2020年12月27日日曜日

2020年12月27日 第4主日礼拝 シメオンの賛歌

招詞
主はご自分のすべての道において正しく、そのすべてのみわざにおいて恵み深い方。主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに、主は近くあられます。
                                詩篇145篇17~18節

聖書箇所
ルカの福音書2章21~39

説教
シメオンの賛歌 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/368 救いの全貌を見る

 私の目があなたの御救いを見たからです。              ルカの福音書2章30節

 シメオンは生粋のユダヤ人ですが、彼の賛歌は、ユダヤ人にとって想定外の内容でした。シメオンは、生後40日の幼子イエスのうちに神の救いの全貌を見たのです。もちろん肉眼で見ることはできません。霊によって見たのです。またその全貌を一つひとつ説明する事はできません。シメオンは、自分の目で神の救いの全貌を見ることができたので、安心して、死ぬことができると語っています(ルカ2:29)。シメオンが見た救いの全貌は、「万民の前に備えられたもの」と語ります。「万民」とは、ユダヤ人も異邦人もということです。異邦人である私たちにはありがたい話ですが、神の選民であると自惚れていたユダヤ人にとってはありがたくない話なのです。事実、イエスの救いはユダヤ人のかたくなさのゆえに、まさに「異邦人を照らす啓示の光」として異邦人に向けられていきます。
「御民イスラエルの光栄の光」という預言が実現するのは、キリストが地上に再臨する前まで延期されます。シメオンの賛歌は私たちに壮大な神の救いの計画の枠組みを与えてくれました。神の御救いの計画の中で今がどういう時代であるかを知ることは、私たちの生き方を主にあって、確かで安らかな生涯へと導くことでしょう。シメオンのように聖霊によって神の御救いの全貌を垣間見させていただく一人とさせていただきたいと思います。
                        銘形「ルカの福音書を味わう」より引用) 

2020年12月19日土曜日

2020年12月20日 クリスマス礼拝 天使たちの賛美

招詞
 私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。            ルカの福音書1章46~47、52節 

聖書箇所
ルカの福音2章1節~21節

説教
天使たちの賛美 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/367 東の博士たちと星
 ヤコブから一つの星が進み出る。イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみを、すべてのセツの子らの脳天を打ち砕く。                   民数記24章17節

 この預言は、後の(250年後)ダビデ王によってある意味では成就しています。しかし、ダビデはひとつの型であって、この民数記のバラムの預言の本体(本型)は、ダビデの子孫から生まれると、約束されたメシア、すなわちイエス・キリストに関する預言だったのです。博士たちはそれを悟ったのでベツレヘムまで来ました。「ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こる。」というその星は、キリストの栄光とその輝きをあらわし、笏はその力と権威をあらわします。「治める」のはこの方なのです。東の博士たちがバラムの預言した「ひとつの星」を見て悟ったように、私たちもイエスの初臨を喜ぶことが一つ、そして、神の救いの歴史の完成にしっかりと目を据えながら、キリストの再臨を予告する「ひとつの星」に心を向けて歩み続けたいと思います。                        (銘形「アドベントの瞑想」より引用) 

2020年12月13日日曜日

2020年12月13日 第3アドベント礼拝 ザカリヤの賛歌

招詞
 神よ 私を探り 私の心を知ってください。 私を調べ 私の思い煩いを知ってください。私のうちに 傷のついた道があるかないかを見て 私をとこしえの道に導いてください。 
                                詩篇139篇23~24節

聖書箇所
ルカの福音書1章57節~80節

説教
ザカリヤの賛歌 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/366 クリスマスと仮庵のまつり
 さて、(仮庵の)祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
                             ヨハネの福音書7章37~38節

 ザカリヤがアビヤの組の祭司であったこととヨハネが6カ月早く生まれたことからイエスの生まれた日をある程度特定する研究があります。そして、この仮庵の祭り(スコット)のころがそうだと言われます。今年は10月2日から一週間でした。イエスさまは、仮庵の祭りの最終日、祭りに来た人々に大声で語りかけたのです。人々がこの祭りに来ながらも(それは礼拝に来ることと同義)、何ら満たされることなく帰途に着こうとしていた、そしてその心の渇きをご覧になったイエスが、声を張り上げて語ったとしても決しておかしくありません。私たちも信仰生活を送っていくとき、いつの間にか礼拝や交わりや奉仕が単なる義務のように感じたりすることもあるかも知れません。アドベントのこの季節、イエスの来臨を感謝し、イエスのみ言葉を福音書から読むことができる幸せを実感し、心の渇きが癒されますように。 (銘形「アドベントの瞑想」より一部引用)

2020年12月6日日曜日

2020年12月06日 第2アドベント礼拝 人の間に住まわれたイエス

招詞
 主よ地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。彼らがあなたの口の みことばを聞いたからです。彼らは主の道について歌うでしょう。主の栄光が大きいからです。まことに 主は高くあられますが低い者を顧みてくださいます。しかし高ぶる者を遠くから見抜かれます。 
                                 詩篇138篇4~6節 

聖書箇所
ヨハネの福音1章1節~18節

説教
人の間に住まわれたイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/365 まことの光
 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。   ヨハネの福音書1章9節

 イエス・キリストだけが、「わたしが 道であり、真理であり、いのちなのです。(ヨハネ14:6)」と言いました。イエスは、単に生きるべき道を示したのではなく、ご自身が道そのものであり、イエスを信じて従う者は罪から救われると言いました。 イエスは、すべての人を照らす光です。一部の人をではなく世界に住む72億人すべての人を照らす光です。しかし、次の10節には、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」とあるように、そのことを人間は知りませんでした。イエスの愛弟子ヨハネは、こう書いています。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと 見、また手でさわったもの。すなわちいのちのことばについて。(1ヨハネ1:1)」と。つまり、イエスが、弟子たちの肩にふれたとき、それは万物を創造した神がふれたのです。にこっとイエスがほほ笑んでおられたとき、それは神がほほ笑んだのです。「ペテロ」と話しかけられたとき、それはこの全宇宙を造られた神が彼に語られたのです。ヨハネは、このような、ものすごいことが起こっていたのだと後になって気づいたのです。嬉しい驚きでした。 12節は、私たちにとってクリスマスメッセージとなります。「この方イエスを受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」イエスさまを信じて神の子どもとされたことに感謝しつつ、待降節の時を過ごしましょう。 

2020年11月29日日曜日

2020年11月29日  第1アドベント礼拝 インマヌエルの主イエスさま

招詞
 心を尽くして私はあなたに感謝をささげます。恵みとまことのゆえに御名に感謝します。私が呼んだその日にあなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。 
                                  詩篇138篇1~3節 

聖書箇所
マタイの福音書1章18節~25節
イザヤ書7章14節

説教
インマヌエルの主イエスさま 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/364 夢と預言者
 ヨセフは立って幼子とその母を連れてイスラエルの地に入った。しかし、アルケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行くのを恐れた。さらに、夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。
                             マタイの福音書2章21~22節

 マタイの福音書 1:20、2:12、13、19、22では、夢で神の御心がヨセフに伝えられます。イスラエルに預言者の活動がなかった時代、つまり、族長アブラハムの時代には夢で神は後に起こることを語り、かつ警告しました。しかし、預言者たちが登場するようになってからは、夢による啓示はなくなります。ところが、預言者マラキを最後にヨセフたちの時代まで預言者は途絶えています。そして、ヨセフの時、再び神様は夢を通して、今度は、はっきりと救い主の登場にかかわる預言が成就するためと踏みなおしをなさいます。「天の御国」(神の恵みによるすばらしい統治)を告げ知らせるべく真の預言者であるイエスの出番がやって来たのです。私たちには、神からの手紙である聖書があるので、ヨセフのように夢を見て神の御心を求める必要はありませんし、いつでも、聖書から神の御心を探ることができます。幸いなことですね。
                        (銘形「アドベントの瞑想」より一部引用) 

2020年11月21日土曜日

2020年11月22日 第4主日礼拝 大きなワニ、ファラオ

招詞
 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。神の神であられる方に感謝せよ。ただひとり大いなる不思議を行われる方に。       詩篇136篇1~2、4節 

聖書箇所
エゼキエル書29章1節~21節

説教
大きなワニ、ファラオ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/363 イエスに留まる②

 「来なさい。そうすればわかります。わたしに従って来なさい。」
                             ヨハネの福音書1章39、43節 

 イエスは、「御国の福音」を宣べ伝えるために、その最初の働きとして弟子たちを呼び出されました。その弟子たちは、ユダヤ当局から「無学のただの人」と呼ばれたように、この世で評価される者たちではありませんでした。
 イエスは、群衆を決して無視しないにしても、次第に、「ただの人」であっても学ぶ意欲のある少数の弟子たちの訓練に専念するようになります。
 イエスの方法は、弟子を選抜して召しただけでなく、少数の弟子たちと「ともにいる」ことでした。つまり、弟子たちが「天の御国の奥義を知ること」(マタイ13:11)を許されたのは、弟子たちに師であるイエスと「ともにいる」「とどまる」という親しい交わりをもたせるためであったのです。
 聖霊という真の教師が与えられるまで、弟子たちが知り得たことは限られていましたが、イエスと寝食を共にしてその教えを聞いていたことが重要であったのです。
 私たちは皆、聖霊という真の教師をいただきながら、主イエスさまと共にいることができます。感謝しつつ歩んでいきましょう。 
                       (銘形「一滴の雫シリーズ」より一部引用) 

2020年11月14日土曜日

2020年11月15日 第3主日礼拝 ツロ王国と闇の支配者

招詞
 見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまた、ヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。     詩篇130篇13節

聖書箇所
エゼキエル書28章1節~26節

説教
ツロ王国と闇の支配者  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/362 イエスに留まる
 彼ら(弟子たち)は言った。「ラビ(訳すと、先生)、どこにお泊まりですか。」 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。そしてその日、イエスのもとにとどまった。
                             ヨハネの福音書1章38~39節

 弟子たちがイエスとともにいることで、御国の福音のすべてを理解できるわけではありません。しかしイエスの近くにいることによって、イエスにとどまることによって、その可能性は大きく開かれていたのです。教会の集会に出席し、多くの事柄を学びつつも、理解できない事柄が多くあるかもしれません。しかし、その場にいて、耳にしていることが重要なのです。そのときには理解できなくとも、やがて聖霊の助けによって神の奥義を理解するようになるからです。コロナ禍でも集会やYoutubeでみ言葉を聞くことはとても大事ですね。 (銘形「一滴の雫シリーズ」より引用) 

2020年11月8日日曜日

2020年11月08日 第2主日礼拝 ツロ王国の最後

招詞
 主が、私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜んだ。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え泣きながら出て行く者は、束を抱え 喜び叫びながら帰って来る。                             詩篇126篇3、5~6節 

聖書箇所
エゼキエル書27章1節~36節

説教
ツロ王国の最後 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/361 漁師たち
 イエスは、ペテロとアンデレに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。  マタイの福音書4章19~20節 

 マタイの福音書によれば、イエスは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネにも声を掛けて弟子として招きます。そして彼らもすぐに網を捨ててイエスに従ったことを記しています。エレミヤ書16:14~16を読むと、イエスの最初の弟子となった者たちが漁師であったということには必然性があったように思えます。「漁師」という語彙が持つ概念は、漁(すなど)る(新改訳2017では、「捕まえる」)ことです。見よ、その時代が来る ──主のことば──。そのとき、『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして──主のことば──彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。マタイの福音書とエレミヤ書の共通点は、神様の救いのマスタープランの達成にむけて、罪の結果、神の道から迷い出たイスラエルを神が呼び戻すために預言者や、主イエスの弟子たちを招き寄せ、天の御国の道に彼らを招き案内する働きに着かせたことです。私たちにとっての御国への案内状は、預言者や主の弟子たちが霊感により筆記した聖書のみ言葉であり、教会のクリスチャンたちでした。感謝しましょう。
                       (銘形「一滴の雫シリーズ」より部分引用) 

2020年11月1日日曜日

2020年11月01日 第1主日礼拝 旧友だったツロ王国も

招詞
 主に信頼する人々は、シオンの山のようだ。揺るぐことなくとこしえにながらえる。エルサレムを山々が取り囲んでいるように、主は御民を今よりとこしえまでも囲まれる。
                                  詩篇125篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書26章1節~21節

説教
旧友だったツロ王国も 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/360 心の準備
 イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。 マタイの福音書9章9節

 心の準備など一切ないと思われるところでも、イエス様は、人の想像を超える圧倒的な、はかりがたい権威をもって人を召し出されます。マタイ9:9でも、イエス様が収税人マタイをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と一言、言っただけで、彼はすぐに立ち上がって従ったとあります。今日、メシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)と言われる人の多くはそのような招きを受けるようです。それゆえ、彼らの多くが親から勘当されると言います。イエス様の招きに即座に従うということは、きわめて不思議な出会いと言えますが、それは神が彼らをずっと以前に選び分けられていたからだと言えます。使徒パウロのようです(ローマ1:1参照)。福音を聞いた時、聖書の知識も心の準備もなく、イエス様を信じる決心をした方もおられるでしょうか。神様は、しかし、すでに私たちを知っておられたということを驚きと感謝をもって受けとめましょう。 
                          (銘形「一滴の雫シリーズ」より引用) 

2020年10月24日土曜日

2020年10月25日 第4主日礼拝 宗教改革記念礼拝 ルターの伝えた信仰

招詞
 主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。昼も日があなたを打つことはなく、夜も月があなたを打つことはない。主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。                                詩篇121篇5~7節 

聖書箇所
ローマ人への手紙3章1節~28節

説教
ルターの伝えた信仰 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/359 キリストの流された血
 
 すべての人は、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
                            ローマ人への手紙3章24~25節

 ルターに信仰義認の目を開かせた聖句です。キリストの流された血潮は、過越しの記事に照らすと、神のためのものです。出エジプト記11章の過越しの夜の場面を想像してください。「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう」(出エジプト11:12, 23)ということばです。主がエジプトの地を打つために行き巡られるとき、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、その中にいる者たちには滅びのわざわいは起こらないという約束です。この約束を民は信じてそのようにしたので、さばきから免れることができたのです。ここに、血は、人のためにではなく神のために提示されました。というのも、血はかもいと柱に塗られていたので、家の中で食事をしている人には見えなかったからです。「神がその血を見られて」そこを過ぎ越されたのです。この神は、新約時代に生きる私たちにとっても同じ神です。傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの尊い血をご覧になられたときにご自身の義を満足させ、人の罪に対する神の怒りはなだめられたのです。キリストの血はそのような力を持っているのに気づいておられましたか。                    (銘形「ローマ3:24解説」より引用) 

2020年10月18日日曜日

2020年10月18日 第3主日礼拝 神の民をあざける国々

招詞
 私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。
                                  詩篇121篇1~3節 

聖書箇所
エゼキエル書25章1~17節

説教
神の民をあざける国々 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/358 主の定め

 私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。・・・』                            詩篇2篇7節 

 御国の奥義を悟るための5つのポイントです。この奥義を悟ることは、「主の定め」を理解するということです。なぜなら、メシア詩篇と言われる詩篇2篇7節に、「私は主の定めについて語ろう」とあるからです。ここの「私」とは、御子イエスのことです。つまり、「主の定め」とは、御国(神の国)の秘められたご計画とみこころ、御旨と目的を意味しています。 
 主の定めの中味です。「御国の奥義」のたとえは、
① イエスが語り、そして実現・完成されるもの。
② 神のご計画とみこころ、御旨と目的にそって理解すべきこと。
③「すでに」(初臨)と「いまだ」(再臨)という終末的緊張関係の中で理解すべきこと。
④ 聞く者に信仰的決断を促していること。
⑤ 御国の民となる者とそうでない者とを分けると教えていること。 
 これらのポイントを基に、マタイ13章1~51節にある「天の御国の奥義」の全体を少なくとも3度は読み、そこから受ける印象を味わってみたらいかがでしょう。
                          (銘形「一滴の雫シリーズ」から引用) 


2020年10月10日土曜日

2020年10月11日 第2主日礼拝 10月10日が来る

招詞
 主よ私はあなたの救いを慕っています。あなたのみおしえは私の喜びです。私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。             詩篇119篇174~175節

聖書箇所
エゼキエル書24章1~27節

説教
10月10日が来る 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/357 耳のある者は聞きなさい
 そのとき、正しい人たちは彼らの父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。                             マタイの福音書13章43節

 マタイ13章34~43節にあるイエスの5つのたとえ話説教の続きです。先週のことローグに書いたように、この5つのたとえは、内容から、キアスムス(くさび型)構造になっていて、イエス様の強調点は中心の部分が、上記43節にあるということでした。 
 この部分の34~43節の聴衆は二組に分かれます。34~35節の部分が「群衆」に対してで、しかもこの話は家の外で語られたものです。36~43節の部分は「イエスの弟子たち」に対して語られたもので、家の中で、弟子たちの質問に答えて語られたものです。しかも、その最後には、13章9節にあった「耳のある者は聞きなさい」というフレーズがあります。 
 特に、マタイは「耳のある者は聞きなさい」の「耳のある者」とは、みことばを聞いてそれを悟る人のことです。何を悟るのかが問題です。聞いて悟る者が実を結ぶのです。それが御国の奥義なのです。私たちが御国の奥義を悟るとはどういうことでしょうか。 
 この奥義を聞いて悟る者、実を結ぶ者にならせていただきたいものです。次回は、御国の奥義のたとえが含む5つの事柄について学びます。       (銘形「一滴の雫シリーズ」から引用) 

2020年10月4日日曜日

2020年10月04日 第1主日礼拝 オホラとオホリバ

招詞
 あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です。    詩篇119篇103、105節  

聖書箇所
エゼキエル書23章1節~49節

説教
オホラとオホリバ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/356 キアスムス(くさび構文)
 「私は口を開いて、たとえ話を、世界の基が据えられたときから隠されていることを語ろう。」 マタイの福音書 13章35節 
 前回、マタイの福音書5~25章には五つの説教がサンドイッチのように挿入されているとご紹介しました。この五つは、意味上a-b-c-b'-a'のように配置されていて、これをキアスムス(くさび型)構文と言います。これは、読者の関心を引くための旧約聖書由来の美しいヘブル語文章術です。前回の3番目、キアスムスのcにあたるのが、<3. 天の御国の奥義の説教(マタイ13章)・・御国の到来の奥義>です。そしてこれが、最も重要な奥義としてイエス様が教えようとなさったことです。更に、この13章を概観すると、図のようにそこにもキアスムス構文があります。 
次回は更に掘り下げて見ていきます。       (銘形「一滴の雫シリーズ」より部分引用) 

2020年9月26日土曜日

2020年09月27日 第4主日礼拝 破れ口に立つ者

招詞
 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。      詩篇119篇72~73a節 

聖書箇所
エゼキエル書22章1節~31節

説教
破れ口に立つ者 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/355 天の御国 ② 
 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。」      マタイの福音書13章11、13節 

 天の御国の奥義(共同訳では「秘密」)は、以下に示すように、マタイの福音書 5~25章のイエスの5つの説教の中心に位置していて、サンドイッチのように前後2つずつの説教
に挟まれています。
1. 山上の説教(5~7章)・・・・御国の憲章
2. 御国の民の使命の説教(10章)・・御国の福音の宣教策
3. 天の御国の奥義の説教(13章)・・御国の到来の奥義
4. 御国の民の関係の説教(18章)・・御国の民同志の関係
5. 終わりの日の説教(24~25章)・・御国の完成前に起こる出来事
この5つの説教で最も中心にあるのが、3番目の「天の御国の奥義の説教」です。なぜなら、イエスの教え宣教、癒しも奇跡もすべて御国のことを示唆するものだからです。イエスの関心のすべてはこの「天の御国」(=神の支配)にあったからです。次回は、「天の御国の奥義の説教」全体を概観します。                    (銘形「一滴の雫シリーズ」より部分引用) 

2020年9月19日土曜日

2020年09月20日 第3主日礼拝 苦しみと希望

招詞
 私は心を尽くしてあなたに乞い求めます。みことばのとおりに私をあわれんでください。私は自分の道を顧みてあなたのさとしの方へ足の向きを変えました。    詩篇119篇58~59節
  
聖書箇所
エゼキエル書20章49節~21章32節

説教
苦しみと希望 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/354 天の御国 

 この時からイエスは宣教を開始し、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われた。
                                マタイの福音書4章17節

 イエスの公生涯はマタイ4章12節から始まっています。マタイは他の福音書のように「神の王的支配」(神の国)という表現を使わず、「天の御国」という表現を使っています。これは「神」という表現を「天」と言い換えたヘブル的伝統によるものです。ヘブル語の「マルフート・ハッシャーマイム」をそのままギリシア語で「天の御国」と訳しています。これは、マタイ独自の表現です。それはマタイの福音書が、その完成のプロセス(例えば草稿の段階)でヘブル語で書かれたものであることを表わしています。
 さて、神が王としてイスラエルの民を治めるために、王である神がこの地において統治するためには、以下の三つの要素が不可欠でした。
(1)王の民の存在 それはクリアしました。エジプトで奴隷となって苦し んでいたイスラエルの人々を神は救い出して合意の元で神の民となることを約束したのですから。
(2)領土、やがてヨシュアを通して与えられます。
(3)神の定めた律法の賦与 この律法は王の法であり、王の憲章です。こ れがなければイスラエルの民は烏合の衆でしかありません。
 しかし、残念ながら、預言者サムエルの時、イスラエルの民は他の国々と同じ世俗の王を望みました。 従って、長い間の曲折を経て、イエスにおいて、やっと真の神の国の民が招集されたことになりました。                   (銘形「天の御国の王イエス」から引用) 

2020年9月12日土曜日

2020年09月13日 第2主日礼拝 背く者も捨てない神

招詩

私の口は あなたの誉れを告げ知らせます。まことに私が供えても あなたはいけにえを喜ばれず 全焼のささげ物を望まれません。神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ砕かれた心。

                                 詩篇51篇15~17節 

聖書箇所

エゼキエル書20章1節~49節

説教
背く者も赦す神 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/353 イエスの「ハプトー(さわる)」ミニスト

 イエスがある町におられたとき、見よ、全身ツァラアトに冒された人がいた。その人はイエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります。」イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐにツァラアトが消えた。                      ルカの福音書5章12~13節 

 「さわる」と訳されたギリシャ語は「ハプトー」で、新約では39回使われています。多くは、人がイエスに触る場合ですが、そこには人々の切迫感があります。イエスによりすがり、しがみつこうとする姿があります。一方のイエスのさわりは、人に対する憐みが込められています。人格的なかかわりがあります。十把一絡げに「タッチ!」と叫んで癒すやり方とは違います。一人一人に対して憐みをもって手で触れているのです。「ハプトー」は、旧約では、ヘブル語の「ナーガ」に相当します。どちらも、神と人との双方に強い親近感が存在しています。イエスはそのようなかかわりをもって、全身ツァラアトの人に対して「さわった」(アオリスト時制)のでした。つまり一回限りの行為でしたが、そのツァラアトはあとかたもなく、完全に消え去ったのです。彼は、不当にのけ者にされ、人格さえも否定されていた人でしたが、イエスに強い信頼をいだいていました。私たちもツァラアトの人の熱心さと切迫感をもってイエスにすがることができます。イエスは、あわれみと愛を込めてあなたの心に触れてくださいます。  (銘形「ルカの福音書を味わう」より引用)

2020年9月6日日曜日

2020年09月06日 第1主日礼拝 ライオンとブドウの木

招詞
 私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。私は地では旅人です。              詩篇119篇18~19節  

聖書箇所
エゼキエル書19章1節~14節

説教

ライオンとブドウの木 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/352 二つの系図

 イエスは、働きを始められたとき、およそ三十歳で、ヨセフの子と考えられていた。ヨセフはエリの子で。。。                          ルカの福音書3章23節

 マタイの福音書1章とルカの福音書3章には、イエス・キリストの系図があります。この系図における重要性は、マタイにある系図がアブラハムで止まっているのに対して、アダムまで遡っていることです。それは、人間の罪の源泉であるアダムまで遡り、イエスを最後のアダムとして「踏み直し」を図る存在であることを示唆しています。「ヨセフはエリの子で」とありますが、実は、これはマリア側の系図で、へブル的に夫の名前で書き始める習慣です。ルカの福音書は、ユダヤ人以外の全世界の人たちへの福音を語るのが目的でした。それで、イエスを最後のアダムとして位置づけ、アダムによってもたらされた罪の重荷から人類を解放する救い主であることを指し示そうとしています。一見、無味乾燥に見える系図からも深い学びができますね。

                       (銘形「ルカの福音書を味わう」より抜粋) 

2020年8月30日日曜日

2020年08月30日 第5主日礼拝 マグダラのマリア

招詞
 私たちは御前に生きる。私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、地を潤す、後の雨のように。                  ホセア書6章3節 

聖書箇所
ヨハネの福音書20章1節~18節

説教
マグダラのマリア 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/351 主の祈り ① 父よ

 イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。 『父よ、御名が聖なるものとされますように---』」
                               ルカの福音書11章1~2節

 御父とイエスとの関係は私たちの想像を絶するような深い、親密な、永遠の関係です。そこにはゆるぎない永遠の信頼関係がみられます。そのかかわりを、使徒ヨハネは「永遠のいのち」と呼んでいます。そこに私たちを招こうとしているのが、イエスの言う「父よ」という呼びかけです。しかし、この「父よ」という呼びかけは、生来の私たち人間には簡単にできることではないのです。使徒パウロは、「私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます」(ローマ8:15)と述べています。これは「子としてくださる御霊を受けなければ言うことの出来ない呼びかけ」なのです。
                        (銘形「主の祈りの瞑想プラン」より引用) 

2020年8月23日日曜日

2020年08月23日 第4主日礼拝 悔い改めて生きなさい①

招詞
 どのようにして若い人は、自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。私は心を尽くしてあなたを求めています。 詩篇119篇9~10a節 

聖書箇所
エゼキエル書章18節~1章32節

説教
悔い改めて生きなさい① 田口勇新牧師
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※メッセージに一部誤りがありましたので、訂正しお詫び申し上げます。

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言(こと)ローグ/350 生けるキリスト

 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
                               マタイの福音書16章16節

 インドの聖者と言われたサンダ-・シング(1889~1929)が英国に伝道したときのことである。ひとりの近代主義神学者が、「あなたをインド教からキリスト教に改宗させたもの、キリスト教のみにあってインド教の中にないものは何だったのでしょうか」と質問しました。彼は一言、「それは生けるキリストです」と答えた。すると教授は、不満そうに再び尋ねた。「いや、私がおうかがいしたいのは、キリスト教の中には、インド教とは全く異なったどのようなすばらしい神学や教理があったかということなのです。」 サンダ-・シングは、「神学や教理ではなく、生けるキリストご自身です。」と答えた。教授は不服そうに、「たぶん、私が質問しようとしていることの意味を、あなたに充分伝え得なかったのでしょう。私がお尋ねしていることは、キリスト教の中には、インド教と比較してどのようなすばらしい哲学、あなたをキリスト教に改宗せしめるに充分であった神学、思想があったのですか、という意味なのです。」 サンダ-・シングは重ねて答えた。「それは、生けるキリストでした。」
 サンダ-・シングに言われるまでもなく、聖書を読み、礼拝説教を聞き、クリスチャンの証(体験談)を聞いて、生けるキリストとの出会いを体験することが、神のいのちに生きる出発点であり、中心です。

2020年8月16日日曜日

2020年08月16日 第3主日礼拝 みごとな杉の木

招詞
 幸いなことよ全き道を行く人々、主のみおしえに歩む人々。幸いなことよ、主のさとしを守り心を尽くして主を求める人々。まことに彼らは不正を行わず、主の道を歩みます。
                                  詩篇119篇1~3節

聖書箇所
エゼキエル書章17節~1章24節

説教
みごとな杉の木 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/349 主の聖名を大きくする

 私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。               ルカの福音書1章46~48節

 天使による受胎告知の直後、マリヤが歌った「マリヤの賛歌」と呼ばれる箇所です。この時から、マリヤは徹底的に神である主を崇め、高める人生を歩みました。果たして、私は神を大きくしているかどうか、思い巡らさなければなりません。自分を大きくしているなら優越感をいだき傲慢になります。反対に、他人が大きくなると劣等感をいだき卑屈になります。マリヤは冒頭で「わがたましいは主をあがめます(大きくする)」と言っています。優越感や劣等感から自由になれるのは、他人と自分を比べることをせず、ひたすら神とのかかわりの中に自分を置くことによってです。神が自分に対してどのようなお方であるかを知るとき、私たちの霊は喜び、たましいは解き放たれ、自由とされます。焦点を神に合わせて生きるとき喜びを見出します。マリヤははしための自分が神に顧みられたことを喜んでいます。焦点を神に合わせて生きるとき逆転のみわざがなされます。
                         (銘形「一滴の雫シリーズ」より一部引用) 

2020年8月9日日曜日

2020年08月09日 第2主日礼拝 ああエルサレム

招詞
私はあなたに感謝します。あなたが私に答え私の救いとなられたからです。家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。           詩篇118篇21~24節

聖書箇所
エゼキエル書16章1節~15節、53節~63節

説教
ああエルサレム 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/348 あわれみを受けて 

 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。                         コリント人への手紙第二4章1節 

 パウロは、神からその務めに仕えるための資格、すなわち「御霊に仕える者」という資格は、神のあわれみを受けていることだと言います。この神のあわれみは、決して観念的なことでなく、神の具体的行動を伴うものです。パウロの場合、神のあわれみはアナニヤが自分のところに遣わされたことによって経験しました。「目からうろこが落ちる」シーンもあり、この出会いは、きわめて象徴的です(使徒9:18)。なぜならパウロはこの「アナニヤ」によって洗礼を受け、教会に受け入れられるようになりました。そしてそのあわれみは神のご計画という偉大な務めを担わせるためでした。迫害者だったパウロが、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるという使命を与えられたことは、まさに神さまのあわれみでした。私たちも、能力によらず、神さまのあわれみで喜んでご奉仕をさせていただいている者たちです。 
                        (銘形「一滴の雫シリーズ」より一部引用) 

2020年8月1日土曜日

2020年08月02日 第1主日礼拝 実のならないぶどうの木

招詞
 すべての国々よ主をほめたたえよ。すべての国民よ主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことは とこしえまで。 ハレルヤ。                詩篇117篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書15章1節~8節

説教
実のならないぶどうの木 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/347 みことば欠乏症

 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。
                         コリント人への手紙第一10章16~17節

 ここには主の食卓における交わり、つまりキリストの血潮によって罪を赦された者たちが、キリストのからだにおいて、一つのパンを食べることでひとつになるという交わりがすでにあることが強調されています。この一つのパンは神のパンです。この神のパンは私たちが「豊かないのち」を得るために必要な糧です。この糧はイエスご自身です。イエスは、私たちに贈られた神のパンなのです。
 神のパンはすでに与えられていますが、私たちがそのパンの豊かさを掘り起こすという努力が十分でない、ということなのです。忙しくて、他の事柄に関心がいって、聖書を読むことが少ない、聖書のことばに耳を傾けるゆとりのない心が蔓延しているのです。神が唯一、この世にいのちを与えるパンを与えてくださったにも関わらず、多くのキリスト者はそのパンの食卓を豊かにするどころか、より貧しくしているのです。私たちは、どうで
しょうか?教会はどうでしょうか?みことば欠乏症にならないようにみことばのパンを毎日きちんと食べましょう。                      (銘形「主の食卓」より引用)

2020年7月26日日曜日

2020年07月26日 第4主日礼拝 悔い改めよ

招詞
私のたましいよおまえの全きいこいに戻れ。主がおまえに良くしてくださったのだから。まことにあなたは私のたましいを死から私の目を涙から私の足をつまずきから救い出してくださいました。私は生ける者の地で主の御前を歩みます。               詩篇116篇7~9節

聖書箇所
エゼキエル書14章1節~23節

説教
悔い改めよ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/346 聖餐式の意味

 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
                             ヨハネの福音書6章53~55節

2020年7月19日日曜日

2020年07月19日 第3主日礼拝 偽預言者たちの過ち

招詞
 私は主を愛している。主は私の声私の願いを聞いてくださる。主が私に耳を傾けてくださるので私は生きているかぎり主を呼び求める。                詩篇116篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書13章1節~23節

説教
偽預言者たちの過ち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/345 女預言者デボラ
 主をほめたたえよ。聞け、王たち。耳を傾けよ、君主たち。私、この私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が。わがたましいよ、力強く進め。
                                  士師記5章3、21節

 デボラは、旧約聖書に登場する数少ない女預言者の一人です。デボラによって北のナフタリからバラクが呼び寄せ、シセラの率いる戦車九百両の戦車と大軍を戦うことになります。デボラはバラクに「わたしは、彼をあなたの手に渡す」という託宣を告げました。敵はきわめて殺傷力のある戦車部隊を持っていました。イスラエルはそのような武器はありません。もし平地でまともに戦うならば敗北することは目に見えます。結果はイスラエルの完全な勝利でした。どのようにして勝利が与えられたのか、それが上記の歌の中に記されています。なぜ戦車九百両という進歩的な装備を誇るカナンの将軍シセラが完敗したのか。その理由は、雨が降ることで「キション川」が氾濫し、地はぬかるみとなって戦車が使えなくなったからでした。デボラの預言は、「ひとりの女の手にシセラを売り渡される」でした。そして事実、逃げ延びたシセラを打ちとったのはヤエルという女性でした。                        (銘形「士師記の瞑想」より一部引用)

2020年7月11日土曜日

2020年07月12日 第2主日礼拝 神の預言に向き合う人

招詞
私たちにではなく主よ私たちにではなくただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。私たちの神は天におられその望むところをことごとく行われる。
                                  詩篇115篇1、3節

聖書箇所
エゼキエル書12章1節~28節

説教
神の預言に向き合う人 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/344 アモス(荷を負う者) 

テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。                                  アモス書1章1節

 北イスラエル王国の王ヤロブアム二世の時代、経済的には繁栄していました、しかし、預言者アモスは、富裕階級にある者たちが自らの利益を追求して贅沢な暮らしを享受し、安易な生活を送りながら、貧困階級にある者たちを顧みないことを非難しました。非難するだけでなく、その刑罰としての災いが迫っているという神のことばを語ったのです。彼は、牧者という当時の最下級クラス出身でどの預言者グループにも属さず、孤高の預言者と言われます。人間的には「孤立無縁の預言者」です。しかし、神様は、他の預言者集団を差し置いて彼を用いられました。見た目の反映の裏にある霊的な腐敗を見、それを糾弾する勇気ある預言者の姿は、キリスト者が1%以下の日本の社会でクリスチャンとして生きる者に勇気と共感を与えますね。
                         (銘形「アモス書の瞑想」より一部引用)

2020年7月5日日曜日

2020年07月05日 第1主日礼拝 石の心と肉の心

招詞
主の御名がほめられるように。日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。主はすべての国々の上に高くおられ、その栄光は天の上にある。
                                詩篇113篇2b~4a節

聖書箇所
エゼキエル書11章1~25節

説教
石の心と肉の心 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/343 神の霊が私を引き上げて

 霊は私を引き上げて、幻のうちに、私をカルデアにいる捕囚の民のところへ、神の霊によって連れて行った。                          エゼキエル書11章24節

  この定型句が、エゼキエル書には6回使われています。神様が、エゼキエルの預言を聴く人たちに重要なことを見せるために、「主の霊が強制的にエゼキエルに働きかけた」ことを意味します。3章12, 14節、8章3節、11章1, 24節、43章5節などです。
表現は少し異なりますが、37章1節の「主の霊によって、私は連れ出され」というフレーズも「霊が私を引き上げる」と同義と見なすことが出来ます。37章で見た「枯れた骨」の幻はエゼキエル書においてとても重要な幻です。いずれにしても、「主の霊によって」エゼキエルは引き上げられ、あるいは連れ出されて見るべきものを見せられているのです。
エゼキエルの預言のことばを2500年後に読んでいる私たちも、このような定型の言い回しがきたら、そこは重要な事柄が詰まっている箇所と見て、気をつけて読みましょう。渦中にあったバビロンの長老たちの緊張を共有できるようで興味が増してきますね。
                          (銘形「エゼキエル書の瞑想」から引用)

2020年6月27日土曜日

2020年06月28日 第4主日礼拝 神の栄光が去る

招詞
 幸いなことよ、主を恐れその仰せを大いに喜ぶ人は。その子孫は地の上で勇士となり、直ぐな人たちの世代は祝福される。                      詩篇112篇1~2節

聖書箇所
エステル記10章1節~22節

説教
神の栄光が去る 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/342  「礼拝の民」として生きる 

 ダビデはヘブロンで、主の御前に彼らと契約を結び、彼らはサムエルによる主のことばのとおりに、ダビデに油を注いでイスラエルの王とした。 第一歴代誌11章3節歴代誌第一の1~9章には「系図」が記されています。アダムからはじまって10章の最後の節で、初めて「ダビデ」が登場し、以降、各章の冒頭に「ダビデ」という名前が出ています。つまり、ダビデに焦点を当てることを通して、「ダビデのように」礼拝の民として生きようという意図をもって、歴史が見直されているということです。
ダビデは、戦士であり、詩人であり、音楽家であり、一家の父親であり、イスラエルの王でしたが、結局の所、彼は礼拝者であったということです。彼の業績はまさに、礼拝を改革し、イスラエルの民を礼拝の民へと導いたことでした。ダビデの信念は、「神、主を信じる者であるならば、主のおられるところに必ずいるのだ」でした。         (銘形「歴代誌の瞑想」より引用)

2020年6月21日日曜日

2020年06月21日 第3主日礼拝 罪を悲しむ人たち

招詞
 主の御名は聖であり恐れ多い。知恵の初めそれは主を恐れること。これを行う人はみな賢明さを得る。主の誉れは永遠に立つ。                  詩篇111篇9b~10節

聖書箇所
エステル記9章1節~11節

説教
罪を悲しむ人たち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/341 祝福に満ちた望み
 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、・・・祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。                テトスへの手紙2章11~13節

 キリストの再臨はキリスト教信仰においてきわめて重要です。それゆえ、サタンは必死になってこの教えを混乱させ、脱線させようとしてきました。ネットで検索すると、聖書から外れた悪魔的な教えもまん延(パンデミック)していますから注意しましょう。
 聖書は、「イエス・キリストが再び来られる」と、明言しています。(ヨハネ 14:3、使徒 1:11 など)
 再臨信仰は救いの信仰の要(かなめ)です。もしこの信仰が崩されれば、創造の信仰も、十字架と復活の信仰もすべてが宙に浮いてしまうのです。したがって、再臨に対する正しい理解は是非とも必要なのです。内村鑑三はこう述べています。「十字架が聖書の心臓部であるなら、再臨はその脳髄であろう。再臨なしに十字架は意味をなさない。したがって、私たちクリスチャンは再臨の信仰の立場に立って聖書を通観し、今の世界を見る必要がある」と。
                         (銘形「再臨と終末預言」から一部引用)


2020年6月13日土曜日

2020年06月14日 第2主日礼拝 偶像礼拝者たちの横顔

招詞
 主のみわざは偉大。それを喜ぶすべての人に尋ね求められるもの。そのみわざは威厳と威光。その義は永遠に立つ。主はその奇しいみわざを人の心に刻まれた。     詩篇111篇2~4節

聖書箇所
エゼキエル書8章1節~18節

説教
偶像礼拝者たちの横顔 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/340 タンムズ(崇拝 )

 この方は私を主の宮の北の門の入り口へ連れて行かれた。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながら座っていた。                   エゼキエル書8章14節

 タンムズ男神は、シュメールの神話の神と言われ、メソポタミヤ発です。「タンムズは美しい牧神であったが、いのししに殺され、女神イシュタルは夫のために悲しむが、やがて夫を生き返らせるために下界に下った。するとあらゆる野菜等がは枯死した。やがてタンムズが生き返るとイシュタルと再度結ばれ、再び豊かに繁茂するようになった。」シリヤとイスラエルを含むバレスチナ地方では、紀元前6世紀のエゼキエルの時代に、3月の春の雨の後、6月からの乾期に行われたお祭りです。このイシュタルの涙を女たちは演じ、祭りの終わりには、性的な乱痴気騒ぎで閉じるという流れでした。
 しかし、これは、唯一の正しい神を信じる者には、偶像礼拝であります。現代に生きる私たちも、偶像の神を奉ったり、祝ったりすることは、真の神さまの最も嫌われることです。
 「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」(出エジプト20:3)
                       (銘形「エゼキエル書の瞑想」より一部引用) 

2020年6月6日土曜日

2020年06月07日 第1主日礼拝 終局が来る

招詞
 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。 その恵みは とこしえまで。だれが主の大能のわざを告げ 主の誉れのすべてを語り聞かせることができよう。幸いなことよ さばきを守る人々いかな るときにも正義を行う人は。
                                  詩篇106篇1~3節

聖書箇所
エゼキエル書6章1節~7章27節

説教
終局が来る 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/339  座る(スンカティゾー) 
 しかし、あわれみ豊かな神は、キリスト・イエスにおい て、ともによみがえらせ、ともに天の所に(共に)すわらせてくだ さいました。          エペソ人への手紙2章4a、6節
  キリストにある者は、神の働きや敵との霊的な戦い以前に、常 に、天にあるキリストと共にあるという立場を保つことが何より重 要です。ちなみに、エペソ人への手紙の鍵語は「座す」「立つ」 「歩む」の三つです。しかしその中で最も大切なことは、「座す」 こと、つまり、自分のキリ ストにある立場を知ること です。このことが後の「立 つ」「歩む」を支えていく からです。健康な赤ちゃん が「お座り」できるように なり、つかまり「立ち」に なり、「歩く」という体験 をして成長しますが、霊的 な原則も同じ順序ですね。        (銘形 エペソ書の瞑想より一部引用)

2020年5月31日日曜日

2020年05月31日 ペンテコステ礼拝 髪とヒゲ

招詞
主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。          詩篇105篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書5章1~17節

説教
髪とヒゲ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/338 聖霊(ハギオ・ニューマ)
 聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。     使徒の働き1章8節     

 聖書では、聖霊のシンボルとしては、「鳩」を除けば、「風」「息」「水」「火」「雨」「露」のような自然現象で表わされています。それらはみな定まったかたちというものを持ちません。聖霊は完全に独立したペルソナ(位格)ですが、御父と御子から一時も切り離すことのできない方であり、永遠に御父がおられるところに聖霊も存在し、御子がおられるところにも同時に存在しておられる方なのです。
 それでは、クリスチャンとご聖霊の関係はどうでしょう。次のイエス様の分かりやすい説明に耳を傾け、感謝しましょう。「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」 (ヨハネ14;26)                           (銘形「聖霊の瞑想」より引用)


2020年5月23日土曜日

2020年05月24日 第4主日礼拝 三つの教え

招詞
 私は、いのちの限り主に歌い、生きる限り私の神をほめ歌います。私の心の思いがみこころにかないますように。私は主を喜びます。               詩篇104篇33~34節

聖書箇所
エゼキエル書4章1~17節

説教
三つの教え 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/337 パン(レヘム)

 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある。」         マタイの福音書4章4節(協会共同訳)

 ここで「パン」とは私たちが口にするパンのことではありません。単なる「霊的なパン」でもありません。御国の福音に関する事柄です。「パン」のことをヘブル語では「レヘム」と言います。ギリシア語では「アルトス」と翻訳されています。「アルトス」は、肉的にも、霊的にも生命維持のためのパンという意味ですが、ヘブル語の「レヘム」はもう一つの意味があります。レヘムの動詞形「ラーハム」には「戦う」という意味があります。その意味を一番表わしているのが、イエスが、公生涯に入る前の「荒野での試み」です。それは、神の子イエスが神の口から出る一つひとつのことばによって生きるかどうか、という戦いでした。
 サタンは、断食で弱っていたイエスに、石をパンに変えて飢えをしのぐようにと誘惑しましたが、イエスは、神の口から出るみことばによって生きると答え、戦いに勝利しました。やがて真のメシア王国が到来する時、朽ちるパンによって生きることは必要なくなります。食べものに依存しない「新しいからだ」に変えられるからです。      (銘形「アモス書の瞑想」より引用)

2020年5月17日日曜日

2020年05月17日 第3主日礼拝 エゼキエルの召命②

招詞
全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊。 
                                  詩篇100篇1~3節

聖書箇所
エゼキエル書3章4~27節

説教
エゼキエルの召命② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/336 湧き水と水ため

 わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めめを、自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、こわれた水溜めを。 エレミヤ2章13節

 エゼキエルに先行してバビロン捕囚までの最も厳しい時期に主の預言者として奉仕したのがエレミヤです。上記、同書2章13節は、彼の第一声でした。
 イスラエルが、神に対して犯した「二つの悪」とは、湧き水である真の神を捨て、水を溜めることのできない、こわれた水溜めを掘ったことでした。水溜めを掘るというのは、異教の軍事勢力と手を結んでその場しのぎをしたついでに、偶像を慕っていった行為です。これは、だれが見ても愚行というほかありません。王も、祭司たちも、当時の預言者たちでさえ主の愛から離れ、虚しい偶像や偶像を取り囲む敵に取り込まれていったのでした。
 湧き水を捨て、溜め池を掘るという行いは愚かですが、現代では、溜め池は、神様を信じない思想(イデオロギー)であり、科学であり、経済であり、残念ながらその影響力は甚大です。
 私たちは、聖書と天地創造の神さまと御子イエスさまを信じ従うイデオロギーを持って生きていますが、世界は、過小評価しています。クリスチャンは、声は小さくても、不信仰のイデオロギーに棹(さお)さすものとなっていくべきですね。     (銘形「エレミヤ書」より一部引用)


2020年5月10日日曜日

2020年05月10日 第2主日礼拝 エゼキエルの召命①

招詞
幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。                 詩篇119篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書2章1~3章3節

説教
エゼキエルの召命① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/335 エゼキエルとエレミヤ

 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。      詩篇119篇105節

 エレミヤ書がエルサレムの滅亡前に語られた40年間の神のことばの記録だとすれば、エゼキエル書はユダの民のバビロン捕囚の最中で語られた神のことばの記録です。エゼキエルは捕囚となった民の中から預言者として召され、神のみこころを伝えた人です。エゼキエル書は多くの幻による表現、および象徴的用語のゆえに困惑させられますが、年代順に整理されて書かれているので、その点はエレミヤ書よりもわかりやすいかもしれません。名前の意味は、エゼキエルが、「神によって力づけられた者(又は、神は強い)」で、エレミヤが「主は高められる」です。エレミヤが独身の預言者だったのに対して、エゼキエルは、妻帯者でした。どちらも、み民イスラエルにみことばを道を照らす光として教え導いた人たちです。以下、まとめた比較表です。
                      (銘形「エゼキエルのプロフィール」より引用)


2020年5月2日土曜日

2020年05月03日 第1主日礼拝 天が開け、見た幻

招詞
私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたをほめ歌います。私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。   詩篇138篇1~3節

聖書箇所
エゼキエル書1章1節~34節

説教
天が開け見た幻 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/334  天が開けて見た幻

 しかし、聖霊に満たされじっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。                            使徒の働き7章55~56節

 エゼキエルが神からの召命を受ける時に、「天が開け」ました。この表現は旧約ではこの箇所だけです。新約では7回この表現が使われていますが、すべて神の歴史において意味のある重要な時点です。以下は、上記、使徒の働き以外の6カ所です。

(1) イエスの公生涯に入る前の洗礼を受けた後で(マタイ3:16、マルコ1:10、ルカ3:21、ヨハネ1:51)
(2) 異邦人への福音宣教の準備をさせるためにペテロに対する幻の中で(使徒10:11)
(3)キリストの再臨のヴィジョンをヨハネに見せるため(ヨハネ黙示録19:11)

 エゼキエルは、自分が見た神の幻や顕現を文字で表わしています。特に1章にある幻はなかなか理解できないためか、エゼキエル書は他の預言書よりも読まれないようです。
しかし、ご聖霊の助けでこの書を理解することができるなら、彼の見た幻と感動を共有することになり、大きな祝福を受けることができます。     (銘形「エゼキエル書の瞑想」より引用)


お知らせ
 5月2日、11:30am より5月定例役員会が電子会議の形でもたれます。5月以降の集会の持ち方や、集会の再会の時期や形態について話し合います。



2020年4月26日日曜日

2020年04月26日 第4主日礼拝 嘆きが喜びに

招詞
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。 私のたましいがあなたをほめ歌い、押し黙ることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。           詩篇30篇11~12節

聖書箇所
エステル記9章1節~10章3節

説教
嘆きが喜びに 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/333 歴史は神の作業場

 バビロンの川のほとり、そこに、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。どうして私たちが、異国の地で主の歌を歌えるだろうか。               詩篇137篇1、4節

  エレミヤ書が、預言者エレミヤによりエルサレムの滅亡前に語られた40年間の神のことばの記録だとすれば、エゼキエル書はユダの民のバビロン捕囚の最中で語られた神のことばの記録です。エゼキエルは捕囚となった民の中から預言者として召され、神のみこころを伝えた人で、エステルと同時代の人です。

  エゼキエル書は多くの幻による表現や象徴的用語のために難解と言われますが、年代順に整理されて書かれているので、その点ではエレミヤ書よりわかりやすいかもしれません。預言書は歴史を舞台に語られていますから、預言者の生きた時代を知ると興味が増します。歴史は神の作業場なのです。                      (銘形「エゼキエル書の瞑想」より引用) 



※次週からの礼拝は、エゼキエル書の講解メッセージが始まります。エゼキエルは、エステル、モルデカイと同時代の預言者です。なお、第5週は伝道メッセージの予定でしたが、集会が開始されるまでの間は、聖書人物説教をいたします。

2020年4月19日日曜日

2020年04月19日 第3主日礼拝 三つの必ず

招詞
幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。まことに、彼らは不正を行わず、主の道を歩みます。                      詩篇119篇2~3節
                      
聖書箇所
ルカの福音書24章36~49節

説教
三つの必ず 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/332 私の目を開いてください(ガル・エナイ)

私の目を開いてください。私が、目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。                            詩篇119篇18節

 エマオ村に急ぐ二人の弟子は、復活されてイエスと話していて「心が燃える経験」をしたので、さらに、より深く、もっと話を聞きたいと思い、(イエスを)自分たちの家に「泊まるように」と無理に願ったのでした。
  弟子たちが、自ら聖書が言わんとすることをより正しく理解しようとして、神に尋ね求めようとする時、さえぎられていた「目が開かれた」のです。重要なことは、みことばが説き明かされて心燃える経験は聖霊のみわざですが、重要で喜ばしいことは、弟子たちの自発性でした。
                          (銘形「ルカの福音書」より一部引用)

2020年4月11日土曜日

2020年04月12日 第2主日礼拝 死から復活したイエス

招詞
(イエスは)ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。    ルカの福音書24章6~7節

聖書箇所
マタイの福音書28章1~10

説教
死から復活したイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/331 心を開かせる (ディアノイゴー)

 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」            ルカの福音書24章45~48節

 イエスの復活をすぐには信じない弟子たちもいました。聖書(旧約)とイエスの教えを悟っていなかったからです。上記、復活後のイエスの顕現のカ所には、悟らせるために「心を開かせる」必要があった、心を「開く」と訳された原語は「ディアノイゴー」です。このことばは、「ディア(閉じたまぶたを引き離す)」+「アナ(再び)」+「オイゴ―(開く)」から成っている合成語です。エマオの二人の弟子たちの目が「開かれ」、イエスだとわかった(24:31)や、「主はルデヤの心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた(使徒16:14)など、心を開くという意味は、聖書の知的理解を促すことばです。主によって心が開かれなければ、聖書を悟ることはできないことを教えられます。「心が開かれる」ことと、「知恵と啓示の御霊が与えられること」とは同義です。
                         (銘形「ルカの福音書の瞑想」より引用)

2020年4月4日土曜日

2020年04月05日 第1主日礼拝 十字架上のイエス

招詞
 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。     ピリピ人への手紙2章6、8節

聖書箇所
ルカの福音書23章33~38節ほか

説教
十字架上のイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/330 ピラトの尋問

 ピラトは、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人(イエス)には罪を認めません。                     ヨハネの福音書18章38節

  信仰告白(使徒信条)の中には、ローマ総督ピラトの名前があり、私たちの教会では毎週礼拝の中で唱えられる名前です。十字架の金曜日の朝、ユダヤ最高議会の訴えの中でピラトは何に関心を持ったのでしょうか。
  彼が関心をもったのは、イエスが自分をキリストだと言っているという訴えではありませんでした。ピラトが真に関心を持っていたのは、イエスが最後議会から死刑を要求されるほど、憎まれるほど、イエスが何をしたのかということでした。
 ですから「あなたは何をしたのですか。」(ヨハネ18:35)とピラトは尋ねています。それに対してイエスは答えず、「わたしの国はこの世のものではない。」と答え、その国の王なのかという問いに「そのとおり」だと答えます。
 ピラトにはイエスの言う「王である」ということばが、ローマにとって反逆とは思われず、実際、無害であると判断しました。そして、イエスを訴える者たちに3度も「私は、あの人には罪は認めません」と言い、過越しの慣習に従ってイエスを釈放しようと提案しました。
 しかし、ピラトは、議会(主にサドカイ派議員)に扇動された民衆を恐れ、イエスを十字架刑にする結審をします。結局は、政治決着です。しかし、このピラトも神の救いのマスタープラン(青写真)が完成されていくための器の一人とされました。イエスの十字架によって、私たちは救われたのです。
 今週は、受難週で4月10日は、ピラトの裁判も行われた十字架の金曜日です。福音書の最後の数章を読み返しながら、十字架の苦しみを通られたイエスさまに感謝しながら過ごしましょう。
                      (銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)

2020年3月29日日曜日

2020年03月29日 第5主日礼拝 ゲッセマネの祈り

招詞
誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈っていなさい。霊は燃えていても、肉は弱いのです。
                               マタイの福音書26章41節

聖書箇所
マルコの福音書14章32~42節

説教
ゲッセマネの祈り 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/329 教会はイエスの家族①

 女の方、ご覧なさい。あなたの息子です。ご覧なさい。あなたの母です。
                           ヨハネの福音書19章26、27(部分)節

 イエスが十字架の苦しみの中で語られた言葉です。ご自分の母の将来のことを心配して、愛弟子ヨハネに母マリヤを託していることばです。そしてヨハネにも「そこに、あなたの母がいます。」と語っていますが、それ以上の意味もあります。
 ヨハネが、イエスを通してイエスの母を自分の母とすることは、イエスと兄弟になったことを意味します。へブル人への手紙2章11節に「主(イエス)は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで・・」と詩篇22篇22節のみことばを引用しています。「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」ということ、つまり新しい神の家族を示唆することばです。イエスこそ兄弟の長子となられたのです。私たちは、イエスの弟子ではなく、弟であり妹です。この関係の変化に目を留めましょう。                       (銘形「十字架のイエス」から一部引用)

2020年3月21日土曜日

2020年03月22日 第4主日礼拝 洗足ー弟子たちの足を洗うイエス

招詞
人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。しかし、【主】の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れるものの上にある。                         詩篇103篇15~17節

聖書箇所
ヨハネの福音書13章1~17節

説教
洗足ー弟子たちの足を洗うイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/328 謙遜 (タペイノフロスネー)

 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。             コロサイ人への手紙3章12節

 新約聖書では、謙遜(タペイノフロスネー)という言葉は、動詞、形容詞、名詞を合わせると21回も使われている重要語です。
しかし、意外なことに、アリストテレスなどの古代ギリシャ時代も、イエスの時代のコイネーギリシャ語でもこの言葉、タペイノフロスネーは、否定的なことばでした。
 土地に対して使われる時は、低地でじめじめした日あたりの悪い価値の低い地所をさしました。人に対して使われるときはもっとひどく、あの人はタペイノフロスネーだというと、信頼できない、能力に欠ける人、パッとしない人、という使われ方をしていました。

  しかし、聖書では動詞形、名詞計など計21回、すべてプラスの使い方です。これがクリスチャンが結んでいく徳性、聖霊の実だと言っています。
このことが原因でしょう、仏、スペイン語、英語(humility)などラテン語諸言語のどれも謙遜はポジテブな良い言葉です。つまり、聖書がこの言葉の価値を上げたと言えます。

 アフリカで生まれ育ち、牧師、宣教師、講演者として名高いアンドリュー・マーレー(1828-1917)は著書「謙遜」の中で、「謙遜を欠いているのに、熱心で活動的なクリスチャンがなんとおおいことでしょう」と警告を発しています(邦訳42頁)。イエスさまの心に届く愛は、謙遜な歩みをしているクリスチャンに見られるとも語っています。

2020年3月15日日曜日

2020年03月15日 第3主日礼拝 神による逆転劇②

招詞
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。           テモテへの手紙第二 4章2節

聖書箇所
エステル記8章1~18節

説教
神による逆転劇② 田口勇新牧師
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            ※再生中7分過ぎより50秒ほど無音となります。ご了承ください。

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言(こと)ローグ/327 イエスの洗足

 それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。        ヨハネの福音書13章14~15節

4月12日は復活日(イースター)で、召天者記念礼拝を予定しています。上掲のイエスの洗足はヨハネの福音書だけに記された有名なエピソードです。

下記は、イエスの最後の一週間を時系列で表にしたもので、次週のイエスの洗足(ヨハネ13章)の前までです。

1.エルサレム入場 マタイ21:1~11 マルコ11:1~11 ルカ19:28~44
          ヨハネ12:12~19

2. 宮きよめといちじくの木へののろい マタイ21:12~22 マルコ11:12~26
                   ルカ19:45~48

3. 神殿での論争  マタイ21:23~23:39 マルコ11:27 ~ 12:44
          ルカ20:1~20:47

4. オリーブ山で  マタイ24:1~25:46 マルコ13:1~37 ルカ21:5~36

この一週間、時間をとって読んでみたらいかがでしょうか?

2020年3月1日日曜日

2020年03月01日 第1主日礼拝 神による逆転劇

招詞
幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえに歩む人々。 幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。まことに、彼らは不正を行わず、主の道を歩みます。
                                  詩篇119篇1~3節

聖書箇所
エステル記7章1~10節

説教
神による逆転劇 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/326 イエスの「最後の一週間(受難)」

 シオンの娘よ、大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子のろばに。                              ゼカリヤ書9章9節

 今年の復活節(イースター)は、4月12日で、6週間後に迫りました。イエスさまの十字架の直前の一週間の初めの出来ごとが、エルサレム入城で、マタイの福音書21章1~11節の記事ですが、これは、旧約聖書ゼカリヤ書の預言の成就です。 
 この箇所を、私たちは子ろばのような小さな者にすぎないけれども、主はそのような者さえも尊く用いてくださるというメッセージとして受け取ってしまう人がいます。確かに主は弱い者や取るに足らない者を用いてくださいますが、この時点において、イエスが子ロバを必要としたのは、第一義的には自分がメシアであることの「しるし」としてはっきりと示すためだったのです。 
 マタイの福音書21章以下を読むと、イエスの最後の一週間に、神の救いのドラマの全体像が見事に凝縮されています。月-火曜はエルサレム神殿での説教、水曜がオリーブ山の説教、木曜が最後の晩餐、逮捕、金曜日が裁判と十字架刑、埋葬。そして日曜日に復活です。時間をとって、マタイの福音書21章~28章までを再読してみることをお勧めします。
                      (銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)                                    

2020年02月23日 第4主日礼拝 モルデカイに神の時

招詞
 家を建てる者たちが捨てた石。それが要の石になった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。これは、主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。
                                詩篇118篇22~24節

聖書箇所
エステル記6章1~14節

説教
モルデカイに神の時 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/325 神のドラマの舞台裏

 ヨブは主に答えた。あなたには、すべてができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。                         ヨブ記42章2節

 旧約聖書のヨブ記にあるヨブの苦難には、1章にそのドラマの裏舞台が記されています。しかし、ヨブは知りません。人間にはその裏の舞台が見えないために、ヨブに起こった悲惨な出来事について、ヨブの友人たちがその原因を探ろうとして、ああでもない、こうでもないと論じます。ヨブも彼に対して自分の弁を宣べますが、最後で、神はヨブには知らないことが多くあることを示されます。ヨブはドラマの舞台裏を知らなことを認めたとき、はじめてその苦難から救い出されます。
 このように、私たち人間には、また個人にとっても、知らされていない神のドラマの裏側があることを認める必要があります。表面的に神が登場していなくても、それも神のドラマの一面なのです。エステル記6~7章の中に、まさに神の奇しきみわざ(The wonder of His hands)を見ることができます。                    (銘形「エステル記の瞑想」より引用)

2020年2月16日日曜日

2020年02月16日 第3主日礼拝 神の子キリスト

招詞
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。                         ヨハネの福音書10章9節

聖書箇所
マタイの福音書16章13~17節

説教
神の子キリスト  田口勇新牧師
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聖書のことば

イエスは、弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか。」とお尋ねになった。
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちは、エレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」
イエスは、彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えた。「あなたは、生ける神の子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えられたた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」
                            マタイの福音書16章13~17節

2020年2月9日日曜日

2020年02月09日 第2主日礼拝 エステルの知恵

招詞
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。さあ、主を恐れる者たちよ、言え。「主の恵みはとこしえまで。」               詩篇118篇1、4節


聖書箇所
ダニエル書9章1~27節

説教
エステルの知恵 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/324   神聖四文字(ヤーヴェ)
 エステルは答えた。「もしも、王様がよろしければ、今日、私が王様のために設ける宴会にハマンとご一緒にお越しください。」                    エステル記5章4節

 エステル記には「神」、あるいは「主」ということばが出てきません。しかしそのことばが使われていなくても、十分に神が働いておられることが分かるのが、この5章4節のエステルの王への言葉です。 

 王妃エステルが王とハマンを自分が主催する宴会に招いたことば、
 「ヤーヴォー、  ハンメレフ、 ヴェハーマーン、 ハッヨーム」
  来てください、  王様、    ハマンと、      今日 

 その中に、主の名前を意味する「神聖四文字(ヤーヴェ:YHVH)が隠されているように見えます。エステルがこのことを意識して使ったかは不明ですが、8節でも繰り返されていることを考えると偶然ではないかも知れません。このエステルの招きのことばの中にヤーヴェ(神)のドラマが隠されていたように思います。              (銘形 「エステル記」より引用) 

2020年2月8日土曜日

2020年02月02日 第1主日礼拝 エステルの決意

招詞
 すべての国々よ 主をほめたたえよ。すべての国民よ 主をほめ歌え。主の恵みは私たちに大きい。主のまことはとこしえまで。ハレルヤ。              詩篇117篇1~2節

聖書箇所
エステル記4章1~17節

説教
エステルの決意  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/323 「狼狽」(フール)の中でも 

 エステルの侍女たちと、その宦官たちが入って来て、彼女にこのことを告げたので、王妃は非常に痛み苦しんだ。彼女は、モルデカイに衣服を送り、それを着させ、荒布を脱がせようとしたが、彼はそれを受け取らなかった。                     エステル記4章4節 

 養父モルデカイが王の門の前の広場で、荒布を着て灰の上にすわっていることを知らされた王妃エステルは、「非常に痛み苦しんだ(新改訳2017と新共同訳)とありますが、ちょっと文脈に合いません。これに対し、岩波訳は「非常に狼狽した」と訳しています。私的にはこの岩波訳が原意に近いように思います。というのは、ここでは、フールの強意形ヒットパエル態が使われているからです。本来、「フール」は「跳ね回る」という意味ですが、ヒットパエル態では「ぐるぐる回る」という意味になるからです。まさに人が狼狽し、おろおろしてぐるぐる回る姿です。育ての親であり、神様を除けばいつも信頼しているモルデカイが、荒布を着て灰をかぶり泣き叫んでいるのを聞いたのですから、狼狽するのも当たり前でした。まだおそらく20歳前のエステルはしかし、信頼できる味方ハタクから正確な情報を得ます。その結果、事件の核心へ導かれています。私たちは、感情的になったり、昂じてパニックになるとき、神様のみ旨を見失いがちです。正しい知識や情報を求める冷静さが必要ですね。          (銘形「エステル記の瞑想」より引用)

2020年1月26日日曜日

2020年01月26日 第4主日礼拝 エニシダの下の休息

招詞
私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったのだから。まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出してくださいました。                            詩篇116篇7~8節

聖書箇所
第一列王記19章1~18節

説教
エニシダの下の休息 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/322 隠れ場(セーテル)

 それは、主が、悩みの日に私を隠れ場に隠し、その幕屋のひそかなところに私をかくまい、岩の上に私を高く上げてくださるからだ。                    詩篇27篇5節

 新共同訳では、つぎのように訳されていますので比較してみましょう。
「災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ、幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ。」

 新改訳の「それは」は、その前に記されている事柄すなわちダビデが経験したいろいろな困難をさしています。ダビデも彼のの歩みの中に多くの悩みの日々があったのです。その悩みの日は、ダビデをして主との親しい交わりの中に招く機会となりました。この主との交わりの場こそが、隠れ家でした。そしてダビデは主との深いかかわりの中で、しっかりとした岩の上に高くあげられることを経験したのでした。詩篇31:20も悩みの日の詩です。「あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそやかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。」  上記の27篇と併せて理解すると、「悩みの日」だけでなく、人からの非難や争いを挑む舌から守るためにも、主はダビデを隠れ場に置かれました。このダビデの経験と喜びを私たちのものにするために、主との交わりの場を、困難の時の隠れ家として進みましょう。
                      (銘形「ヘブル語のキーワード入門」より引用)


 

2020年1月19日日曜日

2020年01月19日 第3主日礼拝 敵ハマンの本性

招詞
私は主を愛している。主は私の声、私の願いを聞いてくださる。主が、私に耳を傾けてくださるので、私は生きているかぎり主を呼び求める。                詩篇116篇1~2節

聖書箇所
エステル記3章1~15節

説教
敵ハマンの本性 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/321 アマレク人とハマン

 さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」                      出エジプト記17章8~9節

 エジプトから脱出してきたモーセとイスラエル人は、200万人とも言われますが、軍隊組織もない、敵から見れば略奪しやすい「烏合の衆」でした。その彼らを最初に攻撃してきた相手がアマレク人で、これがアマレク人が主の怒りを受けた理由でした。この時モーセが山に登ってアロンとフルに支えられて神に祈り、ヨシュアが兵士らと共に戦い、接戦の末、イスラエル軍が勝利しました。
  時代は下り、イスラエルの初代の王サウルの時、「アマレク人の王と民を全滅させなさい」という神の命令に違反して、サウル王は、アマレクの王アガクを助けたことが神の怒りを招き、彼の王権は失墜しました(1サムエル記15:1-11)。この直後、アガクはサムエルに殺されます。エステル記1:1では、ハマンは、アガク人(アガク王の子孫)だと言われていますからユダヤ人を敵とするのはあたりまえでしょう。エステル記でも、モーセの時代と同じくアガク人との闘いは主の戦いになっていきます。


2020年1月18日土曜日

2020年01月12日 第2主日礼拝 養父モルデカイ

招詞
主を恐れる者たちよ。主に信頼せよ。主こそ助け、また盾。主は私たちをみこころにとめ、祝福してくださる。                          詩篇115篇11~12節

聖書箇所
エステル記2章19~23節

説教
養父モルデカイ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/320 みなしご(ヤートーム)

 聖書では、社会的弱者に対して深くかかわることを良しとされる神さまが語られています。エステル記では、エステルがおそらく幼い時に両親が病気で亡くなり、ヤートム(みなしご)になったと思われます。「みなしご=孤児」は、出エジプト記22章に始まり、旧約聖書全体で42回、詩篇だけで7回登場する重要語です。以下は詩篇10篇です。
    14節「あなたはみなしごを助ける方でした。」
    18節「(あなたは)みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。地から      生まれた人間がもはや、脅かすことができないように。」
 10篇の中には、「悩む人」(2, 9, 9,節)、「不幸な人」(8, 10, 14節)、「貧しい者」(12, 17節)、「しいたげられた者」(18節)など弱者救済の言葉が満載されています。先進国と言われる国では「福祉」ということが叫ばれ、整備されて来ていますが、イスラエルの歴史においては、その国家誕生の時から、主にある福祉国家の理念が確立されていました。超高齢化社会を迎える日本において、「真の福祉」が問われるのはこれからですが、主にある教会もこの世とは異なる形で、真の主の福祉を学び、実現できるようにしなければなりませんね。
                          (銘形「詩編の恩寵用語」より引用)

2020年1月5日日曜日

2020年01月05日 第1主日礼拝 東方の賢者たち

招詞
 主のしもべたちよ。ほめたたえよ。主の御名をほめたたえよ。日の昇るところから沈むところまで、主の聖名がほめたたえられるように。               詩篇113篇1、3節

聖書箇所
マタイの福音書2章1~16節

説教
東方の賢者たち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/319 東の国から ②  二ムロデ

クシュは二ムロデを生んだ。二ムロデは地上で最初の勇士となった。     創世記10章8節

 カインの住んだ「放浪の地」は、神の祝福から外れた地でもあります。「自分を守るために町を建てる者は、カインの子であり、その意志を受け継ぐ者である」と言えるでしょう(エリュール前掲書、50頁)。その最初の有力者は「ニムロデ」です(創世記10:8)。彼はハムの子孫で地上で最初の権力者となりました。ノアの事件でハムに下された罰は、「のろわれよ。カナン(ハムの子)。兄弟たちのしもべとなれ。」でした(創世記9:25)。しもべとなるようにとの宣告を不服として、ハムとその子孫は権力ある者となろうとしたのかもしれません。神に目をそむけた人間の応答は、いつの時代でも権力を得ようとすることに現われます。
 地上で最初の権力者となったニムロデは、バベル、エレク、シヌアルなどの町の建設者です。シヌアルは掠奪と破壊の地であり、ニムロデの支配のはじまりの場所でした。このようにニムロデは、信仰の路線から外れた反面教師です。
 東方の賢人たちは、この「放浪の地」を出てから愛と真実の神、メシアをを礼拝するためにイスラエルに向かったのでした。        (銘形「クリスマスのわき役たち」から一部引用)


2020年1月1日水曜日

2020年01月01日 元旦礼拝 神に期待する新しい心

招詞
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。            コリント人への手紙第二 5章17節

聖書箇所
イザヤ書43章19~21節

説教
神に期待する新しい心 田口勇新牧師
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聖書のことば
見よ、わたしは新しいことを行う。
今、それが芽生えている。
あなたがたは、それを知らないのか。
必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、
わたしの民、私の選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのためにわたしが形造ったこの民は、
わたしの栄誉を宣べ伝える。
                       イザヤ書43章19~21節