2015年8月30日日曜日

2015年8月30日 第5主日礼拝 母と一人息子

招詞
イエスは言われた。「わたしは死人を復活させ、また、死んだ人にもう一度命を与えて、生き返らせることのできる者です。また、わたしを信じる人々は永遠の救いに入れますから、決して滅びることはありません。」
ヨハネの福音書11章25~26節(現代訳)


聖書箇所
ルカの福音書7章11-17節

説教
母と一人息子 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ23/内臓がゆすぶられる
ルカ7:13 「かわいそうに思い」の原語は「スプランクニゾマイ」です。これは同情という感情を表わす最も強いギリシャ語です。普通の同情やあわれみではなく、人間の存在の深みにまで動かす感情を意味します。新約聖書においてはこの語は共観福音書以外には使われていません。たとえ話の3例を除いて、すべてイエスに用いられています。主な訳を見ると、新共同訳 「憐れに思い」、岩波訳「腸がちぎれる想いに駆られ」、ピーターソン訳 「his heart broke ハートブレイク」です。日本語にも「断腸の思い」という慣用句があり、悲しみ・憐れみと口惜しさを表します。さて、大勢の者たちがこの母親に同情して「つき添って」いましたが、なにもできませんでした。しかし、神のあわれみは、単なる同情でなく、「同情+行動」がなされるのです。事実、この「スブランクニゾマイ」という動詞が登場するところでは、そのあとになんらかの恵みの行動が記されていることは注目すべき事実です。以下のか所で、実際に検証してみてください。
<マタイの福音書> 病気を癒す(14:14)、4千人の給食(15:32)、主人の赦し (18:27)、盲人の癒し(20:34):
<マルコの福音書>ツァラトの人の癒し(1:41)、5千人の給食(6:34)、4千人の給食 (8:2)、子どもから悪霊を追い出す(9:22):
<ルカの福音書>良いサマリヤ人(10:33)、放蕩息子(5:20)など。
(銘形 「類なきイエスのあわれみ」より一部改訂引照)


2015年8月23日日曜日

2015年8月23日 第4主日礼拝 100人隊長の信仰

招詞
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 
ローマ人への手紙 10章9~10節

聖書箇所
ルカの福音書 7章1~10節

説教
100人隊長の信仰 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ22/「で」と「でも」
ルカ7章6節には、デ(de)という接続詞が2回くり返されて出てきます。 「《デ》 イエスは、彼らといっしょに行かれた。《デ》それで、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、。。。」。最初のデは訳されていませんが、文の流れから<それで>という意味です。2番目は、そしてと訳されていて、「デ」を順節の接続詞として訳出しています。
 ところが、文脈からすると、「ところが、しかしながら」と訳す方が、ここでは意味が通じ、しっくりします。イエスさまと弟子たちが親切にも百人隊長のしもべ(秘書)の病気を癒そうという目的で隊長宅に向かって歩いている途中、「わざわざ来ないでください」という使いを出してイエスさまと一行を止めるのですから逆節、しかしなのです。 マタイ2:21-22の例です。「彼(ヨセフ)は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。 《デ》しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。」 しかしと、逆接の意味に訳されています。マタイ3:11もその例で、「 水のバプテスマを授けていますが《デ》、...」です。
 このように、新約聖書を注意深く読んでいくと、デは、必ずしも順節だけでなく、逆接の意味にも訳されていることがわかります。それでも、それでと、逆接に訳されていないのが、ルカ7:6のケースです。ここの場合、「デ=そして」と「デモ=しかし」を入れ替えて読むとしっくりする意味がつながるように思います。
 さて、好対照の例として、実は、カイ(kai)というギリシャ語は、「そして」という順節の接続詞ですが、時には「しかし」という逆接の意味で使われることがあります。 例として、ヨハネ4章のサマリヤの女の1節です。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、<カイ>この井戸は深いのです(ヨハネ 4:11)。この場合、新改訳聖書では、しかもという順節で訳していますが「あなたは、バケツをもっていない、しかしこの井戸は深いのですよ」、とも訳出できます。どちらが正解とはいえませんが、ニュアンスは異なります。


2015年8月16日日曜日

2015年8月16日 第3主日礼拝 水辺の木の様に

招詞
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
詩篇1篇2~3節

聖書箇所
ルカの福音書 6章43~45節

説教
水辺の木のように 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ21/木の実(フルーツ)
イエスさまは、木の実の例で、「良い木は良い実、しかるべき実をつける」と語ります。ルカ6:44では、イチジク、ブドウ、野ブドウの3つが取り上げられていますが、聞いている弟子たちや人々は、他にどんな木の実を想像したでしょうか?

パレスチナでは、代表的なものがザクロで、正月や慶事に使われます。生食の他、ザクロワインなどが生産販売もされます。
ナツメヤシ(デーツ)は、何千年も前からオアシスのヒーロ― でした。100~200本あれば、小さな部族を養うほどの商品価値もあったようで、乾燥したものが、シルクロードで西はヨーロッパ、東は中国まで運ばれ交易に役立ちました。
サボテンの実、ドラゴンフルーツなども栽培されてきました。
前世紀のイエラエル再建国以来、キブツという現代農業が始められ、大規模な灌漑により、野菜とともに、リンゴや柿などの果樹も大量生産され、柿などは、ヨーロッパはもちろん、シンガポールなどアジアの国々でも、「安くて 甘い」イスラエルの柿として人気があり、食べたことがあります。
オリーブも果肉を食べるので果実ですが、オリーブ油とともに色々な料理に欠かせない食材です。

黙示録の最終章には、12種類の 命の木の実(フルーツ)がクリスチャンを楽しませてくれると書かれています。フルーツ好きの皆さん、覚えておきましょう。
「都の大通りの中央を命の水の川が流れていた。川の両岸には、命の木があって、十二種の実を結び、絶えず豊かに実が成った。その木の葉は、クリスチャンに生きる喜びを増し加えた。」(黙示22:1b 現代訳)


2015年8月9日日曜日

2015年8月9日 第2主日礼拝 ジョン・オルソン師 子供が信仰をもつ幸い

招詞
子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。
ルカの福音書18章16~17節

聖書箇所
申命記 6章4~9節
詩篇127篇3~5節
ルカの福音書 18章15~17節

説教
子供が信仰をもつ幸い ジョン・オルソン牧師

言(こと)ローグ20/子ども(幼子)のように
ルカの福音書18:15で、イエスは、「子ども(幼子)のようになる」ということが「神の国に入る」上で大切だと言 います。

ここでいう「子ども」とは、第一義的には、子どもです。
二義的には、当時のイエスの弟子たち、および民衆(女性、取税人なども含みます)のことを指しています。

ちなみに、「子」に対する「大人」とは当時の宗教指導者のことを意味しています。
パリサイ人が神の前に義 とされず、イエスの弟子たちや民衆たちが義とされたことを意味しています。
なぜなら、神の国を受け入れるとは、イエスを受け入れることと同義だったからです。

その点、パリサイ人や律法学者たち、そして祭司長たちはイエスを受け入れなかったために、神の国に入ることはできな いことをイエスは語ったのでした。
(銘形:「ルカの福音書を味わう」より引用)

2015年8月2日日曜日

2015年8月2日 第1主日礼拝 赦し与える幸い

招詞
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。
詩篇25篇9~10節

聖書箇所
ルカの福音書 6章37~42節

説教
赦し与える幸い 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ19/十分な訓練を受けた者 カタルティメノス
本日の聖書箇所、ルカの福音書40節の「十分な訓練を受けた者」は、カタルティメノスの訳です。これは、動詞カタルティゾーの名詞型で、動詞の意味は、直す、(網を)繕う、修繕する、整える、整備する、完全にする、欠点のないものとする、(本来の良い)姿にする」です。と言った意味の完了形の受動態の分詞(名詞的用 法)を、新改訳では「十分な訓練を受けた者」と訳しているのです。

福音書では、魚師が破れた網を「繕う」というところで使われています。網が破れていては漁はできません。ですから「繕う」ことが必要なのです。 イエスの弟子たちも主によって繰り返し、「繕われる」=取り扱われる必要があった のです。 弟子たちは、3年ほどの訓練で、イエス様に取り扱われ、何とかエルサレムの大教会の奉仕に間に合う者、役立つ者とされました。

私たちは、 どうでしょうか?

小さく固まった信仰に満足したり、逆に、大きな破れ穴を修繕しないで(してもらわないで)放りっぱなしということはないでしょう か?