2020年12月27日日曜日
2020年12月27日 第4主日礼拝 シメオンの賛歌
2020年12月19日土曜日
2020年12月20日 クリスマス礼拝 天使たちの賛美
2020年12月13日日曜日
2020年12月13日 第3アドベント礼拝 ザカリヤの賛歌
2020年12月6日日曜日
2020年12月06日 第2アドベント礼拝 人の間に住まわれたイエス
2020年11月29日日曜日
2020年11月29日 第1アドベント礼拝 インマヌエルの主イエスさま
2020年11月21日土曜日
2020年11月22日 第4主日礼拝 大きなワニ、ファラオ
2020年11月14日土曜日
2020年11月15日 第3主日礼拝 ツロ王国と闇の支配者
2020年11月8日日曜日
2020年11月08日 第2主日礼拝 ツロ王国の最後
2020年11月1日日曜日
2020年11月01日 第1主日礼拝 旧友だったツロ王国も
2020年10月24日土曜日
2020年10月25日 第4主日礼拝 宗教改革記念礼拝 ルターの伝えた信仰
2020年10月18日日曜日
2020年10月18日 第3主日礼拝 神の民をあざける国々
聖書箇所
言(こと)ローグ/358 主の定め
2020年10月10日土曜日
2020年10月11日 第2主日礼拝 10月10日が来る
2020年10月4日日曜日
2020年10月04日 第1主日礼拝 オホラとオホリバ
あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です。 詩篇119篇103、105節
「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」 マタイの福音書 13章35節
2020年9月26日土曜日
2020年09月27日 第4主日礼拝 破れ口に立つ者
2020年9月19日土曜日
2020年09月20日 第3主日礼拝 苦しみと希望
聖書箇所
2020年9月12日土曜日
2020年09月13日 第2主日礼拝 背く者も捨てない神
招詩
私の口は あなたの誉れを告げ知らせます。まことに私が供えても あなたはいけにえを喜ばれず 全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ砕かれた心。
詩篇51篇15~17節
聖書箇所
言(こと)ローグ/353 イエスの「ハプトー(さわる)」ミニスト
イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。 ルカの福音書5章12~13節
「さわる」と訳されたギリシャ語は「ハプトー」で、新約では39回使われています。多くは、人がイエスに触る場合ですが、そこには人々の切迫感があります。イエスによりすがり、しがみつこうとする姿があります。一方のイエスのさわりは、人に対する憐みが込められています。人格的なかかわりがあります。十把一絡げに「タッチ!」と叫んで癒すやり方とは違います。一人一人に対して憐みをもって手で触れているのです。「ハプトー」は、旧約では、ヘブル語の「ナーガ」に相当します。どちらも、神と人との双方に強い親近感が存在しています。イエスはそのようなかかわりをもって、全身ツァラアトの人に対して「さわった」(アオリスト時制)のでした。つまり一回限りの行為でしたが、そのツァラアトはあとかたもなく、完全に消え去ったのです。彼は、不当にのけ者にされ、人格さえも否定されていた人でしたが、イエスに強い信頼をいだいていました。私たちもツァラアトの人の熱心さと切迫感をもってイエスにすがることができます。イエスは、あわれみと愛を込めてあなたの心に触れてくださいます。 (銘形「ルカの福音書を味わう」より引用)
2020年9月6日日曜日
2020年09月06日 第1主日礼拝 ライオンとブドウの木
ライオンとブドウの木 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/352 二つの系図
イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で。。。 ルカの福音書3章23節
マタイの福音書1章とルカの福音書3章には、イエス・キリストの系図があります。この系図における重要性は、マタイにある系図がアブラハムで止まっているのに対して、アダムまで遡っていることです。それは、人間の罪の源泉であるアダムまで遡り、イエスを最後のアダムとして「踏み直し」を図る存在であることを示唆しています。「ヨセフはエリの子で」とありますが、実は、これはマリア側の系図で、へブル的に夫の名前で書き始める習慣です。ルカの福音書は、ユダヤ人以外の全世界の人たちへの福音を語るのが目的でした。それで、イエスを最後のアダムとして位置づけ、アダムによってもたらされた罪の重荷から人類を解放する救い主であることを指し示そうとしています。一見、無味乾燥に見える系図からも深い学びができますね。
(銘形「ルカの福音書を味わう」より抜粋)
2020年8月30日日曜日
2020年08月30日 第5主日礼拝 マグダラのマリア
私たちは御前に生きる。私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、地を潤す、後の雨のように。 ホセア書6章3節
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言(こと)ローグ/351 主の祈り ① 父よ
2020年8月23日日曜日
2020年08月23日 第4主日礼拝 悔い改めて生きなさい①
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言(こと)ローグ/350 生けるキリスト
2020年8月16日日曜日
2020年08月16日 第3主日礼拝 みごとな杉の木
言(こと)ローグ/349 主の聖名を大きくする
2020年8月9日日曜日
2020年08月09日 第2主日礼拝 ああエルサレム
言(こと)ローグ/348 あわれみを受けて
2020年8月1日土曜日
2020年08月02日 第1主日礼拝 実のならないぶどうの木
すべての国々よ主をほめたたえよ。すべての国民よ主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことは とこしえまで。 ハレルヤ。 詩篇117篇1~2節
言(こと)ローグ/347 みことば欠乏症
私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。
コリント人への手紙第一10章16~17節
ここには主の食卓における交わり、つまりキリストの血潮によって罪を赦された者たちが、キリストのからだにおいて、一つのパンを食べることでひとつになるという交わりがすでにあることが強調されています。この一つのパンは神のパンです。この神のパンは私たちが「豊かないのち」を得るために必要な糧です。この糧はイエスご自身です。イエスは、私たちに贈られた神のパンなのです。
神のパンはすでに与えられていますが、私たちがそのパンの豊かさを掘り起こすという努力が十分でない、ということなのです。忙しくて、他の事柄に関心がいって、聖書を読むことが少ない、聖書のことばに耳を傾けるゆとりのない心が蔓延しているのです。神が唯一、この世にいのちを与えるパンを与えてくださったにも関わらず、多くのキリスト者はそのパンの食卓を豊かにするどころか、より貧しくしているのです。私たちは、どうで
しょうか?教会はどうでしょうか?みことば欠乏症にならないようにみことばのパンを毎日きちんと食べましょう。 (銘形「主の食卓」より引用)
2020年7月26日日曜日
2020年07月26日 第4主日礼拝 悔い改めよ
私のたましいよおまえの全きいこいに戻れ。主がおまえに良くしてくださったのだから。まことにあなたは私のたましいを死から私の目を涙から私の足をつまずきから救い出してくださいました。私は生ける者の地で主の御前を歩みます。 詩篇116篇7~9節
言(こと)ローグ/346 聖餐式の意味
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
ヨハネの福音書6章53~55節
2020年7月19日日曜日
2020年07月19日 第3主日礼拝 偽預言者たちの過ち
私は主を愛している。主は私の声私の願いを聞いてくださる。主が私に耳を傾けてくださるので私は生きているかぎり主を呼び求める。 詩篇116篇1~2節
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言(こと)ローグ/345 女預言者デボラ
主をほめたたえよ。聞け、王たち。耳を傾けよ、君主たち。私、この私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が。わがたましいよ、力強く進め。
士師記5章3、21節
デボラは、旧約聖書に登場する数少ない女預言者の一人です。デボラによって北のナフタリからバラクが呼び寄せ、シセラの率いる戦車九百両の戦車と大軍を戦うことになります。デボラはバラクに「わたしは、彼をあなたの手に渡す」という託宣を告げました。敵はきわめて殺傷力のある戦車部隊を持っていました。イスラエルはそのような武器はありません。もし平地でまともに戦うならば敗北することは目に見えます。結果はイスラエルの完全な勝利でした。どのようにして勝利が与えられたのか、それが上記の歌の中に記されています。なぜ戦車九百両という進歩的な装備を誇るカナンの将軍シセラが完敗したのか。その理由は、雨が降ることで「キション川」が氾濫し、地はぬかるみとなって戦車が使えなくなったからでした。デボラの預言は、「ひとりの女の手にシセラを売り渡される」でした。そして事実、逃げ延びたシセラを打ちとったのはヤエルという女性でした。 (銘形「士師記の瞑想」より一部引用)
2020年7月11日土曜日
2020年07月12日 第2主日礼拝 神の預言に向き合う人
私たちにではなく主よ私たちにではなくただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。私たちの神は天におられその望むところをことごとく行われる。
詩篇115篇1、3節
言(こと)ローグ/344 アモス(荷を負う者)
テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。 アモス書1章1節
北イスラエル王国の王ヤロブアム二世の時代、経済的には繁栄していました、しかし、預言者アモスは、富裕階級にある者たちが自らの利益を追求して贅沢な暮らしを享受し、安易な生活を送りながら、貧困階級にある者たちを顧みないことを非難しました。非難するだけでなく、その刑罰としての災いが迫っているという神のことばを語ったのです。彼は、牧者という当時の最下級クラス出身でどの預言者グループにも属さず、孤高の預言者と言われます。人間的には「孤立無縁の預言者」です。しかし、神様は、他の預言者集団を差し置いて彼を用いられました。見た目の反映の裏にある霊的な腐敗を見、それを糾弾する勇気ある預言者の姿は、キリスト者が1%以下の日本の社会でクリスチャンとして生きる者に勇気と共感を与えますね。
(銘形「アモス書の瞑想」より一部引用)
2020年7月5日日曜日
2020年07月05日 第1主日礼拝 石の心と肉の心
主の御名がほめられるように。日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。主はすべての国々の上に高くおられ、その栄光は天の上にある。
詩篇113篇2b~4a節
言(こと)ローグ/343 神の霊が私を引き上げて
霊は私を引き上げて、幻のうちに、私をカルデアにいる捕囚の民のところへ、神の霊によって連れて行った。 エゼキエル書11章24節
この定型句が、エゼキエル書には6回使われています。神様が、エゼキエルの預言を聴く人たちに重要なことを見せるために、「主の霊が強制的にエゼキエルに働きかけた」ことを意味します。3章12, 14節、8章3節、11章1, 24節、43章5節などです。
表現は少し異なりますが、37章1節の「主の霊によって、私は連れ出され」というフレーズも「霊が私を引き上げる」と同義と見なすことが出来ます。37章で見た「枯れた骨」の幻はエゼキエル書においてとても重要な幻です。いずれにしても、「主の霊によって」エゼキエルは引き上げられ、あるいは連れ出されて見るべきものを見せられているのです。
エゼキエルの預言のことばを2500年後に読んでいる私たちも、このような定型の言い回しがきたら、そこは重要な事柄が詰まっている箇所と見て、気をつけて読みましょう。渦中にあったバビロンの長老たちの緊張を共有できるようで興味が増してきますね。
(銘形「エゼキエル書の瞑想」から引用)
2020年6月27日土曜日
2020年06月28日 第4主日礼拝 神の栄光が去る
幸いなことよ、主を恐れその仰せを大いに喜ぶ人は。その子孫は地の上で勇士となり、直ぐな人たちの世代は祝福される。 詩篇112篇1~2節
言(こと)ローグ/342 「礼拝の民」として生きる
ダビデはヘブロンで、主の御前に彼らと契約を結び、彼らはサムエルによる主のことばのとおりに、ダビデに油を注いでイスラエルの王とした。 第一歴代誌11章3節歴代誌第一の1~9章には「系図」が記されています。アダムからはじまって10章の最後の節で、初めて「ダビデ」が登場し、以降、各章の冒頭に「ダビデ」という名前が出ています。つまり、ダビデに焦点を当てることを通して、「ダビデのように」礼拝の民として生きようという意図をもって、歴史が見直されているということです。
ダビデは、戦士であり、詩人であり、音楽家であり、一家の父親であり、イスラエルの王でしたが、結局の所、彼は礼拝者であったということです。彼の業績はまさに、礼拝を改革し、イスラエルの民を礼拝の民へと導いたことでした。ダビデの信念は、「神、主を信じる者であるならば、主のおられるところに必ずいるのだ」でした。 (銘形「歴代誌の瞑想」より引用)
2020年6月21日日曜日
2020年06月21日 第3主日礼拝 罪を悲しむ人たち
主の御名は聖であり恐れ多い。知恵の初めそれは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。主の誉れは永遠に立つ。 詩篇111篇9b~10節
言(こと)ローグ/341 祝福に満ちた望み
実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、・・・祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。 テトスへの手紙2章11~13節
キリストの再臨はキリスト教信仰においてきわめて重要です。それゆえ、サタンは必死になってこの教えを混乱させ、脱線させようとしてきました。ネットで検索すると、聖書から外れた悪魔的な教えもまん延(パンデミック)していますから注意しましょう。
聖書は、「イエス・キリストが再び来られる」と、明言しています。(ヨハネ 14:3、使徒 1:11 など)
再臨信仰は救いの信仰の要(かなめ)です。もしこの信仰が崩されれば、創造の信仰も、十字架と復活の信仰もすべてが宙に浮いてしまうのです。したがって、再臨に対する正しい理解は是非とも必要なのです。内村鑑三はこう述べています。「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその脳髄であろう。再臨なしに十字架は意味をなさない。したがって、私たちクリスチャンは再臨の信仰の立場に立って聖書を通観し、今の世界を見る必要がある」と。
(銘形「再臨と終末預言」から一部引用)
2020年6月13日土曜日
2020年06月14日 第2主日礼拝 偶像礼拝者たちの横顔
主のみわざは偉大。それを喜ぶすべての人に尋ね求められるもの。そのみわざは威厳と威光。その義は永遠に立つ。主はその奇しいみわざを人の心に刻まれた。 詩篇111篇2~4節
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言(こと)ローグ/340 タンムズ(崇拝 )
この方は私を主の宮の北の門の入り口へ連れて行かれた。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた。 エゼキエル書8章14節
2020年6月6日土曜日
2020年06月07日 第1主日礼拝 終局が来る
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。 その恵みは とこしえまで。だれが主の大能のわざを告げ 主の誉れのすべてを語り聞かせることができよう。幸いなことよ さばきを守る人々いかな るときにも正義を行う人は。
詩篇106篇1~3節
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言(こと)ローグ/339 座る(スンカティゾー)
しかし、あわれみ豊かな神は、キリスト・イエスにおい て、ともによみがえらせ、ともに天の所に(共に)すわらせてくだ さいました。 エペソ人への手紙2章4a、6節
キリストにある者は、神の働きや敵との霊的な戦い以前に、常 に、天にあるキリストと共にあるという立場を保つことが何より重 要です。ちなみに、エペソ人への手紙の鍵語は「座す」「立つ」 「歩む」の三つです。しかしその中で最も大切なことは、「座す」 こと、つまり、自分のキリ ストにある立場を知ること です。このことが後の「立 つ」「歩む」を支えていく からです。健康な赤ちゃん が「お座り」できるように なり、つかまり「立ち」に なり、「歩く」という体験 をして成長しますが、霊的 な原則も同じ順序ですね。 (銘形 エペソ書の瞑想より一部引用)
2020年5月31日日曜日
2020年05月31日 ペンテコステ礼拝 髪とヒゲ
主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。 詩篇105篇1~2節
言(こと)ローグ/338 聖霊(ハギオ・ニューマ)
聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。 使徒の働き1章8節
聖書では、聖霊のシンボルとしては、「鳩」を除けば、「風」「息」「水」「火」「雨」「露」のような自然現象で表わされています。それらはみな定まったかたちというものを持ちません。聖霊は完全に独立したペルソナ(位格)ですが、御父と御子から一時も切り離すことのできない方であり、永遠に御父がおられるところに聖霊も存在し、御子がおられるところにも同時に存在しておられる方なのです。
それでは、クリスチャンとご聖霊の関係はどうでしょう。次のイエス様の分かりやすい説明に耳を傾け、感謝しましょう。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」 (ヨハネ14;26) (銘形「聖霊の瞑想」より引用)
2020年5月23日土曜日
2020年05月24日 第4主日礼拝 三つの教え
私は、いのちの限り主に歌い、生きる限り私の神をほめ歌います。私の心の思いがみこころにかないますように。私は主を喜びます。 詩篇104篇33~34節
言(こと)ローグ/337 パン(レヘム)
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」 マタイの福音書4章4節(協会共同訳)
2020年5月17日日曜日
2020年05月17日 第3主日礼拝 エゼキエルの召命②
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。
詩篇100篇1~3節
言(こと)ローグ/336 湧き水と水ため
わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めめを、自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、こわれた水溜めを。 エレミヤ2章13節
エゼキエルに先行してバビロン捕囚までの最も厳しい時期に主の預言者として奉仕したのがエレミヤです。上記、同書2章13節は、彼の第一声でした。
イスラエルが、神に対して犯した「二つの悪」とは、湧き水である真の神を捨て、水を溜めることのできない、こわれた水溜めを掘ったことでした。水溜めを掘るというのは、異教の軍事勢力と手を結んでその場しのぎをしたついでに、偶像を慕っていった行為です。これは、だれが見ても愚行というほかありません。王も、祭司たちも、当時の預言者たちでさえ主の愛から離れ、虚しい偶像や偶像を取り囲む敵に取り込まれていったのでした。
湧き水を捨て、溜め池を掘るという行いは愚かですが、現代では、溜め池は、神様を信じない思想(イデオロギー)であり、科学であり、経済であり、残念ながらその影響力は甚大です。
私たちは、聖書と天地創造の神さまと御子イエスさまを信じ従うイデオロギーを持って生きていますが、世界は、過小評価しています。クリスチャンは、声は小さくても、不信仰のイデオロギーに棹(さお)さすものとなっていくべきですね。 (銘形「エレミヤ書」より一部引用)
2020年5月10日日曜日
2020年05月10日 第2主日礼拝 エゼキエルの召命①
幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。 詩篇119篇1~2節
言(こと)ローグ/335 エゼキエルとエレミヤ
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。 詩篇119篇105節
エレミヤ書がエルサレムの滅亡前に語られた40年間の神のことばの記録だとすれば、エゼキエル書はユダの民のバビロン捕囚の最中で語られた神のことばの記録です。エゼキエルは捕囚となった民の中から預言者として召され、神のみこころを伝えた人です。エゼキエル書は多くの幻による表現、および象徴的用語のゆえに困惑させられますが、年代順に整理されて書かれているので、その点はエレミヤ書よりもわかりやすいかもしれません。名前の意味は、エゼキエルが、「神によって力づけられた者(又は、神は強い)」で、エレミヤが「主は高められる」です。エレミヤが独身の預言者だったのに対して、エゼキエルは、妻帯者でした。どちらも、み民イスラエルにみことばを道を照らす光として教え導いた人たちです。以下、まとめた比較表です。
(銘形「エゼキエルのプロフィール」より引用)
2020年5月2日土曜日
2020年05月03日 第1主日礼拝 天が開け、見た幻
私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。 詩篇138篇1~3節
言(こと)ローグ/334 天が開けて見た幻
しかし、聖霊に満たされじっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。 使徒の働き7章55~56節
エゼキエルが神からの召命を受ける時に、「天が開け」ました。この表現は旧約ではこの箇所だけです。新約では7回この表現が使われていますが、すべて神の歴史において意味のある重要な時点です。以下は、上記、使徒の働き以外の6カ所です。
(1) イエスの公生涯に入る前の洗礼を受けた後で(マタイ3:16、マルコ1:10、ルカ3:21、ヨハネ1:51)
(2) 異邦人への福音宣教の準備をさせるためにペテロに対する幻の中で(使徒10:11)
(3)キリストの再臨のヴィジョンをヨハネに見せるため(ヨハネ黙示録19:11)
エゼキエルは、自分が見た神の幻や顕現を文字で表わしています。特に1章にある幻はなかなか理解できないためか、エゼキエル書は他の預言書よりも読まれないようです。
しかし、ご聖霊の助けでこの書を理解することができるなら、彼の見た幻と感動を共有することになり、大きな祝福を受けることができます。 (銘形「エゼキエル書の瞑想」より引用)
お知らせ
5月2日、11:30am より5月定例役員会が電子会議の形でもたれます。5月以降の集会の持ち方や、集会の再会の時期や形態について話し合います。
2020年4月26日日曜日
2020年04月26日 第4主日礼拝 嘆きが喜びに
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。 私のたましいがあなたをほめ歌い、押し黙ることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。 詩篇30篇11~12節
言(こと)ローグ/333 歴史は神の作業場
バビロンの川のほとり、そこに、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。どうして私たちが、異国の地で主の歌を歌えるだろうか。 詩篇137篇1、4節
エレミヤ書が、預言者エレミヤによりエルサレムの滅亡前に語られた40年間の神のことばの記録だとすれば、エゼキエル書はユダの民のバビロン捕囚の最中で語られた神のことばの記録です。エゼキエルは捕囚となった民の中から預言者として召され、神のみこころを伝えた人で、エステルと同時代の人です。
エゼキエル書は多くの幻による表現や象徴的用語のために難解と言われますが、年代順に整理されて書かれているので、その点ではエレミヤ書よりわかりやすいかもしれません。預言書は歴史を舞台に語られていますから、預言者の生きた時代を知ると興味が増します。歴史は神の作業場なのです。 (銘形「エゼキエル書の瞑想」より引用)
※次週からの礼拝は、エゼキエル書の講解メッセージが始まります。エゼキエルは、エステル、モルデカイと同時代の預言者です。なお、第5週は伝道メッセージの予定でしたが、集会が開始されるまでの間は、聖書人物説教をいたします。
2020年4月19日日曜日
2020年04月19日 第3主日礼拝 三つの必ず
幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。まことに、彼らは不正を行わず、主の道を歩みます。 詩篇119篇2~3節
聖書箇所
言(こと)ローグ/332 私の目を開いてください(ガル・エナイ)
私の目を開いてください。私が、目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。 詩篇119篇18節
エマオ村に急ぐ二人の弟子は、復活されてイエスと話していて「心が燃える経験」をしたので、さらに、より深く、もっと話を聞きたいと思い、(イエスを)自分たちの家に「泊まるように」と無理に願ったのでした。
弟子たちが、自ら聖書が言わんとすることをより正しく理解しようとして、神に尋ね求めようとする時、さえぎられていた「目が開かれた」のです。重要なことは、みことばが説き明かされて心燃える経験は聖霊のみわざですが、重要で喜ばしいことは、弟子たちの自発性でした。
(銘形「ルカの福音書」より一部引用)
2020年4月11日土曜日
2020年04月12日 第2主日礼拝 死から復活したイエス
(イエスは)ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。 ルカの福音書24章6~7節
言(こと)ローグ/331 心を開かせる (ディアノイゴー)
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」 ルカの福音書24章45~48節
イエスの復活をすぐには信じない弟子たちもいました。聖書(旧約)とイエスの教えを悟っていなかったからです。上記、復活後のイエスの顕現のカ所には、悟らせるために「心を開かせる」必要があった、心を「開く」と訳された原語は「ディアノイゴー」です。このことばは、「ディア(閉じたまぶたを引き離す)」+「アナ(再び)」+「オイゴ―(開く)」から成っている合成語です。エマオの二人の弟子たちの目が「開かれ」、イエスだとわかった(24:31)や、「主はルデヤの心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた(使徒16:14)など、心を開くという意味は、聖書の知的理解を促すことばです。主によって心が開かれなければ、聖書を悟ることはできないことを教えられます。「心が開かれる」ことと、「知恵と啓示の御霊が与えられること」とは同義です。
(銘形「ルカの福音書の瞑想」より引用)
2020年4月4日土曜日
2020年04月05日 第1主日礼拝 十字架上のイエス
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 ピリピ人への手紙2章6、8節
言(こと)ローグ/330 ピラトの尋問
ピラトは、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人(イエス)には罪を認めません。 ヨハネの福音書18章38節
信仰告白(使徒信条)の中には、ローマ総督ピラトの名前があり、私たちの教会では毎週礼拝の中で唱えられる名前です。十字架の金曜日の朝、ユダヤ最高議会の訴えの中でピラトは何に関心を持ったのでしょうか。
彼が関心をもったのは、イエスが自分をキリストだと言っているという訴えではありませんでした。ピラトが真に関心を持っていたのは、イエスが最後議会から死刑を要求されるほど、憎まれるほど、イエスが何をしたのかということでした。
ですから「あなたは何をしたのですか。」(ヨハネ18:35)とピラトは尋ねています。それに対してイエスは答えず、「わたしの国はこの世のものではない。」と答え、その国の王なのかという問いに「そのとおり」だと答えます。
ピラトにはイエスの言う「王である」ということばが、ローマにとって反逆とは思われず、実際、無害であると判断しました。そして、イエスを訴える者たちに3度も「私は、あの人には罪は認めません」と言い、過越しの慣習に従ってイエスを釈放しようと提案しました。
しかし、ピラトは、議会(主にサドカイ派議員)に扇動された民衆を恐れ、イエスを十字架刑にする結審をします。結局は、政治決着です。しかし、このピラトも神の救いのマスタープラン(青写真)が完成されていくための器の一人とされました。イエスの十字架によって、私たちは救われたのです。
今週は、受難週で4月10日は、ピラトの裁判も行われた十字架の金曜日です。福音書の最後の数章を読み返しながら、十字架の苦しみを通られたイエスさまに感謝しながら過ごしましょう。
(銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)
2020年3月29日日曜日
2020年03月29日 第5主日礼拝 ゲッセマネの祈り
誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい。霊は燃えていても、肉は弱いのです。
マタイの福音書26章41節
言(こと)ローグ/329 教会はイエスの家族①
女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。ご覧なさい。あなたの母です。
ヨハネの福音書19章26、27(部分)節
イエスが十字架の苦しみの中で語られた言葉です。ご自分の母の将来のことを心配して、愛弟子ヨハネに母マリヤを託していることばです。そしてヨハネにも「そこに、あなたの母がいます。」と語っていますが、それ以上の意味もあります。
ヨハネが、イエスを通してイエスの母を自分の母とすることは、イエスと兄弟になったことを意味します。へブル人への手紙2章11節に「主(イエス)は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで・・」と詩篇22篇22節のみことばを引用しています。「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」ということ、つまり新しい神の家族を示唆することばです。イエスこそ兄弟の長子となられたのです。私たちは、イエスの弟子ではなく、弟であり妹です。この関係の変化に目を留めましょう。 (銘形「十字架のイエス」から一部引用)
2020年3月21日土曜日
2020年03月22日 第4主日礼拝 洗足ー弟子たちの足を洗うイエス
人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。しかし、【主】の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れるものの上にある。 詩篇103篇15~17節
言(こと)ローグ/328 謙遜 (タペイノフロスネー)
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 コロサイ人への手紙3章12節
新約聖書では、謙遜(タペイノフロスネー)という言葉は、動詞、形容詞、名詞を合わせると21回も使われている重要語です。
しかし、意外なことに、アリストテレスなどの古代ギリシャ時代も、イエスの時代のコイネーギリシャ語でもこの言葉、タペイノフロスネーは、否定的なことばでした。
土地に対して使われる時は、低地でじめじめした日あたりの悪い価値の低い地所をさしました。人に対して使われるときはもっとひどく、あの人はタペイノフロスネーだというと、信頼できない、能力に欠ける人、パッとしない人、という使われ方をしていました。
しかし、聖書では動詞形、名詞計など計21回、すべてプラスの使い方です。これがクリスチャンが結んでいく徳性、聖霊の実だと言っています。
このことが原因でしょう、仏、スペイン語、英語(humility)などラテン語諸言語のどれも謙遜はポジテブな良い言葉です。つまり、聖書がこの言葉の価値を上げたと言えます。
アフリカで生まれ育ち、牧師、宣教師、講演者として名高いアンドリュー・マーレー(1828-1917)は著書「謙遜」の中で、「謙遜を欠いているのに、熱心で活動的なクリスチャンがなんとおおいことでしょう」と警告を発しています(邦訳42頁)。イエスさまの心に届く愛は、謙遜な歩みをしているクリスチャンに見られるとも語っています。
2020年3月15日日曜日
2020年03月15日 第3主日礼拝 神による逆転劇②
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。 テモテへの手紙第二 4章2節
言(こと)ローグ/327 イエスの洗足
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。 ヨハネの福音書13章14~15節
4月12日は復活日(イースター)で、召天者記念礼拝を予定しています。上掲のイエスの洗足はヨハネの福音書だけに記された有名なエピソードです。
下記は、イエスの最後の一週間を時系列で表にしたもので、次週のイエスの洗足(ヨハネ13章)の前までです。
1.エルサレム入場 マタイ21:1~11 マルコ11:1~11 ルカ19:28~44
ヨハネ12:12~19
2. 宮きよめといちじくの木へののろい マタイ21:12~22 マルコ11:12~26
ルカ19:45~48
3. 神殿での論争 マタイ21:23~23:39 マルコ11:27 ~ 12:44
ルカ20:1~20:47
4. オリーブ山で マタイ24:1~25:46 マルコ13:1~37 ルカ21:5~36
この一週間、時間をとって読んでみたらいかがでしょうか?
2020年3月7日土曜日
2020年3月1日日曜日
2020年03月01日 第1主日礼拝 神による逆転劇
幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえに歩む人々。 幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。まことに、彼らは不正を行わず、主の道を歩みます。
詩篇119篇1~3節
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言(こと)ローグ/326 イエスの「最後の一週間(受難)」
シオンの娘よ、大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子のろばに。 ゼカリヤ書9章9節
(銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)
2020年02月23日 第4主日礼拝 モルデカイに神の時
家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石になった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。これは、主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。
詩篇118篇22~24節
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言(こと)ローグ/325 神のドラマの舞台裏
ヨブは主に答えた。あなたには、すべてができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。 ヨブ記42章2節
2020年2月16日日曜日
2020年02月16日 第3主日礼拝 神の子キリスト
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。 ヨハネの福音書10章9節
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聖書のことば
イエスは、弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか。」とお尋ねになった。
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちは、エレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
イエスは、彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えた。「あなたは、生ける神の子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えられたた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」
マタイの福音書16章13~17節
2020年2月9日日曜日
2020年02月09日 第2主日礼拝 エステルの知恵
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。さあ、主を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」 詩篇118篇1、4節
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言(こと)ローグ/324 神聖四文字(ヤーヴェ)
エステルは答えた。「もしも、王様がよろしければ、今日、私が王様のために設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください。」 エステル記5章4節
2020年2月8日土曜日
2020年02月02日 第1主日礼拝 エステルの決意
すべての国々よ 主をほめたたえよ。すべての国民よ 主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。 詩篇117篇1~2節
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言(こと)ローグ/323 「狼狽」(フール)の中でも
2020年1月26日日曜日
2020年01月26日 第4主日礼拝 エニシダの下の休息
私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったのだから。まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出してくださいました。 詩篇116篇7~8節
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言(こと)ローグ/322 隠れ場(セーテル)
それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかなところに私をかくまい、岩の上に私を高く上げてくださるからだ。 詩篇27篇5節
新共同訳では、つぎのように訳されていますので比較してみましょう。
「災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ、幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ。」
新改訳の「それは」は、その前に記されている事柄すなわちダビデが経験したいろいろな困難をさしています。ダビデも彼のの歩みの中に多くの悩みの日々があったのです。その悩みの日は、ダビデをして主との親しい交わりの中に招く機会となりました。この主との交わりの場こそが、隠れ家でした。そしてダビデは主との深いかかわりの中で、しっかりとした岩の上に高くあげられることを経験したのでした。詩篇31:20も悩みの日の詩です。「あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそやかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。」 上記の27篇と併せて理解すると、「悩みの日」だけでなく、人からの非難や争いを挑む舌から守るためにも、主はダビデを隠れ場に置かれました。このダビデの経験と喜びを私たちのものにするために、主との交わりの場を、困難の時の隠れ家として進みましょう。
(銘形「ヘブル語のキーワード入門」より引用)
2020年1月19日日曜日
2020年01月19日 第3主日礼拝 敵ハマンの本性
私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。主が、私に耳を傾けてくださるので、私は生きているかぎり主を呼び求める。 詩篇116篇1~2節
エステル記3章1~15節
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言(こと)ローグ/321 アマレク人とハマン
さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」 出エジプト記17章8~9節
エジプトから脱出してきたモーセとイスラエル人は、200万人とも言われますが、軍隊組織もない、敵から見れば略奪しやすい「烏合の衆」でした。その彼らを最初に攻撃してきた相手がアマレク人で、これがアマレク人が主の怒りを受けた理由でした。この時モーセが山に登ってアロンとフルに支えられて神に祈り、ヨシュアが兵士らと共に戦い、接戦の末、イスラエル軍が勝利しました。
時代は下り、イスラエルの初代の王サウルの時、「アマレク人の王と民を全滅させなさい」という神の命令に違反して、サウル王は、アマレクの王アガクを助けたことが神の怒りを招き、彼の王権は失墜しました(1サムエル記15:1-11)。この直後、アガクはサムエルに殺されます。エステル記1:1では、ハマンは、アガク人(アガク王の子孫)だと言われていますからユダヤ人を敵とするのはあたりまえでしょう。エステル記でも、モーセの時代と同じくアガク人との闘いは主の戦いになっていきます。
2020年1月18日土曜日
2020年01月12日 第2主日礼拝 養父モルデカイ
主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。主は私たちをみこころにとめ、祝福してくださる。 詩篇115篇11~12節
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言(こと)ローグ/320 みなしご(ヤートーム)
聖書では、社会的弱者に対して深くかかわることを良しとされる神さまが語られています。エステル記では、エステルがおそらく幼い時に両親が病気で亡くなり、ヤートム(みなしご)になったと思われます。「みなしご=孤児」は、出エジプト記22章に始まり、旧約聖書全体で42回、詩篇だけで7回登場する重要語です。以下は詩篇10篇です。
14節「あなたはみなしごを助ける方でした。」
18節「(あなたは)みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から 生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。」
10篇の中には、「悩む人」(2, 9, 9,節)、「不幸な人」(8, 10, 14節)、「貧しい者」(12, 17節)、「しいたげられた者」(18節)など弱者救済の言葉が満載されています。先進国と言われる国では「福祉」ということが叫ばれ、整備されて来ていますが、イスラエルの歴史においては、その国家誕生の時から、主にある福祉国家の理念が確立されていました。超高齢化社会を迎える日本において、「真の福祉」が問われるのはこれからですが、主にある教会もこの世とは異なる形で、真の主の福祉を学び、実現できるようにしなければなりませんね。
(銘形「詩編の恩寵用語」より引用)
2020年1月5日日曜日
2020年01月05日 第1主日礼拝 東方の賢者たち
主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。日の昇るところから沈むところまで、主の聖名がほめたたえられるように。 詩篇113篇1、3節
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言(こと)ローグ/319 東の国から ② 二ムロデ
クシュは二ムロデを生んだ。二ムロデは地上で最初の勇士となった。 創世記10章8節
カインの住んだ「放浪の地」は、神の祝福から外れた地でもあります。「自分を守るために町を建てる者は、カインの子であり、その意志を受け継ぐ者である」と言えるでしょう(エリュール前掲書、50頁)。その最初の有力者は「ニムロデ」です(創世記10:8)。彼はハムの子孫で地上で最初の権力者となりました。ノアの事件でハムに下された罰は、「のろわれよ。カナン(ハムの子)。兄弟たちのしもべとなれ。」でした(創世記9:25)。しもべとなるようにとの宣告を不服として、ハムとその子孫は権力ある者となろうとしたのかもしれません。神に目をそむけた人間の応答は、いつの時代でも権力を得ようとすることに現われます。
地上で最初の権力者となったニムロデは、バベル、エレク、シヌアルなどの町の建設者です。シヌアルは掠奪と破壊の地であり、ニムロデの支配のはじまりの場所でした。このようにニムロデは、信仰の路線から外れた反面教師です。
東方の賢人たちは、この「放浪の地」を出てから愛と真実の神、メシアをを礼拝するためにイスラエルに向かったのでした。 (銘形「クリスマスのわき役たち」から一部引用)
2020年1月1日水曜日
2020年01月01日 元旦礼拝 神に期待する新しい心
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 コリント人への手紙第二 5章17節
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聖書のことば
見よ、わたしは新しいことを行う。
今、それが芽生えている。
あなたがたは、それを知らないのか。
必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、
わたしの民、私の選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのためにわたしが形造ったこの民は、
わたしの栄誉を宣べ伝える。
イザヤ書43章19~21節