2015年12月27日日曜日

2015年12月27日 第4主日礼拝 ガリラヤの光

招詞
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。 光の子どもらしく歩みなさい。 光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。              エペソ人への手紙5章8~9節

聖書箇所
マタイ4章12~17節

説教
ガリラヤの光  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ39/いのちと光
この方にいのちがあった。このいのちは人の 光であった。               ヨハネ1:4

 ヨハネの福音書のキーワードは、「光」で しょう。イエスは、人の光です。バプテスマ のヨハネの役割は、キリストの中にあるこの 光へと人々の注意を 向けることでした。イ エスは、2度、ご自身を光と呼ばれました。 この光は、人の中に「在る」ことができます (同11:10)。だから人々は、光の 子 となれるのです(12:36)。イエスは、「わた しは光としてこの世に来た」と言われました (同12:46)。イエスの光は、①混沌を打ち負か す光でした。➁隠れたものを明らかにする光 でした・③人を救いへと導く光でした。この 光を受け入れ、それを信じる時にもはや暗や みを歩くことはあ りません(同12:46)。イ エス無しでは、暗がりを手探りで歩く人生に なります。イエスとともにいてこそ、道は明 るいのです。        (バークレイ  「ヨハネ上」 より一部引用)

2015年12月20日日曜日

2015年12月20日 クリスマス礼拝 ベツレヘムとキリスト

招詞
「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)           マタイの福音書  1章 23節


聖書箇所
ミカ書 5章2節4節
ルカの福音書 2章 8~16節

説教
ベツレヘムとキリスト  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ38/ベツレヘムは『パンの家』
「神の御子は今宵しも ベツレヘムに生まれたもう」(讃美歌111)、「ああ、ベツレヘムよ などかひとり」(同115)、「いざ歌え友よベツレヘムの」(同120)などをはじめとするクリスマス・キャロルの中には、「ベツレヘム」という固有名詞が多く見られます。「ベツレヘム」はヘブル 語で「ベート・レヘム」で、『パンの家』という意味です。そこが昔から、パンの原料となる小麦や大麦などの穀物の産地だったからですが、この町にはそれ以上の歴史的な秘密があります。
  旧約聖書のルツ記の舞台は、ベツレヘムで、ルツさんとボアズさんの美しい恋が実る場でもありました。でも、 神さまはただの恋物語ではなく、この2人の子孫からやがてあのダビデが生まれるように計画しておられました。
  ルカ2章11節で、「きょうダビデの町で。。。」と天使が告げられたダビデの町は、ベツレヘムの通称でした。このことは、イエスさまが来られる700年以上も前に、ミカによって預言されていました。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。」 あの東方の博士たちは、メシア(キリスト)がベツレヘムに現れるというこの預言のことばを読んで、ベツレヘムに向かうことができました。
  このように、「ベツレヘム」は、神の救いのドラマにおいて多くのできごとと希望が隠されていた町なのです。クリスマスの賛美歌を歌いながら、2000年前のベツレヘムの町に思いを寄せてみましょう。
                                        (銘形 アドベントの瞑想より一部引用)  

2015年12月13日日曜日

2015年12月13日 第2主日礼拝 ヤコブから一つの星が

招詞
私は生きているかぎり、主に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。 私の心の思いが神のみこころにかない ますように。                              詩篇 104篇 33~34節

聖書箇所
マタイの福音書 2章1節~11節

説教
ヤコブから一つの星が  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ37/星とメシア
東方の博士たちは、はるばるパレスチナにやって来ましたが、星が彼らを導きました。キリスト誕生のおよそ1200~300年ほど前に、異邦人で ある預言者が語ったメシアの預言について、なんらかの形でそのことを聞いて知っていました。それは、バラムの預言でした(民数記24:17)。「ヤコブから出る一つの星」、それはメシアの星でした。そのメシアの星を、ヨハネの黙示録 22:16では「明けの明星」と表現しています。「明けの明星」とは、夜明け前に東の空に美しく輝いて見える金星のことを指します。ヨハネは、晩年、キリスト者であるという理由でパトモス島に幽閉されている間に黙示録を記していますが、いつものように夜明け前に起きて神に祈っている時は、いつも金星を東の空に見ていたのかもしれません。金星がヨハネの顔を照らし、 朝の冷気で元気づく時に、まるでイエスが「元気を出しなさい、私はあなたとともにいる」と言われているような気がしたかもしれません。星とメシア、そしてメシアを信じ救われた使徒ヨハネも、メシアであられるイエスを輝く明けの明星と語り継ぎ、「この星を見るたびにイエスを思いおこし。困難の中でも勇気を出しなさい」と励ますメッセージを私たちに送っています。                    (銘形 アドベントの瞑想を一部引用)

2015年12月6日日曜日

2015年12月06日 第1主日礼拝 夢と予言

招詞
私は心を尽くして【主】に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。 私 は、あなたを喜び、誇ります。いと高き方よ。あなたの御名をほめ歌います。                        詩篇9篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書 1章18節~25節

説教
夢と予言  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ36/「しるし」と「象徴」2
前回は、「しるし」が神さまからのサインであるということを知りました。一方「象徴」は、「しるし」とは異なり、具体的な物事からある深い隠された真理を伝えるために用いられるものです。例えば、聖霊なる神は、「鳩」、「風」、「息」、「雨」、「露」、「酒」、「油」、「火」などで表わされます。朝や夜を象徴として用いることもあります。
 使徒パウロの生涯には、「ある夜」という三つの夜があったことをルカは「使徒の働き」に記してています。これらは、「ある夜」と表現される目に見えない特別な「夜」を意味します。いわばパウロの人生の節目 となるような特別な「夜」であり、象徴的な意味を持った夜なのです。具体的には、彼にとって行き詰まりの状態を指し示す「夜」、迫害者の手中に落ちて恐れと不安の中にある「夜」、将来のヴィジョンと励ましを与えられた「夜」などに、パウロは主の幻や語りかけを経験したのです。
 今年の待降節で取り上げる象徴は、特に、マタイの福音書のイエスの誕生にまつわる箇所に登場する「14」という数字、「夢」、「星」、「光」と続きます。これらの象徴的表現を通してヨセフとマリヤは何を見たのでしょうか?このエピソードを読む私たちに何が見えてくるでしょうか? これらの象徴の一つ一つに思いを置き、私たちが神の救いのご計画の中に入れていただけたすばらしさを再発見することができるでしょうか? 
                                           (銘形「アドベントの瞑想」より引用)

2015年11月29日日曜日

2015年11月29日 第5主日礼拝 回復の希望イエス・キリスト

招詞
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。                                         マタイの福音書 1章21節

聖書箇所
マタイの福音書 1章1節~17節

説教
回復の希望イエス・キリスト  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ35/「しるし」と「象徴」1
聖書では、あることを伝達するための手段として「しるし」や「象徴」を用いています。前者の例としては、預言者イザヤが、「主みずから、あなたが たに一つのしるしを与えられる」と述べ、処女が身ごもって男の子を産んだなら、それが「インマヌエル」(神がともにおられる)のしるしだと語ります(イザヤ7章14節)。そしてそれが成就します(マタイ1章18~25節)。他にも、御使が 喜びの知らせを伝えるために羊飼いたちのところに現われて言います。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これがあなたがたのためのしるしです。」(ルカ2章11節) 
    野球で監督やコーチが選手にある指示を伝達するときにサインを送ります。同様に、神も私たちにサインを送るのです。「処女が身ごもって男の子を産む」ような出来事が起ったなら、あるいは、布にくるまって飼葉おけに寝ているみどりごを見たなら、それが神が遣わした救い主なのだという「しるし」、つまり「サイン」だということです。神のこの祝福のサインも、イエスさまの時代の指導者たちは見逃しただけでなく、妬みから十字架にかけてしまいました。妬みが、彼らを霊的盲目にしました。私たちは、この時期、2000年前の神さまからの「サイン」を正しく受け止めた幸いな者として過ごさせていただきましょう。                                                               (銘形「アドベントの瞑想」より引用)

2015年11月22日日曜日

2015年11月22日 第4主日礼拝 2人の女性の癒し

招詞
は【主】に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。     詩篇91篇2節

聖書箇所
ルカの福音書 8章40~56節

説教
2人の女性の癒し  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ34/「信じ続けなさい」か、「今、信じなさい」か
  イエスさまは、ルカ8章50節で、「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」と、ヤイロの使いに申し送りました。ヤイロはイエスさまの期待に応えて、ただ信じて待ったでしょうか? 新約聖書は、ギリシャ語から訳されていますが、原典を忠実に書き写した写本をもとに翻訳しています。新改訳聖書は、共同訳と同じく、ネストレ27版というギリシャ語聖書の翻訳です。27版以前のこの部分の写本は、「恐れないで、ただ信じ続けなさい(現在命令形)。そうすれば、娘は直ります(救われます)。」となっていましたが、ネストレ27版では、「信じ続けなさい」が、「信じなさい(アオリストの命令形)」に変わりました。アオリスト形(不定過去形)で書かれた写本を採用したわけです。つまり、「はっきりと自分の明確な意志をもって『信じる』」ということが強調されています。そうすれば必ず救われるのだ、とイエスは語っています。が、何を信じるのでしょうか? 世界の多くの言語では、「信じる」は、「信頼する」とほぼ同義語ですがギリシャ語もそうです。「私、イエスを信じ、ただ信頼しなさい」と主はおっしゃったのです。医者のルカは、神のご聖霊に導かれて「ルカの福音書」と「使徒の働き」を手紙の形に書き留めました。その資料はぼう大緻密(ちみつ)で、恐らくガリラヤのカペナウムまで行って、このエピソードから20年後のヤイロと娘さんにも直接会ってインタビューしたかもしれないと想像します。ローマ市民であったルカは、パウロと同行していない期間もかなりありますから、その間にガリラヤを訪ね、イエスさまの言行録の主な舞台となった町々を訪ねたのではないかと思います。あの12年間、婦人病で苦しんだ女性も40代以上になっていたでしょうが、果たして会って、弟子たちの証言を確認できたでしょうか。想像するだけでも楽しいことですね。                                                                   (銘形「ルカの福音書を味わう」から一部引用)

2015年11月15日日曜日

2015年11月15日 第3主日礼拝 悪霊からの解放

招詞
【主】の栄光が、とこしえにありますように。【主】がそのみわざを喜ばれますように。私は生きているかぎり、【主】に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。
                                                    詩篇104篇31,33節
聖書箇所
ルカの福音書 8章26-39節
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説教
悪霊からの解放  田口勇新牧師

言(こと)ローグ33/「捕えた」と「出て行った」
ルカの福音書8章の2つの動詞に注目します。「捕えた(29節)」と「出て行った(38節)」です。新改訳では、原文の通りに「捕えた」となっています(新共同訳は、悪魔に捕えられた、と受動態)が、38節のほうは、「悪霊を追い出された人」と受動態のように訳されています。能動態が受動態に訳されると、哀れな人にだけ焦点がいってしまい、悪霊たちの力と邪悪さが薄められてしまうと思います。レギオン(軍隊用語で6千の部隊)と呼ばれた悪霊どもは、容赦なしの悪役で、圧倒的な暗闇の力でこの哀れな男の人を捕えてしまっていたのです。誰もかわいそうだと同情する人がいなかったのです。何と暗いことでしょうか。しかし、イエスさまは、彼に同情し、まっさきに加害者である悪霊たちに向かって「この人から出て行け」と命じたのです。
  悪霊たちは、イエスさまに命じられた通り、この人から「出て行ったのです」。原文通り「悪霊が出て行った人」というのは訳しにくさからでしょうか、新改訳では、「悪霊を追い出された人」と人に焦点が移っています。悪霊の恐ろしさ、イエスさまと渡り合う狡猾さ、まさに軍隊のように一体となって出て行くすばしこさを見逃してはならないでしょう。悪霊たちが豚に乗り移ることをイエスに願ったのは、底知れない滅びの闇に落とされることを恐れたからでした。当時の自然科学者であった医者のルカが悪霊の狡猾さをダイナミックに能動態で記術したことには意味があったわけです。現代でも、手を変え、品を変えて悪霊たちの働きが続いています。インターネットは悪いものではありませんが、批判力の乏しい10代の子どもたちを悪霊の世界に引きずり込み「捕える」サイトも多いので、親も教会も監視していく必要があります。

2015年11月8日日曜日

2015年11月08日 第2主日礼拝 あなたの信仰はどこに

招詞
福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。                        ローマ人への手紙1章17節


聖書箇所
ルカの福音書 8章22-25節

説教
あなたの信仰はどこに  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ32/「ぐっすり眠った」(アフプノーセン)
ルカ8:23で、舟のとも(船尾)に行くとそこで「イエスはぐっすり眠ってしまわれた」と記されています。このアフプノーセンは、強調を表わす接頭語の「アポ」と眠る(アプノー)の合成語で、眠り込む、寝入る、ぐっすり眠るという意味です。さて、場面が急転して、突然襲った嵐で大波が襲い、イエスさまと弟子たちの乗った舟が大きく揺れて沈 みそうになりますから、プロの漁師だったペテロたちも必死で舟を操ります。ガリラヤ湖周辺の山から吹き下ろす冷たい風が突風として発達し、舟を転 覆させるほどの嵐になるそうです。ここで、対照的なのは、イエスさまです。穏やかな湖なら誰でも気持ちよく眠れたでしょうが、小さな舟はギシギシ 音をたてて、波にもまれていますから、眠れるような状況ではありません。しかし、弟子たちが、起こすまでイエスさまは寝ておられました。クライマックスは、起きあがったイエスさまが、風と波に「静まれ」と命じたときに湖は「なぎ」になったということでした。恐れから解放された弟子たちの反応は、大いに驚き、イエスのみ力をほめることでした。しかし、イエスさまは、嵐の中でも父なる神さまの守りに信頼してぐっすり眠っておられたことに、もっと驚いて欲しかったようです。「あなたがたの信仰はどこにあるのです」は、弟子たちを叱った修辞疑問形でした。                            (銘形:「ルカの福音書を味わう」から一部引用)

2015年11月1日日曜日

2015年11月01日 第1主日礼拝 弟子たちの特権

招詞
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
                                              ピリピ人への手紙 4章4~5節


聖書箇所
ルカの福音書 8章16-21節

説教
弟子たちの特権  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ31/「父よ」と呼ぶ新しさ
マタイ6:9~13で、イエスが、弟子たちに「主の祈り」を教え、祈りのお手本とされました。当教会でも、信仰告白に続き、毎週唱和しています。 弟子たちはイエスが多忙で疲れていても、朝早く起きて、だれからも邪魔されることのない時間に、ひとり静かに祈っている姿をずっと見てきました。 弟子たちの心の中にそんな祈りを自分たちもしてみたいと思うようになるのは当然のことです。そして「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」と願ったの です。その主の祈りの冒頭が、「父よ」でした。イエスは神について語るとき、あるいは、神に向かって語るとき、決まって「父」、「天の父」、「天におられる父」と呼んでいます。これはイエス専用の独自な呼び方でした。マタイの山上の説教(5~7章)だけでも、神を父として呼んでいる箇所は17回にも及びます。旧約聖書では神を「父」と記してい る箇所は わすか4カ所です(申命記32:6、詩篇68:5、89:26)。ですから、旧約聖書しか知らなかった弟子たちにとって、「父よ」は、とても新鮮な呼びかけでした。イエスが十字架にかけられた主な理由は、「自分を神と等しくして、神を父と呼んでおられたからである」と記されています(ヨハネ 5:18)。「父よ」は、それだけ重い意味を持っています。「自分を神と等しくして」という意味は、神を父と呼び、自分を子と呼んだということです。私たちが、「天にいます私たちの父よ」と唱える時、父なる天地創造の神さまと、ひとり子であられるイエスさまを告白していることになります。
                    (銘形:「詩篇の瞑想」から一部引用)



2015年10月25日日曜日

2015年10月25日 第4主日礼拝 給仕する者をめざして

招詞
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じ ているのです。                           ピリピ人への手紙 1章6節

聖書箇所
ルカの福音書 22章24-30節

説教
給仕する者をめざして 田口孝子姉
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言(こと)ローグ30/「伏させる」 (ラーヴァツ) ➁ 
音楽の流れにも休符があります。ときには、「ジェネラル・ポーズ」といって完全休止があります。その完全休止は、音楽の流れに、より緊迫感と流れに新鮮さを与えます。私たちの生活にもそのような休息がなければなりません。
 いつもなにかをしていないと不安になってしまうワークホリック。それは休みたくても休めない現代の心の病です。詩篇の中には、真の休息、ゆとり、安眠の祝福を与えられた者たちがいます。 詩篇3篇、詩篇4篇にもその恵みを味わった人が歌っています。「私は身を横たえて(伏して)、眠る。 私はまた目をさます。主が支えてくださるから。」(3:5) ある意味で、人生の最大の課題はどのようにして身を横たえて休息し、 また眠ることができるかということです。
 身を横たえることはだれでもできます。しかし問題は、安らかに眠れるかどうかです。詩 篇の作者は、「私の羊飼いである主は、私を緑の牧場に伏させてくださる」方であると告白しています。
 現代のだれもが、心の安心、安定、安息を求めています。主であるイエスさまの救いと完全な信頼が心の安息をもたらします。
             (銘形:「詩篇の瞑想」から引用)

2015年10月18日日曜日

2015年10月18日 第3主日礼拝 聞く耳のある者は

招詞
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさ い。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。                                                      申命記 6章4~6節

聖書箇所
ルカの福音書 8章1~15節


説教
聞く耳のある者は 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ29/「聞く耳」
ルカの福音書8章8節で、イエスは、たとえ話のあとで、群衆に向かって、「聞く耳のある者は聞きなさい」と叫ばれました。「聞きなさい」は、現在形ですから、正確には「聞きつづけなさい」と訳します。さらに次の段落では、弟子たちに向かって、「聞き方に注意しなければならない」、と言われます(18節)。まとめると、「聞く耳」とは、単に聞き従うということだけを意味するのではなく、イエスの語ったことばの真意を尋ね求め、問い続けるという意味での「耳」であり、その「耳」によって、さらなる天の御国の秘密が確実 に与えられる(未来形)ということを約束しておられるのです。そして、そのような者こそ、多くの実を結ぶ「良い地」なのだと言われています。                                    (銘形:「詩篇の瞑想」」から引用)

2015年10月11日日曜日

2015年10月11日 第2主日礼拝 知恵ある方が共におられる

招詞
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。                  ローマ人への手紙 8章28節

聖書箇所
創世記 39章1~23節

説教
知恵ある方が共におられる 菅孝雄兄

言(こと)ローグ28/「伏させる」(ラーヴァツ)①
詩篇23:2「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」
 この「伏させる」という動詞は、「横たわる」「臥す」を意味するラーヴァツの使役形が使われ、「臥させて休ませる」という意味です。旧約では30回、詩篇では2回しか使 われていませんが、大変味わい深いことばです。 柔らかな草を食べて満腹した羊が、満足そうに、ゆっ たりと休んでいる姿をイメージさせます。まさにここのテーマ は「休息」、ないしは 「安息」です。新共同訳は、ラーヴァッツを 「休ませる」と訳しています。
 ゆとりのない忙しい生活、万年疲労の生活の行き着くところはどこでしょう。必ずいつか は倒れます。張りつめた弓の糸をゆるめるように、緊張を解く時が必要です。良い羊飼いであられるイエスさまとかかわることで、私たちに必要な休息が与えられるのです。 時に私たちは、かぜを引くなどして、大事な職場を休みますが、もしかして、疲労した霊と体を回復させるための、神さまの配慮かもしれません。主イエスは、言われました。「すべて疲れた人、重荷をもっている人はわ たしのところに来なさい。わたしがあなたが たを休ませてあげます。」(マタイ 11:28)。
                                            (銘形:「詩篇の瞑想」」から引用)

2015年10月4日日曜日

2015年10月4日 第1主日礼拝 もとめなさい

招詞
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
                                                 マタイの福音書 6章33節


聖書箇所
マルコ福音書 6章30節~46節

説教
もとめなさい ジョナサン・ロビソン宣教師
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言(こと)ローグ27/住う (ヤーシャヴ)
詩篇23篇でダビデは、「ずっと主の家に住みます」と言っています。ヤーシャブは、旧約全体で1,084回、詩篇では61回。その原意は「座る」で、「暮らす、こもっている、住まう、住む、とどまる、休む、御座に 座す」と多様な意味に使われています。
 詩篇23篇6節では、この詩篇における二つの結論が記されています。ひとつは、「まことに、私の日の限り、いつくしみと、恵みとが、私を追ってくる」という、*主の私に対するかかわり* の結論。
 もうひとつは、「私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」という、*私の主に対するかかわり* の結論です。この二つの結論の順序が重要です。なぜなら、神の豊かな祝福が惜しみなく自分の生涯に注がれていることに気づかされた者だけが、真の意味で、「私は、いつまでも (とこしえに)、主の家に住まいましょう。」と誓うことができるからです。この誓いこそダビデをして、生涯、主に従い通す言動に導いた情熱の基になったと言えます。  
                                                        (銘形: 「詩篇の瞑想」より引用)

2015年9月27日日曜日

2015年9月27日 第4主日礼拝 もし、そのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば…

招詞
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。                      ヨハネの手紙 第一 4章10節

聖書箇所
レビ記 1章3節~9節

説教
もし、そのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば・・・  老松望KGK主事

言(こと)ローグ26/羊 Sheep
詩篇23篇でダビデは、「主は私の羊飼い」、と歌いました。彼は、羊飼いから王になった人で、羊(ローイー)のことを良く知っていました。「羊の習性」を調べてみると、第一に、羊は臆病で脆弱です。群れをはぐれてしまった羊を捕まえようとすると,不安と恐怖心で逃げてばかりで捕まら ないそうです。第二に、迷いやすい。目が悪いということもありますが、実際,羊は羊飼いに連れられて毎日行き来している道を自分では行きも帰りもできず,すぐ迷ってしまうそうです。こんな方向感覚の悪い動物は他にいません。そして第三は、とても頑固です。羊は従順な反面、頑固で,羊飼いに逆らって自分勝手に進んで行き,群から離れて危険なところに行って自滅するという習性をもっています。ですから羊飼いが必要なのです。まさに人の性質と習性にそっくりで す。しかし、主が「私の羊飼い」でおられる限り安全に生きることができます。
                                                                   (銘形: 詩篇23篇の瞑想より引用)

2015年9月20日日曜日

2015年9月20日 第3主日礼拝 賢い娘と愚かな娘

招詞
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、
すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えず
ささげようではありませんか。  ヘブル人への手紙13章15節

聖書箇所
マタイ25章1-13節

説教
賢い娘と愚かな娘  菅孝雄兄




2015年9月13日日曜日

2015年9月13日 第2主日礼拝 多くの罪が赦された人

招詞
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
ヨハネの手紙第一 1章9節


聖書箇所
ルカの福音書 7章36-50節

説教
多くの罪が赦された人 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ25/「赦されたことが先」
「赦されたこと」は、先か結果か、 ルカの福音書7:47の口語訳は、「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。」で、彼女のイエスへの献身的な奉仕が、罪の赦しの原因のように訳されています。後続の新共同訳は、大きく変わり、「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」と、 イエスに罪を赦された結果、彼女の自発的な行為がある、と180度も異なる訳です。新改訳は、「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。」とやはり、 口語訳に近いでしょう。この箇所に限って、どちらが原文の意図をより汲んでいるかは、「赦されています」というギリシャ語の時制を調べると明らかです。ここでの「赦されています」は、現在完了形受動態です。ギリシャ語の時制はきわめて厳格な意味で使われていますから、彼女は、まず赦されていた、そしてこの場面でも赦しが確かな事実であった、と解釈されます。従って、 新共同訳の方がより良い訳になっていると思います。彼女は、罪深い女というレッテルを貼られていて、この食事の席に入ってくることは不可能だったはずです。罪を赦されている者、それを確信している者としての大胆な行動だったのです。
   (銘形: 「主への愛の行為は、赦されていることの証拠です」から一部引用)

2015年9月6日日曜日

2015年9月6日 第1主日礼拝 イエスは救い主

招詞
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
マタイの福音書 16章15~16節

聖書箇所
ルカの福音書7章18-35節

説教
イエスは救い主 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ24/つまずく
ルカの福音書7:18~35は大きく二つに分かれます。ひとつはヨハネの二人の弟子たちに語られたこと、もうひとつは群衆に語られたことです。しかしその中で扱われているテーマは同じです。そのテーマとは「つまずき」です。

「つまずき」という名詞はギリシャ語では「スカンダリオン」ですが、この箇所では名詞は使われず、動詞の「スカンダリゾー」が23節の「わたしにつまずかない者は幸いです。」というイエスのことばの中で使われています。

 「オヤ」と思われた方、その通り、スカンダリオンは、英語のスキャンダルの語源です。英語の意味は、醜聞(しゅうぶん)ですが、もともとの意味は、「罠の餌づけ棒」でした。動物が、安心して食べると罠にはまってしまう仕掛けです。スキャンダルは、何気なく人のうわさを流しているように思っていると、相手と周りを傷つけ、やがて本人にも付けが回ってきて、人間関係を壊す、恐ろしい罠です。  

話を戻します。イエスの言動から、神の子メシアであることは明らかなはずでしたが、純粋なヨハネの弟子たちには、もっと早くメシアの国を立ち上げて欲しいと誤解したのでしょうか、「イエスは本当にメシアなのか?」という疑いを抱かせました。パリサイ派と他の宗教指導者たちは、言い伝えやしきたりよりも聖書に帰れ、と正論を突きつけられ、数知れない奇跡の御業で民衆の支持を奪われたと錯覚して、妬みからイエスを排斥する、ついには殺意をもたせるほど「つまずかせられ」ました。

私たちが初めて教会の門をたたいた時、初めて福音書を読んだ時、イエスは救い主メシアであるということばに「つまづかなかった」でしょうか?「つまづき」は、信仰の世界においては、イエスとかかわる者たちが、「イエスとはいったいだれであるか」を問われる試金石そのものなのです。

(銘形:「わたしにつまずかない者は幸いです」から引用)

2015年8月30日日曜日

2015年8月30日 第5主日礼拝 母と一人息子

招詞
イエスは言われた。「わたしは死人を復活させ、また、死んだ人にもう一度命を与えて、生き返らせることのできる者です。また、わたしを信じる人々は永遠の救いに入れますから、決して滅びることはありません。」
ヨハネの福音書11章25~26節(現代訳)


聖書箇所
ルカの福音書7章11-17節

説教
母と一人息子 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ23/内臓がゆすぶられる
ルカ7:13 「かわいそうに思い」の原語は「スプランクニゾマイ」です。これは同情という感情を表わす最も強いギリシャ語です。普通の同情やあわれみではなく、人間の存在の深みにまで動かす感情を意味します。新約聖書においてはこの語は共観福音書以外には使われていません。たとえ話の3例を除いて、すべてイエスに用いられています。主な訳を見ると、新共同訳 「憐れに思い」、岩波訳「腸がちぎれる想いに駆られ」、ピーターソン訳 「his heart broke ハートブレイク」です。日本語にも「断腸の思い」という慣用句があり、悲しみ・憐れみと口惜しさを表します。さて、大勢の者たちがこの母親に同情して「つき添って」いましたが、なにもできませんでした。しかし、神のあわれみは、単なる同情でなく、「同情+行動」がなされるのです。事実、この「スブランクニゾマイ」という動詞が登場するところでは、そのあとになんらかの恵みの行動が記されていることは注目すべき事実です。以下のか所で、実際に検証してみてください。
<マタイの福音書> 病気を癒す(14:14)、4千人の給食(15:32)、主人の赦し (18:27)、盲人の癒し(20:34):
<マルコの福音書>ツァラトの人の癒し(1:41)、5千人の給食(6:34)、4千人の給食 (8:2)、子どもから悪霊を追い出す(9:22):
<ルカの福音書>良いサマリヤ人(10:33)、放蕩息子(5:20)など。
(銘形 「類なきイエスのあわれみ」より一部改訂引照)


2015年8月23日日曜日

2015年8月23日 第4主日礼拝 100人隊長の信仰

招詞
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 
ローマ人への手紙 10章9~10節

聖書箇所
ルカの福音書 7章1~10節

説教
100人隊長の信仰 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ22/「で」と「でも」
ルカ7章6節には、デ(de)という接続詞が2回くり返されて出てきます。 「《デ》 イエスは、彼らといっしょに行かれた。《デ》それで、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、。。。」。最初のデは訳されていませんが、文の流れから<それで>という意味です。2番目は、そしてと訳されていて、「デ」を順節の接続詞として訳出しています。
 ところが、文脈からすると、「ところが、しかしながら」と訳す方が、ここでは意味が通じ、しっくりします。イエスさまと弟子たちが親切にも百人隊長のしもべ(秘書)の病気を癒そうという目的で隊長宅に向かって歩いている途中、「わざわざ来ないでください」という使いを出してイエスさまと一行を止めるのですから逆節、しかしなのです。 マタイ2:21-22の例です。「彼(ヨセフ)は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。 《デ》しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。」 しかしと、逆接の意味に訳されています。マタイ3:11もその例で、「 水のバプテスマを授けていますが《デ》、...」です。
 このように、新約聖書を注意深く読んでいくと、デは、必ずしも順節だけでなく、逆接の意味にも訳されていることがわかります。それでも、それでと、逆接に訳されていないのが、ルカ7:6のケースです。ここの場合、「デ=そして」と「デモ=しかし」を入れ替えて読むとしっくりする意味がつながるように思います。
 さて、好対照の例として、実は、カイ(kai)というギリシャ語は、「そして」という順節の接続詞ですが、時には「しかし」という逆接の意味で使われることがあります。 例として、ヨハネ4章のサマリヤの女の1節です。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、<カイ>この井戸は深いのです(ヨハネ 4:11)。この場合、新改訳聖書では、しかもという順節で訳していますが「あなたは、バケツをもっていない、しかしこの井戸は深いのですよ」、とも訳出できます。どちらが正解とはいえませんが、ニュアンスは異なります。


2015年8月16日日曜日

2015年8月16日 第3主日礼拝 水辺の木の様に

招詞
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
詩篇1篇2~3節

聖書箇所
ルカの福音書 6章43~45節

説教
水辺の木のように 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ21/木の実(フルーツ)
イエスさまは、木の実の例で、「良い木は良い実、しかるべき実をつける」と語ります。ルカ6:44では、イチジク、ブドウ、野ブドウの3つが取り上げられていますが、聞いている弟子たちや人々は、他にどんな木の実を想像したでしょうか?

パレスチナでは、代表的なものがザクロで、正月や慶事に使われます。生食の他、ザクロワインなどが生産販売もされます。
ナツメヤシ(デーツ)は、何千年も前からオアシスのヒーロ― でした。100~200本あれば、小さな部族を養うほどの商品価値もあったようで、乾燥したものが、シルクロードで西はヨーロッパ、東は中国まで運ばれ交易に役立ちました。
サボテンの実、ドラゴンフルーツなども栽培されてきました。
前世紀のイエラエル再建国以来、キブツという現代農業が始められ、大規模な灌漑により、野菜とともに、リンゴや柿などの果樹も大量生産され、柿などは、ヨーロッパはもちろん、シンガポールなどアジアの国々でも、「安くて 甘い」イスラエルの柿として人気があり、食べたことがあります。
オリーブも果肉を食べるので果実ですが、オリーブ油とともに色々な料理に欠かせない食材です。

黙示録の最終章には、12種類の 命の木の実(フルーツ)がクリスチャンを楽しませてくれると書かれています。フルーツ好きの皆さん、覚えておきましょう。
「都の大通りの中央を命の水の川が流れていた。川の両岸には、命の木があって、十二種の実を結び、絶えず豊かに実が成った。その木の葉は、クリスチャンに生きる喜びを増し加えた。」(黙示22:1b 現代訳)


2015年8月9日日曜日

2015年8月9日 第2主日礼拝 ジョン・オルソン師 子供が信仰をもつ幸い

招詞
子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。
ルカの福音書18章16~17節

聖書箇所
申命記 6章4~9節
詩篇127篇3~5節
ルカの福音書 18章15~17節

説教
子供が信仰をもつ幸い ジョン・オルソン牧師

言(こと)ローグ20/子ども(幼子)のように
ルカの福音書18:15で、イエスは、「子ども(幼子)のようになる」ということが「神の国に入る」上で大切だと言 います。

ここでいう「子ども」とは、第一義的には、子どもです。
二義的には、当時のイエスの弟子たち、および民衆(女性、取税人なども含みます)のことを指しています。

ちなみに、「子」に対する「大人」とは当時の宗教指導者のことを意味しています。
パリサイ人が神の前に義 とされず、イエスの弟子たちや民衆たちが義とされたことを意味しています。
なぜなら、神の国を受け入れるとは、イエスを受け入れることと同義だったからです。

その点、パリサイ人や律法学者たち、そして祭司長たちはイエスを受け入れなかったために、神の国に入ることはできな いことをイエスは語ったのでした。
(銘形:「ルカの福音書を味わう」より引用)

2015年8月2日日曜日

2015年8月2日 第1主日礼拝 赦し与える幸い

招詞
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。
詩篇25篇9~10節

聖書箇所
ルカの福音書 6章37~42節

説教
赦し与える幸い 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ19/十分な訓練を受けた者 カタルティメノス
本日の聖書箇所、ルカの福音書40節の「十分な訓練を受けた者」は、カタルティメノスの訳です。これは、動詞カタルティゾーの名詞型で、動詞の意味は、直す、(網を)繕う、修繕する、整える、整備する、完全にする、欠点のないものとする、(本来の良い)姿にする」です。と言った意味の完了形の受動態の分詞(名詞的用 法)を、新改訳では「十分な訓練を受けた者」と訳しているのです。

福音書では、魚師が破れた網を「繕う」というところで使われています。網が破れていては漁はできません。ですから「繕う」ことが必要なのです。 イエスの弟子たちも主によって繰り返し、「繕われる」=取り扱われる必要があった のです。 弟子たちは、3年ほどの訓練で、イエス様に取り扱われ、何とかエルサレムの大教会の奉仕に間に合う者、役立つ者とされました。

私たちは、 どうでしょうか?

小さく固まった信仰に満足したり、逆に、大きな破れ穴を修繕しないで(してもらわないで)放りっぱなしということはないでしょう か?

2015年7月26日日曜日

2015年7月26日 第4主日礼拝 あなたの敵を愛しなさい

招詞
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
マタイの福音書5章44~45節

聖書箇所
ルカの福音書 6章27~36節
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説教
あなたの敵を愛しなさい 田口勇新牧師

言(こと)ローグ18/「愛する」アガパオー
信仰は、神の恵みのみわざです。神から一方的に与えられるものです。
これに対し て、愛は、御霊の実です。
イエスを信じた者が、良い業ができるように変えられていき、結果として、御霊の実を結んでいきます。

そして、パウロ は、9つの実の第一番目が愛だと書いています(ガラテヤ6:21)。
ルカの福音書6章20節の「敵を愛しなさい」の「愛する」は、アガパオー で、無条件の愛です。
無条件だから利害関係ではマイナス要因となる敵をも愛するのです。

エルサレム神殿を汚した悪役として、シリアのエピファ ネス王は、エルサレム神殿にゼウスの偶像を置き、反対した多くのユダヤ人を虐殺しました(紀元前167年)。
イエスの時代の最大の敵は、エピ ファネスの後、やはり神殿を汚したローマでした。12使徒の一人熱心党のシモンは、ローマを憎み、マタイのようなローマに組する税金取りも憎 みました。
しかし、イエスは、あなたの敵であるローマ人も愛しなさいと言われたのです。

イエスは、実際、ローマの百人隊長のしもべを癒すエピソードで、隊長の信仰を褒め、好意を示しました(ルカ7章)。
極めつけは、十字架の上から、ご自身を死刑にした敵のローマ人、ユダヤ人たちの ために祈ります。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(23:34)
このように、イエスは、心で愛するだけでなく、行為で敵を愛することを教えています。

殉教者ステパノは、自分に石を投げつける敵のためにイエスと同じように祈った人です(使徒7:60)。
神の愛に押し出された者が、神の愛を反映してできる奇跡の行動でした。


2015年7月19日日曜日

2015年7月19日 第3主日礼拝 幸いな人と哀れな人

招詞
ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。
詩篇136篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書 6章20~26節

説教
幸いな人と哀れな人 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ17/幸いと哀れ
「幸い」はマカリオスです。神に祝福されているものという意味です。「哀れ」と訳されているウーアイは、名詞ではなく感嘆詞で、「ああ哀れな」というイエスの嘆きのため息で、新約聖書中46回も使われています。
「ああ、忌まわしいことだ、悲惨だ、呪われる、気の毒だ」という意味合いです。主を信じないで心を閉ざす者たちへのため息です。財を蓄える、食べる、笑う、褒められることは、この世界では良いことで、そのために学校へ行くのだという人が多いでしょう。しかし、その前に、「ゆるし」と「いのち」をイエス様からいただいているかが問題です。この世を去る時に、死の向こうに持っていけるものは、「ゆるし」と「いのち」だけです。ルカ6章20節以下の平地の説教では、マカリオスの中身は、貧しいもの、飢えている者、イエスの名のために迫害されている者たちです。すべて、イエス様を信じた時にどんでん返しになって、幸いになるのです。この幸いは、天国に持っていけるものです。イエスに「あーあ」と失望のため息をつかれないようにしましょう。


2015年7月12日日曜日

2015年7月12日 第2主日礼拝 イエスが選んだ12人 

招詞
そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、 悪霊を追 い出す権威を持たせるためであった。
マルコの福音書3章14~15節

聖書箇所
ルカの福音書 6章12~19節

説教
イエスが選んだ12人 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ16/使徒(アポストロス)
イエスさまの世界宣教のミニストリーは、教会と「使徒」と呼ばれる12人の弟子たちに委ねられていきます。

ルカの福音書6章ではじめて登場するこの「使徒」ということばは、他の福音書では弟子(マセーテース)と言われています。その場合は、文脈から弟子の中の弟子(高弟子)の意味合いがあります。

イエスさまは、彼らに神の国の福音を宣べ伝える中で、病気を治したり、悪霊を追い出す権威を授けます。そして、教会の誕生日と言われるペンテコステ以来、ペテロやヤコブなど教会のリーダーとして、牧会と宣教(聖書教育と伝道)の働きが主流になります。
パウロだけが、イエスさまの十字架と復活のあとて、ダマスコへの途上で任命されますが、エルサレム教会の権威に従います。使徒たちは、ヨハネ以外すべて殉教していきます。

イエスさまの選ばれた使徒は1代限りで、あとは教会が監督(牧師)や宣教師を任命して世界宣教が進展していきます。従って、カトリック教会が主張する ような、使徒権威が後々まで継承されることはありません。

500年前に、マルチン・ルターが宗教改革の中で発表したローマ教会への論文のなかでも、聖書に従うかぎり、神と人との仲介者は必要がなく、ローマ教皇という立場はありえないし、使徒たちやマリヤ像などにあやかる聖人(像や肖像 画)崇拝は無意味である、と堂々と語ります。

2015年7月5日日曜日

2015年7月5日 伝道音楽礼拝 一寸先は光 中野雄一郎牧師

生きる力を求めて! ~ハワイからユーモアと感動を

聖書箇所
ヨハネの手紙 第一 4章16節
ヨハネの福音書 3章16節

講演
一寸先は光 中野雄一郎牧師


2015年6月28日日曜日

2015年6月28日 第4主日礼拝 安息日の主、キリスト

招詞
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
ヨハネの福音書5章24節

聖書箇所
ルカの福音書 6章1~11節

説教
安息日の主、キリスト 田口勇新牧師

言(こと)ローグ15/人の子
イエスはしばしば自分のことを「人の子」という言い方をしています。イエスがご自身がメシア的存在であることを示すために使われた表現です。ですからこの表現は福音書独自の表現ということができます。
ルカの福音書では、すでに5章24節に登場します。
「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを、あなた方に悟らせるために・・」とあるように、「人の子」という表現は、あきらかに神的権威をもつ存在であることを示しています。
神的権威をもっている「人の子」という呼び方でご自身をさして言われたために、当時の宗教指導者たちから拒絶され、苦しみを受ける存在でした。このことをイエスは事あるごとに語っています。



2015年6月21日日曜日

2015年6月21日 第3主日礼拝 新しい心で

招詞
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ヨハネの福音書3章3節

聖書箇所
ルカの福音書 5章33~39節

説教
新しい心で 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ14/断食と祈り(ルカの福音書 5章33~39節)
断食と祈りをすることは、当時の一般的なユダヤ人であれば当然すべき「信仰の行為」と考えられていました。 毎週月曜日と木曜日の日の出から日没までは、断食すること(水は飲めます)。毎日3回、12時、午後3時、午後6時に祈ることが義務でした。
パリサイ派の人たちは、イエスとその弟子たちが、断食もしないで「罪人たちと飲み食いばかりしている」と非難しました。しかし、この信仰の行為も形式化していて、「心」がなかった面がありました。断食するときはわざと顔を白く塗り、弱弱しく見せたり、市場など人が集まる目立つ場所で、長々と立って祈るなどです。
イエスは、神に心が向いていない、彼らの人に見せるための宗教的な行為を批判されました。



2015年6月14日日曜日

2015年6月14日 第2主日礼拝 取税人レビの召し

招詞
神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。
「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」
イザヤ書 30章15節

聖書箇所
ルカの福音書 5章33~39節

説教
取税人レビの召し 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ13/「見る」と「観る」
今朝の記事は、マタイ9:9~17とマルコ2:14~22にもあり、並行記事といいます。
イエスが収税所にすわっているのを、マタイとマルコは「ご覧になって(見て)」と書きました。 しかし、ルカの福音書では「目を留めて(観て)」とあります。
前者のマタイとマルコが使っている「ご覧になる」というギリシャ語の原型は「ホラオー」ですが、ルカは「セオーマイ」という動詞を使っています。 「セオーマイ」という動詞が意味するところは、イエスが取税人レビを「じっと見た、観察した」ということです。 岩波訳は、訳語に「観た」という言葉を充てています。

箇所ギリシャ語意味
マタイ書・マルコ書ホラオーご覧になって(見て)
ルカ書セオーマイ目を留めて(観て)

イエスは、じっと観察してから、レビ(マタイ)を主の働きに招かれたのです。

2015年6月7日日曜日

2015年6月7日 第1主日礼拝 罪を赦す方イエス

招詞
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
ローマ人への手紙 3章23~24節

聖書箇所
ルカの福音書 5章17~26節

説教
罪を赦す方イエス 田口勇新牧師
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2015年5月31日日曜日

2015年5月31日 第5主日礼拝 手を伸ばして癒すイエス


招詞
感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。
主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで、その真実は代々に至る。
詩篇100篇4~5節

聖書箇所
ルカの福音書 5章12~16節

説教
手を伸ばして癒すイエス 田口勇新牧師
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2015年5月24日日曜日

2015年5月24日 第4主日礼拝 教会の誕生

招詞
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。
詩篇103篇2,8節

聖書箇所
使徒の働き 2章1~4,40-47節

説教
教会の誕生 菅孝雄兄

2015年5月17日日曜日

2015年5月17日 第3主日礼拝 家畜の中から・・・

招詞
主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。
主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。
詩篇105篇2,4節

聖書箇所
レビ記1章1~9節

説教
家畜の中から・・・ 老松望 KGK主事

2015年5月10日日曜日

2015年5月10日 第2主日礼拝 イエスに従った弟子たち

招詞
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
詩篇100篇1~3節

聖書箇所
ルカ5章1~11節

説教
イエスに従った弟子たち 田口勇新牧師

2015年5月3日日曜日

2015年5月3日 第1主日礼拝 カペナウムの町で

招詞
新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。
主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。
詩篇98篇1~2節

聖書箇所
ルカ4章31~40節

説教
カペナウムの町で 田口勇新牧師

2015年4月26日日曜日

2015年4月26日 主日礼拝 ナザレでの出来事

招詞
新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。
主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
主の栄光を国々の中で語り告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。
詩篇96篇1~3節

聖書箇所
ルカ4章14~30節

説教
ナザレでの出来事 田口勇新牧師
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2015年4月19日日曜日

2015年4月19日 主日礼拝 ベタニヤで

招詞
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
 あなたがたは、これらのことの証人です。
ルカの福音書 24章46~47節

聖書箇所
ルカ24章36~53節

説教
ベタニヤで 田口勇新牧師
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2015年4月12日日曜日

2015年4月12日 昇天者記念音楽礼拝(主日礼拝) 約束された天国

招詞
けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
ピリピ人への手紙3章20節

聖書箇所
ヨハネ 14章1~17節

説教
約束された天国 田口勇新牧師
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2015年4月5日日曜日

2015年4月5日 イースター礼拝(主日礼拝) 転がされた大きな石

招詞
御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。
マタイの福音書 28章5~6節

聖書箇所
マタイの福音書 28章1~10節

説教
転がされた大きな石 田口勇新牧師
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2015年3月29日日曜日

2015年3月29日 主日礼拝 十字架上の7つのことば

招詞
こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
ルカの福音書 24章46~47節

聖書箇所
ルカ23章24~55節

説教
十字架上の7つのことば 田口勇新牧師

2015年3月22日日曜日

2015年3月22日 主日礼拝 木曜日の夜

招詞
この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
ヨハネの手紙第一 1章7節

聖書箇所
マルコ14章12~25節

説教
木曜日の夜 田口勇新牧師
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2015年3月15日日曜日

2015年3月15日 主日礼拝 敵を愛する 菅孝雄兄

招詞
は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。 天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。 父がその子をあわれむように、は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。
詩篇103篇8,11,13節

聖書箇所
マタイの福音書5章43~48節

説教
敵を愛する 菅孝雄兄

2015年3月8日日曜日

2015年3月8日 主日礼拝 サタンの誘惑に勝ったイエス

招詞
『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。
マタイの福音書4章4節

聖書箇所
ルカの福音書4章1~13節

説教
サタンの誘惑に勝ったイエス 田口勇新牧師
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2015年3月1日日曜日

2015年3月1日 主日礼拝 イエスの洗礼

招詞
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケ人への手紙1 5章16~18節

聖書箇所
ルカ3章21~38節

説教
イエスの洗礼 田口勇新牧師
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2015年2月22日日曜日

2015年2月22日 主日礼拝 バプテスマのヨハネ

招詞
しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。私のところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのようなものたちのものである。」(新共同訳)
マタイの福音書19章14節

聖書箇所
ルカ3章1~20節

説教
バプテスマのヨハネ 田口勇新牧師
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※次週(3/1)は聖餐式があります。

2015年2月15日日曜日

2015年2月15日 主日礼拝 子どもを招くイエス 菅孝雄兄

招詞
そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
マタイの福音書18章2~3節

聖書箇所
マタイ19章13~15節

説教
子どもを招くイエス 菅隆雄 兄

2015年2月8日日曜日

2015年2月8日 主日礼拝 12歳のイエスと両親

招詞
に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。
をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
詩篇37篇3~5節

聖書箇所
ルカ2章39~52節

説教
12歳のイエスと両親 田口勇新牧師
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2015年2月1日日曜日

2015年2月1日 主日礼拝 ローマへ3 教会の時代

招詞
主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。
詩篇127篇1節

聖書箇所
使徒の働き28章12~31節

説教
ローマへ3 教会の時代 田口勇新牧師
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2015年1月25日日曜日

2015年1月25日 主日礼拝 ローマへ2 マルタ島で

招詞
主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる。
 山々がエルサレムを取り囲むように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。
詩篇125篇1~2節

聖書箇所
使徒の働き28章1~11節

説教
ローマへ2 マルタ島で 田口勇新牧師
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2015年1月18日日曜日

2015年1月18日 主日礼拝 弟子を遣わす

招詞
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
詩篇121篇1~3節

聖書箇所
マタイ9章35節~10章14節

説教
弟子を遣わす 菅孝雄兄

2015年1月11日日曜日

2015年1月11日 主日礼拝 ローマへの旅 1

招詞
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
詩篇121篇5~8節

聖書箇所
使徒の働き27章1~44節

説教
ローマへの旅 1 田口勇新牧師
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2015年1月4日日曜日

2015年1月4日 主日礼拝 シメオンの賛歌

招詞
私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
ヘブル人への手紙12章28節

聖書箇所
ルカの福音書2章21~39節

説教
シメオンの賛歌 田口勇新牧師
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