2015年9月27日日曜日

2015年9月27日 第4主日礼拝 もし、そのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば…

招詞
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。                      ヨハネの手紙 第一 4章10節

聖書箇所
レビ記 1章3節~9節

説教
もし、そのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば・・・  老松望KGK主事

言(こと)ローグ26/羊 Sheep
詩篇23篇でダビデは、「主は私の羊飼い」、と歌いました。彼は、羊飼いから王になった人で、羊(ローイー)のことを良く知っていました。「羊の習性」を調べてみると、第一に、羊は臆病で脆弱です。群れをはぐれてしまった羊を捕まえようとすると,不安と恐怖心で逃げてばかりで捕まら ないそうです。第二に、迷いやすい。目が悪いということもありますが、実際,羊は羊飼いに連れられて毎日行き来している道を自分では行きも帰りもできず,すぐ迷ってしまうそうです。こんな方向感覚の悪い動物は他にいません。そして第三は、とても頑固です。羊は従順な反面、頑固で,羊飼いに逆らって自分勝手に進んで行き,群から離れて危険なところに行って自滅するという習性をもっています。ですから羊飼いが必要なのです。まさに人の性質と習性にそっくりで す。しかし、主が「私の羊飼い」でおられる限り安全に生きることができます。
                                                                   (銘形: 詩篇23篇の瞑想より引用)

2015年9月20日日曜日

2015年9月20日 第3主日礼拝 賢い娘と愚かな娘

招詞
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、
すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えず
ささげようではありませんか。  ヘブル人への手紙13章15節

聖書箇所
マタイ25章1-13節

説教
賢い娘と愚かな娘  菅孝雄兄




2015年9月13日日曜日

2015年9月13日 第2主日礼拝 多くの罪が赦された人

招詞
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙第一 1章9節


聖書箇所
ルカの福音書 7章36-50節

説教
多くの罪が赦された人 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ25/「赦されたことが先」
「赦されたこと」は、先か結果か、 ルカの福音書7:47の口語訳は、「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。」で、彼女のイエスへの献身的な奉仕が、罪の赦しの原因のように訳されています。後続の新共同訳は、大きく変わり、「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」と、 イエスに罪を赦された結果、彼女の自発的な行為がある、と180度も異なる訳です。新改訳は、「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。」とやはり、 口語訳に近いでしょう。この箇所に限って、どちらが原文の意図をより汲んでいるかは、「赦されています」というギリシャ語の時制を調べると明らかです。ここでの「赦されています」は、現在完了形受動態です。ギリシャ語の時制はきわめて厳格な意味で使われていますから、彼女は、まず赦されていた、そしてこの場面でも赦しが確かな事実であった、と解釈されます。従って、 新共同訳の方がより良い訳になっていると思います。彼女は、罪深い女というレッテルを貼られていて、この食事の席に入ってくることは不可能だったはずです。罪を赦されている者、それを確信している者としての大胆な行動だったのです。
   (銘形: 「主への愛の行為は、赦されていることの証拠です」から一部引用)

2015年9月6日日曜日

2015年9月6日 第1主日礼拝 イエスは救い主

招詞
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
マタイの福音書 16章15~16節

聖書箇所
ルカの福音書7章18-35節

説教
イエスは救い主 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ24/つまずく
ルカの福音書7:18~35は大きく二つに分かれます。ひとつはヨハネの二人の弟子たちに語られたこと、もうひとつは群衆に語られたことです。しかしその中で扱われているテーマは同じです。そのテーマとは「つまずき」です。

「つまずき」という名詞はギリシャ語では「スカンダリオン」ですが、この箇所では名詞は使われず、動詞の「スカンダリゾー」が23節の「わたしにつまずかない者は幸いです。」というイエスのことばの中で使われています。

 「オヤ」と思われた方、その通り、スカンダリオンは、英語のスキャンダルの語源です。英語の意味は、醜聞(しゅうぶん)ですが、もともとの意味は、「罠の餌づけ棒」でした。動物が、安心して食べると罠にはまってしまう仕掛けです。スキャンダルは、何気なく人のうわさを流しているように思っていると、相手と周りを傷つけ、やがて本人にも付けが回ってきて、人間関係を壊す、恐ろしい罠です。  

話を戻します。イエスの言動から、神の子メシアであることは明らかなはずでしたが、純粋なヨハネの弟子たちには、もっと早くメシアの国を立ち上げて欲しいと誤解したのでしょうか、「イエスは本当にメシアなのか?」という疑いを抱かせました。パリサイ派と他の宗教指導者たちは、言い伝えやしきたりよりも聖書に帰れ、と正論を突きつけられ、数知れない奇跡の御業で民衆の支持を奪われたと錯覚して、妬みからイエスを排斥する、ついには殺意をもたせるほど「つまずかせられ」ました。

私たちが初めて教会の門をたたいた時、初めて福音書を読んだ時、イエスは救い主メシアであるということばに「つまづかなかった」でしょうか?「つまづき」は、信仰の世界においては、イエスとかかわる者たちが、「イエスとはいったいだれであるか」を問われる試金石そのものなのです。

(銘形:「わたしにつまずかない者は幸いです」から引用)