2021年5月29日土曜日

2021年05月30日 第5主日礼拝 教会が進む時

招詞
 主よ私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。私は主を待ち望みます。主のみことばを私は待ちます。                  詩篇130篇1~2、5b節

聖書箇所
使徒の働き2章43節~3章19節

説教
教会が進む時 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/389 神からの愛の手紙(ラブレター)
 すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。                      イザヤ書40章6、8節

 ルターは1521年、3か月で新約聖書をドイツ語に翻訳し、翌年出版した世界初のドイツ語新約聖書は熱狂的に国民に読まれました。すぐに旧約聖書の翻訳に取り掛かりましたが12年かかりました。新約の3倍の量とは言え、ヘブル語はメランヒトンなど友人の助けが必要だったからです。
ルターの言葉です。「私はヘブル語を学び、これを怠らないようにすすめる。この言葉がたとえ役立てる機会がないとしても、なおも感謝して学ばねばならない。ヘブル語を教え、また、学ぶこと自体が信仰の一部であり、礼拝そのものである。このことばによってのみ神について学ぶ真理が存在する。もし、私たちがヘブル語を知らなければ、彼ら(ローマ・カトリック教会)は私たちをロバとののしるだろう。一方、ヘブル語を知っているならば、彼らの愚かな口を封じることができる。」この激しいことばは、カトリック教会から破門され、命の危険にさらされていた心境からのものです。
1887年以来、私たちが、日本語で旧新約聖書が読めるのは、ヘボン宣教師(写真)や日本人クリスチャン達の熱意と努力を主が用いてくださった結果です。ヘブル語やギリシャ語を知らなくても、毎日、感謝して神様からのラブレターを読みましょう。
                        鍋谷尭爾著「詩篇を味わう」から一部引用)

2021年5月22日土曜日

2021年05月23日 ペンテコステ礼拝 教会の誕生日

招詞
 幸いなことよ。主を恐れ、主の道を歩むすべての人は。あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸い、あなたへの恵み。              詩篇128篇1~2節

聖書箇所
使徒の働き2章1~42節

説教
教会の誕生日 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/388 待つ(ペリメノー)
 使徒たちといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」               使徒の働き1章4節

 イエスは、復活されてから昇天されるまで、四十日間、弟子たちに何度も現れ、聖書(旧約聖書)を教えました。それは、使徒たちが、整えられるためでした。整えとは、復活のイエスを確かに見、生きておられるイエスの証人になる意思確認でした。そして、神のご計画の新しい段階を迎えるために、さらに10日間、聖霊という上からの力が与えられるのを待つことでした。こうして、五旬節(ペンテコステ)がやってきました。ところで、イエスが「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」と言われた時に、使徒たちは、それは「イスラエルの復興(回復)」の時が来るのだと考え、「それがこの時ですか」とイエスに迫りました。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」とイエスは答えました。はぐらかしたのではなく、聖書の約束に基づく質問としてイエスは答えました。ただし、それは、神の救いのマスタープランが成就していく終わりの日のことだったのです。「新しい霊が与えられること」と「イスラエルの回復」はワンセットなのですが、この時点では、まず使徒たちを世界中に遣わすためにも聖霊が彼らに下ることが必要不可欠でした。待つことも御国の前進に必要ですが、私たちの中でも、待つことが苦手な人も多いのではないでしょうか。使徒たちはこの時、祈りつつ待つことができました。
                            (銘形「使徒の働き」から一部引用)

2021年5月15日土曜日

2021年05月16日 第3主日礼拝 新しいエルサレム③

招詞
 主よ。ネゲブ砂漠の(オアシスの)流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。               詩篇126篇4~6節

聖書箇所
エゼキエル書42章1節~43節

説教
新しいエルサレム③ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/387 義のさばき(ミシュパート)

 あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。
                                 申命記1章16~17節

 申命記第1章において注目すべきキーワードは、神のさばき(ミシュパート)の「公正さ」です。ミシュパートは421回も用いられている重要語ですが、専制的な裁きではなく行き届いた愛と福祉理念に満ちています。次の詩篇でも作者が正しいさばきを定めた神ささまをほめたたえています。
詩 119:7 「あなたの義のさばきを学ぶとき、私は 直ぐな心であなたに感謝します。」
詩 119:20 「私のたましいは、いつもあなたのさ ばきを慕い、砕かれています。」
詩 119:30 「私は真実の道を選び取り、あなたの さばきを私の前に置きました。」
この主のミシュパートを心にとどめて従うときに、イエスさまが旧約聖書の教えをまとめて、「主を愛し、あなたの隣人を愛しなさい」と言われた言葉が生きてくると思います。
                              (銘形「申命記」より一部引用)

2021年5月1日土曜日

2021年05月09日 第2主日礼拝 新しいエルサレム②

招詞
 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。                   詩篇121篇3、7~8節

聖書箇所
エゼキエル書41章1節~26節

説教
新しいエルサレム② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/386 心の豊かさと祝福
 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。     申命記24章19節

 申命記は、モーセが筆記した神の律法の書の一つで、日々の生活のことが満載されています。神の祝福は、悪いことをしなければ大丈夫、祝福をいただける、ということではないようです。困っている人々、外国人に対して心を開き、親切にすることが、とても大事です。おまけでなく、それが心の豊かさの中心です。「主、神を愛し、隣人を愛しなさい」という旧約聖書の2大教訓は、実行するためのものです。ただ覚えているだけでは十分でありません。
「こころの時代」と言われて久しいですが、心の豊かさは自分に向けて語られるのではなく、外に、隣人に向けて示されていくものでしょう。

2021年05月02日 第1主日礼拝 新しいエルサレム①

招詞
 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 
                                  詩篇121篇1~3節

聖書箇所
エゼキエル書40章39節~52節

説教
新しいエルサレム① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/386 手を開く(パータハ)
 国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。                                申命記15章11節

「手を開く(パータハ)」とは、自分の持てるものを持って、援助の手を差し伸ばさなければならないという意味です。このことを通して幸福な社会が実現するからです。へブル語の動詞 パータハが不定詞と未完了形で重複されています。そのことによって意味が強調されています。また、一過性でなく持続していかなければならないという大原理です。与える者にも祝福が帰ってきます。隣人に「手を開く」ということは、主から新たな祝福を受け取ることになるからです。そこで、上記のように、「必ず・・・手を開かなければならない」と訳されています。
エネルギー分野で「持続可能な開発目標(SDGs)」という言葉がクイズ番組でさえも紹介されていますが、信仰の世界でも申命記の記された3500年前に、すでに「あなたの手を開く」ことで持続可能な祝福を実現できると強く勧められています。ここには天の御国における祝福の循環があります。強いられてではなく、進んで手を開き、手を差し伸べましょう。 
                           (銘形:「申命記」から一部引用)