2020年4月26日日曜日

2020年04月26日 第4主日礼拝 嘆きが喜びに

招詞
あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。 私のたましいがあなたをほめ歌い、押し黙ることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。           詩篇30篇11~12節

聖書箇所
エステル記9章1節~10章3節

説教
嘆きが喜びに 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/333 歴史は神の作業場

 バビロンの川のほとり、そこに、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。どうして私たちが、異国の地で主の歌を歌えるだろうか。               詩篇137篇1、4節

  エレミヤ書が、預言者エレミヤによりエルサレムの滅亡前に語られた40年間の神のことばの記録だとすれば、エゼキエル書はユダの民のバビロン捕囚の最中で語られた神のことばの記録です。エゼキエルは捕囚となった民の中から預言者として召され、神のみこころを伝えた人で、エステルと同時代の人です。

  エゼキエル書は多くの幻による表現や象徴的用語のために難解と言われますが、年代順に整理されて書かれているので、その点ではエレミヤ書よりわかりやすいかもしれません。預言書は歴史を舞台に語られていますから、預言者の生きた時代を知ると興味が増します。歴史は神の作業場なのです。                      (銘形「エゼキエル書の瞑想」より引用) 



※次週からの礼拝は、エゼキエル書の講解メッセージが始まります。エゼキエルは、エステル、モルデカイと同時代の預言者です。なお、第5週は伝道メッセージの予定でしたが、集会が開始されるまでの間は、聖書人物説教をいたします。

2020年4月19日日曜日

2020年04月19日 第3主日礼拝 三つの必ず

招詞
幸いなことよ。主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。まことに、彼らは不正を行わず、主の道を歩みます。                      詩篇119篇2~3節
                      
聖書箇所
ルカの福音書24章36~49節

説教
三つの必ず 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/332 私の目を開いてください(ガル・エナイ)

私の目を開いてください。私が、目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。                            詩篇119篇18節

 エマオ村に急ぐ二人の弟子は、復活されてイエスと話していて「心が燃える経験」をしたので、さらに、より深く、もっと話を聞きたいと思い、(イエスを)自分たちの家に「泊まるように」と無理に願ったのでした。
  弟子たちが、自ら聖書が言わんとすることをより正しく理解しようとして、神に尋ね求めようとする時、さえぎられていた「目が開かれた」のです。重要なことは、みことばが説き明かされて心燃える経験は聖霊のみわざですが、重要で喜ばしいことは、弟子たちの自発性でした。
                          (銘形「ルカの福音書」より一部引用)

2020年4月11日土曜日

2020年04月12日 第2主日礼拝 死から復活したイエス

招詞
(イエスは)ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。    ルカの福音書24章6~7節

聖書箇所
マタイの福音書28章1~10

説教
死から復活したイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/331 心を開かせる (ディアノイゴー)

 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」            ルカの福音書24章45~48節

 イエスの復活をすぐには信じない弟子たちもいました。聖書(旧約)とイエスの教えを悟っていなかったからです。上記、復活後のイエスの顕現のカ所には、悟らせるために「心を開かせる」必要があった、心を「開く」と訳された原語は「ディアノイゴー」です。このことばは、「ディア(閉じたまぶたを引き離す)」+「アナ(再び)」+「オイゴ―(開く)」から成っている合成語です。エマオの二人の弟子たちの目が「開かれ」、イエスだとわかった(24:31)や、「主はルデヤの心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた(使徒16:14)など、心を開くという意味は、聖書の知的理解を促すことばです。主によって心が開かれなければ、聖書を悟ることはできないことを教えられます。「心が開かれる」ことと、「知恵と啓示の御霊が与えられること」とは同義です。
                         (銘形「ルカの福音書の瞑想」より引用)

2020年4月4日土曜日

2020年04月05日 第1主日礼拝 十字架上のイエス

招詞
 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。     ピリピ人への手紙2章6、8節

聖書箇所
ルカの福音書23章33~38節ほか

説教
十字架上のイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/330 ピラトの尋問

 ピラトは、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人(イエス)には罪を認めません。                     ヨハネの福音書18章38節

  信仰告白(使徒信条)の中には、ローマ総督ピラトの名前があり、私たちの教会では毎週礼拝の中で唱えられる名前です。十字架の金曜日の朝、ユダヤ最高議会の訴えの中でピラトは何に関心を持ったのでしょうか。
  彼が関心をもったのは、イエスが自分をキリストだと言っているという訴えではありませんでした。ピラトが真に関心を持っていたのは、イエスが最後議会から死刑を要求されるほど、憎まれるほど、イエスが何をしたのかということでした。
 ですから「あなたは何をしたのですか。」(ヨハネ18:35)とピラトは尋ねています。それに対してイエスは答えず、「わたしの国はこの世のものではない。」と答え、その国の王なのかという問いに「そのとおり」だと答えます。
 ピラトにはイエスの言う「王である」ということばが、ローマにとって反逆とは思われず、実際、無害であると判断しました。そして、イエスを訴える者たちに3度も「私は、あの人には罪は認めません」と言い、過越しの慣習に従ってイエスを釈放しようと提案しました。
 しかし、ピラトは、議会(主にサドカイ派議員)に扇動された民衆を恐れ、イエスを十字架刑にする結審をします。結局は、政治決着です。しかし、このピラトも神の救いのマスタープラン(青写真)が完成されていくための器の一人とされました。イエスの十字架によって、私たちは救われたのです。
 今週は、受難週で4月10日は、ピラトの裁判も行われた十字架の金曜日です。福音書の最後の数章を読み返しながら、十字架の苦しみを通られたイエスさまに感謝しながら過ごしましょう。
                      (銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)