2016年5月29日日曜日

2016年05月29日 第5主日礼拝 悪いパン種

招詞
主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよ。                                        詩篇28編7節                    
聖書箇所
ルカの福音書 11章37~12章12節

説教
悪いパン種 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ62/きよめの洗い

「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。」  ルカ11:38
このパリサイ派の人は、イエスさまと弟子たちを食事に招きました。そこで、イエスさまが食事の前の「きよめの洗い」をしなかったことに驚いていました。
このことは、イエスさまたちが、食前に手を洗わな人たちだ、という意味ではありません。このケースでも、聖書にも書いていないことを、造りあげて、エルサレムからの通達としてこの「手洗いの儀式」が生まれたと言われています。
ですから、ここでイエスさまは、心の伴わない儀式だけを重視するパリサイ人の信仰姿勢を厳しく非難されました。イエスさまは、この他のか所でも、聖書に基づかないいろいろな規則を作ったことでかえって、心が愛の神さまから離れてしまっている宗教指導者たちを非難しています。                                                           (銘形:「ルカの福音書を味わう」から加筆引用)

2016年5月22日日曜日

2016年05月22日 第4主日礼拝 神の光を見る目を

招詞
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。 わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」                                ヨハネ8章12節                    
聖書箇所
ルカの福音書11章14~36節

説教
神の光を見る目を 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ61/「 神の指 」
「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」                                               ルカの福音書11章20節

 イエスは、「もし、わたしが神の指(聖霊のこと)によって悪霊どもを追い出しているなら」と言っておられます。ここには、神の霊でない暗やみの力で悪霊が追い出されるケースもあることが示唆されています。しかし、前よりも悪い霊が、その人にとりつく、と警告しておられます。言うまでもなく、イエスが使われたのは、聖い神の力でした。ですから、神の国はあなたがたに来ているのだ、という傍線部分がアオリスト形で、すでに成された事実、覆すことのできない事実を表す時制で記されています。イエスは、ここで、敵対者たちも周知の「神の指」(出エジプト8:19) という表現を使われました。モーセが、エジプトのパロのもとへ行って、奴隷たちを解放するように要求したと き、パロはその要求を拒みます。モーセは、その要求が神からのものであることを示す奇跡を行いますが、エジプトの呪法師たちも同じ奇跡を行います。しかし、それが三度続き、四度目の「ぶよ」の奇跡に至ったては、「これは神の指」ですと言って、これは、全知全能の神さまの力であって、自分たちには到底真似ができないことを呪法師たちはパロに進言した史実に基づいています。                                       (銘形「ルカの福音書を味わう」から加筆して引用)

2016年5月15日日曜日

2016年05月15日 第3主日礼拝 三千人の新弟子たち

招詞
その後、わたしの霊を、すべての人に与える。その日には、男も女もわたしに仕える者たちに、わたしの霊を与える。
ヨエル書2章28~29節

聖書箇所
使徒の働き 2章1~22、40~47節

説教
三千人の新弟子たち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ60/
「燃える炎のようなものが舌のような形をして、一人一人の上に降った。」     使徒の働き2章 3節
  本日、5月15日は、イースターから50日目で、120人のイエスの弟子たちの上に天から聖霊が下った日です。この春の季節、エルサレムには、過ぎ越しの祭り(十字架の日)、初穂の祭(復活の日)、そして、7週目の祭り(シャブオット)のために、世界中から「敬虔なユダヤ人たち」と改宗者が集まっていました(使徒2:5)。彼らは、ご聖霊に満たされたペテロの説教を聞き、心が洗われ、悔い改め、洗礼を受けました。この日を、教会の誕生日と呼ぶ理由です。「50」をさすギリシャ語の「ペンテコステ」と言う呼び名が多く用いられるようになりました。この主の教会に連なる者として、ご聖霊が私たちにも日々働いて助けてくださっています。自分だけの祝福に留まらず、私たちは、ご聖霊によって新たな力をいただき、日々、イエス・キリストの証人とし て生きることへと導かれます。

                                            (銘形「ペンテコステの様相」より一部引用)


2016年5月8日日曜日

2016年05月08日 第2主日礼拝 五旬節前夜の弟子たち

招詞
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、 わたしの証人となります。          使徒の働き1章8節
                    
聖書箇所
使徒の働き  1章1~14節

説教
五旬節前夜の弟子たち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ58/「イエスの友:イスカリオテでないユダ 」
このユダは、別名、タダイとも言われるイエスの弟子のひとりですが、彼の問いかけは、ヨハネ14:22にあります。「主よ。あなたは、私たち(弟子)にはご自身を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」ユダは、不信者にはどうしてご自身をはっきりとお示しにならないのか不思議に思ったようです。
 イエスの答えです。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」(16:23) ですから、「わたしの父がその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住む」ということをできなくしているのは、不信の人たち自身でしょう、という訳です。それゆえ、不信の世の人々には親しい愛のかかわりを現わすことができないことを暗に答えています。
 イエスの友となった者だけが、神さまとの愛の関わりを世に顕すことができるとは、なんと光栄でしかし、責任のある真理でしょうか。
                                            (銘形 イエスの友より一部抜粋)

2016年5月1日日曜日

2016年05月01日 第1主日礼拝 ぶどうの木の枝として

招詞
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人のなかにとどまっているなら、そういう人は多くの実を結び ます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。                                             ヨハネの福音書 15章5節
                    
聖書箇所
ヨハネの福音書15章1~8節

説教
ぶどうの木の枝として 田口孝子師
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言(こと)ローグ57/「イエスの友 ピリポ」
「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足です。」 (ヨハネ14:8) 
  良い問いかけは偉大な真理を引き出しますが、このピリポの問いは、イエスを当惑させました。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。」(9節)。教会の時代になり、御子イエスのことばを読むことは、聞くことでもあります。聞くことは、御父のことばを聞くことです。御父と御子の間には永遠の愛が存在します。そのいのちの中に私たちを招くために、御子と御父は、今も私たちに語りかけて、かかわろうとしておられるのです。私たちは、この「いのちの招き」の中に入っていることを至福と感じているでしょうか? 
                                            (銘形「イエスの友」より一部引照)