2018年12月30日日曜日

2018年12月30日 第5主日礼拝 医者ルカの生涯

招詞
さあ、【主】に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。 感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。
                                   詩篇95篇1~2節

聖書箇所
使徒の働き1章1~2節

説教
医者ルカの生涯  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/267 綿密に順序だてて

 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。                  ルカの福音書1章3節

  ルカの福音書と使徒の働きの聖書記者が医師ルカであることは、古くから教会が一致しているところです。ただし、使徒の働き16:10以降に登場人物として「私たち」という自分を含む記述をしていますが、他の福音書の著者と同様、自分の名は名乗り出る形では出していない、隠れた著者です。
 ルカは、イエスの直弟子であったマタイや、ペテロの弟子であったマルコたちユダヤ人によりそれぞれマタイとマルコの福音書が書かれているにもかかわらず、テオピロのために、「初めから綿密に調べており、順序を立てて」書きました。このことは、ローマ人テオピロだけでなく、私たちすべての異邦人のために書いてくれたことになりますがルカは予想していなかったかもしれません。神様は、私たちの持っている賜物を時にはそれと知らせずに用いてくださることがあります。そして、そこから波及する良い影響力も多い場合があります。
 もしかして不本意な結果に終わった出来事を抱えている方もおありでしょう。しかし、主はともにおられ、見守っていてくださいます。主を信頼して今年の反省を新しい年の希望につなげましょう。               (黒崎幸吉「ルカの福音書の緒言」より一部引用)    

2018年12月24日月曜日

2018年12月24日 クリスマスキャンドルサービス 光の結ぶ実

書箇所
 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。
                              ルカの福音書 2章1、3~7節

 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。--光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです--
                              エペソ人への手紙 5章8~9節


説教
光の結ぶ実  田口勇新牧師
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2018年12月23日日曜日

2018年12月23日 アドベント第4週 クリスマス礼拝 なぜ羊飼いたちに

招詞
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。                                ミカ書5章2節

聖書箇所
ルカの福音書2章1~20節

説教
なぜ羊飼いたちに 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/266 なぜ飼い葉おけで 

 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった(拒絶した)。       ヨハネの福音書1章9~11節

  すべての人を照らすまことの光が世に来た時に、世はこの光であるイェシュアを知らない、また神ご自身が育てられたご自分の民であるユダヤの人々からイエスが拒絶されるというしるしが、ルカの「飼葉桶に寝ておられる幼子」なのです。
 イエスが誕生した時代の神の民(ユダヤ人)は、バビロン捕囚前の霊的暗黒時代と何ら変わらず、光である方を悟りませんでした。神の律法を重んじるパリサイ派や律法学者たちは、神のみおしえを規則や罰則に変質させて、民衆を支配することで、民の目をくらませていました。この大変な事態を変革すべく神の最後の切札として遣わされたのが、御子イエス・キリストでした。
 私たちが、御子イエスさまを受け入れ、信じることができたことは神の恵みです。感謝しつつクリスマスの時を過ごしましょう。           (銘形「アドベントの瞑想」より引用)     

2018年12月16日日曜日

2018年12月16日 アドベント第3週 第3主日礼拝 なぜザカリヤ が

招詞
【主】に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。
                                    詩篇92篇2節

聖書箇所
ルカの福音書1章5~25節

説教
なぜザカリヤ が 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/265 謙遜への招き② 仕える者に

 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
                              マルコの福音書10章43節 
              
 自分が偉くなりたいと思わなくても、この世界では、なんらかの責任を任せられる立場なる人も多いでしょう。あるいは、自分から積極的に人のために何かの役に立ちたい、世のために何か責任あることをしたいと思うようになることも多いのです。もしそういう立場になったなら、みなに仕える者、みなのしもべとなりなさい、とイエスは語られたのです。
 とは言え、世は複雑な肩書き社会で、人を紹介するのにも気を使います。しかし、キリスト者の肩書きはきわめて簡単で、「自分はキリストのしもべ」であるとの自覚で仕え合うのですからクリスチャン同士で疲れることは少ないでしょう。
 教会外ではどうでしょうか。自分は、キリストのしもべだと言っても理解してもらえませんから、まずは「私はクリスチャンです」と言えるようにしましょう。さらに、「私は、クリスチャンとしてクリスマスを祝っています」と言えるなら、主イエス・キリストにご栄光をお返しする形でキリストのしもべになっています。          (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2018年12月9日日曜日

2018年12月09日 アドベント第2週 第2主日礼拝 なぜヨセフが

招詞
さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。       詩篇95篇1~2節

聖書箇所
マタイの福音書1章18~25節

説教
なぜヨセフが  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/264 キリストの謙遜についての教え ① 

 心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。  マタイの福音書5章3節

  イエスの公生涯において最初の「謙遜についての教え」は、このみことばの中に見出されます。これが、イエスが山上で説教された最初のことばでした。
 「心の貧しい人」とは、どんな人のことを言うのでしょうか。ここで使われている「心の」と訳されたギリシャ語は 「霊において」(in spirit)という意味です。つまり、神とのかかわりにおける貧しさです。
 自分の霊的な貧困さ、その全き欠乏状態。霊的な自己破産。これが私たちの真相なのです。このことに気づく者こそ、幸いなのです。つまり、自分が神とのかかわりにおいて貧困を極めている者であることの自覚こそ、天にある霊的なすべての祝福にあずかることができる秘訣だということをイエスはここで私たちに伝えようとしておられるのです。
 イエスの御こころは、天にある霊的なすべての祝福にあずかることです。心を低くして、手を広げ、天にある霊的祝福をいただきましょう。        (銘形 「謙遜への招き」より引用)

2018年12月2日日曜日

2018年12月02日 アドベント第1週 第1主日礼拝 なぜマリアが

招詞
主こそ王。威厳を衣とし力を衣とし、身に帯びておられる。御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいます。                  詩篇93篇1a~2節

聖書箇所
ルカの福音書1章26~38節

説教
なぜマリアが 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/263 弱さと謙遜⑤   謙遜の回復 その2

 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。                 詩篇23篇6節

  ダビデの霊性のキーワードである「主の家に住む」を、新約聖書のことばで言い換えるならば、次の三つのキーワードをつくることができます。
(1)キリストのくびきを負うこと(安息)
(2)キリストのうちにとどまること(自由)
(3)謙遜の限りをつくして仕えること(高揚)
 前回は、キリストのくびきを負うことをとりあげました。これは安息を与えてくれます。今回は、2番目のキリストの内にとどまることをとりあげます。実は、「イエスのくびきを負う」ということばを別なことばで表現するなら、「キリストのうちにとどまる」(ヨハネ15:4)ことです。「わたしのもとに来なさい。」そして「わたしのうちにとどまりなさい」とイエスは言っているのです。後者のことばは実はとても重要で、ここが欠落しているクリスチャンが多いのではないかと思います。現代は、ビジネス、教育、スポーツでも結果だけが尊重されますね。しかし、それは勝ち組と負け組を作り、そのコミュニティや国を分断します。逆に、イエスにとどまる信仰をもっている人は、耐震機能のある人でしょう。他人の評価・批判の激震のなかでも、魂の安らぎとともに、「結果主義からの自由」を勝ち取って生きることができます。イエスの言葉を肝に命じましょう。「わたしにとどまりなさい。わたしを離れては、あなたがたはなにもできないからです。」ということばの真意を悟ることができるように祈りましょう。
                          (銘形「謙遜への招き」より一部引用)