2021年12月25日土曜日

2021年12月26日 第4主日礼拝 ナザレのイエス

招詞
 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 主は、あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。
                                  詩篇103篇2、5節

聖書箇所
マタイの福音書2章1節~23節

説教
ナザレのイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/419 詩篇は小聖書

 神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。                              詩篇51篇17節

 ルターは、30歳でヴィテッンベルグ大学の神学部教授になった翌年、1513年から2年間にわたって、早朝に週2回、詩篇の講義を持っています。彼が詩篇を選んだ理由は、詩篇が彼の霊的な生活を励まし、慰め、豊かにしたからです。ルターにとって、1517年から始まる宗教改革の嵐の海に乗り出す前の霊的エネルギー充填の時となりました。また、彼は詩篇の中にキリストの意味が明瞭に語られていることを確信していました。彼は、詩篇註解書の序言で、「詩篇は小聖書と呼ばれてもよく、この書ではすべてが最も美しく簡潔に述べられており、かりに人が聖書全部を読むことができなくても、この小冊子にすべてが要約されている。」と述べています。この講義録が、聖書釈義の手本としてやがて歴史的な意味をもつようになります。
詩篇は150篇ありますが、私たちの聖書通読日課に加えることもできます。近未来への霊的エネルギーの充填に用いませんか。           (銘形「詩篇ア・ラ・カルト」から引用)

2021年12月19日日曜日

2021年12月19日 第3主日礼拝 クリスマス礼拝 マリヤの目で見たクリスマス

招詞
 主の戒めはまっすぐで、人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで、人の目を明るくする。主からの恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
                                   詩篇19篇8~9節

聖書箇所
ルカの福音書2章1節~21節

説教
マリヤの目で見たクリスマス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/418 光(フォース)

 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。                              マタイの福音書4章16節

 ガリラヤ地方はB.C.723~722年にアッシリア帝国の侵略を受け、その属国となり、住民は捕虜となりました。こうしてガリラヤの住民は家族との離別の悲しみに会い、絶望のどん底にあったのです。このような悲劇の中において、イザヤは神の救いの光を見てこの預言をしたのです。
 このみ言葉は、直接的には、アッシリアに併合されて絶望のどん底にあった民の状態を意味していますが、比喩的には、霊的な暗やみ、霊的な死を意味しています。たとえ表面的にどんな豊かな生活を送ろうとも、キリストとその福音を知らない者はその本質においてはただ暗やみと死の中にあります。そうした人々が「偉大な光」を見ることのできる新しい時代が、すでに来ています。私たちがしなければならないことは、この「光」に背を向けることなく、この「光」を受け入れることです。そして、光の子どもとしてふさわしく歩むことです。イエスは言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)                  (銘形「アドベントの瞑想」より引用)

2021年12月11日土曜日

2021年12月12日 アドベント第3週 第2主日礼拝 神の逆転劇

招詞
 心を尽くして私は主に感謝をささげます。あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。私はあなたを喜び誇ります。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌います。    詩篇9編1~2節

聖書箇所
ルカの福音書1章46節~56節

説教
神の逆転劇 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/417 マリアとヨセフが選ばれた理由

 (マリヤとヨセフは)夢で警告を受けたので、ガリラヤ地方に退いた。そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「彼はナザレ人と呼ばれる」と語られたことが成就するためであった。                     マタイの福音書2章22~23節

 教会学校の子どもたちから「なぜ、イエスさまの母があのマリアでなければならないのですか」という質問がありました。ヘブル名ミリアムのマリヤは、とても人気のある名前でどの町村にもたくさんのマリヤがおりました。さて、理由は、上記の預言にある通り、イエスさまはナザレ人である必要があったからです。 マリヤはナザレ村の娘だったことはルカの福音書1章でわかります。ヨセフはどうでしょうか。それは、2章で、国勢調査により、二人はすでに結婚していて、ナザレ村からベツレヘムに向かったことから知る事が出来ます。この二人は、ダビデの子孫であることも必要な条件で、これも満たしていました。これらすべては、創世記3章15節から始まった「神の救いのマスタープラン」に沿って、神が計画されたことが実現したというメッセージとなっています。クリスマスの主に感謝!            (銘形「アドベント瞑想」より一部引用)

2021年12月5日日曜日

2021年12月05日 アドベント第2週 第1主日礼拝 聖霊とイエス・キリスト

招詞
 主よ、あなたは、人を御使いよりわずかに欠けがあるものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせてくださいました。あなたの御手のわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
                                    詩篇8篇5~6節

聖書箇所
ルカの福音書1章26節~38節

説教
聖霊とイエス・キリスト 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/416 ザカリヤの賛歌

 この方、イエス以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。        使徒の働き4章12節

 祭司ザカリヤが、ヨハネの誕生から8日目の命名式の時、聖霊に満たされて語った賛歌をベネディクトゥス(ラテン語:「祝福があるように」の意味)と言われ ます。この賛歌は、大きく二つの部分からなっています。前半は68~75節で、イエスによる罪からの救いについてです。後半は76~79節で、その「救い」を 備えるザカリヤの子、バプテスマのヨハネについての預言があります。ここでは前半だけに言及します。 救いは、罪からの救いです。ルカの福音書19章にはザアカイと言う金持ちで嫌われ者がイエスに会って、罪が示され、富の縛りから解放され、魂が救われるエピソードがあります。自分の力では決して這い出すことの出来ない物欲の泥沼からザアカイは生還しました。私たちも、聖書のみことばを通してイエスに出会い、罪が示されて救いへと導かれた者たちです。 この救いは、私たちの敵サタンからの解放でもあります。すなわち、神による救いを妨げるサタンとその手下である悪霊たちからの解放です。アドベントの期間、ご自身の言動を通して、この敵と戦い勝利なさったイエスに感謝しつつ過ごしたいと思います。 
                        (銘形「アドベントの瞑想」より一部引用)

2021年11月27日土曜日

2021年11月28日 アドベント第1週 第4主日礼拝 メシアとインマヌエル

招詞
 あなたの指のわざであるあなたの天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。                             詩篇8篇3~4節

聖書箇所
マタイ1章18~25節
イザヤ書7章14節

説教
メシアとインマヌエル 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/415 天使ミカエルとガブリエル

 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて悪魔と論じて言い争っ たとき、ののしってさばきを宣言することはあえてせず、 むしろ 「主があなたをとがめてくださるように」 と言いました。                                ユダの手紙1章9節 
 御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。」                ルカの福音1章19節

 聖書には、天使や天の軍団とも呼ばれる天使の群れの他に固有名を持つ天使が二人いて、彼らはミカエルとガブリエルです。
 さて、天使は、第一義的には神に仕え、神の御心を行う使者です。しかし、救いのマスタープランが進むにつれて、人間界との関わりで聖書に現れてきました。ミカエルは、ダニエル書10章とヨハネの黙示録12章に登場し、サタンとの闘いで活躍します。一方、ガブリエルは、ダニエルに幻を悟る知恵を授けます(ダニエル8~9章)。ルカの福音書では、祭司ザカリヤとマリヤに現れて、それぞれバプテスマのヨハネとイエス・キリストの誕生にかかわる予告をしますので、私たちには馴染みがあります。 
 天使が、私たちにどうかかわるのかは神のみぞ知るです。確かなことは、イエス様は、聖霊を遣わして、日々、私たち全てのクリスチャンたちを守り、励ますと約束してくださいましたので、私たちは安心して信仰生活を続けられますね。

2021年11月20日土曜日

2021年11月21日 第3主日礼拝 信仰の原点に返る

招詞
 主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。あなたは喜びを私の心に下さいます。それは、彼らに穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。
                                    詩篇4篇6~7節

聖書箇所
創世記35章1~29節

説教
信仰の原点に返る 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/414 アドベント

 わたしの愛の中にとどまりなさい。               ヨハネの福音書15章9節

 次週から、待降節が始まります。今年のクリスマス礼拝は、12/19にお祝いします。「クリスマス」ー救い主の降誕祭ーをよりよく迎えるために、キリスト教会はその前の4週間を「待降節」(アドベント)として霊的な準備の期間として用いてきました。
私たちも、この時期を意識的に、あらたな思いと期待をもって神の賜物である御子イエス・キリストを瞑想する時として心を整え、備える時としたいと思います。神から来る静まりの中で、「ことばに表わせないほどの神の賜物」ー御子イエスの受肉の神秘と再臨の希望ーに深く思いを馳せる4週間にしましょう。「イエスの愛に留まり、依りたのむ幸い」を経験しましょう。
先日、一般の方もアドベント・カレンダーを手作りして子どもと一緒にクリスマスを待ちわびる祝い方もある、とテレビで報じられていました。クリスチャンなら、お菓子の代わりに好きなみことばを選んで書いたものを4週間分、カレンダーに入れておいて、毎日ひとつづつ開けていくという楽しみ方はひと手間かかる「アナログ」ですが、心に残るのではないかとも思います。簡単なものを作ってみてはいかがでしょうか?
クリスマスコンサートで歌われる「カンタータ93番」の最後の合唱は、アドベントの心を良く伝える詞(うた)でもあると思います。「主に歌い、祈りて、誠(まこと)つくすべし、豊かなる祝福、いよよ優(まさ)りゆかん、依りたのむ者を、主は忘れまさず」(大村恵美子訳)
                         (銘形「アドベント瞑想」より一部引用)

2021年11月13日土曜日

2021年11月14日 第2主日礼拝 兄弟の和解 ②

招詞
 幸いなことよすべて主に身を避ける人は。その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。       詩篇2篇12b、1篇3節

聖書箇所
創世記33章1~20節

説教
兄弟の和解 ② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/413 存在を示す名(シェム)
 あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。     ルカの福音書10章2節

 イエスの弟子たちが伝道の奉仕から帰ってきた時に、イエスにその結果のすば らしかったことを報告しました。するとイエスは、「そんなことで喜んではなり ません。あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われ ました。イエス様は、結果を出せたことを喜ばれたはずですが、もっと大事なこ と、天国に名前が登録されている幸せを喜べ、と言われました。 ヤコブに名前を訊ねられた時、リベカは自分の名の代わりに「私は、ミルカが ナホルに産んだ子ベトエルの娘です(創世記24:24)」と自己紹介をしています。 江戸時代までの一般日本人のように、当時から、ヘブル人(現ユダヤ人)に苗字は無く、名前だけだったようで、存在を示す苗字としては、曾祖父、祖父、父の 名を連ねています。 さて、「書き記されている」という書とは、「いのちの書(詩篇69:27、黙示 21:27他」を意味しますが、もしそこに苗字しか書かれていなかったとしたら、 例えば「山田」の中のだれのことなのか、正確にはわかりません。山田花子と書 かれていれば、まさにこの私の名が記されているということになります。天に おいてはきっとフルネームで書かれているはずです。ですからこれからは、意識して自分の名前をフルネームで書いたり、言ったりするように心がけませんか。 「わたしはあなたの名を呼んだ」という場合、神は私たちをフルネームで呼んで下さるはずです。楽しみですね。     (銘形「ヘブル語のキーワード」より一部引用)

2021年11月6日土曜日

2021年11月07日 第1主日礼拝 兄弟の和解 ①

招詞
 幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜も そのおしえを口ずさむ 人。         詩篇1篇1~2節

聖書箇所
創世記32章1~32節

説教
兄弟の和解 ① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/412 神の栄光(カボド&ドクサ)
 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。                    コリント人への手紙第一10章31節

 バッハは、ドイツの教会オルガニストでしたが、毎週の礼拝のために、前奏曲にはじまり、賛美歌の伴奏、聖歌隊によるカンタータなど作曲しました。それらの、彼の作曲した楽譜には、必ず「神の栄光のために」という略語、SDG(ラテン語で Soli Deo Gloria)が記されてたそうです。だれのためでもない、神に対する信仰と喜びのゆえに、与えられた機会を最大限に、しかも心をこめて熱心に、そしてそのために時間を惜しげもなく注ぎ、自発的に、喜びをもって作曲したのです。それが彼にとっての神への献身、神へのささげものでした。
私たちも、音楽家でなくても、イエスさまの十字架の愛に生かされて、自分の身体をもって神の栄光を現わすことができます。何ができるでしょうか。病気やケガなどで不自由な体になっても同じです。その場合でも、身体は不自由に見るのですが、心は反対に空を飛ぶ鳥のように、自由に生きることができるのです。              (銘形「ヘブル語のキーワード」より引用 )

2021年10月31日日曜日

2021年10月31日 第5主日礼拝 宗教改革記念礼拝  2人の改革者とルター

招詞
 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらの砦である。
                                詩篇46篇1, 2a, 11節

聖書箇所
ローマ人への手紙1章17節、3章21~24節

説教
2人の改革者とルター 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/411 怒りと愛
 この方(イエス)にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
                               エペソ人への手紙1章13節

 ルターは、「免罪符」が、貧しい農民たちに売られているのを見て激怒しました。免罪符は、カトリックの教える、死後、煉獄で神から罰を言い渡される時に、罰一等を減ぜられる保険という触れ込みで販売されていました。しかし、聖書の教えではないことと他教区の教会建築資金集めが目的でした。10月31日、ローマ教皇への疑問を95の公開質問状にまとめて教会の扉に張り付けたのが、宗教改革の発端です。数年後、ルターは、カトリック教会を破門されますが、この「負の力」に勝つ「正の力」がドイツ国内でのルター派(プロテスタント)教会の誕生でした。
この動きに呼応して、北欧の、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの教会は、ルター派へ転向しました。さて、禁止されていたドイツ語への聖書翻訳と出版、ドイツ語賛美歌集の出版などなど、へとへとになるまで昼夜励んできた41歳のルターのところに、修道院を出奔したカテリーナが現れます。「ルターさまと結婚するように神さまから導かれております」とプロポーズされ、結婚します。彼は、怒りから愛に導かれました。26歳の彼女は、良妻賢母ぶりでルターと家族を支えました。子煩悩なルターは、妻と6人の子どもたちを愛し、賛美歌を沢山作って毎日、家庭礼拝です。クリスチャン家庭のお手本としてドイツ内外に紹介されました。

2021年10月24日日曜日

2021年10月24日 第4主日礼拝 ヤコブの 20年間 ③ 救い

招詞
 ハレルヤ。神の聖所で神をほめたたえよ。御力の大空で神をほめたたえよ。その大能のみわざのゆえに神をほめたたえよ。その比類なき偉大さにふさわしく神をほめたたえよ。
                                  詩篇150篇1~2節 

聖書箇所
創世記31章1節~55節

説教
ヤコブの20年間③ 救い 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/410 ルターと雷
 信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。では、私は尋ねます。彼らは聞かなかったのでしょうか。いいえ、むしろ、「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」のです。      ローマ人への手紙10章17節

 イザヤ書53章1節ほかの聖句を引用したローマ教会への手紙です。イザヤは、紀元前8~7世紀の預言者です。ヘブライ語で書かれたものが、紀元前3~1世紀に当時の世界語になったギリシャ語に訳され、パウロの時代には「世界中の人々に」読まれていました。イザヤはキリストの預言もしており(イザヤ9:6,53章)、紀元1世紀に実現しました。しかし信じない人も沢山いました。現代も同じです。 16世紀、教会の霊性はどん底まで下がり、暗闇でした。「深遠な聖書の言葉を極め、世界に伝える器」を、神は探しておられ、マルチン・ルターが選ばれました。 当時、ルターは、弁護士志望の大学生でしたが、帰宅途中に、すぐそばで落雷があり、友人と共に地面に叩きつけられました。彼は膝まづいて祈り、「命が助かったら修道院に行きます」と約束しました。一緒にいた友人は死に、彼は助かりました。 数日後には、修道院(神学校)の門を叩いていました。

2021年10月17日日曜日

2021年10月17日 第3主日礼拝 ヤコブの20年間②

招詞
 主はご自分の民を愛し、貧しい者たちを救いをもって装われる。敬虔な者たちは栄光の中で喜び躍れ。自らの床の上で高らかに歌え。                 詩篇149章4~5節

聖書箇所
創世記30章1節~43節

説教
ヤコブの20年間② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/409 選びの愛(アハヴァー)
 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それ は、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽く し、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、 あなたの幸せのために私が今日 あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。
                                申命記10章12~13節

 主イエスが私たちに求めておられることは何でしょうか? 図は、旧約聖書の中の5つの重要動詞で、「主を愛する」ことは真ん中です。すべて自発的、主体的な行為として求められているのです。決して義務としてではなく、心を尽くし、精神を尽くして、主と向き合うことが求められているのです。
主のこの期待に私たちがどう向き合い、どう答えるべきか、それはひとりひとりが自分と神とのかかわりの中で決断しなければならないことなのです。聖霊の促しに導かれて、良い決断を、意味のある決断をしたいものです。          (銘形「ヘブル語のキーワード」より一部引用)

2021年10月10日日曜日

2021年10月10日 第2主日礼拝 ヤコブの20年間①

招詞
 ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。敬虔な者たちの集まりで主への賛美を。踊りをもって、主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴(たてごと)に合わせて、主にほめ歌を歌え。
                                  詩篇149篇1、3節

聖書箇所
創世記29章1節~35節

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ヤコブの20年間① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/408 惜しみなく与える愛 (ヘーフェツ)
 主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」 ソロモンは言った。「・・・善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。・・・」 神は彼に言われた。「・・・わたしはあなたに、知恵と判断の心を耐える。 ・・・そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。」 
                            第1列王記 3章5~13節(抜粋)

 「ヘーフェツの愛」―この愛は、人が神になにかを願って求めることに対して、神が喜んで良いものを惜しみなく与えようとする愛です。ちなみに、上記の新共同訳は「何事でも願うがよい」とへーフェツの意味を汲んで訳しています。そこで、ソロモンは、王として最も必要なもの、「聞き分ける心」を願いました。
天地創造以来、父なる神さまは、「子どもたち」に良いものを惜しみなく与えることを何よりも喜びとされる神です。人が自分の欲望や私利私欲のために求めるものに対してではなく、神のみこころにかなって願い、求められることに対しては、神は黙っておられない方なのです。与えることを何よりも喜びとされる神、この神の惜しみなく与えようとする愛こそ「ヘーフェツの愛」なのです。
私たちにはどうでしょうか? 神さまは、誰にでも喜んで惜しみなく与える愛を持っておられ、私たちにも「願いなさい」と言っておられます。     (銘形「ヘブル語のキーワード」から引用)

2021年10月3日日曜日

2021年10月03日 第1主日礼拝 イサク家族の回復

招詞
 主をほめたたえよ。若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。主の名をほめたたえよ。主の御名だけがあがめられる。その威光が地と天の上で。      詩篇148篇2a, 12~13節

聖書箇所
創世記27章46節~28章22節

説教
イサク家族の回復 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/407 親切な愛(ヘーン)
 モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。 そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてく ださい。」                 ルツ記2章2節

 聖書には、「愛」を表す言葉が7つあり、新約聖書で3つ、旧約聖書で4つの言葉です。上記「親切」と訳されたことばは「ヘーン」です。この2章に「親切」ということばが3回使われています。一方的な親切、「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」と、ルツがボアズの親切に与っているのです。実に一方的です。これが「ヘーン」の愛なのです。麦畑の使用人たちにも働き者と好感をもたれていたにしろ、この親切なボアズに対してルツの返答が率直ですがすがしいです。「ご主人さま、私はあなたのご好意を受けたいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのはしための一人にも及びませんのに。」(2:13)。
神の救いのマスタープランに預かる二人ですが、親切の愛(ヘーン)がボアズの人格と結びついて豊かに用いられました。主が、旧約聖書に造詣(ぞうけい)の深かったパウロをして、ガラテヤ人への手紙(5:22)で御霊の実のリストに「親切」を入れさせたのもうなずけますね。 (銘形「ヘブル語のキーワード」より一部引用)

2021年9月25日土曜日

2021年09月26日 第4主日礼拝 イサク家族の危機

招詞
 神は馬の力を喜ばず、人の足の速さを好まれない。主を恐れる者と、み恵みを待ち望む者とを主は好まれる。主は地に仰せのことばを送り、 そのみことばは速やかに走る。
                             詩篇147篇10~11、15節

聖書箇所
創世記27章1節~45節

説教
イサク家族の危機 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/406 管弦楽と賛美
 ダビデはレビ人の長たちに命じて、、彼らの同族の者たちを歌い手として任命し、琴(十弦の琴)、竪琴、シンバルなどの楽器を手に、喜びの声をあげるようにさせた。 
                                 第一歴代誌 15章16節

 第一歴代誌15章17~28節には、ダビデの時代の賛美の様子をうかがわせる記述があります。まず、アサフ、ヘマン、エタン(エドトン)の3人の賛美リーダーがいます。彼らは、青銅のシンバルを持って歌ったことが記されています(20節)。十弦の琴と声楽は、アラモテ(ソプラノ)に合わせて、八弦の琴はオクターブ低い音域です。そしてラッパを吹き鳴らす祭司たちの一団がいます。現代の楽器でいえば、弦楽器、木管楽器、打楽器の伴奏で賛美する事になります。
同書25章7節には、「主にささげる歌の訓練を受けた・・彼らはみな達人だった。」とあります。賛美を担う者たちに、熟練した力、すなわち霊的な能力や奏楽の技能を要求し育てました。それが、ソロモンの時代に開花しました。
3,000年後の現代、私たちは、いろいろな楽器に会わせて「喜びの声を上げて」主を賛美できる幸せを味わいましょう。

2021年9月18日土曜日

2021年09月19日 第3主日礼拝 エサウとヤコブの誕生

招詞
 主は、へりくだる者を支え、悪人を地に投げ捨てられる。主に感謝の歌を歌い、立琴に合せて、神をほめ歌おう。                          詩篇147篇6~7節

聖書箇所
創世記25章19節~34節

説教
エサウとヤコブの誕生 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/405 ミズモール(賛歌)②
 正しい者たち。主を喜び歌え。賛美は直ぐな人たちにふさわしい。立琴にあわせて主に感謝せよ。十弦の琴に合わせて、ほめ歌を歌え。               詩篇33篇1~2節

 ルターは、楽器を使って神さまを賛美することを奨励し、民衆が教会で歌えるように、母語ドイツ語で賛美する曲を作り、ダビデのビジョンを復活させようとしました。しかし、カトリック教会だけでなく、ルター派以外のプロテスタント教会の中にも偏見と抵抗がありました。教会はオルガンのみを神を賛美する楽器として認め、ルターが好んだリュートなどの弦楽器や後のピアノ、その他の楽器はサタンに属するものとみなしてきました。
 しかし現代の教会は、ダビデが目指した礼拝のように、特に、詩篇を用いた賛美歌(ミズモール)に目を留めるようになり、あらゆる楽器を用いて主を賛美するようになってきています。ダビデは、3000年も前に、祭司たちとは別にコラやアサフなど音楽の賜物のある人材を礼拝音楽に起用して、竪琴やタンバリンなどを用いて礼拝を民の喜びあふれる賛美に包まれたものと変えることに成功しました。同じように、現代の私たちの教会はもっと多くの有能な賛美を担う器たちが、多様な音楽ジャンルから起こされるように祈らなければなりません。ダビデがしたように、神をほめ歌う音楽をサタンの手から「奪還(だっかん)」しなければならないのです。                       (銘形「ヘブル語のキーワード」から一部引用)

2021年9月10日金曜日

2021年09月12日 第2主日礼拝 イサクとリベカ ②

招詞
 ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包まれる。          詩篇147篇1、3節

聖書箇所
創世記24章33節~67節

説教
イサクとリベカ ② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/404 ミズモール(賛歌)①
 ダビデの賛歌(ミズモール・レダヴィド)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。                              詩篇23篇1~2節

 「ミズモール」とは「楽器を伴う神への賛美」を意味します。礼拝において音楽を導入したのはダビデが最初でした。ダビデが王となってから最初にしたことは、神の契約の箱をギルヤテ・エアリムからエルサレムに運び移すことでした。そのときダビデはレビ人たちを集めて、彼らに楽器をもって神への賛美を歌うように命じました(第一歴代誌15章)。
ミズモールの動詞形ザーマルは、様々な楽器をもって主に歌い、賛美するという意味です。音楽はそれまで戦いのために、あるいは戦勝の祝い(勝利の凱旋)のために用いられていましたが、ダビデは神を礼拝するために初めて音楽(歌、および様々な楽器)を用いたのです。これは礼拝の歴史において革命的なことだったのです。
これを引き継いで、礼拝にミズモールを復活させたのは、ルターでした。当時のローマカトリック教会は、9世紀からグレゴリア聖歌を公式な聖歌として、ミサや修道院の聖務日課でラテン語だけで、聖歌隊によってのみ歌うことに決めました。楽器を禁じ、各地固有の聖歌も禁じました。しかしこれに対して、ルターは、楽器を使って歌うことを奨励し、民衆が教会で歌えるように、母語ドイツ語で賛美する曲を作り、ダビデのビジョンを復活させようとしました。ところがこれにはプロテスタント教会の中でも抵抗がありました。(つづく)
                      銘形「ヘブル語のキーワード」から一部引用)

2021年9月5日日曜日

2021年09月05日 第1主日礼拝 イサクとリベカ①

招詞
 幸いなことよヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人、主は天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方。とこしえまでも真実を守り、虐げられている者のためにさばきを行い、飢えている者にパンを与える方。               詩篇146篇5~7節

聖書箇所
創世記24章1節~34

説教
イサクとリベカ① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/403 新しい歌(シール・ハダッシュ)
 聖書の中には「新しい歌を主に歌え」という命令が多く記述されています。詩篇33篇3節、40篇4節、96篇1節、98篇1節、144篇9節、149篇1節、イザヤ42篇10節、黙示録5章9節、14章3節の9回です。神の民である教会は、その最初から歌う共同体でした。賛美なしの礼拝は考えられません。キリスト教会はこの伝統をイスラエル人の礼拝から受け継ぎました。
12あるといわれる「新しい歌」の定義のうち、5つを紹介します。
①「新しい歌」とは、その時代時代に生まれて歌われた歌のこと。
②「新しい歌」とは、新作の歌ではなく、神への救いの驚き、感謝、感動を新たな思い出歌う歌のこと。
③「新しい歌」とは、その都度、その都度、神から与えられる歌のこと。
④「新しい歌」とは、主に贖われた者(救われた者)にしか歌えない歌(賛美)のこと。
⑤「新しい歌」とは、絶えず心をリニューアルされ、新しい気持ちで歌う歌のこと。
今年のクリスマスコンサートでも「新しい歌」が歌われます。期待しながら、クワイヤのために祈りましょう。                (銘形「ヘブル語のキーワード」から一部引用)

2021年8月28日土曜日

2021年08月29日 第5主日礼拝 サラの死に泣いたアブラハム

招詞
 わがたましいよ主をほめたたえよ。私は生きているかぎり主をほめたたえる。いのちのあるかぎり私の神にほめ歌を歌う。                      詩篇146篇1~2節

聖書箇所
創世記23章1節~20節

説教
サラの死に泣いたアブラハム 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/402 隠れ場(セーテル)
 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、 救いの歓声で私を囲んでくださいます。
                                     詩篇37編2節

 詩篇の中に「あなたは、私の隠れ場」(32:7、119:114)という信仰告白があります。この信仰告白はどのような告白であり、またその告白はそれを告白するものにとってどのような霊性をもたらしたのでしょうか。
「隠れ場」というキーワードは、それが今日のキリスト者にとって、再度、見直さなければならない内容を持っています。上掲の詩篇におけるダビデも、預言者エリヤも、そしてイエス・キリストも使徒パウロもみな「隠れ場」を知っていました。なぜなら隠れ場は「主の臨在されるところ」だったからです。神の「隠れ場」に身を避け、そこに住み(とどまり)、神のみことばを待ち望むことで力を得たのです。私たちも隠れ場に身を避け、主のご臨在に触れる機会を持ちましょう。
                        (銘形「ヘブル語のキーワード」から引用)

2021年8月21日土曜日

2021年08月22日 第4主日礼拝 アブラハムの大試練

招詞
 主はご自分のすべての道において正しくそのすべてのみわざにおいて恵み深い方。主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられます。
                                詩篇145篇17~18節

聖書箇所
創世記22章1節~19節

説教
アブラハムの大試練 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/401 ヘブル語動詞の強意形
 神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
                                 創世記2章16~17節

 ヘブル語動詞には、意味を強調する強意形があり、聖書の深読みを助けます。聖書ではそのニュアンスを伝えるために、工夫した訳をみることができます。例えば、上記、「必ず死ぬ」と言われた箇所は原文では「死ぬ・あなたは死ぬ(モート・ターモート)」です。アダムとエバは、強い禁止を言い渡されたのに、サタンの前では、二人の不注意な対応でまんまと取りこまれてしまい、重大な罪を犯しました。
 他の例として、創世記43章7節で、ユダが父ヤコブに「あの方が私たちや家族のことについて、『おまえたちの父はまだ生きているのか。おまえたちには弟がいるのか』としきりに尋ねるので、問われるままに言ってしまったのです。」と言う箇所がありますが、この「しきりに尋ねて」と訳されているところが、原文では「尋ね・尋ねて(シャオール・シャーアル)」です。強調形で、ユダの後悔の念を読者に伝えています。     (銘形「ヘブル語コラム」から一部引用)

2021年8月15日日曜日

2021年08月15日 第3主日礼拝 ロトが失ったもの

招詞
 主は大いなる方。大いに賛美されるべき方。その偉大さを測り知ることもできません。代は代へと、あなたのみわざをほめ歌い、あなたの大能のわざを告げ知らせます。 詩篇篇45篇3~4節

聖書箇所
創世記19章1節~38節

説教
ロトが失ったもの 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/400 時のしるし
 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
                              マタイの福音書16章1~3節

 これは、「天からのしるし」について、パリサイ人たちへのイエスさまの挑戦のことばです。彼らが目にしている天に関する「天候」について話を切り出し、空模様によって天気を予測するという「天のしるし」は理解するのに、神にかかわる「天のしるし」には全く理解がないことを責めています。預言者の言葉通り、時が満ちてこられた救い主イエスさまを認めることができなかった霊的な盲目を責めます。私たちも毎日天気予報を聞き、行動していますが、信仰の目でこの世界をみる目は養われているでしょうか。
ところで、ミッション・エメットは、十字架福音キリスト教会が立ち上げたYoutubeのサイトです。一般に知られていない聖書の真実の姿を、分かりやすく伝えたいと、「現代文明の終焉」「バベルの塔の秘密」など全23編を見ることができます。興味のある方はご視聴ください。エメットとは「真実」の意味のヘブル語で、右は、一回目の「現代文明の終焉(9分)」のQRコードで下は、そのURLです。
https://www.youtube.com/watch?v=bExjTT1kOwA

2021年8月7日土曜日

2021年08月08日 第2主日礼拝 イシュマエル との別れ

招詞
 私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。日ごとにあなたをほめたたえ、あなたの御名を世々限りなく賛美します。   詩篇145篇1~2節

聖書箇所
創世記21章8節~21節

説教
イシュマエルとの別れ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/399 「赦す」と「禁ずる」②
 「ヨナの子シモン。あなたは幸いです。。。あなたは堅い石のペテロです。わたしは、本当に堅い石であるわたしの上に自分の教会を建てます。悪魔の力もこれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天国の権能を委ねます。あなたがこの地上の教会で行使する権能は天のお父様からのものです。」                マタイの福音書16章17~19節 (現代訳)

 デオー(赦す)とリュオー(禁ずる)の続きです。イエスさまは、実は16章ですでに教会の権能としてデオー(赦すこと)とリュオー(禁ずること)をペテロたちに教えていました。18章でイエスさまは、「赦す」と「禁ずる」が、ペテロに個人的に与えられた権能でないことを確認する意味で弟子たちに語られました。
 ところが、この箇所をローマカトリック教会(以下RCと略述)は、ペテロに賦与された個人的な権威としてペテロと後継者の教皇権を主張する根拠にし、ローマ教会を最優位と決めてしまいました。しかし、ルターは、16世紀の宗教改革の時、聖書の教えに反するとして教皇権とローマ教会の優位性をはっきりと否定しました。命がけの行為でしたが、ドイツを始め北欧諸国がRCから離脱しプロテスタント教会の始まりです。地上のすべての教会の繋がりを一つと考えて普遍的教会(ユニバーサル・チャーチ)と言いイエスさまは全教会の頭です。しかし、この普遍的教会は、RCの意味ではありません。私たちは、普遍的な「キリスト教会」という目に見えない旗を世界に掲げていますが、同時に、地域の教会(ローカル・チャーチ)として目に見える旗を盛岡市に掲げています。

2021年8月1日日曜日

2021年08月01日 第1主日礼拝 ストレスから笑いに

招詞
 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
                                詩篇139篇23~24節

聖書箇所
創世記18章1節~15節
   21章1節~8節 

説教
ストレスから笑いに 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/398 「赦す」と「禁ずる」
 言っておきますが、あなた方(弟子たち)が地上で赦したり、禁じたりすることは、天でも同じようにされるのです。           マタイの福音書18章18節 (リビングバイブル)

 上記は、8月の賛美の聖句でもあります。天は、神さまの意味で、神を直接言及することを避けた言い方です。さて、この箇所は、新改訳2017も聖書協会共同訳も「つなぐ」と「解く」と訳されていますが、なぜでしょうか。以下の説明は、イエスさまが弟子たちにこの説教(教え)をなさった時に使った言葉は、ヘブル語だ、ということが前提になります。イエス様の時代のヘブル語の慣用句では、アサル(赦す)とヒティル(禁ずる)を、ヘブル語を母語とする使徒マタイが、ギリシャ語デオーとリュオーに訳しました。その時点では問題は起こりません。しかし、後代の教会が、特に英語訳した翻訳者たちが、ヘブル語の慣用句の意味を考慮せず、七十人訳ギリシャ語聖書の影響も受け、「つなぐ」と「解く」に転訳しました。その結果、私たちにはわかりにくい訳となりました。日本語の訳である「つなぐ」と「解く」も残念ながら英語訳の影響をもろに受けているわけです。
リビングバイブルの訳は慣用句を正しく訳しています。この箇所は、弟子たちがイエスさまから教会の権威についての教えを受けているところです。現代訳聖書では、この二語をまとめて、「教会がこの地上で行使する権能は、天のお父様からのものです」とヘブル語慣用句をまとめて訳していますが、無難な翻訳だと思います。
            (ダビデ・ビヴィン「イエスはヘブライ語を話したか」より一部引用)

2021年7月25日日曜日

2021年07月25日 第4主日礼拝 アブラハムの ストレス⑥ 家庭2

招詞
 主よ、あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知りぬいておられます。 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
                                  詩篇139篇3、6節

聖書箇所
創世記17章1節~27節

説教
アブラハムのストレス⑥ 家庭2 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/397 ヘーン(心にかなっていた)
 しかし、ノアは主の心にかなっていた。                   創世記6章8節

 アダム以来の罪を受け継いだ人間、悪に傾く人間をどのように神さまは再創造するのか。そのヒントが上記のみ言葉でしょう。人は律法の規則や警告によって真に変えられることはありません。ただ神の恵み、神の一方的な気前良さ、神の好意、神の恩寵だけが人を作り変え得るのです。ノアは悪の増大する世の流れに同調しないで、むしろ掉(さお)さす生活をしていました。彼の信仰は主の心にかなっていました(ヘーン)。この掉さす信仰が、アブラハムを月神礼拝や偶像まみれのウルを後に旅立つ行動に受け継がれました。「ここを出てわたしの示す地へ」と言われた神様に素直に従う信仰です。以来、神はアブラハムが神の約束をどこまでも信じていく「信仰のモデル」となるように育てていかれました。
私たちはどうでしょうか。メシア・イエスさまの約束は、再臨と復活です。主イエスの心にかなう生活をしつつ、イエスを待ちます。異教の行事が多い8月です。ぶれないで、イエスさまだけを信じて歩く、という「ヘーン」な信仰で勝利しましょう。
                        (銘形「創世記6章の瞑想」より一部引用)

2021年7月18日日曜日

2021年07月18日 第3主日礼拝 アブラハムの ストレス ⑤ 家庭1

招詞
 私は心を尽くしてあなたに感謝します。あなたは、ご自分のすべての御名のゆえに、あなたのみことばを高く上げられたからです。私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。                       詩篇138篇1~3節 

聖書箇所
創世記16章1節~16節

説教
アブラハムのストレス⑤ 家庭1 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/396 アブラハムの故郷「ウル」はどこ?
 わたしは、あなたがたの先祖アブラハムを、あの大河の向こうから連れて来て、カナンの全土を歩かせ、子孫を増し、イサクを与えた。                ヨシュア記24章3節

 ウルという地は、信仰の父アブラハムが生まれ、神によって連れ出された出発場所です。上記、大河ユーフラテス川の向こうとは、ウルのことです。そこにおいてアブラムの父テラは、異教の神々に仕えていました。
さて、最近の考古学の研究成果として、地図のように、ハランの東150㎞にウルという町があったことがわかりました。実は、既説メソポタミア南部のウルは大河ユーフラテス川の南西にあるので、カナンから見て「川の向こう」という表現は合いません。メソポタミア北部のウルは、宗教的に、商業的に、ハランと結びついて、月の神を拝む中心地でしたから、アブラハムの父テラも「ほかの神々に仕えていた」のです。結局、テラは、偶像に仕える生活を捨てませんでした。しかしアブラムは、ハランからも出立し、真の神の招きに応えたのです。神はアブラムたちを、約束の地カナンへと導き出されました。この決断は、現代を生きるクリスチャンにもその祝福が及ぶことを思うとき、真に偉大な信仰の旅立ちだったわけです(ガラテヤ3:14)。 (テオロギアブログから引用)

2021年7月10日土曜日

2021年07月11日 第2主日礼拝 アブラハムの ストレス ④ 戦争

招詞
 神の神であられる方に感謝せよ。ただひとり、大いなる不思議を行われる方に。主の恵みはとこしえまで。英知をもって天を造られた方に感謝せよ。主の恵みはとこしえまで。
                               詩篇136篇2a、4~5節 

聖書箇所
創世記14章1節~24節

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アブラハムのストレス④ 戦争 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/395 ナタナエル
 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たので。」ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」                        ヨハネの福音書1章47~49節

 イエスの友となった弟子の一人、ナタナエルとの会話です。ヨハネの福音書の重要なメッセージはイエスの私たちに対する友情への招きですが、その友情を育む上で大切なことはイエスを「見る」こと、そしてイエスに「見ていただく」ということです。そこには相手の隠されたものを理解する、悟る、見出す、発見するという意味もあります。私たちは(クリスチャン)であっても、自分にはわからないことだらけ、聖書のこの箇所は知っていると思っても、本当の事の意味することをどれだけわかっているのでしょうか。自分にはまだまだ見えていないことがあるかもしれないと謙虚になるとき、はじめて、さらなる深いところを理解するようになってくるのです。「主よ、私の心の目を開いてください」という謙虚な開眼への渇望は神を喜ばせます。 
                 (銘形「主との友情をはぐくむヨハネの福音書」より引用)
 

2021年7月3日土曜日

2021年07月04日 第1主日礼拝 アブラハムの ストレス③ 財産

招詞
 主よあなたのみ名はとこしえに、主よあなたの呼び名は代々(よよ)に至ります。まことに、主はご自分の民をさばき、そのしもべらをあわれまれます。      詩篇135篇13~14節

聖書箇所
創世記13章1節~18節

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アブラハムのストレス③財産 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/394 羊のストレス
 羊たちをみな外に連れ出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついていきます。彼の声を知っているからです。                     ヨハネの福音書10章4節

 アブラムは、エジプトでファラオから羊の群れをもらって持ち帰り、羊飼いとなりました(創12:16)。羊は警戒心が強く群れを作り、危機を察知した一匹が動くとみんなそれに従います。だから、一匹だけ群れから引き離そうとすると大変なストレスを感じ、いやがります。「百匹捕まえるより、一匹捕まえる方が難しい」そうです。 聖書では、神とイスラエルの民との関係が、しばしば羊飼いと羊の関係に譬えられ、両者の信頼関係が描かれます。そうです、臆病で警戒心の強い羊は、良い羊飼いに飼われると信頼し、ストレスも消え、それが態度にも表れます。羊飼いが歩き始めると、羊たちも立ち上がり、後を追います。牧羊犬で強制的に追い回さなくても羊を安全に導くことができたのです。「しかし、(羊は)ほかの人には決してついて行かず、逃げていきます。ほかの人たちの声は知らないからです(ヨハネ10:5)」。イエスさまは、言われました。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものはわたしを知っています。(10:14)」。イエスさまは、羊であるわたしたちを知っている、といわれた程にはたして私たちもイエスさまを知っているでしょうか。福音書を読んで、良い牧者イエスさまを深く知り、心から愛し頼る者にさせていただきましょう。

2021年6月27日日曜日

2021年06月27日 第4主日礼拝 アブラハムのストレス② 失敗

招詞
 まことに、私は知っている。主は大いなる方、私たちの主はすべての神々にまさっておられる。主は望むところをことごとく行われる。                詩篇135篇5~6節

聖書箇所
創世記12章8~20節

説教
アブラハムのストレス②失敗 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/393 呪いとのろい
 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。                     創世記12章3節

 新改訳2017では、前の版に代わって「あなたを呪う者をわたしはのろう」と訳されました。実は、へブル語では、「呪う」と「のろう」は別な語彙です。「呪う」は「カーラル」です。「カーラル」は「軽んじる、卑しめる、無視する、無関心である」ことを意味します。アブラムを軽んじ、卑しめる者、無視する者に神は怒られます。アブラムを呪う(カーラル)者を、神はのろう(アーラル)というのです。神にのろわれた者は、祝福をはく奪され、アブラムを呪った結果を身にこうむるわけです。逆に、アブラムを祝福する者は、神の祝福をいただくわけで、彼の身辺では祝福する者と呪う者たちとの具体的なエピソードが興味深く展開していきます。
                          (銘形「アブラハム契約」より一部引用)

2021年6月20日日曜日

2021年06月20日 第3主日礼拝 アブラハムのストレス ①

招詞
 ハレルヤ。主】はまことにいつくしみ深い。主の御名にほめ歌を歌え。その御名は実に麗しい。
                                    詩篇135篇3節

聖書箇所
創世記11章26節~12章5節

説教
アブラハムのストレス① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/392 立役者アブラハム
 これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。
                                   創世記11章26節
 
 アブラムの父テラは、セムから9代目です。この系図が記された目的はなんでしょう。ここからは、アブラハムを中心とする親族による婚姻によって引き継がれていきます。驚くべきことに、アブラハムもイサクもヤコブもみなテラとつながっています。つまり、近親婚なのです。アブラハムの妻「サライ」はテラの娘であり、アブラムの妹です。ただし、創世記20章12節からアブラムとサライは異母兄妹であることが分かります。近親者だけで婚姻関係を結ばざるを得なかった理由があるとすれば、親戚以外の周りの人々が、夫婦関係や家族関係を破壊するような放埓(ほうらつ)な価値観で生きていたことが挙げられます。カナンのソドムの様でした。テラの系図の記録は、真の救済史が始まるための立役者となるアブラハムの存在を指向させるために、意図的に記されたもののようです。つまり、神の救いのマスタープランは、アブラハムから劇的に進んでいきます。              (銘形:「創世記」から一部引用、イラスト:FreeBibleCom) 

2021年6月13日日曜日

2021年06月13日 第2主日礼拝 約束を全うされる神

招詩
 見よ。なんというしあわせ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって共に生きることは。それは頭の上に注がれた貴い油のようだ。             詩篇133篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書47章13節~48章34節

説教
約束を全うされる神 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/391 アブラハム(国々の父)
 テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。            創世記11章31節

 次週から、「旧約の聖徒たちのストレス」シリーズでアブラハムから始めます。アブラムは、アブラハムと改名される前の名前です。カナンまで遠いのにハランの町に滞在しているうちにテラは死にます。アブラムとサライにとって心細い出発風景です。
地図を見てわかるように、彼と彼の祖父と父のたどった道はあのバビロン捕囚の逆ルートです。エゼキエル書を学んだ後なので、身近に感じますね。アブラハムは、放牧しながら砂漠を旅していきます。彼は、家畜の所有者で族長と呼ばれていました。彼としもべたちは皆、カルデヤの言葉(アラム語)とへブル語を使いこなしてカナンに入っていきます。何も無い、砂漠とオアシスの土地に入ったのではなく先住民カナン人が住んでいましたから、そこで遊牧生活をするには、そこの長と交渉し、人間関係の構築が必須で、そこにストレスが生まれたことでしょう。神様は、アブラハムがどのようにしてストレスを乗り越えていくのを見守り、助けてくださったのか聖書から掘り下げていきましょう。

2021年6月5日土曜日

2021年06月06日 第1主日礼拝 聖所から流れる生かす水

招詞
 主よ。私の心はおごらず、私の目は高ぶりません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。                            詩篇131篇1a、2a節

聖書箇所
エゼキエル書47章1~12節

説教
聖所から流れる生かす水 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/390 生ける水
 この(井戸の)水を飲む者は、だれでもまた渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はいつまでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。                        ヨハネ4章14節

 イエスとサマリヤの女との会話はミスマッチに聞こえます。しかし、イエスは、この井戸端の会話を霊的な命の水の真理に導きます。 要点は、①「渇くことがない」こと。 ②「人の内で泉となる」こと。 ③しかもその泉は「永遠のいのちへの水と なって湧き出る」こと ・・などです。イエスは女の真の問題を見抜きました。彼女は、5回も結婚して心の渇きから解放されたいと思いましたがかないませんでした。彼女は、イエスをメシアと信じ、生ける水をもらいました。「生ける水」、これは神のプレゼントなのです。お金では買えない高価なものを神は無償で与えました。それは、御子イエスを信じることを通して、この世のモノで渇きを癒そうとするサイクルから、彼女を解放しました。              (銘形「ヨハネの福音書の瞑想」から一部引用)

2021年5月29日土曜日

2021年05月30日 第5主日礼拝 教会が進む時

招詞
 主よ私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。私は主を待ち望みます。主のみことばを私は待ちます。                  詩篇130篇1~2、5b節

聖書箇所
使徒の働き2章43節~3章19節

説教
教会が進む時 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/389 神からの愛の手紙(ラブレター)
 すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。                      イザヤ書40章6、8節

 ルターは1521年、3か月で新約聖書をドイツ語に翻訳し、翌年出版した世界初のドイツ語新約聖書は熱狂的に国民に読まれました。すぐに旧約聖書の翻訳に取り掛かりましたが12年かかりました。新約の3倍の量とは言え、ヘブル語はメランヒトンなど友人の助けが必要だったからです。
ルターの言葉です。「私はヘブル語を学び、これを怠らないようにすすめる。この言葉がたとえ役立てる機会がないとしても、なおも感謝して学ばねばならない。ヘブル語を教え、また、学ぶこと自体が信仰の一部であり、礼拝そのものである。このことばによってのみ神について学ぶ真理が存在する。もし、私たちがヘブル語を知らなければ、彼ら(ローマ・カトリック教会)は私たちをロバとののしるだろう。一方、ヘブル語を知っているならば、彼らの愚かな口を封じることができる。」この激しいことばは、カトリック教会から破門され、命の危険にさらされていた心境からのものです。
1887年以来、私たちが、日本語で旧新約聖書が読めるのは、ヘボン宣教師(写真)や日本人クリスチャン達の熱意と努力を主が用いてくださった結果です。ヘブル語やギリシャ語を知らなくても、毎日、感謝して神様からのラブレターを読みましょう。
                        鍋谷尭爾著「詩篇を味わう」から一部引用)

2021年5月22日土曜日

2021年05月23日 ペンテコステ礼拝 教会の誕生日

招詞
 幸いなことよ。主を恐れ、主の道を歩むすべての人は。あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸い、あなたへの恵み。              詩篇128篇1~2節

聖書箇所
使徒の働き2章1~42節

説教
教会の誕生日 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/388 待つ(ペリメノー)
 使徒たちといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」               使徒の働き1章4節

 イエスは、復活されてから昇天されるまで、四十日間、弟子たちに何度も現れ、聖書(旧約聖書)を教えました。それは、使徒たちが、整えられるためでした。整えとは、復活のイエスを確かに見、生きておられるイエスの証人になる意思確認でした。そして、神のご計画の新しい段階を迎えるために、さらに10日間、聖霊という上からの力が与えられるのを待つことでした。こうして、五旬節(ペンテコステ)がやってきました。ところで、イエスが「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受ける」と言われた時に、使徒たちは、それは「イスラエルの復興(回復)」の時が来るのだと考え、「それがこの時ですか」とイエスに迫りました。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」とイエスは答えました。はぐらかしたのではなく、聖書の約束に基づく質問としてイエスは答えました。ただし、それは、神の救いのマスタープランが成就していく終わりの日のことだったのです。「新しい霊が与えられること」と「イスラエルの回復」はワンセットなのですが、この時点では、まず使徒たちを世界中に遣わすためにも聖霊が彼らに下ることが必要不可欠でした。待つことも御国の前進に必要ですが、私たちの中でも、待つことが苦手な人も多いのではないでしょうか。使徒たちはこの時、祈りつつ待つことができました。
                            (銘形「使徒の働き」から一部引用)

2021年5月15日土曜日

2021年05月16日 第3主日礼拝 新しいエルサレム③

招詞
 主よ。ネゲブ砂漠の(オアシスの)流れのように、私たちの繁栄を元どおりにしてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。               詩篇126篇4~6節

聖書箇所
エゼキエル書42章1節~43節

説教
新しいエルサレム③ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/387 義のさばき(ミシュパート)

 あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。
                                 申命記1章16~17節

 申命記第1章において注目すべきキーワードは、神のさばき(ミシュパート)の「公正さ」です。ミシュパートは421回も用いられている重要語ですが、専制的な裁きではなく行き届いた愛と福祉理念に満ちています。次の詩篇でも作者が正しいさばきを定めた神ささまをほめたたえています。
詩 119:7 「あなたの義のさばきを学ぶとき、私は 直ぐな心であなたに感謝します。」
詩 119:20 「私のたましいは、いつもあなたのさ ばきを慕い、砕かれています。」
詩 119:30 「私は真実の道を選び取り、あなたの さばきを私の前に置きました。」
この主のミシュパートを心にとどめて従うときに、イエスさまが旧約聖書の教えをまとめて、「主を愛し、あなたの隣人を愛しなさい」と言われた言葉が生きてくると思います。
                              (銘形「申命記」より一部引用)

2021年5月1日土曜日

2021年05月09日 第2主日礼拝 新しいエルサレム②

招詞
 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。                   詩篇121篇3、7~8節

聖書箇所
エゼキエル書41章1節~26節

説教
新しいエルサレム② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/386 心の豊かさと祝福
 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。     申命記24章19節

 申命記は、モーセが筆記した神の律法の書の一つで、日々の生活のことが満載されています。神の祝福は、悪いことをしなければ大丈夫、祝福をいただける、ということではないようです。困っている人々、外国人に対して心を開き、親切にすることが、とても大事です。おまけでなく、それが心の豊かさの中心です。「主、神を愛し、隣人を愛しなさい」という旧約聖書の2大教訓は、実行するためのものです。ただ覚えているだけでは十分でありません。
「こころの時代」と言われて久しいですが、心の豊かさは自分に向けて語られるのではなく、外に、隣人に向けて示されていくものでしょう。

2021年05月02日 第1主日礼拝 新しいエルサレム①

招詞
 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。 
                                  詩篇121篇1~3節

聖書箇所
エゼキエル書40章39節~52節

説教
新しいエルサレム① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/386 手を開く(パータハ)
 国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。                                申命記15章11節

「手を開く(パータハ)」とは、自分の持てるものを持って、援助の手を差し伸ばさなければならないという意味です。このことを通して幸福な社会が実現するからです。へブル語の動詞 パータハが不定詞と未完了形で重複されています。そのことによって意味が強調されています。また、一過性でなく持続していかなければならないという大原理です。与える者にも祝福が帰ってきます。隣人に「手を開く」ということは、主から新たな祝福を受け取ることになるからです。そこで、上記のように、「必ず・・・手を開かなければならない」と訳されています。
エネルギー分野で「持続可能な開発目標(SDGs)」という言葉がクイズ番組でさえも紹介されていますが、信仰の世界でも申命記の記された3500年前に、すでに「あなたの手を開く」ことで持続可能な祝福を実現できると強く勧められています。ここには天の御国における祝福の循環があります。強いられてではなく、進んで手を開き、手を差し伸べましょう。 
                           (銘形:「申命記」から一部引用)

2021年4月24日土曜日

2021年04月25日 第4主日礼拝 ゴグの最後

招詞
 主よ、私はあなたの救いを慕っています。あなたのみおしえは私の喜びです。私のたましいが生き、あなたをほめたたえますように。
                              詩篇119篇174~175節

聖書箇所
エゼキエル書39章1節~29節

説教
ゴグの最後 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/385 聖書とタナック(TNK)
 人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。                              イザヤ書40章6~8節

 クリスチャンは、創世記3章のアダムとエバによる人類の罪と罰に対して、神の救いの歴史を時系列で述べている(啓示している)唯一無二の書と信じて旧新約聖書を読みます。ユダヤ人(イスラエル人)も聖書を信じていますが、旧約聖書だけです。旧約聖書とは呼ばず、タナック(TNK)と言う聖書に代わる略語を使って区別しています。タナックは、トーラー・ナビーム・ケトビーム(律法・預言者・諸書)の頭文字TNKを略語としたもので、この順に重要度が下がってきますのでクリスチャンの聖書観とは随分と異なります。しかし上記のみ言葉は、ペテロの手紙1:24にも引用されている有名なみ言葉で、ユダヤ人との信仰の共通項です。残念ながら、今日のユダヤ人たちの大部分は、新約聖書を読もうとしないので、メシア・イエス(ヘブル語ではイエシュア・メシア)がタナックにあった預言の成就として、2000年前にイエスさまがイスラエルに来たことを信じません。 イエスさまを信じたユダヤ人をメシアニック・ジューズと言いますが、彼らは、賛美礼拝などを多用して、「イエシュアはタナックを成就した方で預言されていたメシアです」とタナックとイエスさまの整合性を証しています。彼らのために祈りましょう。

2021年4月18日日曜日

2021年04月18日 第3主日礼拝 ゴグの襲来

招詞
 私の唇に賛美が湧きあふれるようにしてください。あなたが私にあなたのおきてを教えてくださるからです。私の舌があなたのみことばを歌うようにしてください。あなたの仰せは、ことごとく正しいからです。                       詩篇119篇171~172節

聖書箇所
エゼキエル書38章1~23節

説教
ゴグの襲来 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/383 千年王国
 彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王と して治めた。     黙示録20章4節

 「彼ら」とは、迫害のなかでもイエス・キリストをメシア救い主として告白していったキリスト者のことです。いつの日か分かりませんが、キリストは再臨なさり、死者の復活が起きます。生きていた人々は復活した人々と出会い、その時から千年間キリストと神の国を治めるので千年王国と言われます。これを文字通り信じて告白する教会と、霊的な千年王国と理解する教会があります。私たちの教会は文字通り、これが実際に起こる歴史的な未来として信じています。今の岩手県と津軽を除く青森県は、江戸時代まで南部藩と言いましたが、沢山のクリスチャンたちがイエスさまを救い主メシアと信じているというだけの理由で処罰され殉教しました。私たちはこの信仰の先輩たちとも出会い、千年の間、主イエスを礼拝し、賛美する毎日を過ごすわけですが、合間合間には、ゆっくりと信仰の話を聞くことができます。悲しみが喜びに、失望が希望に変えられたという話を沢山聴くことができるでしょう。ところで、復活のイエス様を信じて伝える人をキリストの証人と言い、私たちもそうですが、もともと、証人という言葉は、殉教者(ギリシャ語:マルティリア)が語源です。今年もイースターが過ぎ、復活の希望で歩き始めた私たちですが、命がけでイエス様を伝えた先輩たちを覚え、襟を正す時期でもありますね。

2021年4月11日日曜日

2021年04月11日 第2主日礼拝 イエスの昇天

招詞
 あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。あなたのみことばは、私の足のともしび私の道の光です。     詩篇119篇103、105節

聖書箇所
使徒の働き1章1節~12節

説教
イエスの昇天 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/382 心が開かれる(ディアノイゴー)
 イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。        ルカの福音書24章30~31節

 これは、エルサレムからエマオに帰った時の二人の弟子の体験です。このエピソードにおけるキーワードは、聖書を悟らせるために彼らの心を「開く」というものです。主によって心が開かれなければ、聖書を悟ることはできないことを教えられます。「心が開かれる」ことと、「知恵と啓示の御霊が与えられること」とは同義です。以下のエペソ教会への期待は、私たちへの期待の言葉でもありますね。
「私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものかを、知ることができますように。」
                            エペソ人への手紙1章17~19節
                            (銘形「ルカの福音書」より引用)

2021年4月4日日曜日

2021年04月04日 イースター・召天者記念礼拝 イエスの復活と 私たちの望み

招詞
 み子は、人間としては、ダビデの子孫から生まれ、聖いみ霊によれば、死人の中からの復活により、み力によって神のみ子として宣言された方であって、私たちの主イエス・キリストにほかならない。                      ローマ人への手紙1章3~4節(現代訳)


聖書箇所
ルカの福音書24章1節~46節

説教
イエスの復活と私たちの望み 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/381 目がさえぎられて(クラテオー)
 イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。 しかし、二人の弟子の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。      ルカの福音書 24章15~16節 

 復活されたイエスがエマオ途上の2人の弟子に現われた時、どうしてイエスだと分からなかったのでしょう? 理由は、マルコの福音書16:12にあるように、イエスが「別の姿でご自分を現わされた」からでしょうか。興味深いことに、ヨハネの福音書では、復活のイエスは最初にマグダラのマリヤにご自身を現わされましたが、マリヤは復活されたイエスを実際に目にした時に「園の管理人」だと思ったとあります。しかしイエスが、マリヤに対して「マリヤ」と声をかけたその声で、マリヤはイエスだと分かったとあります(ヨハネ 20:14~16)。ルカが「目がさえぎられて(クラテオー)」とクラテオーを使ったのは、側近の弟子たちでさえもなお、サタンの霊的な力に縛られていた状態を訳し出した、と考えられます。それを打ち破ったのが「マリヤ!」というイエスの掛け声であり、カギがかかっていた弟子たちのいる部屋に、突然入ってこられた死からの勝利者イエスであったというわけです。弟子たちを安易に非難できません。イエスさまの言葉とみわざを完全に信じていないと、私たちも似たような目くらましに会うかもしれない、という霊的な警告と教訓があるように思います。               (銘形「ルカの福音書」より一部引用)

2021年3月27日土曜日

2021年03月28日 第4主日礼拝 イエスの7つの言葉で

招詞
 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
                         コリント人への手紙第一 1章18、21節

聖書箇所
ルカの福音書23章32節~56節

説教
イエスの7つの言葉で 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/380 信仰の仲間
 この人(アリマタヤのヨセフ)がピラトのところに行って、イエスの体の下げ渡しを願い出た。
                                ルカの福音書23章52節

 ユダヤの律法によれば、十字架にかけられて呪われた者によってその地が汚れることがないように、「安息日」の前までに死人を十字架から引き降ろさなければなりませんでした。ところが、イエスを引き降ろして墓に埋葬しようとした人物が、突如あらわれたのです。その人物こそ、ルカの福音書ではじめて登場する「アリマタヤのヨセフ」です。彼が現れなければ、イエスは二人の囚人とともに囚人用の墓地に埋められていたかもしれません。
イエスの十字架の死は、彼をしてはっきりと自分がイエスの弟子であることを公にする機会となりました。それまでの彼は、ユダヤ人を恐れて自分がイエスの弟子であることを隠していたのです。イエスの遺体を十字架から引き降ろすことで、自分がイエスの弟子であることを公にしました。信仰を同じくする仲間として、律法学者のニコデモもイエスの埋葬にかかわりました。信仰を明確にしたことで、同じ仲間がいることを知り得たのです。私たちも勇気をもって教会のこと、信仰のことを友人や職場の方々にお話ししましょう。仲間が見つかるかも知れません。
                             銘形「ルカの福音書」より引用)

2021年3月21日日曜日

2021年03月21日 第3主日礼拝 私の望みは主イエスだけに

招詞
 主よ、私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。むなしいものを見ないように私の目をそらせ、あなたの道に私を生かしてください。
                                詩篇119篇36~37節

聖書箇所
マタイの福音書27章1~34節

説教
私の望みは主イエスだけに 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/379 王が来られる
 祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」 
                            ヨハネの福音書12章12~15節

 イエス様が、十字架につくため、エルサレムに子ろばに乗って入城されたとき、群衆がなつめやしの枝を持ってイエスを歓迎した記事で、教会暦では、棕櫚の日と呼ばれ、次週3月28日です。4月2日が十字架の金曜日で、4日が復活日 (イースター)です。イエスさまは、世俗の王ではなく天の御国の王です。ところで、この熱狂的にメシア・イエス様を歓迎した人たちは、十字架の日、どこに行ってしまったのでしょう? 彼らの中にユダヤ人指導者たちに扇動されて 「十字架につけろ」と叫んだ人が混じっていなかったとは言い切れませんね。彼らの熱しやすく冷めやすい信仰を反面教師として心を引き締め、今年もイエス様の十字架と復活の日を祝いましょう。 

2021年3月13日土曜日

2021年03月14日 3.11祈念礼拝 待望の主イエス

招詞
 主よ、私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが私の心を広くしてくださるからです。あなたのおきての道を教えてください。そうすれば私はそれを終わりまで守ります。
                                詩篇119篇32~33節

聖書箇所
詩篇130篇

説教
待望の主イエス 田口勇新牧師
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2021年3月7日日曜日

2021年03月07日 第1主日礼拝 一つとされる神の民

招詞
 主よ、みことばのとおりに私を強めてください。私から偽りの道を取り除いてください。みおしえをもって私をあわれんでください。私は真実の道を選び取り、あなたの定めを自らの前に置きました。私はあなたのさとしに固くすがります。           詩篇119篇28~31節

聖書箇所
エゼキエル書37章15節~28節

説教
一つとされる神の民 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/378 グリーフ(喪失の悲嘆)
 悲しんでいる者たちに救いがある。なぜなら彼らはなぐさめられるであろうから。
                    マタイの福音書5章4節 (E.シュヴァイツァー訳)

    再びシュヴァイツァー訳です。グリーフとは喪失の意味です。グリーフ・ケアは「喪失の悲嘆へのケア」で、本来は「死別の悲嘆へのケア」だけをさす言葉ではありません。しかし日本では、阪神淡路大震災や東日本大震災の遺族ケアの同義語として“グリーフケア”が使われているようです。
意訳になっていますが、シュヴァイツァー訳では、そのような方々に、神によって「救いが備えられている」ということになります。その救いの内容は、天の御国は彼らのものであり、悲しみは慰められ、謙遜な者たちが地を相続し、義に飢え渇く者たちは満たされるということです。
そうした救いにあずかる者たちはなんと幸いでしょうか。天の御国はこのような救いにすでにあずかった者たちがいるところであり、今生きている者たちにとっては、その救いの約束の中に生かされている者たちのいるところなのです。イエスさまの福音をお伝えしましょう。祈りましょう。 私たちは、愛する子どもたちをマラリヤ、チフス、破傷風などで亡くした沢山のアルネの親御さんを知っていますが、涙ながらに神様の愛で強くされ、天国で再会する希望を持って生きています。以下アルネ語訳です。
「悲しんでいる人たちには、神が彼らの心に喜びを下さる。なぜなら、やがて神ご自身が彼らの心を強くしてくださるから。」
※「心を強くする」はアルネ語では勇気や励ましや慰めが含まれています。

2021年2月28日日曜日

2021年02月28日 第4主日礼拝 干からびた骨が生き返る

招詞
 主よあなたはほむべき方。私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに。私は地上では旅人です。
                            詩篇119篇 12a、18~19節

聖書箇所
エゼキエル書37章1節~14節

説教
干からびた骨が生き返る 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/377 8つの幸い ② あわれみ深い
 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。 マタイの福音書5章7節

 8つの幸いな者たちの後半は、「あわれみ深い者たち」から始まります。「憐れみ深い」は、動詞形を数えると新約聖書で29回使用されている重要語で、ヘブル語の「ラーハム」に起源があります。 主はモーセの前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「主、主は、あわれみ深く(ラーハム)、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」(出エジプト34:6~7) イエスは「あわれみ深い者たち」は、やがて「あわれみを受ける」と約束されました。上記、マタイ5章7節は、この約束を背景にしたものと言えるでしょう。人を赦すことはチャレンジで心の痛みを伴いますが、他者に対する「あわれみ」の心は、私たちが神からどれほどの赦しが与えられたかを計るバロメーターでもあります。5週間後の4月4日は、復活節(イースター)です。私たちの主イエスが憐みの心を惜しまないで、十字架にかかられたことを思い起こす良い時期です。憐みの主イエスに思いを向けましょう 。 
                        (銘形「マタイの福音書の瞑想」より引用)

2021年2月20日土曜日

2021年02月21日 第3主日礼拝 新しい心に新しい霊

招詞
 私は、あなたのさとしの道をどんな宝よりも楽しんでいます。私はあなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。                 詩篇119篇14~15節

聖書箇所
エゼキエル書36章1節~38節

説教
新しい心に新しい霊 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/376 8つの幸い ➀
 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。     マタイの福音書5章8節

 前回の続きです。イエスと共に「神の悲しみ」を理解する人は、イエスの示された「8つの幸い」に心を向けることができます。図を見てください。「8つの幸い」は天の御国に住む人々の特権的幸いです。重要なことは、そのような人にならなければ、天の御国に入ることができないということでは決してありません。むしろ、天の御国においてはそのような者とさせていただける御国の福音が語られているのです。それから、天国では、もはや苦しみは無いと約束されています(黙示録21:4)から、8つの幸いは、後悔や苦悩を天国に持ち込む、という意味ではありません。やがて自分が御国においてどのような者として祝福を受けるのか、その究極の姿を絶えず思い起こしましょう。そしてそれが私たちの内にすでに始まっていることを今信じ、心に留めたいと思います。                      (銘形「マタイの福音書の瞑想」より引用)

2021年2月14日日曜日

2021年02月14日 第2主日礼拝 兄弟の確執

招詞
 どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです。私は心を尽くしてあなたを求めています。どうかあなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください。私はあなたのみことばを心に蓄えます。 詩篇119篇9~11節

聖書箇所
エゼキエル書35章1節~15節

説教
兄弟の確執 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/375 神の悲しみを知る者

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのもの だからです。  マタイの福音書5章3節

 天の御国は、霊(心)の貧しい者たち、悲しむ者たち、柔和な者たち、義に飢え渇く者たちが、幸いな者として新しく生まれ変わるところです。人間の力によってその幸いを得ることは不可能です。そんな不可能な幸いにあずかる者たちの資質が、山上の説教で語られているいるわけです。幸いな者たちの四つの面は、バラバラではなく図のように密接につながっています。自分が霊において貧しい者であることを悟った者は、はじめて神の深い悲しみを理解する者となります。それがイエスの言われる「悲しむ者」の意味です。人が経験する「悲しみ」以前に、神が悲しんでおられることを知る者のことです。人の「悲しみ」を理解できても、神の「悲しみ」を理解できる者はなかなかいません。その神の悲しみの原因は私たちの内に住む罪にあるからです。次回、もっと掘り下げましょう。                   (銘形「マタイ福音書の瞑想」より引用)

2021年2月6日土曜日

2021年02月07日 第1主日礼拝 救いだし世話をなさる神

招詞
 幸いなことよ、全き道を行く人々、主のみおしえに歩む人々。幸いなことよ、主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。                 詩篇119篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書34章1節~31節

説教
救い、ケアなさる神 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/374 御国の幸い
 E.シュヴァイツァーというスイス生まれの牧師の著書「山上の説教」(マタイ5:3~)では、「8つの幸い」の「幸い」を「救い」に置き換えて説明しています。

3節 霊において貧しい者たちに救いがある。なぜなら天国は彼らのものだから。
4節 悲しんでいる者たちに救いがある。なぜなら彼らはなぐさめられるであろうから。
5節 謙遜な者たちに救いがある。なぜなら彼らは地を相続するであろうから。
6節 義に飢えかわく者たちに救いがある。なぜなら彼らは満腹するであろうから。

天の御国は、このような救いにすでにあずかった者たちがいるところです。この確信を、私たちも持っていることは何と幸いなことでしょうか。    (銘形「マタイの福音書瞑想」から引用)

2021年1月31日日曜日

2021年01月31日 第5主日礼拝 マタイの半生

招詞
 家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。
                                詩篇118篇22~24節

聖書箇所
ルカの福音書5章27節~32節

説教
マタイの半生 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/373 教える(ディダスコー)

 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
                             マタイの福音書7章28~29節

 イエスの3つの働きについて掘り下げましょう。イエスは当時の律法学者たちの慣習に従い、会堂で教えられましたが、多くの⼈々はイエスの教えに驚きまし た。それは律法学者のようではなく、権威ある者のように教えられたからです。イエスの教えの特徴は当時の律法学者たちの伝統的なトーラー(モーセ5書)の解釈に対して、批判的、かつ挑戦的な解釈だったからです。「教える=ディダスコー」という動詞は、特に「⼭上の説教」に⾒られるように、御国の福音の教えとトーラーの新しい解釈とが結びついていて、⼈々の意表をつく解釈でした。   
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」マタイの福音書5章3節
                      ( 銘形「マタイの福音書の瞑想」より一部引用) 

2021年1月24日日曜日

2021年01月24日 第4主日礼拝 悔い改めて、生きよ②

招詞
 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。 その恵みはとこしえまで。主は私の味方私を助ける方。主に身を避けることは人に信頼するよりも良い。        詩篇118篇1、7a、8

聖書箇所
エゼキエル書33章1~33節

説教
悔い改めて、生きよ② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/372 三つの働き 
 イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。                   マタイの福音書 4章23節

 上記23節には、イエスさまの公生涯でなさった三つの働きが集約されています。それは、
① 会堂で「教える」こと
②御国の福⾳を「宣べ伝える」こと
③あらゆる病気、あらゆるわずらいを「直す」こと
です。会堂(シナゴーグ)は、ユダヤ人たちの聖書教育の場であり礼拝の場でした。バビロン捕囚などで、祖国から離散したユダヤ人たちは、10人いれば会堂を建てることができました。今日、クリスチャンは、教会堂で聖書教育と礼拝をしています。働きの第⼆は、御国の福⾳を「宣べ伝える」ことでした。それは今日に言う「宣教」とか「伝道」という働きです。それは旧約の預⾔者たちが前もって預⾔していたことであり、メシアの到来による良いおとずれを内容とするものでした。働きの第三は「直す」ことでした。新約聖書で「病気をいやす」(セラペウオー:英語セラピーは「ここから派生)という語彙を最も多く使っているの はマタイです。現代のように医学が発達していない時代には、どのような病気であっても死に直結する不安が強かったはずです。しかし、やがて御国が実現する時には、どんな病であっても一瞬にしていやされることをイエスさまはデモンス トレーションしたことにもなります。誰にもできる私たちのできるのは②ですが、③についても、自分や友人の病気が癒されるように、主イエスさまに祈り願うことができますね。
                        (銘形「マタイ福音書の瞑想」より一部引用)

2021年1月16日土曜日

2021年01月17日 第3主日礼拝 レバノン杉と海の巨獣も

招詞
 主は情け深く正しい。まことに私たちの神はあわれみ深い。主は浅はかな者をも守られる。私がおとしめられたとき、私を救ってくださった。私のたましいよ、おまえの全きいこいに戻れ。主がおまえに良くしてくださったのだから。                詩篇116篇5~7節

聖書箇所
エゼキエル書31章~32章

説教
レバノン杉と海の巨獣も 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/371 いのちのパン
 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる。
                                 マタイの福音書4章4節

 イエスはこう言って、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい」というサタンの誘惑を退けました。サタンの戦略は、石をパンにすることで多くの人々のニーズ(必要)が満たされ、そのことによって多くの人々から受け入れられ、その程度で済ませようとすることへの誘惑でした。イエスは、サタンの策略のゆえに罪の鎖に縛られているすべての人達を救い、解放して永遠の命を与えるために来臨されたのです。ヨハネの福音書では、「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(6:51)と言っています。それゆえ、イエスは、当時の人々に、そして現代の私たちにも「朽ちる食物のためではなく、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われたのです。この食べ物とは、イエスの言葉であり、聖書のみことばです。       (銘形「マタイの福音書の瞑 想」より一部引用)

2021年1月10日日曜日

2021年01月10日 第2主日礼拝 二つの預言

招詞
 私たちの神は天におられ、その望むところをことごとく行われる。彼らの偶像は銀や金。人の手のわざにすぎない。口があっても語れず目があっても見えない。     詩篇115篇3~7節

聖書箇所
エゼキエル書30章1~26節

説教
二つの預言 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/370 イエスを伝える
 イエスはガリラヤ全⼟を巡って、会堂で教え、御国の福⾳を宣べ伝え、⺠の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。                 マタイの福音書4章23節 

 イエスは、ガリラヤ湖の北の町カぺナウムを拠点として、宣教と癒しの働きをなさいました。その後、イエスの評判はガリラヤからシリヤ全体へ広がりました。つまりイスラエルの北⽅(北東地⽅)全体です。さらに、ガリラヤ湖南⽅のデカポリス、ユダヤ、エルサレム、ヨルダンの向こう岸へと広がり、そこに住む⼈々がイエスを信じて従ったのです。選民思想にあぐらをかいていたユダヤ人を驚かせました。イエスの御国の福音は、人種と言語・文化を超えたバリアフリーの性質をもったものでした。私たちも、この福音を委ねられています。人を癒し救う力のあるイエスのみ言葉を伝えていきましょう。             (銘形「マタイの福音書の瞑想」より引用) 

2021年1月2日土曜日

2021年01月03日 新年礼拝 12歳の都上り

招詞
 ハレルヤ。主のしもべたちよ主の御名をほめたたえよ。今よりとこしえまで。主の御名がほめられるように。だれが私たちの神、主のようであろうか。主は高い御位に座し身を低くして天と地をご覧になる。                        詩篇113篇1~2、5~6節

聖書箇所
ルカの福音書2章39節~52節

説教
12歳の都上り 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/369 天の都への旅
 苦しみのうちに私が主を呼び求めると主は私に答えてくださった。      詩篇120篇1節

 2021年です。天の御国を目ざす旅の新しい一ページが始まりました。イスラエルの人々は、出エジプト23:14のみ言葉に従い、三大祭と呼ばれる過越しの祭り(ペサハ)、七週の祭り、仮庵の祭りの時にエルサレムに上り、神殿で天地創造の神に礼拝を捧げました。旅費がかかりますから、遠隔地の人や貧しい人々は、ペサハを選んで年一回だけ出かけました。ペサハは、男子だけで60万人(全体で300万人ほど)が奴隷にされていたエジプトを脱出した時に神が起こされた奇跡を回顧し1週間祝われました。ユダヤ人は今でも祝っています。教会の時代が始まって40年足らずの紀元70年に、エルサレム神殿はローマ軍に破壊されましたが、聖書は、完成形として、天から下って来る新しいエルサレム(黙示録3:12ほか)を啓示しています。ですから、ダビデの時代のエルサレムと幕屋も、イエスの時代のエルサレムと神殿も、新しい天のエルサレムを示すひな型です。ダビデの詩篇120篇、130篇は、「苦しみのうち」、「深い淵」から始まり、主に助けを求めています。詩の結論は、「主に呼ばわると、主は私に答えられた。」です。私たちが、神と出会う契機として、多くの人がなんらかの「苦しみ」や「深き淵」を経験します。それは人の悪意によってもたらされることもあれば、自分の罪によってもたらされたりもします。私は、高校の時、二人のクラスメートが高校隣りの教会に行っていたので、クラス全員で訪ねたのが最初でした。大切なことは、そこから主を呼び求め、一縷の望みとして主を待ち望むことが引き出されていることです。イエス様に感謝しながら天の都への旅を続けましょう。 
                           (銘形「詩篇の瞑想」より一部引用)