2018年6月24日日曜日

2018年06月24日 第4主日礼拝 新しい人と愛①

招詞
あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
                                   詩篇63篇3~4節

聖書箇所
エペソ人への手紙5章1~2節

説教
新しい人と愛① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/241  前向きと後ろ向き ②

 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。       ヨハネの福音書15章5節                  
  聖書の世界で、神と人とかかわりの切り札は「後ろ向き」である、と私は考えている。聖書では、神と人とのかかわりにおける「後ろ向き」は、「とどまる」ということばで言い換えられる。特に、いのちのかかわりを強調するヨハネの福音書(新約聖書)ではそうである。「後ろ向き」とは、神と向き合うかたちとなり、進む方向はすべて神にゆだねるかたちとなる。
 ちなみに、ヘブル語で「過去」を意味する言葉は文字どおりには「前」を表わし、「未来」を意味する言葉は「背後」を意味する。結実は、背後にある未来に「後ろ向き」で進む時、つまり神にとどまる結果としてのみ得られるものである。
 そんなわけで、実を結ぶためには、神にとどまり、未来をゆだねてしっかりと向き合う「後ろ向き」を身につけなければならない。
 神に未来を委ねて「後ろ向き」に進む、そんな歩みを今年はもっとしてみたいと思いませんか。
                      (銘形「後ろ向きという切り札」から一部引用)


2018年6月17日日曜日

2018年06月17日 第3主日礼拝 あなたを生かすこの愛

招詞
私は主を愛する。【主】は私の声、私の願いを聞いてくださるから。 主は、私に耳を傾けられる
ので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。                詩篇116篇1節

聖書箇所
ヨハネの手紙第一 4章7~11節

説教
あなたを生かすこの愛 松山 裕 牧師
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2018年6月10日日曜日

2018年06月10日 第2主日礼拝 新しい人の選択

招詞
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。               詩篇62篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙4章28~32節

説教
新しい人の選択  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/240 前向きと後ろ向き ① 

 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。       ヨハネの福音書15章5節

 「振り返ってはいけない。」とか「前向きに生きろ」。などとよく耳にするが、振り返ることなく生きられる人がいるだろうか。また、前ばかり向いて歩くことが、そんな立派なことなのだろうか。「前向きに進め」というのは、人間が溜めていた力を出せる「後ろ向き」という切り札を、めったなところで使ってはいけないということなのかもしれない。私は今日も、後ろ向きで坂を下り、後ろ向きで風の中を走り、夕日を見ながら帰ってきた。 (星野富弘 「鈴のなる道」より)
 
この随筆で星野さんは、前向きに生きる真の切り札は「後ろ向き」にあるということを言おうとしているのだと思います。
 星野さんの言う「後ろ向き」ということばと、上記「わたしにとどまりなさい」というみことばが、私には重なるような気がするのです。実は、ヘブル語では「前を向く」とは、これまでのことを振り返る方向、つまり過去に目を向けることです。次回、詳しく説明しましょう。
                         (銘形 「謙遜への招き」から一部引用)

2018年6月3日日曜日

2018年06月03日 第1主日礼拝 新しい人と怒り

招詞
私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。                   詩篇61篇2節


聖書箇所
エペソ人への手紙4章17~28節

説教
新しい人と怒り 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/239 霊的な味覚

 【主】の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、【主】の仰せはきよくて、人の目を明るくする。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
                                  詩篇 19篇 8、10節

 詩篇を読む時、霊的な味覚に対する好奇心が必要です。
 私たちが毎日口にする食事は、五感のすべてを使って味わっています。目で味わい、耳で味わい、鼻で味わい、手や舌の感覚で味合う、これらのすべての感覚をフル動員して食べています。グルメとは、脳のあらゆる感覚器官が研ぎ澄まされた人のことだと言えます。
 ところで、詩篇の瞑想は、ただ与えられて食べる側よりも、料理を作る側に近いかもしれません。それは歌われた一つ一つの詩という素材から味の感動を引きだすからです。まず自分が作っておいしいと思うことが大切です。では、料理にとって一番大切なものはなんだろうか。それは舌、つまり、味覚です。視覚も臭覚も、料理にとっては大事なことですが、まずは味覚が第一条件です。味覚は生まれ育った環境にも影響されますが、経験によって鍛えられ、磨かれます。
 ダビデは、「主の戒めは、蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」と、言いきりました。彼は、もっと神とのすばらしい交わりの世界を味わいたい、堪能したいという旺盛な好奇心をもっていました。
 詩篇から、自分の霊の舌で、新しい味覚をどんどん自分の中にすり込む経験をしてみませんか。        
                     (銘形「詩篇瞑想のための手引き」より一部引用)