2017年9月24日日曜日

2017年09月24日 第4主日礼拝 よくやった!

招詞
【主】は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。                 詩篇28篇7節

聖書箇所
マタイの福音書25章14~30節

説教
よくやった! 菅 孝雄兄

言(こと)ローグ/206 恵み(カリス)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
                               エペソ人への手紙1章2節

パウロが、「恵み」と「平安」と二つのことばをもって挨拶しています。「平安」はヘブル語シャーロームという神の祝福の総称を意味しますが、それを与える神の動機が「恵み」なのです。
 「・・・のことをしたので」与えられるものは、「恵み」とは言いません。「報酬」と言います。逆に、「・・・のことをせず、むしろ反対のことをしたにもかかわらず」与えられるのは、「報酬」ではなく、「恵み」と呼ばれます。つまり、人の行いによることなく、人の能力によることなく、人が何か良いことをしたという業績にも関係なく、「私がそうしたいのだ、そうしてあげたいのだ」という神ご自身の一方的な好意として与えられる祝福、これが「恵み」です。ですから、当然ではないのです。当たり前のことではないのです。本来、受けるに値しない者に与えようとする神の好意、これが神の心の動機です。しかも、神の恵みは神の愛のゆえに、無償で与えられるものです。だれにでも、別け隔てなく、すべての人に与えられます。
 「恵み」は、イエス・キリストを通して実現しました。罪人と蔑(さげす)まれていた、取税人のザアカイやマタイに友として迫ったのは、イエスの愛と恵みの業です。思い起こすと、私たちにもイエスさまが、「罪を悔い改めて、今日、神を信じるように」、と迫ってくださったことがありましたね。                   (銘形 「エペソ書の重要語彙」から引用)

2017年9月17日日曜日

2017年09月17日 第3主日礼拝 信じて帰途につく

招詞
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
              主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。      
                                   詩篇27篇1節

聖書箇所
ヨハネの福音書4章46〜54節

説教
信じて帰途につく 高橋和義牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ205/忠実な者(ピストス)
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。                          エペソ人への手紙1章1~2節

エペソへの手紙は、エペソ教会員全てにあてられた手紙ですから、「忠実な者たち」と複数形です。ここでは、キリストにある忠実な者は、「キリストのしもべ」と同義で使われています。2つの言葉を重ねることによって、「しもべ」を意味する「ドーロス」の特質は主人に対してどこまでも忠実であることが要求されますが、あなたがたはまさに主に忠実な信徒だと言われています。 
使徒パウロは、自己紹介するときには、決まって、自分のことを「キリスト・イエスのしもべであるパウロ」と表現しています。つまり、パウロは、常に、キリストの忠実なしもべとしての自己認識を持って生きていました。「キリスト・イエスの使徒パウロ」(エペソ1:1)という場合には、イエスの十字架と復活に立ち会っていなかったために、本来自分は使徒と呼ばれるには相応しくない者でありながら、神の恵みによって使徒とされたという認識がこめられていますが、「キリスト・イエスのしもべ」という場合には、その神の恵みに自分がふさわしく応えたい、ふさわしく歩みたいという意欲が込められた表現と言えます。私たちもまた、パウロと同じく十字架の場に立ち会っていませんし、復活のイエスさまを直接見た者でもありませんが、使徒たちの証言によって、イエスの十字架と復活を知っています。知っているだけでなく、罪赦された者として、復活の希望を持つ者として日々歩んでいます。それを喜びとしましょう。
                        (銘形 「エペソ書の重要語彙」より引用)

2017年9月10日日曜日

2017年09月10日 第2主日礼拝 神の家族

招詞
【主】よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
                あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。
                                詩篇25篇4~5a節

聖書箇所
エペソ人への手紙 2章19節

説教
神の家族  田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ204/ハギオス(聖徒)
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、
     キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。   エペソ人への手紙1章1節

 バギオスは、新約聖書で233回、エペソ書だけでも15回使われています(1:1/1:4/1:13/1:15/1:18/2:19/2:21/3:5/3:8/3:18/4:12/4:30/5:3/5:27/6:18)。

 さて、聖徒たちとは誰のことでしょうか?エペソ教会のある特別な品行方正な人たちのことでしょうか?そうではなく、イエスさまを救い主メシア(キリスト)と信じてクリスチャンになったすべての教会員のことを聖徒たちと呼んでいます。彼らを持ち上げて言っているのではありません。

 大都市エペソでは、偶像崇拝と魔術が盛んでしたが、そこから救われた人たちは、偶像に帰ることはありませんでした。ローマ皇帝は、自分を主(キュリオス)と呼ばせ、神格化しました。これも偶像崇拝ですから、クリスチャンたちは抵抗しました。少数派でしたが、彼らは、神に選び分けられた人たちでした。ハギオスの聖さはサタンの支配から選び分けられた者という意味があり、聖徒たちは、暗闇の業(わざ)から光の生活に入った人たちでした。

 ハギオスは、聖霊(プニューマ・ハギオス)のお名前にも使われ、エペソ書では1:13, 4:30の2回です。

 毎週、いっしょに唱えている主の祈りのなかにもハギオスの動詞形が使われています。 「御名がをあがめられますように」という「あがめる」は、ハキアゾーで、聖い方と礼拝されるという意味です。ここでも、聖なる、特別な方として他と区別されて崇められますように、という意味合いがでています。

 私たちは、盛岡月が丘キリスト教会の聖徒です。ご聖霊にもイエスさまに対しても用いられているハギオスが、救われたとは言え、罪びとの私たちの呼称として聖書に233回も登場することを畏れながら感謝しましょう。それほどにイエスさまは、この世界で私たちが地の塩となり、光として輝き続けることを期待しておられるわけですね。

2017年9月3日日曜日

2017年09月03日 第1主日礼拝 キリストによる平和

招詞
だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義をける。                     詩編 24篇3~5節

聖書箇所
エペソ人への手紙 2章11~18節

説教
キリストによる平和  田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ203/みこころ(セレーマ)
「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」          エペソ人への手紙 1章5節

 セレーマは、「~したい」という自分の「意志」や「願い」や「要求」を表す語で、神が、私たちを愛しているがゆえに、私たちのためになさりたい強い意志が込められています。セレーマが使われている個所としては、以下の例があります。

みこころが天で行われるように地でも行われますように。」   マタイの福音書 6章10節
「天におられるわたしの父のみこころを行うものはだれでも、
          わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」 マタイの福音書 12章50節
「この小さなものたちのひとりが滅びることは、天にいます
        あなたがたの父のみこころではありません。」 マタイの福音書 18章14節

 イエスの警告の中にも使われています。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな御国にはいるのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行うものが入るのです。」  マタイの福音書 7章21節

 イエスでさえも、父のセレーマを第一になさいました。
「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、
どうぞみこころのとおりをなさってください。」        マタイの福音書 26章42節
 上掲のように、エペソ人への手紙1章5,9節では、好意や善意、神の喜びとするところのご計画を意味する「みむね(ユードキア)」とセットで用いられています。私たちを救ってくださった神さまは、ご自身の好意と喜びとのセットでみこころを示してくださっています。その幸せを味わいましょう。                  (銘形 「エペソ書の重要語彙」より引用)