2019年2月24日日曜日

2019年02月24日 第4主日礼拝 知恵ある生き方

招詞
しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義ときよめと、贖いとになられました。
                           コリント人への手紙第一 1章30節

聖書箇所
第一列王記3章1~15節

説教
知恵ある生き方 菅孝雄兄

言(こと)ローグ/275 安息日(シャバーット) 

 主はモーセにこう告げられた。「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたが聖なる会合として召集する主の例祭、すなわちわたしの例祭は次のとおりである。六日間は仕事をする。しかし、七日目は全き休みのための安息日、聖なる会合の日である。         レビ記23章1~3節

 安息日(シャバーット)は、モーセの十戒の一つで冷たい規則のように考えている人がおられるとすればそれは間違いです。シャバーットは、天地創造の神さまに感謝する日、体と心を休めて家族で過ごす日、そして何よりも楽しいお祭りでした。他に、春に4つ、秋に3つ、計7つの祭りがありますが、どれも年に一度なのに対して、シャバーットは、毎週、年52回のお祭りです。この日は家族でトーラー(モーセ五書)を読み、豪華でなくても奥さんが工夫したごちそうを食べました。
 「イスラエルが安息日を守ったのではなく、安息日がイスラエルを守ったのだ」というユダヤの格言があります。ペンテコステで教会が誕生した時、クリスチャンたちは、当たり前のように土曜日ではなく、イエスさまの復活日を祝う日がシャバーットになりました。イエス様ご自身が「私がシャバーットの主です」と宣言されたからです。イエス様を信じ従う者は皆、シャバーットの祭りに集まり、聖書を読み・聴き、そして食べて祝います。主の日(シャバーット)がクリスチャンを守るのはないでしょうか。
                        (銘形「イスラエルの大祭」より一部引用)

2019年2月17日日曜日

2019年02月17日 第3主日礼拝 主のもとに来なさい / ヨブ記に学ぶ試練の目的 ―律法の人から福音の人へ―

招詞
 それゆえ、神である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石(かなめいし)。これに信頼するものは慌てふためくことがない。                        イザヤ書28篇16節

聖書箇所
第1ペテロ2章4節

説教
主のもとに来なさい 銭谷幸器牧師
MP3音声ファイル

ヨブ記に学ぶ試練の目的 ―律法の人から福音の人へ― 銭谷幸器牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/274 ゼルバべル(バビロンの種)

 こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな、【主】を賛美して大声で喜び叫んだ。 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、最初の宮を見たことのある多くの老人たちは、彼らの目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。 エズラ記3章11~12節
 
 ゼルバベルの幼少から青年期の名前はシェシェバツァルです。ゼデキア王の反逆がエルサレムの陥落とバビロン捕囚の直接の原因になり王家が途絶えます。しかし70年後、ペルシャの王クロスは、捕囚民の解放とエルサレム神殿の再建を援助することを宣言するのです。そして、シェシェバツァルがユダの君主としてクロス王の信任を受けるというどんでん返しが始まります(エズラ1:8)。
 青年シェシェバツァルは、第一回のエルサレム帰還のリーダーになり、敵に囲まれる中で、神殿の基礎を完成させました。完成の時、彼と若い人々は大声で賛美しました。しかし、彼は、破壊前の宮(ソロモンの神殿)を見たことのある老人たちが、反対に大声で泣いたのを忘れません。
 20年後、ゼルバベルと改名して、再度、エルサレムを訪れ、ついに神殿と城壁を完成させます。バビロンの種は、成長し、エルサレムで大きな実を結びました。困難と逆境の中で生涯主を愛し、主のために働くという美しい信仰の物語ですね。  (銘形「エズラ記の瞑想」を一部引用)

2019年2月10日日曜日

2019年02月10日 第2主日礼拝 キリストの福音を携えて

招詞
 神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。                      コリント人への手紙第二5章18節

聖書箇所
コリント人への手紙第二 2章14~17節

説教
キリストの福音を携えて 田口孝子師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/273 アシュレー(幸いなことよ) 

 幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。              詩篇2篇12節
 
 新改訳では、「すべての事々に」と事象にかかっています。新共同訳は、「すべて」が、人にかかっています。どちらも可能な訳です。
 詩篇の第1篇と第2篇に共通するのは、アシュレー(幸いなことよ)です。アシュレーとは、「ああ、なんと幸いなことだろう。」「なんともうらやましい限りだ」といった感嘆を表わすことばです。第1篇の「幸いな人」とは、積極的な意味で「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」ことで、やがては何をしても栄える人のことですが、第2篇での「幸いな人」(12節)とは、「主に身を避ける人」のことを語っています。私たちは礼拝のときに、神が主であることを喜んで「心から」認めたとしても、実際の生活での経済面や守りの面という点になると、自分の心のおもむくままに決めてしまうことが多いのではないかと思います。そして神ならぬものに頼ろうとしてしまうのです。これも偶像崇拝の一つです。
 神の子どもとされた私たちのこの世での務めは、何よりも主を信頼することです。イエスが「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15章5節)と言われたように、「主に身を避ける」ことを学ぶことなしに、私たちがなし得るものは何一つないことを深く心に刻みつけたいと思います。実生活の中でもアシュレーと主に告白する毎日でありたいと願います。                    (銘形「ヘブル語ディリーブレッド」から引用)


 

2019年2月3日日曜日

2019年02月03日 第1主日礼拝 安全につながる喜び

招詞
ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。                            ピリピ人への手紙4章1節

聖書箇所
ピリピ人への手紙3章1〜11節

説教
安全につながる喜び  高橋和義牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/272 ホーメル

 見よ。粘土が陶器師(新共同訳:陶工)の手の中にあるように、・・・・
 あなたがたも、わたしの手の中にある。               エレミヤ書18章6節

 神はご自身の民を、陶工の手の中にある粘土のように自由に取り扱います。陶工は粘土を注意深く選び、粘土から小さなゴミや石ころを取り除き、柔らかくなるまでよく練ります。そしてろくろに乗せて思いのままの形に仕上げます。「ろくろ」を使うことによって、より丁寧に、よりバランスのとれた形に仕上がっていきます。「ろくろ」の原理は回転の繰り返しですが、これは私たちの日々の生活の日課にたとえることができます。「ろくろ」に置かれる粘土のように、私たちも毎日の生活の中で、神の御手によって神のみこころにあったものとして形造られていくのです。
 細心の注意を払い、巧みに形造られたそれぞれの器は、最後の仕上げとして、つまり円熟(完成)させられるための最終テストに入ります。それは窯(かま)に入れて焼かれることです。火は粘土を陶器に変えます。この場合「火」は、神の前に立つという意味ですが、罰の意味ではありません。完成への道のりで試練や越えなければならないチャレンジも多いですね。イエスさまが共におられることで試練を乗り越えることができ、また「火」も恐れることはありません。「見よ(よく聞きなさい)。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」   マタイ28:20
                      銘形「ヘブル語のディリーブレッド」から引用)