月08日 アドベント第2週 第2主日礼拝 御子イエスと聖霊

招詞
私は心を尽くして主に感謝しよう。直ぐな人のつどいと集会において。主のみわざは偉大で、みわざを喜ぶすべての人々に尋ね求められる。               詩篇111篇112節

聖書箇所
ルカの福音書1章26~38節

説教
御子イエスと聖霊 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/316  マリヤとヨセフが選ばれた理由

 そして、(ヨセフ、マリヤ、イエスは)ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼、イエスはナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。 
                                マタイの福音書2章23節

 マリヤとヨセフが選ばれた理由は何でしょう? その一つは、二人が婚約者として「ナザレ」という町に住んでいたからです。預言によればイエスさまは、ナザレ人でなければなりませんでした。 
 ですから、イエスさまがベツレヘムで生まれたのは、もう一つの預言とは言え、想定外のことに思えました。さらに、イエスさまの誕生の数年後、あの東方の博士たちの訪問の後、恐ろしいヘロデ王から逃れてエジプトへ行きました。ナザレは気が遠くなるほど遠くなりました。 
 しかし、ヨセフは、夢で帰国を促され、いったんベツレヘムに帰ったでしょうが、さらに夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退きます。そして、ナザレに住み始めます。 
 こうして預言は成就しました。ナザレという小さな町が、世界の救い主イエスさまの故郷として30年間、歴史の「静かな舞台」になりました。  (銘形「アドベントの黙想」より一部引用) 

2019年12月1日日曜日

2019年12月01日 アドベント第1週 第1主日礼拝 インマヌエルのしるし

招詞
 神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。
                                  詩篇108篇1,4節

聖書箇所
イザヤ書7章10~14節
マタイの福音書1章18節~25節
説教
インマヌエルのしるし 田口勇新牧師


言(こと)ローグ/315 大工(タラシュ)の息子

 イエスは、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。」                        マタイの福音書13章54~56節

  教会学校の子どもが「どうしてイエス様は大工さんなの?」と尋ねました。皆さんはどう答えますか? ヨハネ14:2~3に、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と書いてあります。 
 公生涯の前の日常の大工仕事の中で、イエスは、私たちが住む天の家のことを考えながら働いておられたのですね。感謝しましょう。        (銘形「アドベント瞑想」より一部引用) 

2019年11月24日日曜日

2019年11月24日 第4主日礼拝 エステルのチャレンジ

招詞
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。        詩篇107篇1、9節

聖書箇所
エステル記2章1~18節 

説教
エステルへのチャレンジ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/314  光の祭りとクリスマス

 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。    ヨハネの福音書1章9節

 紀元前2世紀、悪王エピファネスは占領したエルサレムで、神殿にゼウスの偶像を持ち込み、豚を捧げる礼拝を強要しました。ユダヤ人は、この圧政に反乱を起こし、BC165年にエルサレムを取り戻し、神殿を聖めましたが、これをハヌカー(奉献)と呼んでいます。
 こんな話があります。「エピファネス一派は、神殿の燭台(メノラー:図)を点(とも)す油の壷をみな汚した。しかし神殿解放の日、やっと1つの油壼が封印されたまま見つかった。油はわずか1日分にも満たなかったが、点(とも)してみると何と8日間も燃え続けた。」この奇跡を記念してハヌカーは、祭日とされました。ですから、ハヌカーは別名、「光の祭り」とも呼ばれますが、8枝のメノラーを使います。
 今年のハヌカーは、12/22~30の8日間でクリスマスの時期と重なります。歴史的に別物ですが、年中行事として近年盛んになったのは、キリスト教の影響なしとは言えません。

2019年11月17日日曜日

2019年11月17日 第3主日礼拝 歴史を支配する神

招詞
だれが【主】の大能のわざを語り、そのすべての誉れをふれ知らせることができよう。幸いなことよ。さばきを守り、正義を常に行う人々は。             詩篇106篇2~3節

聖書箇所
エステル記1章1節~22節 

説教
歴史を支配する神 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/313 神名(しんめい)
 見よ。主が彼(ヤコブ)のそばに立って、こう言われた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。」                             創世記28章13節

 旧約聖書では、神名は、8つの語いで訳されています。訳語別に見ると、神(エロヒーム)、主(ヤーウェとアドナーイ)、神(エール)、いと高き方(エルヨーン)、いと高き神(エール・エルヨーン)、全能の神(エル・シャダイ)、ご覧になる神(エール・ロイ)です。
 このうち、主と訳されている、ヤーウェは、上記、夜の夢の中でヤコブに現れた主です。この時のヤコブは、兄エサウとの確執で彼に憎まれ、逃げるようにして砂漠の中、800キロも離れた親戚のところに向かう孤独な若者でした。神の救済史のマスタープランのためにヤコブが用いられます。主は、イエスさまのように、彼に近寄り、かたわらに立ち、寄り添う姿勢を見せてヤコブを励ましたのです。主イエスさまは、抜け道の無いような困難の中で途方に暮れている私たちにも近寄り、そばに立って導いてくださいます。イエスと一緒に進みましょう。
                              (銘形「神の名」を一部引用)


2019年11月10日日曜日

2019年11月10日 第2主日礼拝 神の憐みと終末

招詞
主の聖なる御名を誇りとせよ。主を慕い求める者たちの心よ喜べ。主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。                       詩篇105篇3~4節

聖書箇所
ダニエル書12章1~13節 

説教
神の憐みと終末 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/312 探る(ハーカル) 

事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。             箴言25章2節

 神は、歴史の中で神のご計画を少しずつ明かされます。これを啓示と呼びます。丁度よいときまで開示されないことも沢山ありました。それも神の誉れであると箴言の知恵者は言います。しかし、王たちは、こぞって「探る」のでこれが誉だと言っています。「探る」は、「ハーカル」で、徹底的に調べて隠された事柄を見つけるという意味です。これが神の代理者である王の務めであるとすれば、同じく「王であり祭司(Ⅰペテロ2:9)」として召された私たちクリスチャンもこの使命を理解する必要があります。それは神の豊かな知恵を、教会を通して「この世ばかりでなく、天にある支配と権威」に対して示すためなのです。神が隠している秘密を見つけるという使命が教会に与えられているのです。み言葉をハーカル(探る)することにもっと多くの時間と力を注ぎませんか?なぜなら、それが私たちの誉れともなるのですから、最も価値ある時間の使い方ですね。
                           (銘形「聖書を横に読む」より引用)

2019年11月03日 第1主日礼拝 終わりの日の幻②

招詞
私は生きているかぎり、【主】に歌い、 いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。私の心の思いが神のみこころにかないますように。 私自身は、【主】を喜びましょう。
                                詩篇104篇33~34節
聖書箇所
ダニエル書11章21~12章3節

説教
終わりの日の幻② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/311 シャカイナ・グローリー ②

 第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋(ミシュカーン)は建てられた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、【主】の栄光が幕屋に満ちていたからである。
                             出エジプト40:17、34~35

 エジプトを脱出したイスラエルの民は、ちょうど一年後に、神の山ホレブの麓に「幕屋」を建造します。この幕屋建造のためには多くの材料が必要でした。イスラエルの人々はそのために、エジプト脱出の際に持ってきた(エジプトからはぎ取った)多くのものを自ら進んでささげました。完成した時、モーセは幕屋建造のすべてが「主が命じられたとおり」になされたことを確認して、彼らを祝福しました。その時です。シャカイナ・グローリー(主の栄光の光)が幕屋全体を覆ったのです。 
 神と人とが共に住むという「幕屋」は、神の永遠のヴィジョンである「聖なる都、新しいエルサレム」(黙示録21:2~4)の型です。幕屋には、神と人とが共に住むという神のご計画、神のみこころとその御旨と目的が、神の栄光を秘めた形で表されているのです。とすれば、それを知るためには、目に見える「幕屋」についても詳しく学ぶ必要がありますね。幕屋(ミシュカーン)は、神の臨在のしるしで、イスラエルの民は幕屋と共に進みました。イエス様は、私たちと共におられますので、私たちも日々イエス様と歩むのと似ています。
                         (銘形「聖書における光」より一部引用)

2019年10月30日水曜日

2019年10月27日 宗教改革記念礼拝 神を畏れ進んだ人、ルター

招詞
 人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹きがその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかしだが、私たちの神のことばは永遠に立つ。                           イザヤ書40章6b~8節

聖書箇所
使徒の働き5章29~32節

説教
神を畏れ進んだ人、ルター 田口勇新牧師
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2019年10月20日 第3主日礼拝 終わりの日の幻 ①

招詞
わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。                     詩篇104篇1節

聖書箇所
ダニエル書11章1~20節

説教
終わりの日の幻① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/310 シャカイナ・グローリー ① 

モーセは、ミデヤンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の奥まで導いて、神の山ホレブにやって来た。すると【主】の使いが柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼にあらわれた。なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。 出エジプト記3章1~2節

 私たちが信じている三位一体の神様が、人間の目に見える形で現われる時、それを「シャカイナ・グローリー(栄光の臨在)」ということばで表現します。シャカイナは、シャカン(永遠に留まる)の派生語です。神の歴史の中で「シャカイナ・グローリー」は、光、火、煙、雲、雷、いなずま、密雲(や み)、そして御使いなどですが、その極めつけは人となられたイエスご自身です。ヨハネの福音書1章に「イエスは光であった」と記されているように、光の中にも、み子「イエス・キリスト」の存在がありましたし、実は、上記のどのシャカイナ・グローリーの中にもイエスは、おられます。なぜなら、イエスこそ「光」と「知恵」と「栄光」を結びつけている方だからです。
 この燃える柴の光の中で、神は、「わたしはあるという者である(出エジプト 3:14)」と初めてその名を啓示なさったことから始まり、目に見えるイエスさまは、沢山の教えと知恵を弟子たちに伝え、それらを書き留めた福音書はイエスの貴重な言行録です。この言行録=福音書に親しむことで、光であるイエスさまを日々実感しましょう。     (銘形「聖書における光」より一部引用)

2019年10月13日日曜日

2019年10月13日 第2主日礼拝 恐れないで安心しなさい

招詞
主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行う者に及ぶ。   詩篇103篇17~18節

聖書箇所
ダニエル書10章1節~11章1節 

説教
恐れないで安心しなさい 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/309 ひかりと知恵(ホフマー)③

『光が、やみの中から輝き出よ』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった。              Ⅱコリント4:4,6

  パウロは、ダマスコ途上でイエスの栄光の光(シャカイナ・グローリー)に照らされて回心しました。上のみ言葉によれば、パウロは、この光を「キリストの栄光にかかわる福音の光」だと言っています。「福音の光」と「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識」とは同義です。つまり「天からの光」なしに、福音を理解することはできないということです。ですから、「天からの光」は「人に悟りを与えて人を輝かす光」であり、神との生きたかかわりをもたらす「いのちの光」とも言えるのです(ヨハネ1:4)。 

 「すべてのことが神からはじまり、そして神により、神へと至る」(ローマ11:36 )のです。
                         (銘形「聖書における光」より一部引用) 

2019年10月06日 第1主日礼拝 神の人・エリヤ

招詞
 わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。                                詩篇103篇1~2節

聖書箇所
列王記第1 17章1~24節

説教
神の人・エリヤ 菅 孝雄 兄

言(こと)ローグ/308 ひかりと知恵(ホフマー)② 

 神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。           創世記 1 章 3 節

  「起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」            使徒26:16~18

 使徒パウロは「光」の現実と「暗やみ」の現実を表わすために、さまざまな用語を用いています。一例が「神の知恵」と「この世の知恵」です。パウロは、終始一貫、「神の知恵で福音を伝えた」と言い切りました。次回、詳しく述べます。
 私たちは、神の知恵と方法によって伝えられた福音の光を頂いたことを、まず主に感謝いたしましょう。                     (銘形「聖書における光」より一部引用)

2019年9月29日日曜日

2019年09月29日 第5主日礼拝 舌を制すること

招詞
私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。私は、全き道に心を留めます。                          詩篇101篇1b~2a節

聖書箇所
ヤコブの手紙3章1~12節

説教
舌を制すること 永井創世師
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言(こと)ローグ/307 オール(光)とホフマー(知恵)

 神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった。            創世記 1 章 3 節

 この「光」は、私たちの目には見える光以上の「光」です。なぜなら、この 「光」は光源としての光ではなく、神が御子を通して、(世界の基が置かれる前から)「あらかじめ定められていた」神ご自身の緻密なご計画、深淵なみこころ、そして神の御旨と目的を含んだ「測り知れない重い事柄」を包んだ「光」だからです。まさに、この光は「人の心に思い浮かんだことのないもの」でした。

同じように、エペソ5:8の光(ギ:フォース)は深い意味をもちます。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」
「光」は、神が天と地を創造するにあたって、やみの中から呼び出されたのですが、私たちも罪という闇の中から、イエスさまの救いの光の中に呼び出された者たちです。このことを改めて感謝し、光の子どもとして成長しましょう。次回は、光の類義語として「ホフマー」(知恵)を考えます。                        (銘形「聖書における光」より一部引用)

2019年9月22日日曜日

2019年09月22日 第4主日礼拝 「園の中央の木―創世記と礼拝―」 / 「恵みから始まる教会生活―礼拝と奉仕の四領域」

招詞
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。
                                  詩篇100篇1~2節

聖書箇所
創世記2章9節

説教
「園の中央の木―創世記と礼拝― 」 銭谷幸器牧師
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「恵みから始まる教会生活―礼拝と奉仕の四領域」
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言(こと)ローグ/306 光(オールとフォース)

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」    詩篇119篇105節

  「光」を表わすヘブル語は「オール」で、新約のギリシア語では「フォース」です。 
 旧約の「オール」は名詞で200回、一方、ギリシア語の「フォース」は74回ですから両者ともに大事な言葉です。 
「光」という言葉を聞いて、すぐに思い起こす聖句は何でしょうか。 いくつか有名な箇所を挙げてみましょう。 
①「わたしは、世の光です。」(ヨハネ 8:12, 9:5) 
②「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ 5:14) 
③「以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」(エペソ 5:8) 
④「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」    (第一ヨハネ 1:5) 
⑤「すべての良い贈り物・・・は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。」(ヤコブ 1:17) 
 これら6箇所の光の箇所を読むだけでも、神様の光が私たちを照らし、導いてくださる経験を思い出しますね。何歳になっても光の子どもらしく歩いて行きましょう。
                        (銘型「聖書における光の概念」より引用) 

2019年09月15日 第3主日礼拝 福音の前進

招詞
新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざを行われた。
    地の果てのすべての者が、わたしたちの神の救いを見ている。  詩篇98篇1a,3b節


聖書箇所
ピリピ 人への手紙1章12~18節

説教
福音の前進 高橋和義牧師
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言(こと)ローグ/305 探る(ハーカル)

 事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ。            箴言25章2節

   ここで「探る」と訳されたヘブル語は「ハーカル」で、徹底的に調べて隠された事柄を見つけるという意味です。これが神の代理者である王の務めであるとすれば、同じく「王であり祭司」として召された私たちもこの使命を理解する必要があります。 
 「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」             第1ペテロ2:9 
 つまり、神が隠されている秘密を見つけるという使命が教会に与えられているのです。聖書のみ言葉を探り喜ぶことにもっと多くの時間と力を注ぎましょう。 (銘型「詩篇の瞑想」より引用) 

2019年9月8日日曜日

2019年09月08日 第2主日礼拝 モーセ、人生の午後に

招詞
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告しあい、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。
                              コロサイ人への手紙3章16節

聖書箇所
へブル書11章23~28節

説教
モーセ、人生の午後に 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/304 モーセ(引き上げる:モシェー)

 彼女(パロの娘)はその子をモーセ(モシェー)と名づけた。彼女は、「水の中から、私がこの子を引き出したのです」と言ったからである。           出エジプト記2章10b節

  創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記はモーセが著者であることから、モーセ五書とも呼ばれます。堕落した人間(創世記)が、救い出されて神の民とされ(出エジプト記)、神を正しく礼拝しながら(レビ記)、信仰の旅路を歩み(民数記)、やがて約束の地に向かって望み備えつつ歩む(申命記)という構造を持っています。
 五書全体は、出エジプト記の救いの光から繰り返し記術されています。そして、主イエス・キリストによる十字架の贖い、新しい契約の予型となっています。
 これは新約聖書のマタイ、ルコ、ルカによる共観福音書がやはり、イエス・キリストの復活の光からイエスの救いを記述しているのと同様です。ですから、モーセ五書を読むと、新約聖書の最大テーマであるイエスの福音がより良く理解できます。この機会にもう一度モーセ五書を読みなおしてみませんか?                              (銘型「モーセ五書」より一部引用)


2019年9月1日日曜日

2019年09月01日 第1主日礼拝 見習いたい信仰の人

招詞
 これらすべては、わたしの手が造った。それで、これらすべては存在するのだ。
ー 主のことば ー  わたしが目を留める者、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。                         イザヤ書66章2節


聖書箇所
ルカの福音書7章1~10節

説教
見習いたい信仰の人  田口孝子師
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言(こと)ローグ/303 寂しい所で(エレーモス)

 「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、
       寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」         マルコの福音書1章35節

 エレーモスは、人気のない、静かな場所です。そうした場所を持つことは霊的にきわめて重要です。一人になれる場所で、神と過ごす時をイエスは自分の生活において何にも優って優先されていたのです。しかも十分な霊的「インプット」によって、4章31節以降に記されている忙しい働き(アウトプット)をすることができたと言えます。
 私たちは、「主の祈り」を会衆といっしょに毎週唱えています。ただ、そのシンプルな祈りはあくまでも祈りのアウトライン(概要)です。そこから、一人になってエレーモスで、本論となる祈りが生まれると思います。
 霊的な「インプット」と「アウトプット」。祈りと働き。隠遁と公現。静寂と活動。そのバランスを正しく保てていないことが今日の多くのクリスチャンの現実ではないかと思います。イエスの場合、御父との親しい交わりしての祈りのあふれが、具体的な働きとなって現わされたのです。
 私たちは、エレーモスで祈る工夫ができるでしょうか?そこでは、祈りの課題を祈ること以上の神さまとの交わり、イエスさまとの対話の場となるでしょう。
                   銘型「イエスのインプットとアウトプットのバランス」

2019年8月25日日曜日

2019年08月25日 第4主日礼拝 70週の預言②

招詞
世界とその中に住むものよ 鳴りとどろけ。こぞって喜び歌え。主の御前で。主は 地をさばくために来られる。 主は義をもって世界をさばき、公正をもって諸国の民をさばかれる。
                               詩篇98篇7~9節(一部)

聖書箇所
ダニエル書9章20~27節

説教
70週の預言② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/302 偽預言者ハナヌヤ

 「行って、ハナンヤに次のように言え。『主はこう言われる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。・・・』」         エレミヤ書28章13節

   ハナンヤは、王の機嫌とりのため、「主は、バビロン王の軛を打ち砕く 二年のうちに、神殿から略奪された器具と捕囚された者たちを帰らせる。」と偽りの預言をしました。エレミヤの預言は、その時点では主が許される時まで、と時を示しませんでした。王と人々はハナヌヤを信じ、エレミヤは立ち去ります。
 しかし、主は、上記のみ言葉をもってハナンヤを裁きました。神のご計画を妨げる者に対して神は厳しく取り扱われます。ハナンヤの犯した罪は、主から語られたことばではなく、人々が聞きたいことばを語り、幻想を民たちの中に吹き込んで惑わしました。それゆえに裁れたのです。
 この世に迎合することなく、みことばに真摯に向き合い、そこから語られる神のメッセージに耳を傾けるよう肝に命じなくてはなりませんね。      (銘型「エレミヤ書」の瞑想より引用)

2019年8月18日日曜日

2019年08月18日 第3主日礼拝 70週の預言①

招詞
 全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。                               詩篇98篇4~5a節

聖書箇所
ダニエル書9章1~27節

説教
70週の預言① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/301 預言と予言

 「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守るものは、幸いである。」
                                    黙示録22章7節

 預言は、旧約聖書ヘブル語ナーバーも新約聖書ギリシャ語プロフェテースも「主なる神からの霊感によって語る・預言する」という意味です。両方合わせると聖書(新改訳3版)では674回も訳出されています。預言者の他の呼称として先見者(ガドなど)がいますが、同じ意味です。 
 これに対して予言(prediction)は、聖書には出てきません。予言とは、ある物事についてその実現に先立ち「あらかじめ言明すること」で、その予言者(占い師など)には聖書の神様は関わっておらず、多くの場合、別の霊が彼らをコントロールしている怖いものです。ネット上では、異端も含め、様々な偽の預言者や予言者たちが閲覧者を勧誘しています。その場合、自分の姿を明らかにしないで近づいてきます。 
 もっとも賢い防備は聖書のみ言葉です。み言葉は、御霊の与える剣で、霊的な攻撃にたいすする武器です。み言葉をよく読んで理解していると、異なる教えや間違った聖書解釈を見分ける力がつきます。サタンも光の天使に擬装して(2コリント11:14)、クリスチャンをだまそうとするのですからしっかり見極めましょう。 

2019年8月11日日曜日

2019年08月11日 第2主日礼拝 雄ヒツジと雄ヤギの幻

招詞
全地よ。主の御前に、おののけ。国々の中で言え、「主は王である」と。 詩篇96篇9~10節

聖書箇所
ダニエル書8章1~27節

説教
雄ヒツジと雄ヤギの幻  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/300 天のみ国(バシレーヤ・トーン・ウラノーン)

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
                               ローマ人への手紙3章23節

  仏教の公式サイトとも言える budismo.comでは、警告として「仏教では、死んだら極楽とか、死んだら仏になれると教えられているのではありません。自業自得の因果の道理にもとづいて、死ぬまでの自分の行いによって死後の世界が決まる」と教えています。善人は善人として扱われるが、そうでない死者は、死後も功徳(くどく)を積む、果てしない旅が始まる、というわけです。これでは、誰も極楽に入れる望みは無いでしょう。人は、死後の不安を持ちながら現在を生きていくことになりますね。
 上記、聖書の教えは、これとは全く異なります。全ての人は、生まれつき罪人なので、また善を行う力のない者なのでそのままでは望みは無い。けれども、罪人も「神の恵み」により神の御子イエス・キリストを救い主と信じる信仰だけで神のみ前に正しい者としていただける、という実に「ありがたい」教えです。イエスさまが、「私を通して(信じて)でなければ誰ひとり父のみもと=天国にいくことはできません」(ヨハネ13:6b)と言っているように、イエスさまを信じる人は、罪を赦されて罰を受けないばかりか、死後、そのまま天国に入ることができます。功徳を積まなければ、という条件はありません。


2019年8月4日日曜日

2019年08月04日 第1主日礼拝 ダニエルの見た幻②

招詞
まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。尊厳と威光は御前にあり、力と光栄は主の聖所にある。                  詩篇96篇5~6節

聖書箇所
ダニエル書7章19~28節  

説教
ダニエルの見た幻② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/299    永遠への道(アイオーン)

 (あなたがたは)私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに与えられるのです。                    ペテロの手紙第二1章11節

  ダニエルの終末預言は、永遠への道を示していて、新約聖書には永遠(アイオーン)という言葉が94回も出ています。神の元々の計画は、人が永遠に生きることでした。アダムとエバが食べてもよかった木の実には、永遠のいのちの木の実も含まれていたのですから(創世記2:15)。ところが、彼らは唯一禁じられていた木の実(善悪の実)を、わざと食べてしまいました。その結果、罪と死が入り、永遠の家から追放されました(創世記3:23、1コリント15:21)。にもかかわらず、神は、イエスを信じた者を永遠の御国に招いてくださいました。救われた私たちが、神の家で神と永遠に過ごすことができると保証されていることは何と幸いなことでしょう。目をあげて感謝しましょう。 

2019年7月28日日曜日

2019年07月28日 第4主日礼拝 ダニエルの見た幻①

招詞
【主】に歌え。 御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。   詩篇96篇2~3節

聖書箇所
ダニエル書7章1~18節

説教
ダニエルの見た幻① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/298 黙示文字

 イエス・キリストの黙示。この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。
                             ヨハネの黙示録1章1a節、3節  

 ダニエル書は、聖書の中の最初の黙示文学です。黙示文学では、神様の啓示が特別な形で示されます。ダニエル書では、大きな像だったり、翼を持ったライオンだったり、熊や豹など、獣が、人や王国に例えられて出てきます。新約聖書では、ヨハネの黙示録が知られています。 
 ダニエルは、バビロン捕囚でバビロンに強制移住させられ、75年間、バビロニアとペルシャの王たちに仕えました。天の神という名前で王たちに天地創造の神様を伝えることもダニエル書の目的の一つで、そのためにダニエル書の2~8章の一部は、現地語であるアラム語で記されました。同胞のユダヤ人たちには、今起きていること、将来起きることを伝えるのに、黙示の形で母語であるヘブル語で記したのは、「敵国の中」にいたことが大きな理由です。 
 私たちの聖書には、ダニエル書もヨハネの黙示録も収録されています。先のこともこれからのことも啓示されています。黙示文学の形で啓示されているものは特に注意深く学びましょう。そこには、日本のような異教の国で信仰をもって生きていく私たちに、知恵と勇気と希望を与える要素が沢山あるからです。 

2019年7月21日日曜日

2019年07月21日 第3主日礼拝 ダニエルの危機

招詞
主の真実は、大盾であり、とりでである。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。             詩篇91篇4b、11節

聖書箇所
ダニエル書6章1~28節

説教
ダニエルの危機 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/297 預言と寓話

第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。    ダニエル書7章4節

 ダニエル書7~12章は、預言のメセージです。登場する人物が動物で登場するところは、寓話と誤解しやすいですが、全く別物です。預言は、過去・現在・未来のことについて神が人に知らせるメッセージで、人物を動物に例えることがあります。神が人に開示することを啓示と呼ばれます。これに対して、寓話は、人の創作で、擬人化された動物たちが争うなどのストーリーで、道徳的な教訓で閉じられます。
 ちなみに7章では、動物がネブカデネザルから始まり、これが前記第一の動物です。その後、ベルシャツアル、エピファネス、ローマの順に登場する歴史的預言で実際にその通りのことが起こりました。
 過去の事だけではありません。実は、これから起こる歴史の預言も、ダニエル書に記されていますので注意深く読んでいきましょう。

2019年7月14日日曜日

2019年07月14日 第2主日礼拝 バビロン最後の日

招詞
神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
                                 詩篇51篇10、17節

聖書箇所
ダニエル書5章1~31節

説教
バビロン最後の日 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/296 至上の権威(エクスーシア) 

 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。             ローマ人への手紙13章1節

 この箇所では、クリスチャンの対社会的なかかわり、つまり、国家とその権威に対してキリスト者が取るべき態度について扱われています。1~4節はガイドラインです。
 
 1節・・権威とは神によって立てられたものであること
 2節・・権威は神の定めであること
 4節・・権威は民に益をあたえるための、神のしもべであること
 
 使徒9章17節で、迫害者パウロのところに、イエスの弟子アナニヤが遣わされ、彼がイエスの至上の権威により「目が見えるようになれ。神の霊に満たされよ」と命じました。その時、パウロの「目からうろこ」が落ちて、一時失っていた視力が回復します。もしパウロが神の権威に服することがなかったとしたら、パウロは決してアナニヤの声に従うことはなかったでしょう。神の権威を知り、その権威の下に砕かれた人だけが、神が立てた権威にしたがうことができるのです。
 今週は、国政の代表(権威者)を選ぶ選挙の前の週です。キリスト者として、国民に利益を与えてくれる神のしもべか、神に心砕かれ得る人を選ぶことができれば幸いですね。
                     (銘形「ローマ人への手紙の瞑想」より一部引用)

2019年7月7日日曜日

2019年07月07日 第1主日礼拝 王の危機と回復

招詞
光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。【主】にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。        詩篇97篇11~12節

聖書箇所
ダニエル書4章28~37節

説教
王の危機と回復 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/295 ネブカデネザルの晩年

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。                      詩篇103篇2~5節

 あの大王ネブカデネザル(統治年:紀元前606~562)にも晩年がやってきました。ダニエル書4章は、王の在位34年目以降の記事で、最後の8年ほどが残された生涯でしたが、この8年の初めのころのエピソードです。ダニエルも最初の「夢の解き明かし」以来30年間、初めは王の顧問団の一員として、そして内務大臣に昇格していきます。王の危機は、この時に訪れました。国の存亡にもかかわることです。
 権勢をほこり、ムラ気で、真に悔い改めることをしなかった王はついに回心するのでしょうか?これが、4章の第二のテーマです。第一のテーマは「神さまが全宇宙の権威者だ」ということで、これを知恵と体験で知らせようとしています。
 私たちにも人生の秋がやってきますが、主を信じて歩いている者にとっては信仰の実、御霊の実の収穫の季節でもあります。5節によれば、「あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」というおまけつきです。主の良くしてくださったことを忘れず、感謝しつつ収穫に精出しましょう。

2019年6月30日日曜日

2019年06月30日 第5主日礼拝 ミリアムとアロン

招詞
私は声をあげて、【主】に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。【主】がささえてくださるから。      詩篇3篇4~5節

聖書箇所
ミカ書6章4節

説教
ミリアムとアロン  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/294  「強くあれ、雄々しくあれ」

 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。            申命記31章23節

 申命記31章には3回、続くヨシュア記1章では4回、このフレーズが出てきます。まず、申命記31章では、主ご自身がモーセを通してイスラエルの民に対して語られたのが 31:6、モーセからヨシュアに対して語られたのが31:7、主がヨシュアに対して語られたのが31:23です。ちなみに、ヨシュア記1章では、主がヨシュアに語られたのが1:6、7、9、民がヨシュアに対して語ったのが1:18です。
 ヨシュアは、モーセの後継者としてこの励ましを受け取った時は、老いに差し掛かっていることに注目しましょう。若く、気力十分の時ではありませんでした。モーセも奴隷状態のイスラエルをエジプトから連れ出すために神に呼ばれたのは、80歳の時でした。なぜでしょうか? ヨシュアのこれから長く続く戦いで必要な気力や力は、自分力に頼らない、神からの知恵、奇跡によらなければならなかったからです。人生経験豊かなみなさんも、イエスさまに頼って、顔を上げ、腰をのばし、主の前に立ち知恵と力をいただきましょう。強く、雄々しく、一歩を踏み出しましょう。
                          (銘形:「ヨシュア記」より引用)  

2019年6月23日日曜日

2019年06月23日 第4主日礼拝 王の第二の夢とその解明①

招詞
神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。
             神よ。あなたは、それをさげすまれません。   詩篇51篇17節

聖書箇所
ダニエル書4章1~27節 

説教
王の第二の夢とその解明① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/293 小聖書 

 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
                                   詩篇23篇1・6節

 マルチン・ルターは、30歳の時(1513年)から2年間にわたって、アウグスティヌス修道院の一階広場で、早朝に週二回、詩篇の講義を持っています。ルターの詩篇講義はわずかな人々―修道士や司祭たちーを対象に始まりました。
 ルターが講義の対象として詩篇を選んだ理由は、詩篇が彼の霊的な生活を励まし、慰め、豊かにしたからです。彼は、詩篇の中にキリストの意味が明瞭に語られていることを確信していました。
 「詩篇は小聖書と呼ばれてもよく、この書ではすべてが最も美しく簡潔に述べられており、かりに人が聖書全部を読むことができなくても、この小冊子にすべてが要約されている」とルターは述べています。
 4年後の1517年、宗教改革が始まり個人的にも教会にも嵐の時が続きましたが、ルターは、生涯を通じて詩篇を講解し、沢山の注解を書き続けました。そして、詩篇を愛読し、注解を書く強い動機は、イエスへの愛でした。聖書の中に、あなたの愛読する書はありますか?それは何書ですか?                          (銘形「ルターと詩篇」より引用)

2019年6月16日日曜日

2019年06月16日 第3主日礼拝 たとえそうでなくても

招詞
【主】は、ご自分の民を愛し、貧しい者たちを救いをもって装われる。
                敬虔な者たちは栄光の中で喜び踊れ。 詩篇149篇4~5節


聖書箇所
ダニエル書3章3~30節 

説教
たとえそうでなくても 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/292 いと高き神(エル・エルヨーン) 

 それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」      ダニエル書3章26節

 ネブカデネザルが発した「いと高き神」ということばは聖書で57回使われています。聖書で最初に出て来る箇所は、創世記14:18で、アブラハムを祝福しようとして出て来た王であり祭司の「メルキゼデク」のことばのなかにあります。
 「いと高き神」をヘブル語では「エル・エルヨーン」と言います。7倍熱くした炉から助け出された神を褒めたたえる呼称です。
 「いと高き神」とは、神の絶対的な主権を強調するときの呼び名で、ダニエル書の4章と7章で9回登場します。ダニエルが好んで用いた特愛用語です。ところで、第4の神々のような方とは受肉前の御子イエスであるとの解釈があります。イエスは、いと高き父なる神とともに働かれ、3人の信仰の勇者に寄り添い、命と証を守り栄光を表わされました。私たちの勇気と信仰も、愛する主イエスからのものです。                (銘形「ダニエル書」より一部引用)

2019年6月15日土曜日

2019年06月09日 第2主日礼拝 教会の誕生日

招詞
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。   使徒の働き1章8節

聖書箇所
使徒の働き2章1~21、40~42節

説教
教会の誕生日 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/291 教会の時代とイスラエル

 五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた。         使徒の働き2章1節 

 今日は、イエスさまの復活日から50日目にあたるペンテコステ(五旬節)で、礼拝メッセージは、「教会の誕生日」です。
 この10日くらい前に、昇天なさるイエスが弟子たちに「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4~5)と言われました。弟子たちは心を一つにして、祈りに専念していました。そして、「五旬節の日になって、みなが一つの所に集まっていた」(2:1)ところに、神の大いなる御わざが始まりました。この週、使徒の働き1~2章をじっくり読んでみてください。特に、弟子たちが聖霊に満たされたということがどんなことだったか、イメージしてみましょう。私たち一人ひとりにもこの同じご聖霊が助け手として働いていて下さっているのですから、当時の弟子たちとご聖霊を通してもつながっていますね。

2019年6月2日日曜日

2019年06月02日 第1主日礼拝 王の夢の解明②

招詞
神の御名はとこしえからとこしえまでほむべきかな。知恵と力は神のもの。神は季節と時を変え、王を廃し、王を立て、知者には知恵を、理性のある者には知識を授けらる。
                               ダニエル書2章20~21節

聖書箇所
ダニエル書2章34~35節、44~49節

説教
王の夢の解明② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/290 教会の時代とイスラエル 

 枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなた(異邦人)がその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、あなたはその枝に対して誇ってはいけません。根があなたをささえているのです。      ローマ11章17~18節

 次週6/9は、ペンテコステ(聖霊降臨日)で、3千人が主イエスを信じて洗礼を受けたことで、教会の誕生日とも呼ばれます。そして、この日から教会の時代が現在まで続いています。イエスが再び地上に来られた日に教会の時代は終わります。
 ところで、パウロは、ローマの教会に、選民イスラエルが、教会の「根」であり続けていることをオリーブの木の例えで熱く語りました。実は、今もそうです。アブラハムの祝福は、イスラエルを用いて世界の人々にもたらされ続けるのです。メシアニック・ジューと呼ばれる、イエスを信じるイスラエル人(ユダヤ人)が増え続けて同胞への宣教を始めています。彼らのためにも祈りましょう。                        (銘形「ダニエル書」から一部引用)

2019年5月26日日曜日

2019年05月26日 第4主日礼拝 王の夢の解明①

招詞
私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。                         詩篇139篇14節

聖書箇所
ダニエル書2章24~33節、36~43節

説教
王の夢の解明①  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/289 正夢(ハラム)

 王さま。あなたは(夢で)一つの大きな像をご覧になりました。―― その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。
                               ダニエル書2章31~33節
 
  ダニエルが王のためにした正夢の解明は、まさに預言の言葉でした。それは、現代を生きる私たちクリスチャンにも関わる大事です。
 図を見てください。純金の頭は、バビロン帝国を、銀の胸と両腕は、ペルシャ帝国を、正道の腹と腿はギリシャ(アレクサンダー大王)を、鉄のすねはローマ帝国です。鉄と粘土の混じり合った国々は、ローマ帝国以降、現代までの戦争の多い時代です。そして、34節以降の解明で、終わりの日に続きます。ダニエルが将来を解明してくれたことと、その延長線上でイエスさまが、終わりの日の預言をなさったので、私たちは、終わりの日に備えて生きることができますね。
                             (銘形「ダニエル書」より引用)

2019年5月19日日曜日

2019年05月19日 第3主日礼拝 王の夢と神の啓示

招詞
 【主】よ。私は、国々の民の中にあって、あなたに感謝し、国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。あなたの恵みは大きく、天の上にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。                               詩篇108篇3~4節

聖書箇所
ダニエル書2章1~23節

説教
王の夢と神の啓示 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/288 解きたい(ヤーダ) 

 ネブカデネザルの治世の第二年に、ネブカデネザルは、幾つかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなかった。                           ダニエル書2章1節

 心が騒ぎ眠れないことは誰でも経験することです。時には、どんな意味があるだろうと考えたこともあるでしょう。
 王の心の騒ぎは、自分の見た夢の意味を「解きたい」(ヤーダ)という思いと同義です。「夢」は、古代人にとっては、やがて起こることの前兆と考えられていたようです。
 創世記37章以降にヨセフの生涯がスペースを取って紹介されています。兄たちの嫉妬心がもとでエジプトに売られてしまったヤコブ(イスラエル)の息子の一人であったヨセフがエジプトの王の見た夢を解き明かしたことで、大出世を果たしたように、バビロンへ人質となったダニエルもバビロンの王ネブカデネザルの見た夢を解き明かす存在となり、やはり王によって高い位につけられることになるのですが・・(2章47節)。
 夢でなくても神さまが私たちの心に思いを与え、深く考えさせ祈らせることもあると思います。そんな時は、時を割いて祈りましょう。            (銘形 ダニエル書より引用)

2019年5月12日日曜日

2019年05月12日 第2主日礼拝 ダニエルの決断

招詞
【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。だれが【主】の大能のわざを語り、そのすべての誉れをふれ知らせることができよう。    詩篇106篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章21~24節

説教
ダニエルの決断  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/287 3つの聖書言語 

 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。    イザヤ書40章8節

 旧約聖書の大部分は、ヘブライ語で記されていますが、ごくわずかの部分はアラム語で書かれました。エズラ記4:8~6:18、7:12~26、そして学び始めたダニエル書2:4~7:28などです。イスラエル民族はカナンの地(パレスチナ)に定着してからヘブライ語を使用しましたが、後にアラム語も使われるようになりました。このアラム語はアッシリア、ダニエルとエズラの活躍したバビロニア、ペルシアで用いられていましたから。
 紀元前7~6世紀、バビロン捕囚によりアラム語はユダヤ人の間に急速に浸透していきました。更に、紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王がペルシャを破り、ギリシャ語が加わり、やがて、ギリシャ語は、当時の世界言語になりました。
 新約聖書がギリシャ語で書かれた理由は何でしょうか? ご聖霊は、イエスの弟子たちを感化し、聖書の教えがひとりユダヤ世界だけに閉じ込められることなく、当時の全世界で読まれ、確かに後世に伝えられるためにギリシャ語を選ばせたのです。  (西神戸教会ブログより一部引用)

2019年05月05日 第1主日礼拝 パウロの祝祷

招詞
【主】に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。
                  主に歌え。主にほめ歌を歌え。  詩篇105篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章21~24節

説教
パウロの祝祷 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/286 ダニエル(神は私のさばき主) 

 その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。                         ダニエル書1章4節

 次週の礼拝から、旧約聖書の預言書の一つ、ダニエル書の講解メッセージを始めます。ユダの王族出身であるのに他の3人の友とバビロン捕囚の時にバビロンに連行され、ダニエルは、その後75歳までの大変な人生を歩きます。ダニエル書の主題は、「神の統治」です。
  彼らの名前は、主がどのような方であるかが分かる名前でした。
ダニエル ・・・神は私のさばき主
ハナヌヤ ・・・主はあわれみ深い
ミシャエル・・・神のような方が他にいるだろうか
アザルヤ ・・・主は助けてくださる
 このような名前がつけられるたことは、彼らが神に愛されているという預言的なしるしだったと言えます。ただし、4人は、それぞれベルテシャツァル、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴとバビロン(異教の国)の言葉で呼ばれました。
 さて、捕虜でありながら王の宮廷に仕える再教育が始まった時、4人のヘブル名にふさわしい信仰者への挑戦は、なんと毎日の食事から始まりました。
                        (銘形「ダニエル書の瞑想」より一部引用)

2019年4月28日日曜日

2019年04月28日 第4主日礼拝 理解の型紙

招詞
私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。私の心の思いが神のみこころにかないますように。             詩篇104篇33~34節

聖書箇所
ルカの福音書24章13~35章


説教
理解の型紙 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/285 (目が)さえぎられて(クラテオー) 

 「彼らの目がさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」
                                ルカの福音書24章16節

 エマオ途上の二人の弟子たちのエピソードです。古くからの疑問は、この2人の弟子たちは、なぜ見慣れていたはずのイエスさまを見分けれなかったか、ということです。西に向かって歩いていたので、西日がまぶしかったから、という意見があります。でも、そうでしょうか?
 ルカはここで明らかに、風貌の面だけではなく、より深い次元で語っているように思えます。「(目が)さえぎられて」と訳されているギリシャ語は「クラテオー」で「ある力によつて支配され」、その状態がずっと継続していることを意味する動詞の「未完了形」が用いられています。つまり、神の敵であるサタンの霊的な力によって支配されている状態(保持)を意味します。それゆえ、二人の弟子は「イエスだと分からなかった」とルカは解釈しています。
 そのことを、使徒パウロは、「この世の(偶像)神が不信者の思いをくらませる覆いをかけて、福音の光を輝かせないようにしている状態」と言いました。(コリント第二4:3~4)。私たちはイエスさまに目を向ける時にだけ、サタンの惑わしに勝つことができます。イエスさまに目を向けて歩みましょ                     (銘形「ルカの福音書解説」より)

2019年04月21日 イースター・召天者記念礼拝 天国の希望

招詞
あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。
               あの方はよみがえられました。   マルコの福音書16章6節

聖書箇所
コリント人への手紙第一15章42~58節

説教
天国の希望 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/284 つまずきの石

 週の初めの日の明け方、マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。                        マタイの福音書28章1~2節  
 
 イエスが岩穴の墓から復活する出来事は、4つの福音書全部に記されていますが、地震が入り口の大岩を転がしたという記事は、マタイの福音書だけです。 それは、週のはじめにイエスに香料を塗るためにやって来た女性たちに墓が空であることを知らせるためでした。しかし、この「イエス復活の良い知らせ」を弟子たちは信じませんでした。
 イエスの生涯における処女降誕、そして復活の事実は私たちの理性には「つまずきの石」です。これは神が置かれた「つまずきの石」です。この「つまずきの石」につまずかない者は幸いです。神のいのちの世界はこのつまずきの向こう側にあるからです。
 救いわれる前に、私たちが持ってしまった「つまずきの石」は神によって与えられた信仰によってのみ転がされました。感謝しましょう。理性や理不尽な経験でイエスに来られないでいる家族や友人たちから石が除かれるように祈りましょう。(銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)   

2019年4月14日日曜日

2019年04月14日 第2主日礼拝 信じた男

招詞
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行っ た。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼(キリスト)に負わせた。           イザヤ 書53章6節

聖書箇所
ルカの福音書23章32~43節

説教
信じた男 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/283 わたしは渇く(ディプソー)

 「イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が
     成就するために、『わたしは渇く。』」と言われた。 ヨハネの福音書19章28節 
 
 「渇き(ディプソー)」は、私たちが生きていくために必要ものが欠乏するときに感じるものです。お腹がすくことも、なにか欲しいものがあることも、人との触 れ合いがほしいことも、対話者がほしいと思うときも、だれかにほめてもらいた いときにも、その背景には満たされていない「渇き」があります。
 イエスの場合、「食物」とは、「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げること」でした(ヨハネ4:34)。そして、もう間もなく御父のみこころを、自らの死を通して完了するのを目前にしながら言ったことばが、「わたしは渇く」だったのです。つまり、イエスの強烈な渇きは「御父のみこころを完全になし遂げたい」という使命遂行の決意のことばなのです。
 受難週にイエスが私の罪のためになさった愛の御業を思い、感謝しましょう。
                           (銘形「十字架のイエス」より引用)  

2019年4月7日日曜日

2019年04月07日 第1主日礼拝 洗足

招詞
わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。わが神、【主】よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。                詩篇104篇1節


聖書箇所
ヨハネの福音書13章1~17節

説教
洗足 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/282 過越の食事

 さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。      ルカの福音書22章7節

「最後の晩餐」の始まりのことばです。「最後の晩餐」ということばは聖書にはありません。正確な言い方は「最後の過越の食事」で、ユダヤの暦では、今年は4/18(木)です。「最後」というのは、これまで長い間、イスラエルの歴史においてなされてきた「過越祭」には、いけにえとしての羊が多くほふられ、食事は種なしのパンとぶどう酒を中心とする簡素なものでした。そうした伝統的な過越の食事が最後になるという意味です。
 イエスはご自身の肉体を表わす「種なしのパン」を裂いて弟子たちに分け与え、また多くの人のために十字架上で流される血を表わす「ぶどうの実で作った杯」により「聖餐式」を制定されました。私たちクリスチャンは、2000年後の今も、主が再臨なさるまで、この新しい約束の中に生きています。                  (銘形「イエスの最後の一週間」より引用)

2019年3月31日日曜日

2019年03月31日 第5主日礼拝 凡人イサク

招詞
主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。                         詩篇103篇22節

聖書箇所
ヘブル人への手紙11章20節

説教
凡人イサク 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/281 受難節と受難週

 教会暦によれば、受難節(レント)は四旬節ともいわれ、今年は、3/6(水)に始まりましたが、イースター(4/21)前の6回の日曜日(主日)を除いた40日間をいいます。40日間の設定は、イエス・キリストが体験された荒野の試練の40日間の断食に由来しています。
 イースター前の直前の週を受難週と呼び、その週の金曜日4/19は十字架の金曜日です。欧米の教会では、この日をグッド・フライデー(良い金曜日)と呼びますが、罪からの救いの日だからです。4/21のイースター(復活祭)は喜びと賛美に満ちた教会のもっとも大切な祭日です。

 レントの期間は、イエス・キリストが私たちの罪のために身代わりとして、十字架にかかられたご受難を覚え、祈りつつ生活を送りましょう。

2019年3月24日日曜日

2019年03月24日 第4主日礼拝 パウロの願い

招詞
人の日は、草のよう。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。しかし、【主】の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。                詩篇103篇15~17節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章19~20節

説教
パウロの願い 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/280 感謝する (ホドゥー) 

  主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。            詩篇 107篇1節 

 「主に感謝せよ」という命令の根拠は二つあります。一つは、主が良い方(トーヴ)だから、二つめは、主の恵み(ヘセド)は永遠だからということです。 
 三浦綾子さんは、生前「私には死ぬという仕事がある」と言いました。その仕事のなかに「心を尽くしてすべてのことを感謝する(ホドゥー)」という大仕事があったのです。自分にかかわるすべてのことについて感謝して天国に旅立ちましょう、と綾子さん。「自分に死んでいる」しるしは、すべてを感謝することができる事だ、と言うのです。
                     (銘形「ヘブル語のディリーブレッド」より引用) 

2019年3月17日日曜日

2019年03月17日 第3主日礼拝 祈りのちから②

招詞
主よ。私の祈りを聞いてください。私の叫びが、あなたに届きますように。私に耳を傾けてください。                                詩篇102篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章10~16節

説教
祈りのちから② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/279 あなたの名を呼んだ

 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。
 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。・・」
                                 イザヤ書43章1~2節

 このイザヤの預言は、700年後、イエスの十字架の御業で「あなた」のために成就しました。
 イエス・キリストは言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45) イエス・キリストという方以外に、私たちが贖われる(救われる)べき道はありません。名指しで救ってくださった方に感謝して今週も進ませていただきましょう。
                      (銘形「ヘブル語ディリーブレッド」より引用)

2019年03月10日 第2主日礼拝 祈りのちから

招詞
神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。                   コロサイ人への手紙3章12節


聖書箇所
エペソ人への手紙6章10~18節

説教
祈りのちから 田口勇新牧師

言(こと)ローグ/278 同情(スプランクニゼスサイ)

 ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は弟息子を見つけ、「かわいそうに思い」、走り寄って彼を抱き、口づけした。                   ルカの福音書15章20節

 語根のスプランクナは、心臓、肺臓、肝臓、腸のような重要な内臓の意味です。ギリシャ人は、この部分に感情、とくに怒り、不安、恐怖、そして愛情の座があると考えました。
 スプランクニゼスサイ(同情)は、マタイ、マルコ、ルカの福音書だけに使われ、上記、放蕩息子の帰還への父(神のたとえです)は、イエスが、思いやりあふれる同情主の意味で多く用いておられます。
 イエスは、霊的に飢え乾いてみもとにやってきた群衆を見て、深く憐み(マタイ9:36、マルコ6:34)ました。ツアラートに罹り社会から締め出された人々を深く憐み、2人の盲人に対する憐み(マタイ2:34)などなど、スプランクニゼスサイであふれています。イエスがこの人たちの悲しい状態に心動かされ、行動を起こされ、霊的乾きを癒し、病気を癒されました。それはイエスの心が彼らとともにあったということでしょう。この侵され、他に、例で多用されています。
 私たちも同情することは沢山ありますが、その時、ただの傍観者であってはならいないということですね。イエスの「こころ」を深読みしていきましょう。
                                                               (バークレー「新約聖書ギリシャ語精解」より引用)

2019年3月3日日曜日

2019年03月03日 第1主日礼拝 祈りという武具①

招詞
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。               詩篇65篇2~4節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章10~18節

説教
祈りという武具①  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/276  祈る(パーラル)①

      それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。      詩篇42篇6節

  「祈ります」と訳されたパーラルは、想像に反してその使用数は決して多くはありませんが、アブラハム、モーセ、アロン、ハンナ、サムエル、エズラたちが主に祈った祈りがパーラルでした。
 
 パーラルの3つの用例を見ましょう。
(1)主の名を「呼ぶ、尋ね求める、叫ぶ、申し上げる、心を注ぎだす」。
   旧約の祈りの巨人たちも、祈りは、まず主の名を呼ぶことからでした。時に
   は泣いてすがりました。
(2)「とりなしをする」と言う意味もあります。
   創世記20章ではアブラハムがアビメレクのためにとりなして祈っているとこ
   ろにこの動詞が使われています。
(3)追い込まれた祈り
   聖書には歴史を動かした多くのすばらしい祈りがありますが、その中でも、
   「ハンナの祈り」は歴史を変えた祈りのひとつです。その祈りは、夫エルカ
   ナとの家庭内で起こった一つのトラブルがもたらした、いわば、「追い込ま
   れた祈り」でした。次回、詳しくとりあげます。

 祈りに決まった型はありません。しかし、イエスさまは、「イエスさま」と呼ぶ声を待っておられます。また、心を注ぎ出して祈る祈りの声を注意深くお聞きになるでしょう。今週から受難節に入りますが、この2週間、心を静めて祈りについて瞑想してみたらいかがでしょうか?
                        (銘形「原語で味わう詩篇」より一部引用)

2019年2月24日日曜日

2019年02月24日 第4主日礼拝 知恵ある生き方

招詞
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義ときよめと、贖いとになられました。
                           コリント人への手紙第一 1章30節

聖書箇所
第一列王記3章1~15節

説教
知恵ある生き方 菅孝雄兄

言(こと)ローグ/275 安息日(シャバーット) 

 主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。         レビ記23章1~3節

 安息日(シャバーット)は、モーセの十戒の一つで冷たい規則のように考えている人がおられるとすればそれは間違いです。シャバーットは、天地創造の神さまに感謝する日、体と心を休めて家族で過ごす日、そして何よりも楽しいお祭りでした。他に、春に4つ、秋に3つ、計7つの祭りがありますが、どれも年に一度なのに対して、シャバーットは、毎週、年52回のお祭りです。この日は家族でトーラー(モーセ五書)を読み、豪華でなくても奥さんが工夫したごちそうを食べました。
 「イスラエルが安息日を守ったのではなく、安息日がイスラエルを守ったのだ」というユダヤの格言があります。ペンテコステで教会が誕生した時、クリスチャンたちは、当たり前のように土曜日ではなく、イエスさまの復活日を祝う日がシャバーットになりました。イエス様ご自身が「私がシャバーットの主です」と宣言されたからです。イエス様を信じ従う者は皆、シャバーットの祭りに集まり、聖書を読み・聴き、そして食べて祝います。主の日(シャバーット)がクリスチャンを守るのはないでしょうか。
                        (銘形「イスラエルの大祭」より一部引用)

2019年2月17日日曜日

2019年02月17日 第3主日礼拝 主のもとに来なさい / ヨブ記に学ぶ試練の目的 ―律法の人から福音の人へ―

招詞
 それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石(かなめいし)。これに信頼するものは慌てふためくことがない。                        イザヤ書28篇16節

聖書箇所
第1ペテロ2章4節

説教
主のもとに来なさい 銭谷幸器牧師
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ヨブ記に学ぶ試練の目的 ―律法の人から福音の人へ― 銭谷幸器牧師
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言(こと)ローグ/274 ゼルバべル(バビロンの種)

 こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな、【主】を賛美して大声で喜び叫んだ。 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。 エズラ記3章11~12節
 
 ゼルバベルの幼少から青年期の名前はシェシェバツァルです。ゼデキア王の反逆がエルサレムの陥落とバビロン捕囚の直接の原因になり王家が途絶えます。しかし70年後、ペルシャの王クロスは、捕囚民の解放とエルサレム神殿の再建を援助することを宣言するのです。そして、シェシェバツァルがユダの君主としてクロス王の信任を受けるというどんでん返しが始まります(エズラ1:8)。
 青年シェシェバツァルは、第一回のエルサレム帰還のリーダーになり、敵に囲まれる中で、神殿の基礎を完成させました。完成の時、彼と若い人々は大声で賛美しました。しかし、彼は、破壊前の宮(ソロモンの神殿)を見たことのある老人たちが、反対に大声で泣いたのを忘れません。
 20年後、ゼルバベルと改名して、再度、エルサレムを訪れ、ついに神殿と城壁を完成させます。バビロンの種は、成長し、エルサレムで大きな実を結びました。困難と逆境の中で生涯主を愛し、主のために働くという美しい信仰の物語ですね。  (銘形「エズラ記の瞑想」を一部引用)

2019年2月10日日曜日

2019年02月10日 第2主日礼拝 キリストの福音を携えて

招詞
 神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。                      コリント人への手紙第二5章18節

聖書箇所
コリント人への手紙第二 2章14~17節

説教
キリストの福音を携えて 田口孝子師
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言(こと)ローグ/273 アシュレー(幸いなことよ) 

 幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。              詩篇2篇12節
 
 新改訳では、「すべての事々に」と事象にかかっています。新共同訳は、「すべて」が、人にかかっています。どちらも可能な訳です。
 詩篇の第1篇と第2篇に共通するのは、アシュレー(幸いなことよ)です。アシュレーとは、「ああ、なんと幸いなことだろう。」「なんともうらやましい限りだ」といった感嘆を表わすことばです。第1篇の「幸いな人」とは、積極的な意味で「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ことで、やがては何をしても栄える人のことですが、第2篇での「幸いな人」(12節)とは、「主に身を避ける人」のことを語っています。私たちは礼拝のときに、神が主であることを喜んで「心から」認めたとしても、実際の生活での経済面や守りの面という点になると、自分の心のおもむくままに決めてしまうことが多いのではないかと思います。そして神ならぬものに頼ろうとしてしまうのです。これも偶像崇拝の一つです。
 神の子どもとされた私たちのこの世での務めは、何よりも主を信頼することです。イエスが「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15章5節)と言われたように、「主に身を避ける」ことを学ぶことなしに、私たちがなし得るものは何一つないことを深く心に刻みつけたいと思います。実生活の中でもアシュレーと主に告白する毎日でありたいと願います。                    (銘形「ヘブル語ディリーブレッド」から引用)


 

2019年2月3日日曜日

2019年02月03日 第1主日礼拝 安全につながる喜び

招詞
ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。                            ピリピ人への手紙4章1節

聖書箇所
ピリピ人への手紙3章1〜11節

説教
安全につながる喜び  高橋和義牧師
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言(こと)ローグ/272 ホーメル

 見よ。粘土が陶器師(新共同訳:陶工)の手の中にあるように、・・・・
 あなたがたも、わたしの手の中にある。               エレミヤ書18章6節

 神はご自身の民を、陶工の手の中にある粘土のように自由に取り扱います。陶工は粘土を注意深く選び、粘土から小さなゴミや石ころを取り除き、柔らかくなるまでよく練ります。そしてろくろに乗せて思いのままの形に仕上げます。「ろくろ」を使うことによって、より丁寧に、よりバランスのとれた形に仕上がっていきます。「ろくろ」の原理は回転の繰り返しですが、これは私たちの日々の生活の日課にたとえることができます。「ろくろ」に置かれる粘土のように、私たちも毎日の生活の中で、神の御手によって神のみこころにあったものとして形造られていくのです。
 細心の注意を払い、巧みに形造られたそれぞれの器は、最後の仕上げとして、つまり円熟(完成)させられるための最終テストに入ります。それは窯(かま)に入れて焼かれることです。火は粘土を陶器に変えます。この場合「火」は、神の前に立つという意味ですが、罰の意味ではありません。完成への道のりで試練や越えなければならないチャレンジも多いですね。イエスさまが共におられることで試練を乗り越えることができ、また「火」も恐れることはありません。「見よ(よく聞きなさい)。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」   マタイ28:20
                      銘形「ヘブル語のディリーブレッド」から引用)

2019年1月27日日曜日

2019年01月27日 第4主日礼拝 救いのかぶとをつけ

招詞
あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。             ローマ人への手紙12章1b節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章10~18節

説教
救いのかぶとをつけ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/271  静かにすれば  (ヴェヴィテハー)

  神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」  イザヤ書30章15a節 

 神さまにではなく、南の強国エジプトに頼ろうとする王と側近の者たちに対する「イスラエルの聖なる方」の呼びかけです。 
 私たちの多くは、神の呼びかけに対して、イザヤの時代の多くの人々が「それを望まなかった(30:15b)」とあるように、喜んで受け入れることができないものです。なぜなら、それは目に見えない保障であり、目に見える助けの方が安全だと思うからです。それは私たち人間の深層にある「恐れ」のゆえです。しかもその「恐れ」は神のことばを完全にふさいでしまう闇の力であり、神の光なしには決して打ち勝つことのできない力です。 

 幸いなことに、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)とあります。神の光(エペソ5:8)をいただいた私たちです。今、静かにする(ヴェヴィテハー)ことは、神を信頼することです。神への愛にとどまり、恐れを締め出しましょう。
                        (銘形「ヘブル語ディリーブレッド」より) 

2019年1月20日日曜日

2019年01月20日 第3主日礼拝 信仰の大盾で

招詞
わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
                                   詩篇103篇12節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章10~16節

説教
信仰の大盾で  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/270  主は言われた(レフ・レハー・アドナイ) 
  
 主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」                        創世記12章1節

 レフ・レハー・アドナイ(主は言われた)の真意は、アブラム(アブラハム)がこれまでの自分自身に対して訣別することを意味しているのではないかと思います。神の救いのご計画を実現するために選ばれたアブラムが、自分の国や生まれ故郷、そして自分の父の家から出るだけでなく、これまでの古い自分の殻からも出て、旅立つことを主はアブラムに促したことばが「レフ・レハー」ではないかと思います。それはアブラムの人生にとって、良い意味での「自分のため」となるのです。
 私たちクリスチャンにも主は、レフ・レハーと語ってくださる時があります。この言葉に従うことに期待を込めて語られると思います。
 ただ、「神さまこのタイミングでですか?」と主に問いたくなるケースもあるかも知れません。私たちには、従いながらもなお時が必要のようです。故郷を出て何年か経った時、主はなおも彼の背中を押しました。アブラムたちを更に自発的に、自覚的にスタートさせようとして、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」(17:1)と言われた時に、「アブラム」を「アブラハム(国々の父)」に改名することを命じて祝福しています。
                    (銘形「ヘブル語ディリーブレッド」より一部引用)

2019年1月13日日曜日

2019年01月13日 第2主日礼拝 平和の福音の備えを

招詞
 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。【主】にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。       詩篇97篇11~12節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章11~15節

説教
平和の福音の備えを  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/269 ラーアー(羊飼い)②

 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。                    ペテロ第一2章25節
 
 前回は、ダビデが歌った詩篇23篇1節の「主は私の羊飼い」という信仰告白をみました。主は、困難や危険な場でも、良い羊飼いのように親身になって私をケアしてくれるのです。
 さて、上記、ペテロ第一2章25節を見ると、イエス様の弟子ペテロは、イエスは、私たち一人ひとりのたましいの牧者であり監督者であると言っています。同時に人間は、迷っていた羊だと告白しています。
 羊は、神に背き異教の教えに迷っていった人間そのものの特性をもつ家畜として聖書にしばしば登場します。そんな呆れるほど迷いやすい私たちでも「主は私の羊飼い」という告白により、主が自分の魂の牧者で、私がその世話を受ける羊だと告白していることになります。
 紀元前8世紀、イスラエル(ユダ王国)で王たちに仕えながら、王を恐れることもなく神のメッセージを「直球」で語った預言者イザヤは、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべのて咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53章6節)と語り、700年後のメシア、イエス・キリストの来臨をも預言しました。ここでも人間は羊のように頑固でやっかいな存在である、という主の「ため息」が聞こえます。しかし、ダビデが敵に追われ、恥ずかしい思いをした経験の中でも、次の告白があるのは、驚くべきことです。
 「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」                                   詩篇34篇9~10節
 
 2019年を歩み始めた私たちはどうでしょうか?この詩篇の作者の上を向いて、真摯(しんし)に「主を尋ね求める者は、良いもので満たされる」という信仰告白は、イエスを通して天地創造の神である主(ヤーヴェ)を知りえたクリスチャンたちの勝利の歌となるのではないでしょうか。                    (銘形「ヘブル語デシリーブレッド」から引用)

2019年1月6日日曜日

2019年01月06日 第1主日礼拝 家族礼拝で

招詞
まことに主は大いなる方、大いに賛美されるべき方。すべての神々にまさって恐れられる方だ。まことに、国々の民の神々はみな、むなしい。しかし主は天をお造りになった。
                                   詩篇96篇4~5節

聖書箇所
ルカの福音書2章21~40節

説教
家族礼拝で  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/268 ラーアー(羊飼い) 

 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。             詩篇23篇1篇

  詩篇23篇は、ダビデの作です。珠玉(しゅぎょく)の詩篇といわれるほど、多くの人々が励まされ、いやされ、力づけられてきた歌です。
 「ラーアー」は、「牧する人」で、羊を飼う人、羊の世話をする人といった意味になります。羊の習性を調べてみると、第一に、羊は臆病で脆弱(ぜいじゃく)です。群れをはぐれてしまった羊を捕まえようとすると、不安と恐怖心で逃げてばかりで捕まらないそうです。第二に、迷いやすい。目が悪いということもありますが、実際、羊は羊飼いに連れられて毎日行き来している道を自分では行きも帰りもできず、すぐ迷ってしまうそうです。こんな方向感覚の悪い動物は他にいません。そして第三は、とても頑固です。羊は従順な反面、頑固で、羊飼いに逆らって自分勝手に進んで行き、群れから離れて危険なところに行って自滅するという習性をもっています。ですから羊飼いが必要なのです。ダビデは少年時代羊飼いでしたから、羊の習性を熟知していました。そして、自分を含め、人間とは、羊飼いのような愛情深く、忍耐強い神さまの守りの中で成長していくしかないと歌います。
 社会では肩書きや経験がものをいいますが、強そうに見える人も中身の霊的な事実を見ると、まさに羊の弱点を持っている者です。臆病で脆弱なくせに、はぐれて人の助けを拒むところがあります。迷いやすい者です。人生の方向感覚などというものは、手引書もなくかじ取りは実際難しいことです。私たちは良いこと、正しいことの方角から外れてしまい頑固になりやすい性質をみな持っています。謙遜な心で「主は、私の羊飼いのように人生を導く方だ」と告白できることは素敵で安心、安全なことですね。今年も、主(アドナイ)は、私の羊飼い(ラーイー)と告白していきましょう。                 (銘形「ヘブル語ディリーブレッド」から一部引用)


2019年1月1日火曜日

2019年01月01日 元旦礼拝 信仰・希望・愛

招詞
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。            コリント人への手紙第二 5章17節

聖書箇所
コリント人への手紙 第一 13章10~13節

説教
信仰・希望・愛  田口勇新牧師
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