2018年8月26日日曜日

2018年08月26日 第4主日礼拝 キリストと教会

招詞
ほむべきかな。神、【主】、イスラエルの神。ただ、主ひとり、奇しいわざを行う。 とこしえに、ほむべきかな。その栄光の御名。その栄光は地に満ちわたれ。     詩篇72篇18~19節

聖書箇所
エペソ人への手紙5章21~33節

説教
キリストと教会 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/250 福祉

 神は神の会衆の中に立つ。弱い者とみなしごとのためにさばき、
                 悩む者と乏しい者の権利を認めよ。   詩篇82篇1,3節
 
 モーセ五書の申命記においては、今日においても驚くような福祉社会の理念が神によって基礎づけられていますが、詩篇の中にも福祉の歌は沢山あり、上記82篇もその一つです。ラルシュ共同体の創始者であるジャン・バニエという人は、弱さ、低さの価値を現代社会において見出そうとした人で、ラルシュは箱舟の意味です。

 ラルシュ・コミュニティの使命は三つあります。
①知的障害者に彼ら自身が持つ特別な人間性を回復させるため、家庭的で暖かい環境としてのホームを作ること
②すべての人間のもつ特別な価値を発見し、明らかにすること、
③ラルシュ(箱舟)が社会の希望のしるしとなり、社会を変えていくこと。

「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。・・神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それはからだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」
                        (コリント第一12章22、24~25節)
 
福祉の心は神のみこころを行う心です。    (銘形 「詩篇の瞑想の手引き」より一部引用)

2018年8月19日日曜日

2018年08月19日 第3主日礼拝 新しい人と従う人

招詞
私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。                           詩篇71篇23節

聖書箇所
エペソ人への手紙5章21節

説教
新しい人と従う人 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/249  神の視座

 私たちの主、【主】よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。
 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。             詩篇8篇1、3~4節
 
 神は永遠であり、すべての世界は神を出発点としています。「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」(ローマ11章36節)と言ったパウロは壮大な神の救いの歴史的視座を神から与えられた一人だと思います。そして、その視座は、上記ダビデの賛歌に見られるように、すでに詩篇の作者たちにも与えられていたということが驚きです。視座の広さ、その空間と時間のスケールの大きさにふれること、また、そうした視座をもってすべてを見る眼が養われること、これこそ詩篇の瞑想の醍醐味のひとつではないかと思います。
 ヒマラヤの山々を何度も登った友人が、山の上から眺めた時、なんと人間が小さなことにこだわり、争ったり、悩んだりしていることか、と言っていました。狭い、限られた空間と時間から解放されて、神の視座から考えるなら、ものごとがかなり変わって見えるようになるのです。詩篇は、神の大庭のような所です。そこは、私たちの心を日常から開放してくれるいこいの空間です。今日、詩篇の扉を開いてみましょう。         (銘形 「詩篇瞑想の手引き」より引用)

2018年8月12日日曜日

2018年08月12日 第2主日礼拝 新しい人と聖霊②

招詞
私は神の御名を歌をもってほめたたえ、神を感謝をもってあがめます。心の貧しい人たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。   詩篇69篇30、32節

聖書箇所
エペソ人への手紙5章18~20節

説教
新しい人と聖霊② 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/248 イエスの祈りと詩篇

    わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。              詩篇22:1

 イエスさまの時代の聖書は旧約聖書です。それは、羊の皮に書かれており、ラビたちが手書きで書き写したもので、当時は貴重で高価なものでした。ですから、会堂(シナゴグ)で読まれる聖書の朗読に人々は真剣に耳を傾けたのです。イエスさまも安息日の礼拝で朗読される旧約のモーセ五書(トーラー)をよく聞いておられましたし、同じく、詩篇も愛聴していました。そんな訳で、イエスさまは、詩篇の心とことばで御父と祈り、親しい交わりをもっていたと思います。公生涯に入られてからも、毎朝、寂しいところで祈っていられましたが、詩篇のことばが祈りのことばでもあったと考えられます。というのも、イエスさまが対話や話の中に詩篇をよく引用されているからです。上記22篇1節はメシア詩篇とも呼ばれているカ所です。

 イエスが御父とどんな交わりをしたのか、その内実を知りたいと願っている者にとって、詩篇の作者(ここではダビデ)の心とイエスの心が重なっていることに気づきます。そうすると、詩篇の瞑想はさらに豊かになり、奥の深いものとなってゆくのを感じられると思います。イエス・キリストの生涯のおおよその流れを、学んでみてはいかがでしょう。詩篇の味わいはより豊かなものになります。                      (銘形 「詩篇の瞑想」より一部引用)

2018年8月5日日曜日

2018年08月05日 第1主日礼拝 神と歩いたエノク

招詞
ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。神は私たちにとって救いの神。
                                 詩篇68編19~20節

聖書箇所
創世記5章18節~24節

説教
神と歩いたエノク 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/247 ふるいにかける 

 私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら。。。
                                     詩篇7章3~4
 
 マタイ13章にイエスの語られた「種蒔きのたとえ話」があります。道ばたに蒔かれた種、岩地に落ちた種、いばらの中に落ちた種、そして良い地に落ちた種。種は神のことばです。私たちは、良い地に落ちた種が多くの実を結んだことを知っています。しかし、自分自身が決して良い地ではなく、道端や岩地やいばらの地であることを素直に認める人は多くはないようです。
 瞑想は、神を知り、神を深く味わうことですが、同時に、ダビデのように神の「ふるい」にかけられて信と不信の狭間で揺れ動く自分の心を鋭く見つめる勇気も必要です。
 ふるいにかけられる中で、自分自身の内にある心の問題を直視することは、辛いことですが、ご聖霊の声なき声に聴き従いましょう。やがて多くの実を結ぶようになると信じます。
                           (銘形「詩篇の瞑想」より一部引用)