2018年9月30日日曜日

2018年09月30日 第5主日礼拝 救いの喜び

招詞
万軍の【主】。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、【主】の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
                                   詩篇84篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書15章1~7節

説教
救いの喜び ウォン・ジョンア宣教師
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言(こと)ローグ/255  詩篇の中の信仰告白② 嘆きの詩篇

 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。                   詩篇22篇1節
 
 先週、信仰告白、つまり、神は自分にとってどのようなお方であるかということを口で告白することは、私たちが思っている以上に大きな影響を与える、と書きました。上記22篇は嘆きの詩篇と呼ばれます。一見、思い詩(うた)ですが、嘆きを伴った信仰の告白がしばしば勝利をもたらす転換点となっています。55篇から125篇が嘆きの詩篇と分類する学者もいますが、その場合、150篇ある詩の3分の1が嘆きの詩です。しかし、嘆きの告白の後に、希望を伴う賛美があり、それが神の臨在をより強いものとしています。私たちが、毎週教会で歌う賛美の中にもそうした告白が歌わているのではないでしょうか。神のみこころは、私たちがさまざまな問題や心配事に取り囲まれたとしても、神が与えてくださる安息(シャローム)を経験することです。嘆きとともに、シャロームに達する告白を歌わさせていただきましょう。
                        (銘形「詩編瞑想の手引き」から一部引用)

2018年9月23日日曜日

2018年09月23日 第4主日礼拝 10のことば

招詞
われらの力であられる神に喜び歌え。ヤコブの神に喜び叫べ。声高らかにほめ歌を歌え。タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。    詩篇81篇1~2節

聖書箇所
出エジプト記20章1~17節

説教
10のことば 菅孝雄兄

言(こと)ローグ/254  詩篇の中の信仰告白①

 神よ、私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。 私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。 神は、天からの送りで、私を救われます。
                                   詩篇57篇1~3節
詩篇に共通する要素があるとすれば、それは「信仰告白」です。つまり、神が自分にとってどのようなお方であるのかという告白です。ちまたで言う「私はあなたが好きです」という一方的な感情の告白ではありません。詩篇には、神は「・・・の方」という表現形式や、「神は、私の・・・・」という表現形式をとった告白が数多くあります。それらはみな、実際に神をそのような方として経験したからです。
 上記、詩篇57篇は、ダビデが荒れ野の洞窟の中で作った歌です。サウル王が忠実な軍司令官ダビデを、嫉妬心から憎み、謀反人という冤罪をでっちあげて、殺そうとした背景があります。理不尽な仕打ちにダビデは意気消沈しながらも神、主を信じて祈っています。ここには、信仰告白がありますね。
私たちは自分の語ることばによって支配されます。失敗について語れば失敗に束縛され、心配を口にするなら心配に心が捕らわれてしまいます。つぶやきを口にしている者が心に平安を与えられることはありません。口で語ること、口で告白することは、私たちの生き方に大きな影響を与えているのです。
 したがって、詩篇を瞑想するとき、その詩篇の作者が置かれた状況の中で神をどのように告白しているかに注目することはとても重要なことです。(銘形「詩編瞑想の手引き」よろり一部引用)



2018年9月16日日曜日

2018年09月16日 第3主日礼拝 ルツとボアズ ~信仰のデュエット

招詞
神よ。あなたの道は聖です。神のように大いなる神が、ほかにありましょうか。あなたは奇しいわざを行われる神、国々の民の中に御力を現される方です。       詩篇77篇13~14節

聖書箇所
ルツ記1章16~17節

説教
ルツとボアズ~信仰のデュエット 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/253  カタルシス③ 神の前で泣く 

  私のたましいは悲しみのために涙を流しています。
          みことばのとおりに私を堅くささえてください。   詩篇119篇28節

「人前で泣くのはみっともありません」とか「男の子はめったなことで泣くものではありません」と言われて育った子は、泣き虫は、悪い子、弱い子、意気地なしというイメージを持っています。しかし、泣くこと、涙を流すことは決して悪いことでも、弱いことでも、意気地のないことでもありません。
 それは人間の素直な感情です。感情こそ、その人が最もいいたいこと、伝えたいこと、本心なのです。そしてそのような涙を心底受け止めてくれる存在を私たちは求めているのです。しかし、自分の流す涙を受けとめてくれる人がいつもいるとは限りません。孤独の中で私たちが流す涙のすべてを見ていてくださる方がおられます。その方こそ神です。そのことに気づかされるとき、私たちの心はいやされ、勇気が湧いてくるのです。ダビデや詩篇の作者は、そのことに気が付いていました。詩篇はそんな勇気を私たちに今日も与えようとしてくれています。神の前で泣き、涙を流して信仰の力を取り戻すためのカタルシス、恥ずかしいことではありません。
                                        (銘形「詩編瞑想の手引き」よろり一部引用)

2018年9月9日日曜日

2018年09月09日 第2主日礼拝 新しい人の親子関係②

招詞
私たちは、あなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は、近くにあり、人々は、あなたの奇しいわざを語り告げます。                      詩篇75篇1節  

聖書箇所
エペソ人への手紙6章1~4節

説教
新しい人の親子関係② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/252  いやし(カタルシス)の涙 ② 

 私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。 私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、【主】よ。私の目を輝かせてください。                                  詩篇13篇 2bー3a節 
 
 カタルシス(いやし)という言葉は、もともと体内に溜まった汚物を対外に排出して体内を浄化するという意味のギリシャ語です。これを精神的な意味に適用したのはアリストテレスが初めてだと言われます。 
 詩篇の世界では、自分の心にある鬱積(うっせき)した感情を神に訴えることによって、あるいは、自分の魂に語りかけることによって、神から与えられるカタルシス(いやし)を経験しています。特に「嘆きの詩篇」といわれるものはそうです。そしてそれを記すことで、同じ悲しみの境遇にある者たちに共感を与えているのです。詩篇が、時代を越えて、多くの人々に読まれ、多くの人々から尊ばれてきたのも、そうした詩篇のもつカタルシス効果のゆえだと信じます。詩篇など聖書に見られるこのカタルシスは単なる気晴らしや楽観的な思考、あるいはパフォーマンス的な行為によっては決して得られないものでしょう。 それは、神の霊が詩篇作家の信仰に働いて書かれたものだからです。
 詩篇をじっくりお読みになることで、ダビデや作者の涙と信仰に共感する瞑想の時をお持ちください。                    (銘形「詩篇の瞑想の手引き」より一部引用)

2018年9月2日日曜日

2018年09月02日 第1主日礼拝 新しい人の親子関係①

招詞
私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう。                詩篇73篇28節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章1~4節

説教
新しい人の親子関係① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/251 いやし(カタルシス)の涙①

 私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。                                   詩56篇6節

 人はどうして涙を流すのか。嬉し涙、感動の涙があれば、悲しみの涙、寂しさの涙、失意の涙、悔し涙もあります。人が流す一粒の涙の意味は実に深いものがあります。旧約聖書には「涙」ということばが39回使われていますが、そのうちの12回が詩篇の中にあります。詩篇の涙は、上記56篇6節に代表されるように、ほとんどが嘆きの涙、悲しみの涙です。しかしその涙が涙で終わりません。
「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」       (詩篇30篇5節)
「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所」              (詩篇84篇6節)
となるのです。
 どうして、涙が悲しみだけで終わらないで、喜びの叫びになったり、おかれている状況を泉のわく所とすることができるのでしょう。作者の秘訣は何でしょうか。読者がその秘訣をさぐることこそ詩篇瞑想の醍醐味です。             (銘形「詩篇の瞑想の手引き」より引用)